聖霊によりクリスチャンにある自由と特権 | ぶどうの木 Good News

聖霊によりクリスチャンにある自由と特権

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人口動態統計速報によると、2021年(令和3年)1月から11月までの超過死亡は66,904人だそうです。東日本大震災が起きた2011年よりも死亡者が多い年となったわけですが、一年も経たない間に、こんなにも超過死亡している理由は何でしょう。コロナパンデミックは2020年から始まっていますが、2020年の国内の死亡数は、前年より約9千人減少していて、コロナウイルス・コロナパンデミックの影響は受けていない事が分かります。高齢化で死亡数は年平均2万人程度増えていた中、2020年の減少は11年ぶりだったそうです。では、2021年にあって、2020年にないものは何か・・・ワクチンです。国に報告されているワクチン接種後の死亡者は、1400人ぐらいです。ならば、残りの約6万5千人は、ワクチンが死亡の直接的あるいは間接的な原因でありながら、報告されていない人々であるという事になります。

厚生労働省コールセンターに電話をかけ、ワクチンやPCR検査などについて質問された方によると、厚労省としては、ワクチンは感染を予防するものではなく、感染予防効果を科学的に立証する論文も情報もなく、ただ2023年まで治験中のワクチンの情報を収集するために、ワクチンを勧めているそうです。5歳から接種ができるようになったのも、12歳以上のデーターは収集できたが、それ以下の子どものデーターがないからだそうです。それで、5歳の子どもが死んだとしても、今はまだ死亡したデーターがないので、死んでから審議するそうです。保護者の同意がなければ打てないが、治験中であったり、副作用や死亡のリスクを知ろうと努力しない人は仕方がないと。

また、マスクの感染予防効果については、根拠となる論文はない、感染を予防するものではない、マスクの着用は義務ではないとはっきり答えたそうです。さらに、PCR検査をして陽性者になっても感染者ではない、発症して初めて感染が成立し、それを判断するのは医者、厚労省では感染者と陽性者を同一の意味で公表していると・・・それが詐欺であること、PCR検査がインチキであることを認めたそうです。コロナの存在証明はないが、コロナが有るものとして対策が行なわれ、無料のPCR検査は税金で行われているそうです。

そして、オミクロン株ついては、40代以下の重症者は0%で、50代の重症者は0.1%のため、恐れる必要はないと・・・ならば何のためのワクチン接種なのでしょう。国民の半数以上がワクチン接種したにもかかわらず、今感染爆発しており、2回接種して、2週間たったにもかからわず感染する“ブレークスルー感染”も増えています。厚労省は、「当初は、感染を予防すると言ってましたが、8割以上のワクチン接種済みの人が感染しています。今、ワクチンは、感染を予防するものではなく、重症化を防ぐものでもない状態になっています」とはっきりと言ったそうです。そして、日本のコロナワクチン接種率は、国民が79.7%(一説では50%)、医者20%、国会議員15%、厚労省10%です。製薬会社の人も打っていないと聞きます。ワクチン推進派の人たちは、皆ワクチンの実態を知っているということです。マスコミでワクチンを推進する医者や専門家は、製薬会社から多額のお金をもらっているという事も暴露されています。

 

今日の午前中の衆院予算委員会で、ワクチン3回目接種について、岸田首相は「2月のできるだけ早期に1日100万回までペースアップすることを目指して取り組みを強化したい。発症予防、重症化予防の観点からも要になるものだ」と言いました。なぜなら、政府の調査では、希望する高齢者らへの3回目接種について、全国の市区長村の97%が2月末までに完了すると回答しているものの、接種率は4.8%(4日公表)にとどまっているからです。打てば安心と思っていた人も、2回接種して意味がないことには気づいていますし、接種後の副反応に苦しみ、突然の死亡が家族や職場内で起きていたら、誰だって警戒するでしょう。国民を馬鹿にするな!という話です。日本人も覚醒してきていることが分かります。人から人へ、2年間このコロナパンデミックはおかしい!ワクチンは危険と言い続けてきた結果が、政府の意に反する大きな流れ、力となっているのであれば、喜ばしい事です。その中で、残念ながら、いまだに政府の言いなりで、3回目を打ちたいと思っている人がいるとするなら、その洗脳を解くことはできるのか・・・実際、今回のワクチンは免疫を破壊するものであり、打つことでただの風邪にかかりやすくなり、重症化しやすくなったり、癌ができやすくなると言われています。3回目は致命的であり、時限爆弾のように3回目接種でスイッチが入り命を落とす危険性が高いそうです。それを勧める政府は殺人を企てているのと同じです。また、福音を嘲って聞けない人同様、ワクチンの危険性を陰謀論とあざけってしまう人にも、このみことばが臨みます。

