「へびのような賢さ・はとのような素直さ」とは
holygirlです
昨年は2月末の集会を最後に、私たちは3か月間家庭集会を行う事になりました。昨年2月24日のブログの最後は次のようなメッセージで締めくくっていました。
人間は人知で全て解決できると思ってきました。新型コロナウイルスが、人を殺すために人為的につくったウイルスなら、神が怒りをもって、ご自身が創造した人間をこの地球上から一掃しても仕方ありません。人間は神の御前で何の力もないことを認め、へりくだって心悔い、神の言に恐れおののかなければなりません。
神への揺るぎない信仰をもって、血の力を行使している者だけが守られる時代です。キリストなるかしらにしっかりと着いていない偽クリスチャンは神に見抜かれます。クリスチャン一人一人が、神に選ばれたことへの感謝をもって、改めて神を畏れ(恐れるだけではなく、おそれ敬う)、この時に完全に古い自分を脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着て、神の御業をあらわしていけたことを感謝して祈ります
緊急事態宣言が解除され、6月に再び皆が集まって集会を行なった時、この世に流されて席に着くことができなかった人たちがいました。救われ、神の言を聞くことを求めて集会に出席していたと思っていた兄弟姉妹たちでしたが、彼らはキリストなるかしらにしっかりと着くことができませんでした。当たり前のように毎週集会に着席していても、聞いているだけで実践が伴っていないのであれば、自分の足で立つ家庭集会が始まった途端、この世の声を聞き、肉の思いがふくらんでいきます。先週のブログに書きましたが、群れにいるから成長するのではなく、自分自身が神との関係を確立して成長すること、クリスチャンだから聖書を読むのではなく、聖書=神の御言葉を実践したいから読み、キリストに似た者となることが大切です。
神のふるいにかけられ、残った私たちは、家庭集会が始まってから今に至るまで、世の中で起きていた様々な悪事を知ることとなりました。マスコミは絶対に伝えようとしてこなかった事が、インターネットの世界では真実として語られています。世の中はそれを「陰謀論」と言い続けてきましたが、果たして本当に「陰謀論」なのか・・・マスコミ、NHKが正しくて、インターネットの情報は陰謀論、嘘だと決めつけるのではなく、その内容に目を向け、耳を傾けて、判断しなければ、一部の人間(悪魔崇拝者・ディープステート)の思惑通りになっていく恐ろしさを痛感してきました。
昨年の今頃、生物兵器と言われていたコロナウイルスですが、今となっては医療のひっ迫のからくり(もともと受け入れる病院数が少ない)も、感染者数増加の理由(PCR検査で陽性でも感染者とは言えない)も暴かれ、そもそもワクチンを打つほどのウイルスなのかと言われています。国はワクチン接種を勧めていますが、ワクチンそのものに害悪があるとも言われ、実際、ワクチンの安全性が証明されているとは言えません。マスコミ(に出ている医者)は大丈夫だと言い、インターネット上で証言している医者や看護師は危険だと言います。どちらを信じるのか・・・コロナウイルスを恐れ、自粛を強いられる生活に限界が来ている人々は、国の言うことだから正しい、安全だと認識して、積極的に打とうとしています。何を見聞きし、信じているのか・・・この1年、マスコミだけを信じてきた人(覚醒していない人)と、覚醒した人のあらわれがはっきりしてきました。
小児性愛者や臓器売買者による小児誘拐、子どもたちへの虐待からのアドレナクロム抽出、製造、子どもたちを監禁してきた地下トンネルの存在が明らかになっています。そんな子どもたちを救出するために軍と共に働いてきたトランプ大統領が、不正選挙と、お金のためなら平気で裏切る人々によってホワイトハウスを去る事となり、バイデン氏が表向きには大統領になったわけですが、米軍はトランプ氏側についており、彼らの悪事を暴き、逮捕していると言われています。さらに、3月4日に、アメリカが“合衆国”から“共和国”に戻り、その19代大統領にトランプ氏がなることも期待されています。さて、これらは陰謀論で真実ではないのでしょうか?あまりにも酷く、衝撃的な事は、何万人もの子どもたちが地下に閉じ込められ虐待を受けているという事ですが、これが本当だとして、人々はこの事実を直視できるでしょうか?まともな精神状態で、この先この世界で生きていけるでしょうか?私たちも、知らされた時は、信じられない!と思いましたが、サタンの支配下である世の中で悪霊が人に入るとはそういう事であると、理解することができました。ただ面白がってこの悪事を追いかけるのではなく、神がどのようにしてこの戦いに勝利されるのかを見守り、そのために神に使われ善で悪に打ち勝とうとしている人々のために祈ってきました。悪事をしてきた人々も、この地上で悔い改めなければ永遠の地獄ですから、彼らの救いも祈ってきました。そして、改めて、世界で起きている問題を直視し、神と繋がって平静を保つことができるのは、霊がよみがえり、悪霊の存在を知っているクリスチャンだけであると語られました。
