神との関係―自分にとっての神とは?― | ぶどうの木 Good News

神との関係―自分にとっての神とは?―

holygirlですニコニコ

 

先週の集会では、ルカ16章に書かれてある「不正の富を用いて、自分のために友達をつくった家令の利口なやり方をほめた神」について学び、これを理解できないと思う自分は律法的になっているのだと語られました。神はどこまでも心を見ておられ、きよさとは神に対するものであり、サタンの支配下であるこの世に対してきよくあろうとすることではないことを確認しました。また、この世の人でもこれだけ賢くできるのだから、クリスチャンはもっと賢く、パリサイ人や律法学者に勝る知恵をもってできるでしょ!という神の訓戒でもあると語られました。

この学びのあと、以前集会に来て下さったブログ読者の方を通して、創世記38章のユダとタマルの話が裏付けとして示されました。

 

ユダには3人の息子がいて、タマルはユダの長男であるエルの妻となりました。当時は父親が長男に祝福を与えて後継者になるので、長男夫婦の子どもによって血統を残していくことが重要とされていました。しかし、長男エルは神の前に悪い者であったので、子どもを授かる前に殺されてしまいます。そうなると、当時の風習では、亡き長男の妻タマルは、次男か三男と夫婦関係になって子を授かり、長男の子供として育てることが定められていました。タマルはそれに従って、次男であるオナンと関係を持つことになりました。しかし、オナンは、たとえタマルとの間に子供を授かっても自分の子どもにならないことを知っていたので、兄に子を得させないために子の種を地に漏らしました。これが主の前に悪かったので、主はオナンも殺されました。ユダは二人の息子の死の原因はタマルにあると思い、三男のシラまで死んでしまうのではないかと不安になり、タマルを実家に帰しました。月日がたち、シラが成人したのに妻にされないのを知ったタマルは、ユダの前に遊女の装いであらわれ、ユダと男女の関係を持ちました。タマルはその際、関係をもったしるしとしてユダから印鑑と紐とつえを受け取ります。そして、タマルはユダの子を妊娠しました。ユダはその後、しるしを取り戻そうとしますが、彼女を見出せませんでした。3か月後、遊女がタマルであったことを知らないユダは、タマルが姦淫によってみごもった事を聞き、彼女を引き出して焼き殺そうとします。しかし、タマルはしるしを見せ、この持ち主によってみごもったと言いました。ユダはこれを見定め、「彼女はわたしよりも正しい。わたしが彼女をわが子シラに与えなかったためである」と認めたのです。そして、タマルは双子を生みました。このタマルのやり方=神のなさり方によって、ルツ、ダビデ、イエス様が生まれる計画へと続いていったのです。

 

一般常識・この世の常識をもってこの創世記38章を読むと、「タマルが舅であるユダと関係をもった」という事だけに注目してしまい、あり得ない話、非常識な話だと思って理解できません。しかし、神がユダの一族を選び、タマルをその妻として送り、子どもを授けるというみ旨、その血統からイエス様を誕生させるという御計画は変わることがなく、タマルは信仰によってそのみ旨を成就させるために賢く行動したというのが、神側の見方なのです。神のみ旨に聞き従わなかった長男と次男は命を絶たれたというのも、仲保者イエス様がいない旧約時代の、直接的な神と人間の関係を教えられます。どこまでも畏れるべき御方は神お一人であり、神が定めた通りに堅く立っていくこと、選ばれても言い逆らって生きようとする者は滅ぼされていくのだと語られました。

 

私たちは、ルカ16章と創世記38章に書かれてある神に対する学びを通して、改めて自分にとっての神とは何か?自分の頭で神と神のなさり方を小さくしていないか?と問われました。

願い事は過去形で祈ればよい、風邪を引いたらマルコ16:17~18を宣言して十字架の血を注ぎ、悪霊を追い出せばよい、「自分の肉の思いではなく聖霊に従って生きます」など、祈り方や対処法、「聖霊に従う」という言葉だけを覚え、それを義務的に行なったり、言ったりすることにたけてくると、本来の神との関係や繋がりが希薄になってしまったり、表面的になります。口先では神への信仰をもって行なっているようでも、その心は遠く離れてしまっているのです。

神とはどういうお方なのか、その土台を確立していなければ、私たちは何か自分に問題や病が降りかかった時に二心者になり、そのすべての行動に安定がなくなってしまうのだと語られました。

 

