聖なる清さ―きよい人にはすべてのものがきよい― | ぶどうの木 Good News

聖なる清さ―きよい人にはすべてのものがきよい―

holygirlですニコニコ

 

「ぶどうの木は、みことば実践室から主の軍隊養成所になります」と、今年最初の集会で語られてから1か月が経ちました。聖霊が教師であること、神の言葉と力を注ぎ出すクリスチャンとなること、俗に流されるのではなくイエス様と共に生きる選択をし、サタンに隙を与えないように意志を向け続けること、神を恐れて全ての悪から離れることが語られてきた1月の最後の集会では、その原点となる“聖なるきよさ・聖さ”について学びました。

 

へブル12:14本

きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。

 

第1ペテロ1:13~17本

それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。あなたがたは、人をそれぞれのしわざに応じて、公平にさばくかたを、父と呼んでいるからには、地上に宿っている間を、おそれの心をもって過ごすべきである。

 

第1コリント3:16~17本

あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。

 

第1ヨハネ3:2~3本

愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする。

 

アーメン宝石赤

先週導かれてきたRさん親子は、集会のメッセージを聞いて、「私たちは全部肉でした。聖書の教えと日常生活は全部つながっているのですね」と牧師に話し、帰っていったそうです。聖書の教えを長年学んできても、日常生活に結びつかないまま無知であった救われる前の欲情=肉の思いに従って生活しているクリスチャンが多いのはなぜか・・・それは神が見ておられるという緊張感や恐れがないからです。救われたら天国に行けるという誤った教えを信じ(救われただけで天国に行けるのであれば、分厚い新約聖書の戒めは必要ないと私たちは考えます)、日常生活の中では平気で人を裁き、妬み、憎しみ、分派分裂し、偽り、ごまかし、金銭を愛し、姦淫不品行をし、俗的な考えをもって言動し、神に対する高ぶりと“自分なんて・・・”という自己憐憫を繰り返して、ある日突然最後の審判を受けることになるのです。

最後の審判については、実際その時を迎えないと分からないですが、神が選んだ人たちが啓示を受け、世の中に知らせてくれています。最後の審判を受けるために長蛇の列ができており、前に並ぶ人たちが次々と地獄の方の扉に叫びながら吸い込まれていく・・・扉が開いた途端ものすごい熱風で並んでいる人たちもやけどをする・・・生まれた時から死ぬまでの自分の人生を神と共にスクリーンで見ることになり、その一場面ごとに「あなたはこの時、嘘をついたね。この時に、人をいじめたね。この日、救われたね。救われたのに神に言い逆らっていた時期があったね。なぜこの時に、許さなかったのか?なぜ、このような考えをしたのか?」と問われ、神に言い開きをすることになる・・・神の御前では全てがお見通しであり、犯した罪は体の中に種となってあらわれる・・・そして、天国行きか地獄行きか審判が下る・・・救われていなければどんなに地上で立派な行いをし、皆に称賛されていても当然地獄行きであり、救われた後に神の御旨を行なっていなければ、最もひどい地獄に行く・・・だからこそ、この地上が天国行きか地獄行きかを決める最終ステージである・・・この最後の審判の時を軽んじ、恐れもなく生きているからこそ、クリスチャンであっても罪を重ねることができるのです。しかし、実際に体験する時はもう手遅れで、その時点で「自分には何らやましい事はない」と言えないのであれば、強烈な恐怖の中、地獄行きを覚悟して列につかなければなりません。

 

私たちクリスチャンは、神との関係を知って生きる者であり、偶像ではなく生きた神が自分を守って下さることを知り、神の内を生きています。主に信頼する者は安らかであり、人に対してではなく神に対して喜ばれたい心をもって生きているのであれば、この地上を去り、審判の日を迎えた時には、“ついにイエス様とお会いできる!”と喜びと確信をもって立つことができます。だからこそ、私たちは死を恐れる必要はありません。恐れるものがあるとするなら、それは日々犯している罪に対してです。私たちは神の御手の中で生きている者・・・手のひらのアリのように、その中で生き動いている者です。隠しているつもりでも神は全てお見通しです。その神に対して、どんな弁明を最後の審判の時にするつもりか・・・それよりも、何らやましいことはないと言える生き方をする方が賢明であり、そうやって神を畏れて従い抜いた14万4千人だけが天国に入るのだと語られました。

また、以前牧師を通しては、「今、イエス様が帰ってこられたらあなたはどうするか?」と問われたこともありました。喜んで抱きつきに行くのか、どうしよう・・・と立ちつくすのか、慌てて逃げるのか、その気持ち一つも日常生活における自分と神の関係のバロメーターになります。いつイエス様が帰ってこられても、喜んで駆け寄り、抱きつける自分でなければなりません。新郎が迎えに来て下さったのですから指輪

