イエスの焼き印を身に帯びている者たちのクリスマス集会
holygirlです
今週の集会は、東京のマナ教会の小板牧師と信徒の皆さん、横浜から韓国出身の姜牧師とご家族、兄弟姉妹を迎えて、合同のクリスマス・リバイバル集会を行ないました。ちょうど1年前は、私とK兄弟の結婚式を兼ねたリバイバル集会でしたので、この1年間で一人一人がリバイバルされ、さらに発展した事をイエス様に感謝しました
集会は、まず神と私たちクリスチャンの関係を知ることができるヨハネによる福音書15章のみことばから始まりました
ヨハネ15:1~7
わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
アーメン
ぶどうの木につながっている人というのは、イエス様のみことばに忠実に従い、行なっている人という事です。そうすれば、良い実・神が共におられるという証を豊かに結ぶことのできる人生が待っていると約束されています。私たちクリスチャンがそのような人生を送っていなければ、異邦人はイエス様に希望を見出すことはできません。みことばに反する言動を繰り返し、貧困で十分の一献金をお返しすることもしぶり、日常生活の不平不満を言い続けているなら、もはやこの世の人たちより酷い状態です。私たちは、毎週日曜日にメッセージを聞いて、どれだけ自分を吟味し、変わることに意志を向けられているのか問われました。自分の意見をもち、自分のやり方を続けて、一方的につながっていると思っていても、木は実で判断できます。世間から見たらカルト的になっているだけで、「この人がクリスチャンなの?」と思われ、いつの間にかイエス様から人々を散らす側になっているでしょう。イエス様は、優しく何でもゆるしてくださると思っているのであれば、大間違いです。イエス様につながらず、実を結ばない枝は外に投げ捨てられ、枯れて、火に投げ込まれる・・・それは地獄行きを意味します。神は愛ですが、裁き主でもあります。みことばを行なわないから神の御心が分からず、王道から逸れ、証が生まれないクリスチャンが多い現状を、私たちは今まで目の当たりにしてきましたが、2022年前、救い主がお生まれになった時に、おびただしい天の軍勢は、御使と一緒に神を賛美して何と言ったでしょう。
「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」
アーメン。「全ての人に平和があるように」ではなく、「み心にかなう人々に」平和が伴うのです。クリスチャンとして、御心にかなう者となれているのか、みことばに忠実に従い、行なえているのか、自分自身が180度生まれ変わっているか、改めてぶどうの木牧師を通して問われ、自分を吟味する3時間半の集会が、クリスマスの賛美歌から始まりました。
前半は小板牧師を通して、“クリスマスの意味”について3つの視点から学びました。
①全て神様の支配下、御計画の内にあることを知るのがクリスマス
ルカ2:1~7
そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。人々はみな登録をするために、それぞれ自分の町へ帰って行った。ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。それは、すでに身重になっていたいいなづけの妻マリヤと共に、登録をするためであった。ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。
アーメン。皇帝アウグストは徴兵、徴税をしてローマを治めていた偉大な皇帝であり、神はこの皇帝を使って、旧約聖書ミカ書5章2節に書かれている神の子イエスの誕生の預言【しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。】を成就されました。こうして、イエス・キリストはベツレヘムでダビデの子孫としてお生まれになったのです。
皇帝アウグストが出した人口調査の勅令は、ガリラヤの町ナザレにいたヨセフとマリヤをダビデの町に導き出すものであり、長い神の御計画の一つとして決められたものであったということ、皇帝アウグストはまるで操り人形のように、神の御心を行なうために用いられたことが分かります。このように、イエス・キリストの誕生一つとっても、神の支配下の中で人々は動かされ、神の目的を達成するために使われているのだとしたら、私たちの日常生活の些細な出来事も、出会いも、交わりも、患難や試練も、全て神の御手の中、御計画の内にあるのだと語られました。