「海外のこと、アメリカの事は関係ない!バイデンが大統領になっているじゃないか!」と言う人もいますが、日本でも異様なことが起きていることに気づいているでしょうか?中曽根康弘元首相の葬儀が昨年10月17日に行われましたが、彼の葬儀は3度目でした。2016年に98歳で亡くなっているのに、2019年11月29日に、2度目の死を迎えています。そして、2度目の葬儀が行われています。それにもかかわらず、3度目の葬儀・・・おかしいと思った人がどれだけいたでしょう?自分の生活が忙しすぎて、何の疑問もなく通り過ぎた出来事だったでしょうか?この葬儀は、天皇が亡くなった時と同じ“大葬”で行われ、政府はこの直前に防衛省令を改正し、わざわざこの葬儀だけに限って天皇の葬礼を行なう自衛隊の部隊・儀仗兵が参列できるようにしました。そして、国民には、葬儀当日の黙とうと国旗の掲揚を通達しました。
また、10月17日は、その年に収穫された初穂を天照大御神に捧げて感謝する神嘗祭(かんなめさい)の日であり、本来ならば天皇陛下が取り仕切るはずのこの儀式が中止されて、民間人である中曽根氏の葬儀が行われました。そこには普通民間人の葬儀に参列するはずがない皇族、秋篠宮殿下が参列しました。彼は10月8日に行われる予定だった天皇家にとっての大事な儀式(立皇嗣の礼)がコロナによって延期されていたにも関わらず、この葬儀に参列したのです。
そして、遺影の下には、パネルが3つに分かれて置かれており、そこにたくさんの勲章が並べられていました。中曽根元首相が一人で得られるはずがないほどの勲章・・・よく見ると、上皇夫妻、今上天皇、さらには安倍晋三元首相のものだったと言われています。つまり、この葬儀は、中曽根元首相の葬儀の名のもとに、この4人の合同葬儀であったと言うのです。3.11東日本大震災からもうすぐ10年を迎えますが、3.11を企てたと言われている彼ら(日本のディープステートの幹部たち)が、すでに逮捕され、処刑され、日本国民に知られないように元首相の国葬として葬儀が行われたのが10月17日であったと言われたら、それこそ受け止めきれるでしょうか?これこそ陰謀論だと言われてしまう事かもしれませんが、なぜ、大葬?なぜ3回も葬儀をする必要があるのか?と考えてみたことはあるでしょうか?当時、9600万円もかけて葬儀をする必要があるのか!という事ばかりが取り上げられていましたが、誰も、この疑問をぶつける人はいませんでした。それだけ、国民がコロナウイルスの事ばかりに気をとられ、無関心になっているのです。正しいことを報じないマスコミも悪ですが、声を上げるどころか疑問にも思わず過ごしている国民も愚かなのです。私たちが住むこの国で、一体何が起きているのか・・・謎の火災も多いですね。もし10月17日をもって天皇がすでにこの世に存在していないのだとしたら、国中がパニックになるでしょう。「今も天皇がテレビに映っているじゃないか!」と言う人もいるでしょうが、あたかも生きているようにでき、あたかも死んだようにできるのが、今の時代です。偽物と本物の区別もつかないぐらい、仮装技術は進歩しています。アメリカはじめ海外の問題だけでなく、日本で起きている事も注意深く見て、自分で調べていかなければならないと、私たちは今週の集会で語られました。
エレミヤ33:3
わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。
アーメン
