青銅の蛇―仰ぎ見るのはイエス様だけ―
holygirlです
先週私たちは、コロナワクチンは予防効果など全くない、蛇の毒からつくられたものであることを知らされました。クリスチャンであれば、蛇毒と聞いたらドキッとします。蛇は天から落とされたルシファー、サタンの象徴だからです。さらに今週確認した民数記のみことばも、蛇毒ワクチンが真実である事の裏付けとなり、神を畏れて受けました。
民数記21:4~9
民はホル山から進み、紅海の道をとおって、エドムの地を回ろうとしたが、民はその道に堪えがたくなった。民は神とモーセとにむかい、つぶやいて言った、「あなたがたはなぜわたしたちをエジプトから導き上って、荒野で死なせようとするのですか。ここには食物もなく、水もありません。わたしたちはこの粗悪な食物はいやになりました」。そこで主は、火のへびを民のうちに送られた。へびは民をかんだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ。民はモーセのもとに行って言った、「わたしたちは主にむかい、またあなたにむかい、つぶやいて罪を犯しました。どうぞへびをわたしたちから取り去られるように主に祈ってください」。モーセは民のために祈った。そこで主はモーセに言われた、「火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう」。モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。
アーメン
イスラエルの民は、奴隷としてエジプトに囚われていましたが、モーセをリーダーとして、奇跡から奇跡でエジプトから導き出されました。そして、自分たちのふるさとであるカナンの地(現在のイスラエル)を目指して移動を始めたのです。神はその中で彼らが空腹時には天からマナ(パン)を降らせ、喉が渇けば岩から水を出し、イスラエルの民を養いました。しかし、彼らは「粗悪な食物はいやになった」「荒地で歩くのは大変だ」「エジプトにいたほうが良かった」と、神とモーセに向かい文句つぶやき始めたのです。そこで、神は火の蛇を民のうちに送りました。蛇にかまれた多くの民は死にました。人々は自分たちが犯した罪をさとり、モーセに自分たちから蛇が取り去られるように、とりなしの祈りをしてほしいとお願いしました。その結果が“青銅の蛇”です。へびを造るだけではなく、さおの上に掛け(=獲物としてすでにつり上げた状態にする)、その“青銅の蛇”を仰ぎ見た者は助かったのです。
この“青銅の蛇”は、イエス様の十字架のひな型であると以前学びました。さおの上に掛けられた蛇は、十字架に掛けられたイエス様をあらわします。この十字架の上が、イエス様と悪魔の決戦の場となりました。【キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。】(ガラテヤ3:13)と書かれてあるように、蛇と同じように木にかけられ、全人類が受けるべき呪いを一身に受けられたイエス様の十字架により、律法が全うされました。そして、神の小羊としての贖いを完了された時、イエス様は完全な勝利者となり、悪魔の完敗が決定したのです。こうしてイエス様の十字架を仰ぎ見て彼を信じる者は、悪魔の支配から解放される事になりました。そして、モーセ亡き後、ヨシュアに導かれたイスラエルの民が約束の地に入ったように、イエス様は彼の民を神の国に導き入れることができるようになったのです。
このみことばが今の時と重なりました。イスラエルの民(選びの民)、クリスチャンは、せっかくエジプト(=霊的に救われる前の自分がいた場所)から導き出され、初めの愛を受け、証を得、奇跡を見たにもかからわらず、肉の思いが強くなると、救われる前の方が良かったと文句つぶやき始めます。そこで、神はサタンに蛇毒=ワクチンを送ることをゆるし、蛇にかまれた=ワクチン接種した多くの人が命を落としています。世界的に見ると、特に欧米人が一番多く亡くなっているそうです。イエス・キリスト=聖書が土台となっているにもかからわず、聖書真理に逆らってきた民と言えます。そして日本人の中には、毒ワクチンであると聞いても、自分の身体に異常が生じても、身内が亡くなっても、完全にサタンの声を聞いて「ワクチンのせいではない。そんなはずはない」と断言し、2回目、3回目と接種する人々が未だ大勢います。コロナに対する抗体はできても、他の病気に対する自己免疫が破壊された身体は、いつどんな病気が発症して、命を落としてもおかしくありません。