 

使徒行伝28:24~27本

ある者はパウロの言うことを受けいれ、ある者は信じようともしなかった。互に意見が合わなくて、みんなの者が帰ろうとしていた時、パウロはひとこと述べて言った、「聖霊はよくも預言者イザヤによって、あなたがたの先祖に語ったものである。『この民に行って言え、あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。

 

ワクチン自体に効果がないとするなら、これはワクチンビジネスであり、誰がここまで打たせたいのでしょうか!?製薬会社と医者の利権は目に見えて分かります。ワクチン一本いくらの世界。打てば打つほど儲かる製薬会社と病院・医者・・・人の命よりもお金が大事だと考え始めたら、良心をなくしていきます。自分は打たないし、自分の家族にも絶対に打たせないけど、患者にはどんどん打っている医師もいます。その中でも、心ある医師たちは、必死でワクチンを打つな!子どもには絶対にダメ!おかしい!危険だ!と声を上げています。マスコミは政府の言いなりで、ワクチンを推進してきますが、今や真実と言える裏の情報を手に入れることもできます。情報は溢れており、何を信じるか、何をカシラに生きるのかが問われていると思います。

 

私たちクリスチャンは、この現状から【神と富とに兼ね仕えることはできない】と教えられますひらめき電球救われていなければ、神はなく、皆が富=お金に仕えています。そして、お金はサタンが人間を神から離すために最も使うものです。今週は、たくさんの事が語られた集会でしたが、まずは【神と富とに兼ね仕えることはできない】ことをわきまえ知ること、そして、律法、良識、常識、世の中の正義に勝る優るイエス様と共にあるならば、私たちには自由があり、このおかしな世の中において悪霊と戦える特権と知恵を行使し、平安を得て歩むことができるのだと語られました。

 

今週の集会の中で、ルカ16章が与えられました。このみことばは何度読んでも理解するのが難しい箇所でしたが、ワクチンビジネスから自分の身を守ることを思った時、分かりやすく入ってきました。

 

ルカ16:1~9本

イエスはまた、弟子たちに言われた、「ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった。そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから』。この家令は心の中で思った、『どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物ごいするのは恥ずかしい。そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう』。それから彼は、主人の負債者をひとりびとり呼び出して、初めの人に、『あなたは、わたしの主人にどれだけ負債がありますか』と尋ねた。『油百樽です』と答えた。そこで家令が言った、『ここにあなたの証書がある。すぐそこにすわって、五十樽と書き変えなさい』。次に、もうひとりに、『あなたの負債はどれだけですか』と尋ねると、『麦百石です』と答えた。これに対して、『ここに、あなたの証書があるが、八十石と書き変えなさい』と言った。ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。

 

アーメン宝石ブルー

このみことばが難解だと思うのは、神が不正な事を利口なやり方であるとほめ、不正の富を用いてでも、自分のために友達をつくるがよいと勧めているからです。先週私たちが学んだ神のきよさとは真反対であり、不正=罪なのにどうして義しとされるのかと思ってしまいます。しかし、共にマタイ5章20節に書かれてある【わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。】も与えられ、クリスチャンの生き方は何にも縛られない自由があり、律法的になっていないかと問われました。そもそもイエス様が与えて下さるのは肉体的な癒しだけではなく、弱い者に「私は強い!」と言わせ、貧しい者に「私は富んでいる!」と言わせ、縛られている者に「私は自由だ!」と言わせ、自分は欠点だらけだと思っている者に「私は完璧だ!」と言わせる霊的解放の癒しです。神の愛と力は無限大です。イエス様に救われたのに、この世のやり方に屈し、喜びを奪われ、獄屋に再び縛られ繋がれた状態にいるのであれば、自分の歩みを吟味しなければなりません。そして、神の義とパリサイ人の義は違うことを覚えなければならないと語られました。