そして、イエス様の十字架の意味を宣べ伝えることは当然の事ですが、何百年もの間、教会が聖書の初歩の教えにとどまり続けてきたからこそ、「宗教臭い」と言われ、人々が神と繋がることができずにきたことを、反省しなければなりません。聖書に書かれてある事は、日常生活に根差した教えです。人としての在り方や、今の時代における善と悪を学ぶことのできる書物であり、それによって神の御心を知ることができる唯一の書物です。先に書いたようなことも、私たちは聖書のみことばと照らし合わせながら、どういう事なのか学んできました。この1年のブログを振り返って読んでみるだけでも、私たちの国で、そして世界において、神の御手の中でどんな動きがあったのかよく分かります。陰謀論を面白おかしく教会で話しているだけなら、私たちは何も身に、実にしてくることはできなかったでしょう。クリスチャンとして、聖書に書かれている事実そのものだけではなく、今私たちが生きている時代、日常に基づいた教えをする事こそが、聞いている相手・羊が生きていくための福音・グッドニュースになります。そして、たとえ馬鹿にされたり、無視されるような迫害を受ける事があっても、神の御前で正しい者でありなさい、神が何を求めておられるかを知りなさいと語られました。
ローマ3:4bc
あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。それは、「あなたが言葉を述べるときは、義とせられ、あなたがさばきを受けるとき、勝利を得るため」と書いてあるとおりである。
ローマ3:10~18
「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。彼らの足は、血を流すのに速く、彼らの道には、破壊と悲惨とがある。そして、彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。
アーメン
この世に義人は一人もいません。“この人なら話を聞いてくれそう”と、自分の基準で相手を良い人だと判断して語っても、裏切られることはたくさんあります。この世の人々の状態は、ローマ3:10~18に書かれてある通りです。私たちは、ここからあがない出された者です。自分のやり方をやり、見るもの、聞くもの、周りの声に左右される生き方は滅びに至ります。人の心はよろずの物より偽るもので、はなはだしく悪に染まっていると聖書は教えています。神だけが決して裏切らず、偽らない真実な方です。その神を信じ、その方に似た者となりたいと思って御言葉を行なう人だけが、義とせられ、勝利を得、平安の内に、この3月を迎えることができるのだと語られました。
さらに、神の御前で正しい者とは、素直に正直に誠実になる者の事であると語られました。ぶどうの木ではよく「素直に正直に誠実に」という言葉を使いますが、それは歴代志上のみことばから与えられました。
歴代志上29:9~19
彼らがこのように真心からみずから進んで主にささげたので、民はそのみずから進んでささげたのを喜んだ。ダビデ王もまた大いに喜んだ。そこでダビデは全会衆の前で主をほめたたえた。ダビデは言った、「われわれの先祖イスラエルの神、主よ、あなたはとこしえにほむべきかたです。主よ、大いなることと、力と、栄光と、勝利と、威光とはあなたのものです。天にあるもの、地にあるものも皆あなたのものです。主よ、国もまたあなたのものです。あなたは万有のかしらとして、あがめられます。富と誉とはあなたから出ます。あなたは万有をつかさどられます。あなたの手には勢いと力があります。あなたの手はすべてのものを大いならしめ、強くされます。われわれの神よ、われわれは、いま、あなたに感謝し、あなたの光栄ある名をたたえます。
しかしわれわれがこのように喜んでささげることができても、わたしは何者でしょう。わたしの民は何でしょう。すべての物はあなたから出ます。われわれはあなたから受けて、あなたにささげたのです。われわれはあなたの前ではすべての先祖たちのように、旅びとです、寄留者です。われわれの世にある日は影のようで、長くとどまることはできません。われわれの神、主よ、あなたの聖なる名のために、あなたに家を建てようとしてわれわれが備えたこの多くの物は皆あなたの手から出たもの、また皆あなたのものです。わが神よ、あなたは心をためし、また正直を喜ばれることを、わたしは知っています。わたしは正しい心で、このすべての物を喜んでささげました。今わたしはまた、ここにおるあなたの民が喜んで、みずから進んであなたにささげ物をするのを見ました。われわれの先祖アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたの民の心にこの意志と精神とをいつまでも保たせ、その心をあなたに向けさせてください。またわが子ソロモンに心をつくしてあなたの命令と、あなたのあかしと、あなたのさだめとを守らせて、これをことごとく行わせ、わたしが備えをした宮を建てさせてください」。
アーメン