②イエス・キリストの永遠の統治の始まりであり、イエス・キリストはいつも共にいて下さることを知るのがクリスマス
時の主権者・権力者によって元号は変わります。現在日本は「令和」ですが、天皇陛下が退位あるいは亡くなられたら、また新しい元号の時代が始まります。つまり、元号というものには終わりがあるという事です。そして、その国でしか通用しません。しかし、唯一終わることなくずっと歴史を刻み続けているものがあります。それが西暦です。今は2022年。その始まりの0年は、イエス・キリストの誕生の年です。移り変わる時の主権者・権力者とは違い、イエス・キリストは誕生した時からこの世界を統治されている方です。33歳の若さで十字架刑で一度は命を終えられましたが、3日後に復活し、この地上での働きを終えて天に帰られました。ですから、イエス・キリストはお墓がありません。亡くなっていないのです。
2000年以上も自国を統治している者はいません。イエス・キリストだけが、国ではなくこの世界を統治されているのだと語られ、改めてその偉大さを実感しました。そして、私たちクリスチャンの内には、その統治者イエス様がいつも共にいて下さることに、感謝しました。
③王がお忍びでご自分の民のところに来られたことを知るのがクリスマス
イエス・キリストは、大工のヨセフとマリヤの子として誕生しました。イエス様はなぜ貧しい大工の家に生まれてきたのでしょうか。それは、裕福な王の家に生まれたら、庶民(一般の人々)の暮らしの中にある大変さや、苦しみ、何を思い、何を考えて生活しているのか分からないからでした。素晴らしい統治者であるためには、庶民の感覚が分からなければなりませんでした。牧師もそうでしょう。信徒の気持ち、置かれている状況を察し、親身に寄り添えてこそはじめて、信徒の霊を立たせるメッセージを語ることができます。イエス・キリストは天地創造の神の子・王の王でありながら、私たち人間と同じ姿で地上に来られ、同じ苦しみ、悩み、病を経験されたのです。
へブル2:18
主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。
アーメン。イエス様は私たちの全てに共感して下さる神です。全世界の全てのものを持っておられ、唯一の義人であったにもかかわらず、最低の罪人として十字架にかけられました。人間の罪のゆるしのために、天の父である神の御計画に従って誕生し、神の御計画に従って命を捧げて下さったイエス様。私たちクリスチャンは、自分自身のことを一番ご存知の神と対話できる恵みにあずかっていることに感謝しました。
小板牧師はメッセージの最後に、「イエス様が生まれる時、宿の部屋がなく、家畜小屋で生まれることになりました。クリスマスの問題は、今もキリストの部屋がないことです」とおっしゃいました。
クリスマスとは、キリスト(救い主)とミサ(礼拝)という単語が合わさった言葉ですが、今やクリスマスを祝う人々は、イエス様を退け、ケーキ、賛美歌ではないクリスマスソング、サンタクロースなど他のものでその心(部屋)を埋め尽くし、12月25日は恋人と過ごす日、皆で集まってパーティーをする日に成り下がっています。しかし、実際イエス・キリストは12月25日に生まれていないと言われています。12月25日は、旧約聖書に出てくる独裁者二ムロデの誕生日であり、イエス様は9月~10月にお生まれになり、マリアが受胎したのがその10か月前の12月であったと言われているそうです。12月はユダヤ人のハヌカ(当時シリアに支配されていたユダヤと、異教の神殿にさせられていたエルサレム神殿を、マカバイ戦争でユダヤのもとに奪還したことを記念する祭り)が行われる時です。8日間キャンドルを灯すそうですが、その理由は、神殿奪還後、燭台に火を灯す油がほとんど破壊され、残っていたのはわずか一日分だけであったにもかかわらず、それがなんと8日間も燃えていたという奇跡が起こったからだそうです。ユダヤ人は、イエス様を救い主として認めていませんが、イエス様はこの奇跡の灯火のように、この世の光として来られたのです。そんなイエス様を心にお迎えしないまま、クリスマスの意味を知らないまま過ごしている現代人。さらに、クリスチャンであっても、日常生活に追われ、自身の心に、会話に、生活に、イエス様が入る余地がないことは大きな問題です。