〇〇はダメ!○○はしてはならない!とマニュアルをつくっていく歩みをするなら、どんどん縛られ、圧迫され、苦しい歩みになっていきます。なぜダメなのか、牧師はその都度語って下さいますが、ノウハウ宗教ではないので、“A姉妹がダメと言われたから私もダメなのだ”、“B姉妹はいいと言われたから私も大丈夫だろう”という考えは道を誤ります。聖霊の導きによって牧師は語りますから、霊の流れの中で言うことが変わることもあれば、それぞれの羊の霊的状態に応じて言うことが異なる場合もあります。大事なのは、物事の本質と悪霊の動きを見極めて、なぜダメなのかを判断するという事です。クリスチャンは神に対してきよさを守り生きていく事を求められているのであって、この世に対してきよく生きなさいと言われているのではありません。この世に対してきよくあろうとするなら、いつの間にか偽善者になり、神の愛ではなく情でかかわって人から称賛を受けることを好むようになり、高ぶっていきます。それがまさにパリサイ人の義です。頭で考えたら難しいことですが、例えば、「嘘はダメ!」という認識も、ただそれを律法的に掲げていたら、このルカ16章のみことばの意味も理解できないのだと語られました。
 

日本のワクチン接種は義務化ではないのでまだ良いですが、他国では義務化され、デモや裁判がたくさん行われています。今、アメリカに入国するためには、ワクチンを接種していることが条件です。しかし、それを決めたのは、不正選挙で大統領になったと言われるバイデン氏です。入国時の接種義務は法律になっているのではありません。ましてや、バイデン氏が勝手に発言した接種義務化に反対する人々が起こした裁判において、バイデン氏は敗訴しています。そもそも不正選挙でなった大統領が、大統領と言えるのか・・・上に立つ権威が不正を働いているにもかからわず、それに従う必要があるのか・・・製薬会社と政府が危険だと分かっているワクチンを強要してくることに従わなければならないのか・・・そう思ってルカ16章を読む時、例えばワクチン接種から身を守るために、知恵を得て回避することは不正ではない、嘘をつくことではないのだと語られました。

危険だと分かっているから、絶対に打ちたくない!親が子供に打たせたくない!という気持ちは真の愛から来ているものであり、その時に何としてでも、たとえ不正の富を用いてでも回避する方法を考え、選ぶのであれば、神は利口なやり方であるとほめて下さる・・・つまり、神はその心がどこにあるのかを御存知であり、神は心を見られ、一つの物事に対して神の義と神の愛に根差した行いができるのか試みられるのだと語られました。例えば、「ワクチン接種証明をお金で買いなさい」と聞くと、お金で偽の証明書をつくるという犯罪のように思えますが、治験中で毒性の強いものもあれば、プラセボ(偽薬)もあるのなら、お金を払ってプラセボを体に2回接種してワクチン接種証明を得ることは、嘘をついている事にはならないでしょう。聖霊がそれができる道を示して下さるのなら、私たちは喜び平安の内にその道を進むことができます。

 

ある兄弟は、「ワクチンは毒だと分かっているが、アメリカに研修に行く子どもには必要であるから打たせる。嘘はダメですから!」と言って、2回接種させてしまいました。上に書いた方法は、不正で、嘘をつくことになると牧師に反発し、家族皆を引き連れて群れを出て行きました。きよさを必死に追い求めてきた家族であっただけに、牧師がイエス様に聞いていたところ、ルカ16章が群れの姉妹を通して与えられ、これが答えだ!と思ったそうです。きよさとはこういうもの!嘘は絶対にいけない!と律法的に考え、自分は正しいと思っていたら、人々の間では素晴らしい!と尊ばれたとしても、神の御前では忌み嫌われます。主の霊のあるところには自由がありますが、律法的になって自分を縛っていけば当然喜びも失います。自分のきよさを掲げることで、その基準で周りを見れば、とても厳しい審判者になり、裁きの霊に支配されてしまいます。

