“キリスト教”からの解放―真理の御霊との歩み―
holygirlです
前回の集会では、食と医療の奴隷からの解放を語られ、さらに私たちが学校で勉強してきた日本史の常識も覆されるような事も見聞きする事になりました。一言で言えば、仏教と神道の土台はキリスト教であり、天皇とイエスラエル・ユダヤの関係があったという事です。もともと神社の外観は、聖書に出てくる幕屋と同じ構造であると言われてきましたが、神社を中心に深く追究していくと、その証拠が残っており、頭ごなしに否定できないほど真実味を帯びていきます。「キリスト教は、仏教や神道を否定する」と嫌悪感を抱いている日本人も多いですが、これからは、「日本人皆が、自分たちのルーツを知れるように知恵を下さい!」と祈り求め、土台にキリスト教、イスラエル・ユダヤがあったのだという事を賢く伝える新しい福音によって、日本人を救いに導いていかなければならないと語られました。
そして、もう一つ根底から覆されなければならないのは、キリスト教そのものです。今のキリスト教は神学的解釈に基づいていて、頭に聖書知識を蓄えるだけで、実生活でみことばを行なえるようにする力・聖霊の力が欠けています。それは結局この世の奴隷、サタンの支配下にいた時の状態と何も変わらず、イエス様が共にいて下さっている事を証明する証が生まれません。【わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのであるから、あかしをするのである。】(ヨハネ15:26~27)とイエス様がおっしゃっていることに反してしまっています。クリスチャンがそのような姿をあらわしていたら、当然周りの人たちは“クリスチャンより、私の方が幸せ”と思うでしょうし、救われることに意味を見出せません。「なぜ教会に行くのですか?なぜ献金をするのですか?」と尋ねられたら、「地獄に行くのが恐いから」と答えるクリスチャンが多いですが、本来クリスチャンは、証をもって人を救いに導く使命が神から与えられています。今週の集会では、改めてクリスチャンに必要なのは、真理に導いて下さる聖霊の力であるとヨハネ16章と17章を通して語られました。
ヨハネ16:1~15
わたしがこれらのことを語ったのは、あなたがたがつまずくことのないためである。人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう。更にあなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう。彼らがそのようなことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。わたしがあなたがたにこれらのことを言ったのは、彼らの時がきた場合、わたしが彼らについて言ったことを、思い起させるためである。これらのことを初めから言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。けれども今わたしは、わたしをつかわされたかたのところに行こうとしている。しかし、あなたがたのうち、だれも『どこへ行くのか』と尋ねる者はない。かえって、わたしがこれらのことを言ったために、あなたがたの心は憂いで満たされている。しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである。
わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。
アーメン
イエス様はご自身がもうすぐ裏切り者のユダによって捕らえられ、十字架に架かる事になることを御存知でした。(18章に続く)それゆえ、16章から17章にかけて、助け主聖霊の存在と、天の父と聖霊とご自身が三位一体の関係であることを弟子たちに語って下さったのです。大事なのは、まず聖霊によらなければ、罪と義とさばきとについての目が開かれないという事です。罪とは、イエス様を神の子として信じないこと、義とは、神の御心を知ること(みことばを実践すること)、さばきとは、敵は目の前の相手ではなくサタンであり、最終的にサタンがさばかれるという事です。聖書のみことばはよく解っていても、何が罪なのか、何が義であり、愛なのかが分からないクリスチャン、また、他者を自分のはかりで審判し、裁いているクリスチャンがいますが、それは聖霊のバプテスマによって聖霊の力を頂いていないからであると語られました。ぶどうの木には、かつて聖霊のバプテスマを受けずにクリスチャン生活を送ってきた兄弟姉妹がいますが、やはり、何が罪なのか分からないため、「悔い改める」という機会を得てこなかったり、みことばと異言(聖霊の賜物)で、悪霊と戦い抜くこともしてこれなかったと言っていました。みことばを学んでいても、みことばの力を知らない、肉を打ち叩いてみことばを行なうことを実体験として得てきていないなら、不信仰にもなります。教会への奉仕には熱心で、礼拝にも休むことなく出席し、十分の一献金をお返し、聖書通読を何度もしてきても、イエス様との歩み方、御霊による歩みが分からない・・・証が伴わない・・・それでは、傍から見れば、力ない神を拝んでいるもっともむなしい存在となってしまいます。