先日、愛知県春日井市で行われた、ワクチン接種後に亡くなった人の遺族を取り上げた映画上映会と講演会に行きましたが、そこでもワクチン被害の悲惨さを見聞きしてきました。一部の人間、製薬会社の金儲け、国益のためにワクチンが利用されている現実、毒とも知らずに喜んでワクチンを接種した結果、数日後に突然命を落とすことになった人々と、残された家族の苦悩を知らされましたが、情で共に泣き悲しみ、怒って終わりでは何の解決にも至りません。私たちクリスチャンは、ワクチンで苦しむ人の癒しを祈り、遺族の心の癒しと救いを伝えることができます。青銅の蛇であるイエス様を仰ぎ見ることで、サタンの支配下から解放され、神のもとで生きる人生を送れるよう導くことができるのです。
私は今まで4回、反ワクチンの講演会に行きましたが、すでに真実を知っている人だけが集い、一番知ってほしい人たちには伝わっていないのだと感じてきました。特に、「知者の人ほど、この話を聞けない」と、池田としえ議員がおっしゃっていました。「これだけ伝えても、聞かない人たちは愚かだ!」と裁く声もあり、裁きの思いが土台になってきていることも感じます。裁きが土台となれば、分断分裂が生まれてきます。
クリスチャンは、血肉の戦いではなく、人々に大事な話を聞けなくさせる、反発させる悪霊、サタンとの戦いであることを知っていますから、サタンの獄屋にいる人々を救い出すことに目を向けます。なぜ分からないの!?とイライラしたら負け。知者の人=“自分が神”の人が一番聞けない、悟れないのは聖書通りですから、私たちがサタンの策略にかからないためには、絶対に相手を裁かない事、忍耐して立ち向かっていく事であると語られてきました。春日井市の講演会で「同じ人に5回伝えよ」という話が印象に残りました。1回目は聞きたくない!と反発し、2回目もうるさい!と耳をふさぐ人であっても、3回目は立ち止まって話を聞き、4回目には自分で調べ始めるようになり、5回目には自分で調べて危険だと分かるようになると。これは福音に対しても同じであり、聞かないからと言ってこちらがあきらめたら、相手は毒蛇にかまれ続けて死ぬ、サタンの攻撃にあい続けて滅びることを心に留め、語っていかなければならないと語られました。
また、今、ワクチンを推奨した岸田首相や元首相である菅氏などを訴える裁判や、ワクチン接種中止を求める裁判(武漢ウイルスワクチン特例承認取消等請求裁判)が行われていますが、国は認める姿勢なく、相手にしないという態度で、4回目接種を進めています。そんな中、この国を変えようと「参政党」という政党が立ち上がり、次の参議院選挙に出馬しますが、ようやく一票を投じたい政党ができたと、街頭演説に800人が集まるほど人気のようです。各地では、マスク反対運動、ワクチン接種反対運動が起きています。新聞には意見広告が出され、全国に医師、看護師、薬剤師などの有志の会ができています。さらに、コロナ禍で世界の闇を暴いてきたユーチューバー達や、各分野の先生方がタレント化し、人気を集めています。彼らの発信によって、世界の闇や、コロナ禍の異常に気付き、人々の覚醒が行なわれてきました。しかし、“青銅の蛇”=イエス・キリストではなく、個人や団体を掲げて皆の注目を集めること、我こそは!と男義で人心を引っ張ること、各自が信じるもの・人・教えに導こうとすることは、神の目から見たら罪であり、高ぶりであり、御心ではありません。人気が出たことを自覚している人たちが、「写真撮影とサインに応じる」と自ら言っていること、登録者数を伸ばすこと(=収入になる)が目的になっている姿を見ると、高ぶりと富に仕えさせるサタンの策略にかかってしまったと分かります。彼らは、聖書のマタイによる福音書に書かれてある通り、終わりの時代にあらわれる偽キリスト、偽預言者、選民を惑わそうとする者たちであると語られました。
マタイ24:23~28
そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。見よ、あなたがたに前もって言っておく。だから、人々が『見よ、彼は荒野にいる』と言っても、出て行くな。また『見よ、へやの中にいる』と言っても、信じるな。ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。死体のあるところには、はげたかが集まるものである。