私たちが信じる神は、罪人であった私たち人間をその罪から解放するために、御子・長子であるイエス様をこの地上に送って下さった神です。そして、御子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を得るようにして下さった御方です。また、先週も語られた通り、弱い者に「私は強い!」と言わせ、貧しい者に「私は富んでいる!」と言わせ、縛られている者に「私は自由だ!」と言わせ、病気・病んでいる者に「私は完璧だ!」と言わせる神です。(今週歌った「GIVE THANKS」という賛美の歌詞でもあります)何をするにも八方塞がりであった私たちは、神の愛と力によって、「何事もできる!可能だ!」と言える自由を得ることができたのです。その神を信じているから祈ります!悪霊と戦います!みことばを行いに移すことを助けて下さる聖霊に従い、一歩踏み出して行ないます!何があっても主に信頼することができます!そこが分からずに、ただ表面的に行なっていても、神との関係が見えなくなるだけで、また苦しい箱の中、獄屋の中に閉じ込められて自由を失うのだと語られました。そして、やみの方を愛し=自分のやり方を愛して自分が神となり、光・真理の道を憎むようになるのです。

 

ヨハネ3:16~21本

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。

 

テトス3:3~7本

わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、迷っていた者であって、さまざまの情欲と快楽との奴隷になり、悪意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互に憎み合っていた。ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。

 

アーメン宝石ブルー

 

今週は姉妹たちが教材となり、自分の知恵知識に頼って「この場合はきっとこうなる」と判断したり、思い煩って神に喜ばれることよりも人の歓心を買おうとしたり、聖霊がノックして知らせていることを、自分の義で「でもね、ちょっとそれはできない」と止めていないかと、一人一人の心に問われました。自分の力で何とかしようと頑張れる内は、神は働いて下さいません。「もう肉では一歩も行けない!無理です!降参です!」と最大限に弱くなった時、主にあって強くして下さるのが神です。

また、人や職場に対する不義理を思うあまり、神が導き示して下さっていることをなかなか行わず足踏みすることは、神に対する不義をしている事になります。例えば、神に「仕事を辞めて専業主婦となり、私に24時間仕える者となりなさい!」と言われているのに、“私がいなくなると職場の人たちが困る”と思い、「今はまだ辞めれません。様子を見て、代わりの人が来たら辞めます!」と神に対して言うことは、どうなのか・・・本当に人のためを思っているのか?結局は人のためと言いながら、お金を握って辞めることを拒んでいるのではないか・・・そうであれば、サタンは自分の悪の思いとぴったりくっついて仕事を辞めさせまいと動くでしょう。逆に、「別にあなたが居なくても大丈夫ですよ。早く辞めてくれたらいいのに!」と嘲っても来るでしょう。この世の人々は皆、自分の利益・生活のために働いていますから、辞める人があれば代わりに入る人もあり、それは経営者が損をしないために考えることです。必要以上に思い入れが深くなると、判断を誤ります。それは高ぶりであり、神の恵み、真実の愛を見えなくさせます。“私の周りは良い人ばかり!”と、『良い人』の基準が神の基準ではなく自分の肉の基準にもなっていきます。神がイエス様をキリスト(救い主)として私たちに下さったのは、この世に義人は一人もいないからです。自分なりの正義感と善で義人になろうとしても、結局は神に忌み嫌われる者となってしまうのだと語られました。そして、まずイエス様に仕える者となりたい!神に従いたい!と決心した時、周りの霊力もがらっと変わり、感謝をもって送り出し、自分が抜けた穴も神によって補われていくことも、兄弟姉妹たちが体験してきた事でもあります。やはり、神に見られているのは自分の心。神は侮られるような方ではなく、何を考え、何を感じているのか、全てお見通しなのです。

私たちは改めて牧師を通して、「自分にとって大事だと思い、その事ばかりを気にすることを『握っている』と言いますが、第3の天・神の目から見たら、それは自分自身がそれに縛られているのであり、全く自由がない状態、神の力が働かない状態なのです」と語られました。そして、聖霊が教えていることよりも、自分の意見を優先させたらゆるされないと聖書は教えています。日常生活の中で何を考え、自分の口からどんな言葉が出ているのか・・・自分主体ではなく、みことば=イエス様が主体となっているのか・・・熱心に祈り、毎週集会で学んでいても、自分の言葉と行いでそれを否定し、ずっと不信仰な言葉を出していないか問われました。

 

マタイ12:31~37本

だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである。まむしの子らよ。あなたがたは悪い者であるのに、どうして良いことを語ることができようか。おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。善人はよい倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである」。

 

テトス1:15~16本

きよい人には、すべてのものがきよい。しかし、汚れている不信仰な人には、きよいものは一つもなく、その知性も良心も汚れてしまっている。彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者、また不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者である。

 

ヤコブ1:2~8本

わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。

あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。

 

アーメン宝石紫

 

教材となった姉妹たちだけでなく、私たちはキリストの肢体ですから、同じようにこれら3つのみことばの状態にいた兄弟姉妹たちが多かったので、このみことばが臨んだと言えます。そして、悔い改めに至った姉妹たちが頂いたみことばが、今週の教え通り、神がどんなお方であり、神と自分の関係がどんなものであるのかを再確認させてくれましたキラキラ