そもそもワクチンを強制的に打たせる世の中自体がおかしいのであり、悪に染まっています。得体の知れない、ましてや治験中のワクチンを自分の体に入れることは、この先の人生にかかわることですから、職場や学校で決められている事だからと従う必要のないものです。強要されるなら、これは人権問題であり、裁判で戦うなら日本の法律が逆に守り、勝利できる事でしょう。LGBTを容認する動きを政府がしていても、容認できない人が逮捕されることはないように、ワクチン接種が法律で義務化されていない限り、打ちたくない!と主張し続けることは裁かれる罪ではありません。この世に対して、クリスチャンとしてどのように賢く振る舞うのか・・・鳩のように素直でいる事だけが求められているのではなく、蛇のような賢さも必要であることを語られました。

 

ルカ16:10~15本

小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。

欲の深いパリサイ人たちが、すべてこれらの言葉を聞いて、イエスをあざ笑った。そこで彼らにむかって言われた、「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる。

 

アーメン宝石赤

 

そして、クリスチャンはお金にきよくなければ、簡単にこの世に流されていきます。特に教会が力を失い、堕落していく原因もお金=献金問題です。信徒=献金額だと牧師が思い始めたところから、信徒の顔色を伺って戒めることができなくなり、多額の献金をしている信徒は手放したくないという思いも強くなります。なぜなら、牧師の生活がかかっているからです。霊のものをまく牧師が肉のものを得て(献金で)生活することは、神が定めたことです。

 

第1コリント9:11~14本

もしわたしたちが、あなたがたのために霊のものをまいたのなら、肉のものをあなたがたから刈りとるのは、行き過ぎだろうか。もしほかの人々が、あなたがたに対するこの権利にあずかっているとすれば、わたしたちはなおさらのことではないか。しかしわたしたちは、この権利を利用せず、かえってキリストの福音の妨げにならないようにと、すべてのことを忍んでいる。あなたがたは、宮仕えをしている人たちは宮から下がる物を食べ、祭壇に奉仕している人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかることを、知らないのか。それと同様に、主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである。

 

アーメン。しかし、テントを売って生計を立てていたパウロは、続けて、【しかしわたしは、これらの権利を一つも利用しなかった。また、自分がそうしてもらいたいから、このように書くのではない。そうされるよりは、死ぬ方がましである。わたしのこの誇は、何者にも奪い去られてはならないのだ。わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。進んでそれをすれば、報酬を受けるであろう。しかし、進んでしないとしても、それは、わたしにゆだねられた務なのである。それでは、その報酬はなんであるか。福音を宣べ伝えるのにそれを無代価で提供し、わたしが宣教者として持つ権利を利用しないことである。】(第1コリント9:15~18)と言いました。これはパウロの気高いクリスチャンとしての清さであったと思います。それによって、パウロはお金の関係に縛られることなく、全世界に福音を宣べ伝える働きを成し遂げることができたのでしょう。ぶどうの木牧師も、感謝なことに主婦ですから、夫の扶養として生活がかえりみられ、献金で生活する必要はありません。だからこそ、今まで信徒に対しても、顔色を伺うことなく真理をまっすぐに伝えてくることができました。長老、執事から聖書に書かれてある通り報酬を頂いて下さいと言われ、形的には頂いてきましたが、一家の妻が家庭を守り、主に仕えて働く時、夫が祝福されていくという約束通り、夫の収入がどんどん上がっていったため、頂く報酬は全部、夫の収入の十分の一の献金に変わっていきました。つまり、一銭も自分のために使うことはなく来たという事です。逆に献金は全て信徒たちのため、宣教のために使われてきました。牧師の信仰で献金を用い、まけばまくほど、献金をした信徒一人一人が健康面においても、社会的、経済的にも祝福を得ていったのです。今週の集会では、イエス様がこの在り方、教会におけるお金に対するきよさも求めておられるのだと語られました。