小板牧師のキリストの部屋のメッセージを受けて、ぶどうの木牧師はご自身の歩みから、「私たちクリスチャンは、イエス様と自分の部屋を持たなければならない」と話して下さいました。「忙しい」は心を亡くすと書きます。1日の終わりに、イエス様と交わる時間があるか、そういう余裕があるか、朝起きて寝るまで、「イエス様、次は何をしますか?」と聞いて行うゆとりがあるか問われ、それがみ心にかなうクリスチャンがどうかに繋がるのだと語られました。また、「イエス様に聞く」とは、聖書を開いてみことばを頂くことですが、日々みことばを「アーメン」と受けて霊に蓄えているなら、日常生活の様々な場面で霊からみことばが与えられるようになり、それがイエス様からだという確信をもって進むことができるのだと語られました。
ルカ2章14節に【いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように】と書かれてある通り、キリストの場所が自分の内にあるなら、そこは神の栄光の場所となるのです。
小板牧師の霊からみなぎる力を感じるメッセージを通して、私たちはクリスマスの意味をさらに深く知ることができ、「アーメン、アーメン」と霊で受けながら、力を得ることができましたクリスマス宣教への新たな知恵も頂くことができ感謝でした
そして、メッセージを受けたマナ教会の求道者だった信徒さんが、その場で救いの告白をして救われました
今回のクリスマス集会には、初めて教会に導かれた人や、長く教会を離れていた兄弟姉妹も参加していたため、小板牧師に続いて、皆で救いの告白を声に出してすることで、もう一度その場にいる全員が生まれ変わることができ、感謝でした
後半は、姜牧師からのメッセージでした。
姜牧師は、22年前に日本人女性との結婚をきっかけに、牧師の卵として韓国から来日しました。日本で牧会をすることを目的に、韓国の母教会と同じ系列の日本の教会(韓国人女性牧師のもと)に通っていたのですが、ある時、日本の教会の牧師から、「あなたは日本語ができないから、牧師にはなれない」と言われ、牧師になる道を閉ざされてしまいました。そこから今に至るまで一信徒としての教会生活を送っています。このコロナ禍で、子どもたちがワクチンを打たなければ教会に通えないような雰囲気になり、反ワクチンであった妻と子供たちは長年通った教会を出ることになりましたが、姜氏はイエス様に言われなければ動くことはできないという思いで今もとどまっています。私たちは主が導いて下さったら何事もすることができますが、自分の意思・肉の思いでは何一つできないからです。肉でできたとしても、それは神の御心にかなう事ではありません。
母教会を出た妻と子供たちは、今年からぶどうの木集会に定期的に通うようになり、家では姜氏が妻や子供たちに聖書を教える機会が増えたそうで、妻と子供たちは、そのメッセージがとても分かりやすいのだとぶどうの木牧師に教えてくれました。機会があればぜひ皆の前でメッセージをしてほしいという願いが今回叶い、牧師として日本語でメッセージをして頂くことになりました。
姜牧師はすぐに牧師にさせてもらえなかった意味が今なら分かるとおっしゃいました。日本語ができないことはもちろんですが、人生経験が浅く、来日してすぐに牧師になっていたら、信徒の気持ちが分からないまま、ただ神学だけを語る牧師になっていたからです。イエス様が王でありながら、大工の子として誕生し、成長し、様々な経験をされたように、姜牧師も自身のここまでの人生経験をもって、私たちに必要なことを話して下さいました。
みことばは、ガラテヤ6章17節のパウロ(サウロ)の言葉から始まりました。
ガラテヤ6:17
だれも今後は、わたしに煩いをかけないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に帯びているのだから。
アーメン
【イエスの焼き印】という言葉が、霊にずっしりと入ってきました。焼き印とは、「あなたは私のものである」という証です。パウロ(サウロ)は、もともとイエス様を伝えるクリスチャンを殺す迫害者側でした。最初の殉教者と言われるステパノを殺すことにも賛成していました。パウロは律法を完全に守り抜く人であり、律法に反するクリスチャン達が許せなかったのです。
使徒行伝7:53~60
あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」。
人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、彼を市外に引き出して、石で打った。これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた。こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。
使徒行伝8:1~3
サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。