 

詩篇62:6~8本

神こそわが岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしは動かされることはない。わが救とわが誉とは神にある。神はわが力の岩、わが避け所である。民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。そのみ前にあなたがたの心を注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。

 

ヨナ2:6~9本

わたしは地に下り、地の貫の木はいつもわたしの上にあった。しかしわが神、主よ、あなたはわが命を穴から救いあげられた。わが魂がわたしのうちに弱っているとき、わたしは主をおぼえ、わたしの祈はあなたに至り、あなたの聖なる宮に達した。むなしい偶像に心を寄せる者は、そのまことの忠節を捨てる。しかしわたしは感謝の声をもって、あなたに犠牲をささげ、わたしの誓いをはたす。救は主にある」。

 

第1ヨハネ5:14~15本

わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。そして、わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである。

 

アーメン宝石緑

 

自分と神・イエス様との関係を思う時、神・イエス様はみことばです。イエス様はいつもみことばで道しるべを与えて下さるからこそ、私たちはみことばを頂くことを徹底的に教えられてきました。そして、みことばを行なう者になりなさいと語られてきました。何事でも神のみ旨=みことばに従って願い求めるなら、神は聞き入れて下さると書かれてある通り、みことばを知らない、知ろうともしない、頂こうとしないまま、神に対して願い求めているなら、それは自分の意見を言い表しているだけです。神のみ旨は全く違うでしょう。

最初に書いた創世記38章で選ばれたユダとタマルの血統のように、神に選ばれ、聖別された者たちに対しては、神のみ旨だけが堅く立っていきます。私たちは、自分自身もそうであると自覚して、神に対する強い信仰と、神に喜ばれるクリスチャンとしての姿をこの世にあらわして、神のみ旨を邪魔する者ではなく、行なう者となっていかなければならないと語られました。そして、聖別というものが福音宣教によって進んでいくことをわきまえ知り、神のみ旨である福音宣教もますます積極的に行ない、良いわざに熱心な選びの民を、この浜松で、日本で、誕生させていかなければならないと語られました。それをさせまいと、サタンは身体に攻撃してきて、家の中に閉じ込めておこうとしてきますが、神の子であると宣言して戦い抜く特権もすでに頂いていること、その神の力を体験できている私たちであることも感謝しました!!王冠1

 

テトス2:1~15本

しかし、あなたは、健全な教にかなうことを語りなさい。老人たちには自らを制し、謹厳で、慎み深くし、また、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように勧め、年老いた女たちにも、同じように、たち居ふるまいをうやうやしくし、人をそしったり大酒の奴隷になったりせず、良いことを教える者となるように、勧めなさい。そうすれば、彼女たちは、若い女たちに、夫を愛し、子供を愛し、慎み深く、純潔で、家事に努め、善良で、自分の夫に従順であるように教えることになり、したがって、神の言がそしりを受けないようになるであろう。若い男にも、同じく、万事につけ慎み深くあるように、勧めなさい。あなた自身を良いわざの模範として示し、人を教える場合には、清廉と謹厳とをもってし、非難のない健全な言葉を用いなさい。そうすれば、反対者も、わたしたちについてなんの悪口も言えなくなり、自ら恥じいるであろう。

奴隷には、万事につけその主人に服従して、喜ばれるようになり、反抗をせず、盗みをせず、どこまでも心をこめた真実を示すようにと、勧めなさい。そうすれば、彼らは万事につけ、わたしたちの救主なる神の教を飾ることになろう。

すべての人を救う神の恵みが現れた。そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。

あなたは、権威をもってこれらのことを語り、勧め、また責めなさい。だれにも軽んじられてはならない。

 

ヤコブ1:9~27本

低い身分の兄弟は、自分が高くされたことを喜びなさい。また、富んでいる者は、自分が低くされたことを喜ぶがよい。富んでいる者は、草花のように過ぎ去るからである。たとえば、太陽が上って熱風をおくると、草を枯らす。そしてその花は落ち、その美しい姿は消えうせてしまう。それと同じように、富んでいる者も、その一生の旅なかばで没落するであろう。

試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。

あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである。

愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。

もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、その人の信心はむなしいものである。父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。

 

アーメン宝石赤

神様、イエス様、聖霊様、三位一体の神に今日も生かされ、みことばを行なえる命が与えられていることに感謝します。そして、この“ただの風邪”が流行している中で、守られ、復活の力を頂いて過ごせていることに感謝します。今週与えられたみことばが皆の霊から、魂、身体へとあらわされていったことを感謝して祈ります!ぶどう乙女のトキメキ