 

今週の集会で、私たちは牧師を通して、「聖なるきよさを身につけなさい。神が常に見ておられることを感じられる清さです!そうすれば、神もあなた達に近づいて下さり、やることなすこと百戦百勝です。その歩きにはおのずと良い実が伴っていくのです」と語られました。牧師が聖なるきよさについて教えて下さるからこそ、羊はきよさに対する自覚をもって歩んでいくことができます。それが日常生活の行いに繋がっていくのだと改めて語られました。

そして、牧師と羊の間には必ずイエス様がおられます。霊と肉が完全に聖別された牧師の語ることは、イエス様がおっしゃっていることです。自分がどのような問題を抱え、どのような思いで聞いているのか、自分以上によく知っているのはイエス様であり、目に見えないイエス様は、目の前にいる牧師を通して、必要の一切を語って下さいます。その関係を忘れて牧師を血肉で見、一人の人間の意見として牧師の発言を聞くなら、言われたやられたと、憎しみ、裁き、恨みも生まれていきます。今回私の夫であるK兄弟も、「夫婦で決めたことを牧師がくつがえしてきた!ズルイ!ならば夫婦で決めることに意味がない!」と、牧師の権威や牧師=イエス様であることを忘れ、俗的な発言で反発しました。自分は絶対に正しいというところにいたら、牧師に対して「いつも自分が正しいと思っている!」と高ぶり、牧師の言うことは聞けなくなり、何も見えなくなります。その時には完全にサタンの支配下ですから高ぶった分、今度は自己憐憫にも陥ります。高ぶりと自己憐憫の繰り返しです。K兄弟の場合は、舌の変形によって言葉が上手く出ないという霊の病(医学では原因が分からない)をもってぶどうの木に導かれたため、舌の使い方、言葉の使い方が神の御心に反したら、すぐにその状態が戻ってきました。それは神に愛されているが故の分かりやすいあらわれであり、牧師を裁き、高ぶった発言をしたことを悔い改め、悪霊の追い出しに至りました。そして、頂いたみことばは、ユダの手紙10~11節でした。

 

ユダの手紙10~11本

しかし、この人々は自分が知りもしないことをそしり、また、分別のない動物のように、ただ本能的な知識にあやまられて、自らの滅亡を招いている。彼らはわざわいである。彼らはカインの道を行き、利のためにバラムの惑わしに迷い入り、コラのような反逆をして滅んでしまうのである。 

 

アーメン宝石ブルー

 

そもそも、牧師は、自分の知らないことを教え、自分をクリスチャンとして成長させて下さった人、イエス様が与えて下さった人です。その信仰のもとに、牧師と羊の関係は成り立っていますから、恩や感謝を忘れたら、人間的な関係に戻り、血肉の戦いになります。

訓戒を受けたのなら、牧師と自分の間にイエス様がおられることを忘れてはなりません。肉に戻らず、主に信頼している羊は、まず「アーメン」と受けることができ、“なぜ私は牧師にそのように言われたのか、厳しく戒められたのか”と自分を吟味することができます。分からなかったら素直に牧師に聞くことができます。イエス様が間におられるのですから、牧師が間違っていたら、イエス様は牧師に対しても語ってくださいます。

日常生活においてやましいことがある羊は(聖霊がやましいと教えてくださっている)、牧師のもとに行くことができません。戒めを受けることを避けます。イエス様のもとに駆け寄っていけないのと同じです。常に清くありたいと願うのであれば、自分から胸を開いて、「牧師!私の内に汚いところがないか見て下さい!」と言えるのだと、牧師自身が母教会の牧師に対してそうであったと証して下さり、改めて牧師と羊の関係を学ぶことができました。

 

そして、牧師は霊の監督者であり、たくさんの羊を預かっています。肉で羊を見て、問題に向き合おうとしたら、いくら時間があっても足りませんが、牧師もイエス様に聞き、羊に対してみことばが臨み、霊的状態を聖霊によって示されるため、的確に危険なところにいる羊を救い、導くことができます。牧師に肉の責任はありません。牧師を裁いて戒めを聞けず、自ら群れを出て行くならそこまでの関係です。相手も教えを長年学んできたクリスチャンであるならば、なおさら本人の意志。その意志に対して、神が審判を下されるでしょう。その時には、牧師は、たとえ片目片足を失っても、この地上でイエス様のもとに立ち返れるようにととりなし祈り、真に解放されたいと思えるよう、霊の飢え渇きを祈りますが、足洗を拒絶して進む道は、サタンの敷いたレール、行き着く先は地獄であるという事も聖書は教えています。

 

ヨハネ13:8本

ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。

 