アーメン
ワクチン推進派、反対派関係なく、皆が神に対して悔い改めない限り、送られた蛇=ワクチン接種は終わらない、毒蛇にかまれたまま、サタンの支配下にいたままです。モーセが掲げた青銅の蛇を、その後、イスラエルの民が偶像化していったように、神が見えず、イエス様を救い主と受け入れないまま人や物を拝んでいる、特に蛇を神とする日本人の霊力は旧約時代のここに繋がっていると言えます。
皆に知ってほしい、助けなければ!という思いで良心ある人々が立ち上がっている今ですが、神がこの時代に選び、立てた人であっても、自分自身を誇り始めたら、何の力も生み出せず、サタンに持ち上げられて落とされて終わってしまいます。義人はイエス・キリストのみ。人間を義人として称賛したり、カシラにすることは神に忌み嫌われることです。全ての栄光を、自分を創造して下さった神、この世界を支配しておられる真の神に帰せる者と共に、神・聖霊は働き、悪霊=蛇を踏みつける権威を授けて下さるのだと語られました。
ここからますます、神と、宇宙をつくった爆発的な力を持つ聖霊に動かされている人間か、サタン・悪霊に動かされている人間か、明確になってくるでしょう。聖霊はすべての始まりに“神がおられる”ことを教えていますから、真の神(聖書の神)を神とせず、人間(教祖)や、偶像、宇宙人など、違うものを神としている者は全てサタンに動かされている人間です。【わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。】(ヨハネ6:44)と書かれてある通り、選別の時です。
ヨハネ6:41~66
ユダヤ人らは、イエスが「わたしは天から下ってきたパンである」と言われたので、イエスについてつぶやき始めた。そして言った、「これはヨセフの子イエスではないか。わたしたちはその父母を知っているではないか。わたしは天から下ってきたと、どうして今いうのか」。イエスは彼らに答えて言われた、「互につぶやいてはいけない。わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。わたしは、その人々を終りの日によみがえらせるであろう。預言者の書に、『彼らはみな神に教えられるであろう』と書いてある。父から聞いて学んだ者は、みなわたしに来るのである。神から出た者のほかに、だれかが父を見たのではない。その者だけが父を見たのである。よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。わたしは命のパンである。あなたがたの先祖(イスラエルの民)は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。
そこで、ユダヤ人らが互に論じて言った、「この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか」。イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」。これらのことは、イエスがカペナウムの会堂で教えておられたときに言われたものである。
弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」。しかしイエスは、弟子たちがそのことでつぶやいているのを見破って、彼らに言われた、「このことがあなたがたのつまずきになるのか。それでは、もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか。人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。しかし、あなたがたの中には信じない者がいる」。イエスは、初めから、だれが信じないか、また、だれが彼を裏切るかを知っておられたのである。そしてイエスは言われた、「それだから、父が与えて下さった者でなければ、わたしに来ることはできないと、言ったのである」。
それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。(残った者だけに、後に聖霊の力が与えられました。)
