神と人間の関係とは | ぶどうの木 Good News

神と人間の関係とは

holygirlですニコニコ

 

偶像礼拝とは、仏像や地蔵など、人間が作った像を拝むことだけを言うのではありません。神の目から見たら、人類皆が、自分の思い・考えを偶像として大事に拝み、自分が一番偉いと思っている自分偶像礼拝者です。そして、勝手気ままに、自分自身が決めた神、例えばお金、仕事、名誉、趣味、好きな人、アイドルなども握りしめて拝んでいます。この世の神であるサタンが、真の神を見えなくさせるように巧みに人間に働きかけていったのです。クリスチャンになっても、自分の思い・考えという偶像、手放したくない偶像を持っていたら、真の神との関係を理解することはできません。“神とはこういう方”という自分なりの観念が、神との関係を妨げていきます。さらに、“努力しなければ神と繋がれない、神に仕えるためにはいろいろなものを犠牲にして我慢しなければならない”という思いもサタンが刷り込んだ宗教心です。せっかくサタンの支配下から救い出されてクリスチャンとしての人生を歩き始めたのに、神というお方がどんな方なのか、何を求め望んでおられるのか分からず、信仰によって歩む真理の道、永遠の命に至る道に入れないまま、キリスト教宗教を続けている人もいます。

例えば、御霊の実【愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制】は、自分がそれを得るために我慢して努力したら与えられるものではありません。修行して身につけられるものではないのです。神との関係が分かれば、いつも感謝と共に愛、喜び、平和(平安)に満たされますし、それ以外の思いは神から来ていない事を悟り、慈愛、善意、忠実、柔和、自制を教える神の言を守り、実践していく事によっておのずと実を結んでいくことができます。たとえ迫害を受けても、神は全て御存じであり、「自分の内におられるイエス様が迫害されているのだ!生きているのはもはや私ではない!」という教えがしっかりと自分の身に刻まれていれば、忍耐によって一つ一つの状況・状態を乗り越えていくことができるのです。

先週の集会では妬みの霊について語られましたが、クリスチャンとして神との関係を知っていれば、自分はこの世界に神の尊い器としてつくられたのだと分かっていれば、他者に対して妬む事はありませんし、それが罪であることも理解できます。

今週の集会では、ルカによる福音書17章から、改めて神・イエス様と私たち人間(クリスチャン)の関係を確認していきましたぶどう

 

ルカ17:1~6本

イエスは弟子たちに言われた、「罪の誘惑が来ることは避けられない。しかし、それをきたらせる者は、わざわいである。これらの小さい者のひとりを罪に誘惑するよりは、むしろ、ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられた方が、ましである。あなたがたは、自分で注意していなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」。

使徒たちは主に「わたしたちの信仰を増してください」と言った。そこで主が言われた、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう。

 

アーメン宝石赤

イエス様ご自身も私たち人間の苦しみや痛みが分かるように人の形をとって地上に来て下さいましたので、罪の誘惑があり、それが避けられないものであることを知っておられます。しかし、自らそれを来たらせるような生き方をしていないか?という事は、ここ最近、何度も私たちは集会で問われてきました。自分自身の肉を打ち叩いて誘惑に打ち勝つ力も聖霊によって頂いているにもかかわらず、自分だけではなく周りの人も罪に誘惑している事は大罪です。例えば、平気で嘘をつくこと。嘘をつかなければならないような状況を自分自身がつくりだし、その嘘によって相手をだまし、翻弄していないでしょうか?偏向報道を平気で行い、真実を伝えようとしない今のマスコミの在り方は、大罪だと思っています。嘘をつく事、人の悪口や噂話など、罪の誘惑をきたらせている人は、神の存在を軽んじていると言えます。神がいつも見ておられるという恐れがありません。

また、相手のしていることが罪だと分かっていながら、いさめることなく、自分の保身に走っているのであれば、同罪です。神の御前でのきよさを失い、サタン側へとどんどん取り込まれていってしまいます。ですから、クリスチャンはその場の霊力をきよめ、変え、罪人をとりなすためにその場に置かれていることを自覚して、慎み深くいさめる者であることが求められるのです。それは裁きや批判ではありません。神の御前で、自分自身がきよくありたいという、神と自分の関係の中にあって生まれる行いです。だからこそ、相手が悔い改めたら、無条件でゆるすこともできます。私たちは、イエス様の血のあがないによって、全ての罪が許されました。神と自分の関係において、神にゆるされた自分が、他者を裁くことなどできないのです。

信仰とは、神の言を守り行いたいと願うからし種一粒程度から始まります。そして、日々の御言葉の実践の積み重ねによって、自分が生まれ変わり、不可能を可能にして下さる神の力を体験体得していき、強められていくのだと語られました。

 

 

ルカ17:7~10本

あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いをするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか。僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。

 