使徒行伝20:26~27本

だから、きょう、この日にあなたがたに断言しておく。わたしは、すべての人の血について、なんら責任がない。神のみ旨を皆あますところなく、あなたがたに伝えておいたからである。

 

へブル6:4~12本

いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。たとえば、土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込で、耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる。しかし、いばらやあざみをはえさせるなら、それは無用になり、やがてのろわれ、ついには焼かれてしまう。

しかし、愛する者たちよ。こうは言うものの、わたしたちは、救にかかわる更に良いことがあるのを、あなたがたについて確信している。神は不義なかたではないから、あなたがたの働きや、あなたがたがかつて聖徒に仕え、今もなお仕えて、御名のために示してくれた愛を、お忘れになることはない。わたしたちは、あなたがたがひとり残らず、最後まで望みを持ちつづけるためにも、同じ熱意を示し、怠ることがなく、信仰と忍耐とをもって約束のものを受け継ぐ人々に見習う者となるように、と願ってやまない。

 

アーメン宝石紫

速やかに悔い改めることができたら、一瞬にして地獄行きの道から神のもとへ帰ることができるからこそ、イエス様が牧師を通して訓戒して下さったこと、示して下さったことがあれば、自分の罪を認め、全てが新しい自分として一から学んでいくことが大切であると語られました。

 

牧師を通しては、きよさについて次のみことばが与えられましたひらめき電球

 

テトス1:15~16本

きよい人には、すべてのものがきよい。しかし、汚れている不信仰な人には、きよいものは一つもなく、その知性も良心も汚れてしまっている。彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者、また(神・みことばに対して)不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者である。

 

アーメン宝石赤

きよい人にはすべてのものがきよく、神の御前では、汚れている不信仰な人にはきよいものは一つもないと言われます。果物であれば、腐っている一部分を取り除いたら、後の部分は食べれますが、神の御前では白い絵具に一滴でも黒が混じればそれは白ではなく、汚れているとみなされます。神のきよさの基準はとても高いことが分かります。さらに汚れの原因は自分の意見を言うルシファーのパン種であり、それは知性も良心も汚れていることを意味します。彼らは忌まわしい者であり、神・みことばに対して不従順な者。神を知っていると言っていても行いではそれを否定しているため、いっさいの良いわざに関して失格者。私たちはこのみことばを通して、自分が真にきよい人であると言えるのか、吟味しました。

イエス様が牧師を通して語られることに、言い逆らえる身分であるか、神のきよさを求められた時に苦しいと思うなら、それは神のきよさ・みことばに対して言い逆らっているからであると語られました。そして、どれだけ言い逆らっても、霊は生きており、イエス様がおられますから、自分の意見=肉の思いを主張し続けても、苦しい状態は変わらないのだと語られました。日常生活の中で、混乱や惑わしを来たらせているのであれば、すでにそこにきよさはありません。特に感覚はうそつきであり、苦しい、しんどい、痛いという感覚はサタンが放つ矢ですから、戦わなければなりません。戦わずにただ取り除いてもらおうと主に祈っていても、「あなたに悪霊を追い出す権威を授けた」とおっしゃる神ですから、意志を向けて自分が行なうことが求められます。自分はまともだと思っていても、悪霊にささやかれ、徐々に憑依されていきます。その場合は、霊を見分けることのできる牧師によって、一体化している悪霊をはがしてもらう必要があります。

いくら学んでいても、真理の知識に達することができないのであれば、知性の腐った信仰の失格者であるとも言われます。神の御心、きよさを求めて、日々生活できているか問われ、牧師を通しては、「イエス様が牧師を通して語ることを一つももらさず聞き、実践してほしい!そのように行なって霊の世界が分かるクリスチャンが、群れの中に一人でも生まれたら学びの意味がありハレルヤです!」と語られました。そして、牧師がその週に必要な武具を与えており、自分自身もせっかく意志を向けて日曜日に学んでいるのですから、月曜日から土曜日までしっかりと学びを実践して、日常生活に生かして、実を結んでいかなければならないと語られました。

 

第2テモテ3:1~17本

しかし、このことは知っておかねばならない。終りの時には、苦難の時代が来る。その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。彼らの中には、人の家にもぐり込み、そして、さまざまの欲に心を奪われて、多くの罪を積み重ねている愚かな女どもを、とりこにしている者がある。彼女たちは、常に学んではいるが、いつになっても真理の知識に達することができない。ちょうど、ヤンネとヤンブレとがモーセに逆らったように、こうした人々も真理に逆らうのである。彼らは知性の腐った、信仰の失格者である。しかし、彼らはそのまま進んでいけるはずがない。彼らの愚かさは、あのふたりの場合と同じように、多くの人に知れて来るであろう。