 

私たちはお金がなければこの世で生きていけません。そう思って、良い学歴を身に付け、給料の良い会社に就職することを目指します。お金で自分の幸福度をはかるため、日々の生活で一番大事なのはお金。お金を握り、お金をけちり、人のために出すことを嫌がります。お金があればあれもこれもできるのに!と思うでしょうが、お金のある人が本当に幸せと言えるのか・・・お金があるからと言って、高級なレストランで食事をしたり、ブランド品を買ったり、海外旅行をしたり、一流ホテルに泊まっても、心が満たされるのは一瞬であり、共に楽しんでくれる人がいなければ、もっと虚しくなります。また、酒、タバコ、ギャンブルに逃げても、身を滅ぼしていくだけですし、自分が抱えている問題や病気に対して、占い師やカウンセラー、一流の医師にお金を払って解決してもらおうと思っても、限界があります。お金持ちの生涯のパートナーを得たと思っても、性格や価値観の不一致で満たされず、離婚に至ります。どれも、心に空いた穴=飢え渇きを満たしてはくれません。お金があっても、医学から見放された難病や障害を抱えていたり、お金では解決できない問題を抱えている人もいるでしょう。ぶどうの木牧師は救われる前、高額な年収でしたが、十万人に一人の腸の難病になり、食べる楽しみを奪われ、お金をどれだけ出しても治らないと医者から見放されたところで、イエス様に救われ、癒しを得、頂いた命に感謝して主に自分を捧げる人生を歩み始めました。

 

お金を必死に追い求める人生は、心にぽっかり穴を開けていきます。この世の神はサタンであり、サタンがお金を使って人間を翻弄するわけですから、ゴールがありません。宝くじに当たって一時最高の贅沢を楽しんでも、その後の人生が幸せであったと言えるのか・・・お金を求め、富に仕え、命を落とした時には地獄行き決定です。宝くじに当たるほどサタンに愛されている人はいないと私たちは教えられてきました。

ヨハネ4章に出てくるサマリヤの女は、5人もパートナーを変えましたが満たされず、自分の人生に飢え渇いていました。イエス様は肉の思いを満たそうとするのであれば、一生渇いたままであるが、生ける水=みことばを得るのであれば、渇くことがないばかりか、その人のうちであふれ出し、永遠の命に至る泉が沸き上がるのだとおっしゃいました。人間にとって、人生において一番必要なのはお金ではなくイエス・キリストです。神・イエス様に仕える者となった時、神ご自身から経済的な祝福を受けることができます。そして、お金は生きて行く上で必要だからこそ、お金で狂わされることのないように、毎週収入の十分の一を献金するというきよさ、忠実さによって、この世の神であるサタンと決別する機会を天なる父・神は与えて下さったのです。天国の門は狭いです。お金に仕える、お金を握るならば、狭い門も細い道も、恐れに満たされて通ることができず、何の良いものも得られません。改めて私たちは、真に神に仕える者となって礼拝ができているのか問われ、自分自身を吟味しました。

 

ヨハネ4:6b~26本

イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませて下さい」と言われた。弟子たちは食物を買いに町に行っていたのである。すると、サマリヤの女はイエスに言った、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」。これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。女はイエスに言った、「主よ、あなたは、くむ物をお持ちにならず、その上、井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れるのですか。あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤコブよりも、偉いかたなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだのですが」。イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。女はイエスに言った、「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」。イエスは女に言われた、「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」。女は答えて言った、「わたしには夫はありません」。イエスは女に言われた、「夫がないと言ったのは、もっともだ。あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉のとおりである」。女はイエスに言った、「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。女はイエスに言った、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」。 イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。

 