先週学んだ通り、私たちは神に仕える僕です。神のことを第一に行い、それから自分のことを行なうのが当たり前です。すべてのものは神の所有物ですから、真心からみずから進んで主にささげることは喜びです。そんな私たちの心を見て、神はご自身の栄光の富の中から、私たちの必要の一切を満たしてくださいます。自分で限界を決め、途中で神に対して文句を言ったり、離れてしまったら、何も得ることはできず、苦しい歩みを始めることになります。意志と精神とをいつまでも保たせ、その心を神に向け続けること、意見と思い=意思を神に向ける志しに変えて、神の命令を行なっていくことが、私たちクリスチャンに求められている事なのだと語られました。微塵でも自分をごまかしたり、偽ろうとしたり、何をどう言おうかと心配したり、自分の計画や神より大事なもの(お金、地位、名誉など)があってそれを握るのであれば、聖霊の動きは止まり、霊からあふれる思いを語ることはできなくなります。しかし、すべては神のものであり、神は心を見ておられるという信仰と“きよさ”をもっている人間は、相手や自分自身に対して偽ることを嫌い、素直に正直に誠実に生きることを望みます。自分のやり方ではなく、神のやり方を求め、行なおうとします。そして、迫害されてもそれをチャンスだと思い、喜んで自分がどのように生まれ変わったのか証をすることができるのです。
証については、今週の集会で【へびのように賢く、はとのように素直であれ。】(マタイ10:16b)と語られました。はとのように素直に語る事は、素直に正直に誠実に生きるクリスチャンが、聖霊(はとは聖霊の象徴)に満たされた時にできます。聖霊の力によって、自分自身の頭が知らない事でも、霊は知っており、何時間でも語ることができるのです。ぶどうの木牧師はその模範を、毎週の集会で示して下さっています。何のメッセージも用意することなく、その場に着席した途端に言うべきことが授けられ、3時間半語り続けていることは、聖霊による御業そのものです。
マタイ10:16~20
わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。人々に注意しなさい。彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂でむち打つであろう。またあなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと異邦人とに対してあかしをするためである。彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである。語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。
アーメン
そして、自分を神に明け渡して素直に語ることも訓練ですが、特に今週備わっているか問われたのは、へびのような賢さでした
このへびとは、創世記3章に出てくる狡猾なへび、アダムとエバをそそのかしたへびです。へびは悪賢さをもっていました。これだけ聞くと良い例えではないように感じますが、イエス様ご自身が例えられたように、神の子がこの世に出て行くということは、羊をおおかみの中に送るようなものであり、世の人間の悪賢さに対抗し、勝利できる知恵を、私たちクリスチャンは聖霊によって備えていなければ相手を救い出すことはできないのだと語られました。
へびのような賢さを教えてくれるみことばが、ローマ14:15~18だと思います。
ローマ14:15~18
もし食物のゆえに兄弟を苦しめるなら、あなたは、もはや愛によって歩いているのではない。あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない。キリストは彼のためにも、死なれたのである。それだから、あなたがたにとって良い事が、そしりの種にならぬようにしなさい。神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。こうしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、かつ、人にも受けいれられるのである。
アーメン
聖書=神が何を教えようとしているのか、深く理解することができていなければ、独り善がりに自分の信仰を押し付けているだけになり、相手を不愉快にさせたり、嫌悪感を与えてしまう場合があります。それが世の中で言う宗教臭さ、カルト的なものです。神に喜ばれる事を考えて、「私はクリスチャンだから絶対にこうでなければならない!」という正義を主張し、自分なりには満足していても、福音宣教は相手があっての事です。相手が何を求めているかを読み取る賢さ、思慮深さなしに、自分にとっての正義を貫こうとしたら、当然話をしていてもかみ合わず、心が通い合うこともありません。信仰は最も大切にするべきものですが、その信仰が相手に理解されない、受け入れられない、それどころかそしりの種となってつまずきを与えてしまっていては、イエス様から散らす側になってしまいます。