しかしあなたは、わたしの教、歩み、こころざし、信仰、寛容、愛、忍耐、それから、わたしがアンテオケ、イコニオム、ルステラで受けた数々の迫害、苦難に、よくも続いてきてくれた。そのひどい迫害にわたしは耐えてきたが、主はそれらいっさいのことから、救い出して下さったのである。いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っており、また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。

 

マタイ7:21~23本

わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

 

アーメン宝石緑

 

この世の中、終わりの時代は、サタン・悪霊が好き放題に動きあざけり、人間を地獄に道連れにしようと翻弄しています。(余談ですが、1992年のバルセロナオリンピックの開会式、2012年のロンドンオリンピックの開会式で、すでに今のコロナパンデミックをあらわす演出をしていたことが明るみとなり、今のコロナパンデミックはやはりあらかじめ計画されていたものだと分かりました。改めて開会式の映像を見たら、おかしい!これほどまでにサタンに馬鹿にされているとは!と腹が立ちました。サタンからの挑戦だと思いました。それも霊がよみがえったクリスチャンである証拠であると言えます。)私たちはその中で何のために生かされているのか、福音して一人でも多くの魂をサタンの獄屋から奪還して救うために生かされていることを忘れてはなりません。

先日、岸田首相が会見で、「グレートリセットが終わったら」と発言しました。陰謀論と言われるものを信じない人にとっては何の事!?と思う発言、もしくは考えずに流してしまうような発言ですが、光対闇の戦いが行なわれていると信じている人にとっては、驚く発言でした。グレートリセットとは、2つの意味があり、光側にとっては、悪者(ディープステート、悪魔崇拝者)がいなくなり、税金を取られない金本位制となって、働きに応じた報いをちゃんと受けられる世の中になることを意味し、闇側にとっては、必要のない人間は削減され、仮想世界の中で生活したり旅行をし、人間が家畜のように生きる世の中になることを意味します。しかし、クリスチャンである私たちにとっては、どちらになっても、神を信じずに好き勝手に肉の思いのままに生きる人間がおり、同性愛者による結婚、出産が容認される世の中であれば、行き着く先は滅びであり、神はそのような世の中をリセットするであろうと思っています。真に神に従い、きよさを追い求める者だけが生きる世界が来る・・・それを願って、私たちは一人でも多くその世界に入れるように、あわれみの心をもって福音宣教していかなければならないと語られました。
 

先週語られた「結婚の床をけがしてはならない」という教え一つとっても、古い!今の時代は婚前交渉は当たり前!と反発する多数派によってあざけられます。偽善の霊にまかれた人々は、LGBTを容認しないクリスチャンを、差別主義者であると迫害してきます。彼らは、サタンを喜ばせるだけ喜ばせて、最後の審判を迎え、地獄の火に焼かれても、後悔するどころか、「熱い!ここから出せ!」と神に罵声を浴びせるでしょう。そのような人々も地獄に大勢いると啓示されています。

私たちは、かつて自分もそちら側の人間であったにもかからわず、選ばれ救われ、クリスチャンとなりました。イエス様の御前で、世の汚れに染まらずに身(神の宮)を清く保つことは、命・一生に関わることだけではなく、死後の行先にも関わることであることを知りました。真理を知った後に、世の汚れに染まることは取り返しのつかない状況に陥ることになります。“これぐらい何が悪い”と思いながら生きるなら、サタンに導かれる人生を自ら選んでいることになります。

神に対する清さと聖さ、神への感謝と信仰以外に自分を救い、守る道、平安はありません。今週は、それをしっかりと心に留めた主の軍隊でなければならないと語られた集会となりました。そして、こんな世の中であるからこそ、主の軍隊に号令がかかり、出動する時であるのだとイザヤ書51章を通して語られアーメンしました!ますます内側をきよめ、神に使って頂ける器となれたことを感謝して祈りますまじかるクラウン

 

イザヤ51:11~16本

主にあがなわれた者は、歌うたいつつ、シオンに帰ってきて、そのこうべに、とこしえの喜びをいただき、彼らは喜びと楽しみとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る。「わたしこそあなたを慰める者だ。あなたは何者なれば、死ぬべき人を恐れ、草のようになるべき人の子を恐れるのか。天をのべ、地の基をすえられたあなたの造り主、主を忘れて、なぜ、しえたげる者が滅ぼそうと備えをするとき、その憤りのゆえに常にひねもす恐れるのか。しえたげる者の憤りはどこにあるか。身をかがめている捕われ人は、すみやかに解かれて、死ぬことなく、穴にくだることなく、その食物はつきることがない。わたしは海をふるわせ、その波をなりどよめかすあなたの神、主である。その名を万軍の主という。わたしはわが言葉をあなたの口におき、わが手の陰にあなたを隠した。こうして、わたしは天をのべ、地の基をすえ、シオンにむかって、あなたはわが民であると言う」。

 

アーメンダイヤモンド