その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起り、使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行った。信仰深い人たちはステパノを葬り、彼のために胸を打って、非常に悲しんだ。ところが、サウロは家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に渡して、教会を荒し回った。
アーメン。
そんなサウロ(後のパウロ)に天から光がさして、イエス様が「なぜわたしを迫害するのか」と尋ね、そこから三日間、目が見えず、食べることも飲むこともしない状態になってしまいました。そこに主の忠実な僕であったアナ二ヤが遣わされ、手をサウロの上に置いて祈ると、目からうろこのようなものが落ちて、元通り見えるようになったのです。
使徒行伝9:15~19
しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」。そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、また食事をとって元気を取りもどした。
アーメン。
イエス様はパウロに、律法的に素晴らしい自分がいかに弱い者であったのか、教えられたのです。そして、パウロはこの時にイエス様と出会いました。【イエスの焼き印】を身に帯びたのです。そこからパウロは、イエス様がアナ二ヤにおっしゃった通り、イエス様の名を伝える器として働き、福音宣教していきました。
第2コリント11:23~31
彼らはキリストの僕なのか。わたしは気が狂ったようになって言う、わたしは彼ら以上にそうである。苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかにおびただしく、死に面したこともしばしばあった。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。永遠にほむべき、主イエス・キリストの父なる神は、わたしが偽りを言っていないことを、ご存じである。
アーメン。
パウロは生きておられるイエス様を体験したから、どんな難にあっても福音を伝え続けることができました。イエス様に出会った熱い気持ちで、無我夢中で伝えたのです。クリスチャンを迫害し殺害していたサウロであっても、イエス様に出会えばいっきに変わり、使徒パウロとしてイエス様に仕える人生を送りました。
「皆さんも、焼き印を身に帯びていますか?」と、私たちは姜牧師を通して問われました。自分がイエス様と出会った瞬間は、イエス様と自分だけが知っています。ぶどうの木では、それを【初めの愛】と言ってきました。焼き印を身に帯びている者、初めの愛を頂いている者は、何があってもイエス様から離れることはできません。人生の中で様々な難・試練があっても、パウロのようにイエス様を信じて立ち上がる信仰をもっています。試練から逃げれば逃げるほど、大変になっていくのがサタンの支配下であるこの世の中です。
姜牧師は、日本に来て牧師の道を断たれ、就職した先で、一番信頼していた部下と会社から裏切られて会社を追い出されるという体験をしたそうです。裏切った部下がゆるせず、顔を見るたびに「殺したい」という気持ちを抱く自分に、“わたしはイエス様を信じる者なのに、なぜこんな思いを抱くのか”と苦闘葛藤したそうです。
また、韓国にいた時は、イエス様を伝えることに熱情をもって福音宣教していたのに、日本に来て生活をしているうちに、仕事と信仰(教会)生活が一致せず、イエス様への信仰をなくし、妥協しながら生きる自分になってしまっていたことに気付かされたそうです。そんな時、一日3回、3分間歯磨きをすることを継続して、人生のどん底から成功した人の話を聞き、自分は1日1節みことばを必ず書こう!と決心したそうです。これが簡単なようで大変でしたが、やめたいと思う自分自身を乗り越えていった時に、自分が変えられ、イエス様が使って下さる者へと変えられていったのだと証してくださいました。
私たちは、「イエス様がして下さい!祈りを聞いて下さい!」ではなく、自分が熱心にイエス様を求めて変わる!神の御心にかなう者になる!ことによって主に用いられ、良い実(証)が伴うクリスチャン生活を送ることができるのだと改めて語られました。ただし、自分なりの熱心は周りから見たらカルトに見える危険性があります。大事なのは、神に喜ばれ、人に受け入れられているかどうか、神の栄光をあらわしているかどうかであると語られました。