クリスチャンとしての地に足の着いた歩みとは、神に喜ばれ、人にも受け入れられている事を言います。その上で、へびのような賢さとは、自分の得を考えて言ってくる相手の上を行く発言、相手が要求することに応えるだけではなくそれ以上の善なる言動、相手の立場を理解した上での言動をすることであるのだと語られました。その知恵を私たちは聖霊によって頂くことができ、神の知恵には神の愛が伴います。魂の救いのためであれば、どんな事でもします。これは、人との関わりにおいて心に留めておかなければならない事です。
そして、聖霊の助けを得るために自身の重荷を降ろし、何を語ろうか、どうしたらいいのかと緊張せずに、いつも喜んでいることを力にしなければなりません。喜んでいたら、聖霊が働き、人知では計り知れない神のやり方を体験することができるのだと再確認しました。
第1コリント9:19~23
わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。
マタイ5:38~48
『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を断るな。
『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
アーメン
また、カルト的になって失敗してしまった事に対して、「今後二度とそうならないようにします」と言ったところで、自分の何がいけなかったかを心底悔い、改めることができなかったら同じことを繰り返します。みことばを学び、蓄えて、自分の身にしていかなければなりません。
ある兄弟は証の中で、「いつも自分の内側をきよめたら、カルトの霊が働かなくなる」と言いましたが、その考え方こそがカルトなのだと牧師に指摘されました。古い革袋を捨て去って自分をきよめ、新しい革袋(霊)にみことばを「アーメン」と言って入れていくことによって、神のみ旨を知っていくことができます。それを自分の魂(知性・感情)で受け、行なうか行わないか決めるのが意志です。その意志を神のみ旨に向けて行った時、“カルトの門を閉じることができる”のです。カルトの霊は追い出したら働かなくなるのではなく、神の御心をわきまえ知る人間に自分自身が変わっていかなければなりません。自分の考え方(思考回路)、礼儀作法など、独り善がりで甘かった自分の肉を知り、忌み嫌うことが必要なのです。
さらに、「神に対して悔い改めたから」と言って目に見える相手には謝罪しない、簡単に嘘をつく、自分の失態を直視せずに自分の言葉でごまかすなど、素直、正直、誠実からかけ離れた行いをしながら、イエス様への信仰を語るのであれば、世の人には受け入れられないカルトになってしまうのだと語られました。人として絶対にやってはならないことを、正しい良心でわきまえ知れているか、自分にとって良いことがそしりの種になっていないか、改めて一人一人が吟味しました。
ルカ8:15
良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。
コロサイ1:9~10
そういうわけで、これらの事を耳にして以来、わたしたちも絶えずあなたがたのために祈り求めているのは、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力とをもって、神の御旨を深く知り、主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ、あらゆる良いわざを行って実を結び、神を知る知識をいよいよ増し加えるに至ることである。
アーメン
聖書の言葉は、魂が喜ぶものだけではありません。時に自分を突き刺すもろ刃の剣のような鋭いものもあります。その神の言と向き合って、霊も魂も土台が神の御心を行なう人間に変えられたのが、『クリスチャン』であるべきです。そのような『クリスチャン』が世の光、地の塩となります。「私は神の御前でなんらやましい事はない」と言える自分になれた時、ローマ3:4c【あなたが言葉が述べるときは、義とせられ、あなたがさばきを受けるとき、勝利を得る】が成就していくのだと改めて語られ、集会で受けたメッセージの一つ一つが繋がり、アーメンでした