真理の御霊・聖霊は、私たちをあらゆる真理に導いて下さる方です。聖霊は自分から語るのではなく、イエス様から聞いたことを語ってくださり、来たるべき事もあらかじめ知らせてくださいます。私たちに対して、コロナは恐れるほどのウイルスではないこと、逆にワクチンは恐れて絶対に避けなければならないとあらかじめ教えて下さったのは、聖霊でした。今も様々な情報を与え、平安を保って生活できるようにして下さっているのも、聖霊です。食、医療、歴史、金融システム、教育・・・全て当たり前だと思ってきたことが覆される中、その変化に対応できる柔軟さ、思考が与えられていることに感謝です。
そして、ぶどうの木では、「牧師=イエス様」という言い方をしてきて、他教会の牧師やクリスチャンから反発の声も多々受けてきましたが、その意味はこの【真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。】というみことばから来ています。イエス様から聞いた事を語る聖霊、あらゆる真理に導いて下さる聖霊の声に聞き従っている牧師は、イエス様の声をそのまま語っているのと同じです。牧師は私たち羊とイエス様を繋いで必要な糧を与えて下さるパイプ・ストローにすぎません。決して、牧師がイエス様と同等であるとか、牧師が力で信徒を支配して教祖になるなどという意味ではありません。
目の前にいる羊たちがどのような問題を抱え、どのような思いで日々過ごしているのか、羊の霊的状態を一番よく知っているのは肉の○○牧師ではなく、イエス様ご自身です。それゆえ、牧師は常に自分の感情と意見をゼロにしてイエス様に自分自身を明け渡して語るのです。ストローになって、目の前の羊に100%聖霊からの聖い水を流し出して飲ませ、渇きを潤してやらなければなりません。真理の御霊である聖霊から与えられる聖いメッセージ、聖霊の賜物(知識の言葉、知恵の言葉、霊を見分ける力によって解き明かす賜物)によるメッセージは、羊の霊の食物となります。牧師がイエス様に自分自身を明け渡しさえすれば、神は牧師という器を使って、集会に着席した全ての羊の必要の一切を満たし、日常生活においても正しく導いて下さるのです。そして、牧師自身は、「牧師=イエス様」になる時、神に対する畏れと従順、忠実と清さが必要であり、全ての栄光はイエス様に帰します。聖霊にゆだねているクリスチャンは、自分を誇れなくなります。ただただ、素直に正直に誠実に、みことばには忠実に生きたいと願うようになります。そのような牧師、クリスチャンにはイエス様との絶対的な信頼関係が築き上げられているからこそ、信仰と確信に満ち溢れた力強いメッセージ、福音となっていくのです
しかし、今のキリスト教会は、聖い水を流すはずの牧師、ストローの内側が、勝手な神学的解釈や牧師の知性、義理人情をかしらとして神のことよりも人の歓心を買おうとする偽善、あるいは面白おかしい事を言って人心を引き付けようとするチャーミングの霊、牧師自身の価値観や肉の習性といった汚れた肉の要素で満たされています。そのような牧師は、信徒に喜ばしい事が起きたり、信徒数が増えたら自分の手柄であると高慢になります。「牧師」とは名ばかりの盲目な案内者・偽善な律法学者に導かれる羊たちは混乱し、霊が飢え渇いて栄養失調になり、信仰が奪われていくのです。
ヨハネ16:16~33
しばらくすれば、あなたがたはもうわたしを見なくなる。しかし、またしばらくすれば、わたしに会えるであろう」。そこで、弟子たちのうちのある者は互に言い合った、「『しばらくすれば、わたしを見なくなる。またしばらくすれば、わたしに会えるであろう』と言われ、『わたしの父のところに行く』と言われたのは、いったい、どういうことなのであろう」。彼らはまた言った、「『しばらくすれば』と言われるのは、どういうことか。わたしたちには、その言葉の意味がわからない」。イエスは、彼らが尋ねたがっていることに気がついて、彼らに言われた、「しばらくすればわたしを見なくなる、またしばらくすればわたしに会えるであろうと、わたしが言ったことで、互に論じ合っているのか。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう。女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである。このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない。その日には、あなたがたがわたしに問うことは、何もないであろう。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。
わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう。その日には、あなたがたは、わたしの名によって求めるであろう。わたしは、あなたがたのために父に願ってあげようとは言うまい。父ご自身があなたがたを愛しておいでになるからである。それは、あなたがたがわたしを愛したため、また、わたしが神のみもとからきたことを信じたためである。わたしは父から出てこの世にきたが、またこの世を去って、父のみもとに行くのである」。
弟子たちは言った、「今はあからさまにお話しになって、少しも比喩ではお話しになりません。あなたはすべてのことをご存じであり、だれもあなたにお尋ねする必要のないことが、今わかりました。このことによって、わたしたちはあなたが神からこられたかたであると信じます」。イエスは答えられた、「あなたがたは今信じているのか。見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。
アーメン
「神に問うことはない」と言えるのは、イエス様に従っている者だけです。私たちが一人子を信じ、愛し、従うことは天の父である神の喜びだからこそ、神に求める者はなんでも与えられるという約束を得ることができます。しかし、「神様、~してください」と祈り求めているなら、その祈りが聞かれているかどうかわかりません。イエス様の御名前で祈る時、父に求める者は与えて下さると書かれていますから、そこは気をつけなければならないと語られました。
また、「なんでこんな事ばかり起こるの!?」と思える様々な試練や困難な事があっても、いつもイエス様を思っていたら、全てが聖霊の導きであり神の訓練であったと分かって感謝に変わり、神の証になっていきます。特に、みことばにある妊娠の例えは、一人の人間の救いの例えでもあり、霊的妊娠を意味します。目の前の人を救いたい気持ちが強ければ強いほど、自分の力で何とかしようと必死にもなりますが、神はその心も見て喜んで下さり、必ず私たちの心の願いを叶えて下さいます。
イエス様は、私たちがこの世で悩みを抱えていることはご存知です。しかし、それをそのままにしておきなさいとはおっしゃいません。【勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている】と励まして下さる神です。イエス様はすでに私たちを攻撃してくるこの世、サタン・悪霊に勝利しているのですから、真理の御霊によって得た力によって、悪霊に対する霊的戦いに勝利していかなければならないと語られました。
ヨハネ17:1~26
これらのことを語り終えると、イエスは天を見あげて言われた、「父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわすように、子の栄光をあらわして下さい。あなたは、子に賜わったすべての者に、永遠の命を授けさせるため、万民を支配する権威を子にお与えになったのですから。永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。わたしは、わたしにさせるためにお授けになったわざをなし遂げて、地上であなたの栄光をあらわしました。父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい。
わたしは、あなたが世から選んでわたしに賜わった人々に、み名をあらわしました。彼らはあなたのものでありましたが、わたしに下さいました。そして、彼らはあなたの言葉を守りました。いま彼らは、わたしに賜わったものはすべて、あなたから出たものであることを知りました。なぜなら、わたしはあなたからいただいた言葉を彼らに与え、そして彼らはそれを受け、わたしがあなたから出たものであることをほんとうに知り、また、あなたがわたしをつかわされたことを信じるに至ったからです。わたしは彼らのためにお願いします。わたしがお願いするのは、この世のためにではなく、あなたがわたしに賜わった者たちのためです。彼らはあなたのものなのです。わたしのものは皆あなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。わたしが彼らと一緒にいた間は、あなたからいただいた御名によって彼らを守り、また保護してまいりました。彼らのうち、だれも滅びず、ただ滅びの子だけが滅びました。それは聖書が成就するためでした。今わたしはみもとに参ります。そして世にいる間にこれらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためであります。わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました。また彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします。
わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。正しい父よ、この世はあなたを知っていません。しかし、わたしはあなたを知り、また彼らも、あなたがわたしをおつかわしになったことを知っています。そしてわたしは彼らに御名を知らせました。またこれからも知らせましょう。それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります」。
アーメン
今は各教会が自分の義を行ない、神に栄光を帰していないため、一つになっていません。まずはみことばに書かれてあるかどうかですが、みことばを行なっていても愛がなければ一切が無益です。聖霊によってどんどん教会は祝福されていくはずですから、熱心に教会に通い、献金をお返ししていても、自分自身に何の証も伴わず、周りの兄弟姉妹もそうであるなら、教会そのものが神に愛されているかどうか吟味ですし、自分だけ証が伴わず、周りの兄弟姉妹は証が伴って祝福されているなら自分自身を吟味しなければなりません。宗教、異端にも証が伴っているように見えますが、偽物はメッキがはがれていきます。本人は祝福されていると思っていても、周りの家族は悲惨な状況に陥っている・・・それが今の統一教会の問題でもあります。
私たちクリスチャンは一人一人が神の教会であり、世に出て自分自身を通してイエス様の栄光をあらわしていかなければなりません。証がなかったら、信じている意味がないのだと語られました。
そして、サタンの武器は“許せない”という気持ちから始まります。自分で自分を許せない気持ちもそうです。許せない気持ちは絶対に一つにさせない霊力です。自分はイエス様に全ての罪が許されたのに、なぜ人を裁き、「許せない!」と言えるのか・・・そんな思いがクリスチャンの内に、また、教会内にとどまっているのなら、真理ではありません。
イエス様が十字架にかかる前の尊い愛のメッセージ、この真理の教え(みことば)を知っている者が許し合い、愛し合い、一つになり、イエス様と一緒にいるようになることを、私たちは益々求めていかなければならないと語られました。
神に喜ばれ、人に受け入れられることは何か、愛とは何か、それをわきまえ知っていたら、証・イエス様の愛の証明が生まれていき、人々は神を認め、救われていきます。牧師=イエス様についての話をしましたが、牧師だけではなく、私たちクリスチャン皆が、クリスチャン=イエス様にならなければなりません。自分とイエス様、その間におられる聖霊様、上におられる天の父・神との関係をしっかりと覚え、意識して、皆が生活していけたことを感謝します
ヨハネ16:12~15
わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。
アーメン
集会の後半は、証の会となりました「証がある人はどうぞ!」という牧師からの声掛けに、もっともっと自発的に手が上がる群れでありたいですが、聖霊の導きで一人一人にマイクがまわると、皆、語る証があり感謝でした
「一週間何の証もないなら、学んでいても無駄!イエス様と共に歩んでいたら、毎日証で満たされますよ!」といつも語られていますが、それは自分の気づき次第です。いつもイエス様を思っていたら、「これはイエス様だ!イエス様に守られている!これはさっき祈った事の答えだ!いつの間にか体が癒されている!」と分かり、【いつも喜んでいなさい】というみことばもおのずと行なえるようになります。クリスチャンに大事なのは、ただ毎週日曜日に教会に通って、牧師から神学を学ぶことではなく、月曜日から土曜日までを御言葉に従って喜び感謝して生き、神を愛し、隣人を愛し、それをしっかりと置かれた場所であらわすことです。シンプルなことを難しく、宗教臭くしてきた今までのキリスト教の常識も変えられなければならないと語られている今、まず私たちがキリスト教・宗教の奴隷から解放され、御霊による歩みを体現していけたことを感謝して祈ります
第2コリント3:17~18
主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。
アーメン