そして、試練が来た時に、「福音がグッド(良い)ニュースではなく、バッド(悪い)ニュースだった!」と言って離れるのか、パウロや姜牧師のようにその先にあるイエス様の御心を思い、とどまって乗り越えようとするのかが問われているのだと語られました。クリスチャンは艱難辛苦の人生を通されてはじめて義の実がなります。身にイエスの焼き印を帯びている者、初めの愛を頂いている者であれば決して逃げ出しません。自分自身が闇から光へ、180度真反対に向かって生き、置かれた場所でリバイバルを起こしていくことができるのだと語られました。姜牧師を通して、「日本は変わります!リバイバルが起きます!皆さん、立ち上がってください!」と祈り語られ、霊から力を得ました。
父親が初めて牧師として語る姿を見た姜牧師の子供たちは、様々な経験をしてきた話を初めて知り、それを乗り越えてイエス様のことを伝える父親の姿に感動していました。また、妻のM姉妹も、「ぶどうの木牧師からメッセージの依頼を頂いた時には、主人にできるはずがないと思っていましたが、それは私の肉の思いであったと悔い改めました。主人は、日本に来て言葉も分からず、私たちには想像できないほど大変だったと思いますが、いつか必ず主が日本のために用いて下さると信じてきました。本当にこのような場を与えて下さり感謝します」と、話してくださいました。日韓を繋ぐ家族の働きを楽しみに、私たちもここからの活躍を祈ります
姜牧師が最後に、「今日夢を見ました。私がたくさんの人がいる礼拝の席で、一人の女性に袋を手渡す夢でした」と話してくださり、その夢の啓示を受けたぶどうの木牧師が、「その女性は私かもしれません」と言って、同じように主の訓練を受け、試練を通ってきた姜牧師のメッセージに感謝の言葉を伝えました。
ぶどうの木牧師の母教会の母教会は、1906年にアメリカ・カリフォルニア州のロサンゼルスのアズサストリート(現リトル東京)で起きた聖霊運動のリバイバルの波を受けた教会です。このリバイバルは、黒人のクリスチャンたちが集まった小さな家から始まりました。1か月後には人々が家から溢れ出たため、アズサストリートに移り、1年後には1300人が集まるようになりました。その後世界中で6億人が影響をうけ、大勢の人が変えられ、「アズサストリート・リバイバル」と呼ばれるようになりました。
しかし、聖霊の爆発的な流れは、人々の不忠実、分派分裂、神より富・この世のものを愛する心によって失速していきました。牧師の母教会の母教会は、一日2万5千人の信徒を迎えるために、5000人ずつ5回礼拝をしていた教会でしたが、教会内の分派分裂により、24名いた牧師は皆、癌で亡くなったそうです。そして、牧師の母教会も献金問題で裁判沙汰になり、衰退しています。ぶどうの木牧師は母教会が裁判沙汰になる前に、イエス様に導き出されました。聖霊による爆発的な力のあった教会が、サタンによって倒されていく中、このアズサストリートから始まった聖霊の火が消えないように、聖霊の力が守られるようにと召され、ぶどうの木ができたのだと私たちは認識しています。
頭で神のことを理解しようとする神学が、聖霊の働きを見えなくさせていきました。人間は神のことを頭であぁでもない、こうでもないと考え、迷路に陥いっていきますが、もともと神はご自身のことを頭で理解できるように人間を造られてはいません。人間が自分の肉で神を求めていけば、それは神の目から見て高ぶりとなり、神の御心・御計画からそれていきます。そして、イエス様が再臨された時、この世を愛しているクリスチャンは、この世(金銭)を愛する悪根っこが地球の中心にある地獄と繋がっていて、携挙されないのだとずっと警告されてきました。そうならないために、一人一人のクリスチャンに今こそリバイバルが必要です。イエス様がこの日本に向けて与えて下さっている預言も読み、私たちは改めてこの時代に生かされているクリスチャンとしての自分の使命を再確認しました。
<1985年5月6日にアメリカ・カリフォルニア・ロサンゼルス・メロディーランド教会において、ビリー・ブリム女史によって日本人に出された預言>
大いなる光があの日本という国に臨みます。大いなる、大いなる、大いなる光です。聖書にこう書かれてある・・・
イエス様は朝の光のように、地に若草を芽生えさせる雨のように人に臨むと。(サムエル下23:4)イエス様の朝日の輝きはまず東洋にのぼり、その福音の光は西洋におよび、今また東に帰ってこようとしています。あなたの生まれたあの国に神が大きく働かれるのをあなたは見るでしょう。神の光をあの国に見ます。神の光がその民の上にあるのを見ます。
そうだとも!