アーメンダイヤモンド

毎週の学びをどう聞くかで、律法的にもなれば、解放され自由を得て喜びの内に生きることもできます。律法的になっているなら、毎日何か飢え渇きを感じているでしょう。イエス様に従っているのにどうしてこんな事になるの!?と訴えたい気持ち、嘆きや悲しみ、苦しみがあるでしょう。不信心は神からは来ません。ならば、もう一度一から生ける水=みことばを得て、イエス様と共に生きるとはどういう事なのか学び直さなければなりません。私たちの主イエス様は、栄光、大能、力、権威がある方、そして、私たちを守ってつまずかない者とし、傷なき者として喜びのうちに立たせて下さる方ですまじかるクラウン

一人一人が達し得たところに応じて、今週の教えを霊から魂、体で受け、今週も主の軍隊として置かれた場所で力強く働けたことを感謝して祈ります!グー

 

ユダの手紙本

イエス・キリストの僕またヤコブの兄弟であるユダから、父なる神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人々へ。あわれみと平安と愛とが、あなたがたに豊かに加わるように。

愛する者たちよ。わたしたちが共にあずかっている救について、あなたがたに書きおくりたいと心から願っていたので、聖徒たちによって、ひとたび伝えられた信仰のために戦うことを勧めるように、手紙をおくる必要を感じるに至った。そのわけは、不信仰な人々がしのび込んできて、わたしたちの神の恵みを放縦な生活に変え、唯一の君であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからである。彼らは、このようなさばきを受けることに、昔から予告されているのである。

あなたがたはみな、じゅうぶんに知っていることではあるが、主が民をエジプトの地から救い出して後、不信仰な者を滅ぼされたことを、思い起してもらいたい。主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている。しかし、これと同じように、これらの人々は、夢に迷わされて肉を汚し、権威ある者たちを軽んじ、栄光ある者たちをそしっている。御使のかしらミカエルは、モーセの死体について悪魔と論じ争った時、相手をののしりさばくことはあえてせず、ただ、「主がおまえを戒めて下さるように」と言っただけであった。しかし、この人々は自分が知りもしないことをそしり、また、分別のない動物のように、ただ本能的な知識にあやまられて、自らの滅亡を招いている。彼らはわざわいである。彼らはカインの道を行き、利のためにバラムの惑わしに迷い入り、コラのような反逆をして滅んでしまうのである。彼らは、あなたがたの愛餐に加わるが、それを汚し、無遠慮に宴会に同席して、自分の腹を肥やしている。彼らは、いわば、風に吹きまわされる水なき雲、実らない枯れ果てて、抜き捨てられた秋の木、自分の恥をあわにして出す海の荒波、さまよう星である。彼らには、まっくらなやみが永久に用意されている。アダムから七代目にあたるエノクも彼らについて預言して言った、「見よ、主は無数の聖徒たちを率いてこられた。それは、すべての者にさばきを行うためであり、また、不信心な者が、信仰を無視して犯したすべての不信心なしわざと、さらに、不信心な罪人が主にそむいて語ったすべての暴言とを責めるためである」。彼らは不平をならべ、不満を鳴らす者であり、自分の欲のままに生活し、その口は大言を吐き、利のために人にへつらう者である。

愛する者たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが予告した言葉を思い出しなさい。彼らはあなたがたにこう言った、「終りの時に、あざける者たちがあらわれて、自分の不信心な欲のままに生活するであろう」。彼らは分派をつくる者、肉に属する者、御霊を持たない者たちである。しかし、愛する者たちよ。あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。疑いをいだく人々があれば、彼らをあわれみ、火の中から引き出して救ってやりなさい。また、そのほかの人たちを、おそれの心をもってあわれみなさい。しかし、肉に汚れた者に対しては、その下着さえも忌みきらいなさい。

あなたがたを守ってつまずかない者とし、また、その栄光のまえに傷なき者として、喜びのうちに立たせて下さるかた、すなわち、わたしたちの救主なる唯一の神に、栄光、大能、力、権威が、わたしたちの主イエス・キリストによって、世々の初めにも、今も、また、世々限りなく、あるように、アァメン。