詩篇119:153~160
わが悩みを見て、わたしをお救いください。わたしはあなたのおきてを忘れないからです。わが訴えを弁護して、わたしをあがない、あなたの約束にしたがって、わたしを生かしてください。救は悪しき者を遠く離れている。彼らはあなたの定めを求めないからです。主よ、あなたのあわれみは大きい。あなたの公義に従って、わたしを生かしてください。わたしをしえたげる者、わたしをあだする者は多い。しかしわたしは、あなたのあかしを離れません。不信仰な者があなたのみ言葉を守らないので、わたしは彼らを見て、いとわしく思います。わたしがいかにあなたのさとしを愛するかをお察しください。主よ、あなたのいつくしみにしたがって、わたしを生かしてください。あなたのみ言葉の全体は真理です。あなたの正しいおきてのすべてはとこしえに絶えることはありません。
アーメン
クリスチャンであっても、油断はできません。聖霊の“霊”がかよっていなければ、十字架上のイエス様を偶像化しているだけで、みことばを言っていても何の力もない、ただの死んだ言葉にすぎないのだと語られました。みことばの意味は聖霊によって理解することができ、みことばを行なうためにイエス様は助け主聖霊を送って下さいました。クリスチャンは、聖書に書かれてあることを忠実に行ないます。肉を打ち叩いて行う力も与えられています。しかし、それが独り善がりになり、的外れになってくると、カルト化していく危険があります。
「聖書に書かれてあるから行う」と言って、何も考えずに行なうならカルトです。聖書には真反対のこと、例えば「神は愛である」と書かれてある箇所もあれば、「神は裁き主である」と書かれてある箇所もあり、「互いに愛し合いなさい」と書かれてある箇所もあれば、「兄弟、姉妹、父、母、子を捨てなさい」とも書かれています。だからこそ、聖書に書いてあることを聞いて霊で受けたのであれば、行う前に、どういう意味なのか、魂で感じ、考えることが必要です。魂を殺して物事を行ない始めた時点で、カルトになっていきます。聖霊は、自分のその時の状況や状態に応じて必要なみことばを与えてくれますから、魂で感じ、考えること、どう判断していいのか分からない時であっても、まず一歩踏み出す時(みことばは、行うために与えられている)、それが神の御心にかなっていたら証が伴っていくでしょう。聖霊の力は、証によって見ることができ、クリスチャンは、証によって周囲の人に神の栄光をあらわすことができるのです。
しかし、カルト化すると、みことばを一方的に掲げるだけで、みことばを自己正当化のために悪用したり、人を裁くための武器にするようになります。また、冷酷冷淡になり、誰とも相和できなくなります。霊と言いながら肉の思いに忠実になり、独り善がりに「イエス様だから」と主張するようになります。サタンに勝利して十字架から降りたイエス様、生きたイエス様ではなく、偶像化された青銅の蛇をいつまでも仰ぎ見て、悔い改めと祈りに熱心になっているだけでは、証は伴いません。それはもはや、サタン・悪霊に動かされている人間に成り下がっており、神の道からは遠く離れてしまっている=的外れに生きていることになるのだと語られました。
毎年5月になると、1985年5月6日にアメリカ・カリフォルニア・ロサンゼルス・メロディーランド教会において、ビリー・ブリム女史によって日本人に出された預言が強く臨みます。私たちが仰ぎ見るべき御方は神・イエス様だけです。その神が私たちに何を求めておられるのか、改めて皆で預言を確認しました。
大いなる光があの日本という国に臨みます。大いなる、大いなる、大いなる光です。聖書にこう書かれてある・・・
イエス様は朝の光のように、地に若草を芽生えさせる雨のように人に臨むと。(サムエル下23:4)イエス様の朝日の輝きはまず東洋にのぼり、その福音の光は西洋におよび、今また東に帰ってこようとしています。(イエス様の弟子トマスが伝えた初代教会の教え・原始キリスト教が東へと大陸を渡り、199年に日本に入ってきた歴史を知った今、まず東洋にのぼったというこの預言の意味をはじめて理解できました。)あなたの生まれたあの国に神が大きく働かれるのをあなたは見るでしょう。神の光をあの国に見ます。神の光がその民の上にあるのを見ます。
そうだとも!