あなたがたは光を見る。神の光がこの地球を行きめぐる。大いなる尊い光を見る。あなたがたはまだ、真に輝く光を見たことがなかった。人間の思いの垣根というかげりの一切ない真の光を。しかし今この時に、栄光から栄光へと増し加えられていく、力に溢れたその光が来るのを見る。あなたがたはさらに良く見えるようになる。このわたし、「有って有る者」とよばれるこのわたしこそが、あなたにとって光となる。その光をあなたがたは見るようになる。こうしてその福音の光、このみことばの光は、未だかつてそれを聞いたことのなかった人々の耳にとどまるようになる。それは超自然の大いなる光だ。このわたし自身なのだ。
わたしはあなたを暗きところから、あなたを取り囲む状態からあなたを引っぱりだす。もう答えがないとあなたは思った。見ないか、あなたの神という光に目を向けよ。このわたしがそれだ。この暗い時代に神の光は輝きわたる。あなたはその神の光(力)を与える器となる。しかしそのともし火は、わたしだけによってともされなければならない。この世によって曇ったり、汚れたりしてはならないのだ。わかるか。わたしの血によってきよめられた、純粋な混じりけのない器。盛んに燃え続ける灯火(あかり複数)。あなたがたが洪水なのだ!
わたしはあなたをわたしの心に引き寄せる。あなたの一部ではなく、すべてを明け渡すようにとあなたを召す。この灯火となるために、自分の全身全霊を捧げるようにと召す。完全にわが手によって治められるように。今、あなたの立っているこの場所で、それを本当に現実のものとしてあげよう。それによって光を輝かすための、わたしに従順に応じる、聖なる器。
わたしはあなたをふるう。わたしの力によって・・・あなたは生きのびる・・・この時代を。あなたは生きて死ぬことはない。・・・「なぜ!?」と叫ぶな。ただ聖別され、ひたむきに専念しなさい。あなたに、そしてあなたをとおして、わたしが輝けるようにしてほしい。明け渡せ!放せ!脱ぎ捨てよ!栄光に輝く花嫁にふさわしくないものは、すべて捨て去れ!
あなたにそれができるようにした、と言ったではないか。いっさいの重荷を捨てよと。わたしがしなさいと言うことはできるのだから・・・。捨てておきなさい、ふたたび拾い上げてはいけない。
(中略)
今もし幕を取り去りさえすれば、おおいなしに神の栄光を見る。神の教会が現れる。栄光と恵みにあふれ、はっきりとした力の現れに満ちた教会。天にあって、永遠に離れることなくわたしの前におらせるために計画した教会だ。だから定められた位置につくがよい。わたしはあなたがたに言う、(あなたがたは)争いも分裂もまったくない、栄光のための容れ物として用意されている。銀行には黄金が貯えられている。しかし、そんなものよりもはるかにはるかにまさる富・・・人間の金庫にはおさめきれない大いなる富をおさめる器・・・。この終りの時に、神の臨在・・・神の目的・・・神の言葉と力を注ぎ出す器たちよ。
クリスマスの意味を知り、この福音を聞けた私たちは、天国の宝くじに当たったのと同じです。救い主を受け入れ、イエス様と出会い、この身にイエスの焼き印を帯びる者となったのであれば、イエス様に喜んで仕える人生を送る事が、一番の幸せです。今回、3人の牧師方が私たちにその姿を自分自身と、メッセージを通して示して下さいました。教団教派、国籍関係なく、クリスチャンが一つになることが神の御心です。今回初めての試みでしたが、3つの教会が集い、イエス様が牧師一人一人を通して語って下さるメッセージを受けることができ、最後は、この地の上に、家族の上に、教会の上に、日本の上に、リバイバルが起きるようにと祈り、賛美歌を歌うことができ、本当にあっという間の、喜びと感謝が満ち溢れる時間となりました。このクリスマス集会で祈った言葉一つ一つが、この年末から来年に向けて成就していくことを祈ります