あなたがたは光を見る。神の光がこの地球を行きめぐる。大いなる尊い光を見る。あなたがたはまだ、真に輝く光を見たことがなかった。人間の思いの垣根というかげりの一切ない真の光を。しかし今この時に、栄光から栄光へと増し加えられていく、力に溢れたその光が来るのを見る。あなたがたはさらに良く見えるようになる。このわたし、「有って有る者」とよばれるこのわたしこそが、あなたにとって光となる。その光をあなたがたは見るようになる。こうしてその福音の光、このみことばの光は、未だかつてそれを聞いたことのなかった人々の耳にとどまるようになる。それは超自然の大いなる光だ。このわたし自身なのだ。
わたしはあなたを暗きところから、あなたを取り囲む状態からあなたを引っぱりだす。もう答えがないとあなたは思った。見ないか、あなたの神という光に目を向けよ。このわたしがそれだ。この暗い時代に神の光は輝きわたる。あなたはその神の光(力)を与える器となる。しかしそのともし火は、わたしだけによってともされなければならない。この世によって曇ったり、汚れたりしてはならないのだ。わかるか。わたしの血によってきよめられた、純粋な混じりけのない器。盛んに燃え続ける灯火(あかり複数)。あなたがたが洪水なのだ!
わたしはあなたをわたしの心に引き寄せる。あなたの一部ではなく、すべてを明け渡すようにとあなたを召す。この灯火となるために、自分の全身全霊を捧げるようにと召す。完全にわが手によって治められるように。今、あなたの立っているこの場所で、それを本当に現実のものとしてあげよう。それによって光を輝かすための、わたしに従順に応じる、聖なる器。
わたしはあなたをふるう。わたしの力によって・・・あなたは生きのびる・・・この時代を。あなたは生きて死ぬことはない。・・・「なぜ!?」と叫ぶな。ただ聖別され、ひたむきに専念しなさい。あなたに、そしてあなたをとおして、わたしが輝けるようにしてほしい。明け渡せ!放せ!脱ぎ捨てよ!栄光に輝く花嫁にふさわしくないものは、すべて捨て去れ!
あなたにそれができるようにした、と言ったではないか。いっさいの重荷を捨てよと。わたしがしなさいと言うことはできるのだから・・・。捨てておきなさい、ふたたび拾い上げてはいけない。
(中略)
今もし幕を取り去りさえすれば、おおいなしに神の栄光を見る。神の教会が現れる。栄光と恵みにあふれ、はっきりとした力の現れに満ちた教会。天にあって、永遠に離れることなくわたしの前におらせるために計画した教会だ。だから定められた位置につくがよい。わたしはあなたがたに言う、(あなたがたは)争いも分裂もまったくない、栄光のための容れ物として用意されている。銀行には黄金が貯えられている。しかし、そんなものよりもはるかにはるかにまさる富・・・人間の金庫にはおさめきれない大いなる富をおさめる器・・・。この終りの時に、神の臨在・・・神の目的・・・神の言葉と力を注ぎ出す器たちよ。
アーメン
5月に入り、世の中がおかしい、ワクチンがおかしいと目覚めていく人が益々増えていくでしょう。どんな形であれ、ワクチンの危険性を伝える人々が増え、それを聞く機会も増えてきていると思います。しかし、すでにワクチンを打った人が聞いたら絶望しかない、あまりにも衝撃的な内容です。だからこそ、この預言を受けた私たちクリスチャンが、自分を捧げ、神の言葉と力を注ぎ出していかなければなりません。そして、預言を成就するために働く選びの民を集め、サタン・蛇を足の下にしていかなければなりません。【青銅の蛇】であるイエス様をしっかりと仰ぎ見て、この時代に動くサタン・悪霊との戦いに勝利していけたことを感謝して祈ります
マタイ24:29~31
しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。
黙示録17:14
彼らは小羊に戦いをいどんでくるが、小羊は、主の主、王の王であるから、彼らにうち勝つ。また、小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る」。
アーメン