アーメン宝石赤

神の愛とは何でしょうか?この愛を人間的なもの、愛情だと思っていたら、このみことばの意味を理解できないでしょう。神と私たちの関係は、主人と召使いの関係です。私たちはどこまでも神の僕です。命じられたことを忠実に行うことによって日々生かしていただいています。以前、韓国の姉妹が、「悔い改めたら、イエス様がありがとうと言って下さった」と言っていた事がありましたが、悔い改めることは、命じられたことを忠実に行わなかったのだから当然の事です。主人である神・イエス様に感謝される事ではありません。もし、イエス様に認められる事があるとするならば、神に自分を明け渡す忠実さです。しかし「忠実な僕よ、よくやった!」と言われても、僕はすべての栄光を主人である神・イエス様に帰しますどこまでも、「わたしはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません」と言える心を見られているのです。

また、私たちはクリスチャンとして、それぞれが神に与えられた場所で福音のために働いています。しかし、それだけが私たちの仕事ではありません。主人であるイエス様は日常生活の中でも【夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いをするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。】など、あらゆることを命じてこられます。イエス様の僕とされた私たちに肉を休める時間はあったとしても、霊の休みはありません。いつも目を覚まして、主人の言葉(命令)に耳を傾け、すぐに行動にうつせるようにしていなければならないのです。
それにもかかわらず、もし自分が「すぐきて、食卓につきなさい」と言ってもらうこと=“イエス様に給仕しないフリータイムの時間”を求め、そのように言ってくれなかった神を厳しい、冷たいと思うのであれば、クリスチャンとして神との関係を全く理解していない事になります。多く与えられた者は多く求められます。そして私たちには、主にあって何事もできる聖霊の力が与えられています。私たちは、100%自分の心を注ぎ出して、神に仕える僕となれているか問われました。主人(イエス様)と僕(クリスチャン)の関係を、神の愛として受け入れることができるか、それとも“厳しいけど、僕だから嫌でもやらざるを得ない規律だ”と義務として受けるのか、その心も神は見ておられるのです。

 

 

ルカ17:11~19本

イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた。そして、ある村にはいられると、十人のらい病人に出会われたが、彼らは遠くの方で立ちとどまり、声を張りあげて、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と言った。イエスは彼らをごらんになって、「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と言われた。そして、行く途中で彼らはきよめられた。そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。イエスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」。それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。

(注:人間の知恵と情が聖書の中に入り込み、“らい病人”を差別用語だとして、最近の聖書は“重い皮膚病”となっています。)

 

アーメン宝石ブルー

私たちは今までたくさんの人々に福音宣教してきました。病気や家庭の問題で悩み苦しんでいた人たちの多くが、イエス様によって病気が癒され、家庭の問題が解決しました。しかし、その全員が今イエス様に対する信仰をもって集会の席に着いているわけではありません。神はご自身に助けを求めてくる人にあわれみ深いお方です。神ですから、誰が裏切り、誰が自分に従ってくるのかもご存じです。それでも皆に平等にご自身の力をあらわして下さいます。天の父と言われる神はそのような愛なる方です。しかし人間は自分勝手です。10人いたら、9人は、自分の問題が解決したらそのまま喜んで去っていく・・・このみことばを通してイエス様は的確に人間の本心・悪を見抜いておられます。ぶどうの木の14年間の歩みの中でも、大勢の人が去っていきました。群れの人数は年々増えていきましたが、一人去ったら、一人が来て着席する・・・を繰り返し、今に至ります。神をほめたたえるために帰ってきた者にだけ、感謝から生まれる真の信仰があるのだと語られました。

ぶどうの木は、人数集めをしている群れではありません。無理やり連れてきて着席してもらう場ではありません。着席していても、聞いているだけで実を成らせることができないのであれば、違う人に席を譲ることも言われてきましたが、それもルカ13:6~9に書かれてある神との関係があるからです。

 

ルカ13:6~9本

それから、この譬を語られた、「ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった。そこで園丁に言った、『わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』。すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』」。

 

アーメン。3年いて、何の実も結べないのであれば、神はその木を切り倒してしまえとおっしゃる方です。しかし、園丁(牧師、働き人)は、神にとりなし、あと一年チャンスをもらいます。群れにいるから成長するのではなく、自分自身が神との関係を確立して成長していかなければならないと改めて語られました。そのためには、悪を忌み嫌い、肉をたたきつけること、“二度とそこに行きたくない!”と決心することが大切です。何度も同じ過ちをする人は、神をあざけっているからです。この覚悟をもって、学んでいかなければならないと語られました。

 

 

ルカ17:20~37本

神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。

それから弟子たちに言われた、「あなたがたは、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう。人々はあなたがたに、『見よ、あそこに』『見よ、ここに』と言うだろう。しかし、そちらへ行くな、彼らのあとを追うな。いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう。ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう。その日には、屋上にいる者は、自分の持ち物が家の中にあっても、取りにおりるな。畑にいる者も同じように、あとへもどるな。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。あなたがたに言っておく。その夜、ふたりの男が一つ寝床にいるならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。ふたりの女が一緒にうすをひいているならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。〔ふたりの男が畑におれば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう〕」。弟子たちは「主よ、それはどこであるのですか」と尋ねた。するとイエスは言われた、「死体のある所には、またはげたかが集まるものである」。

 

アーメン宝石紫

パリサイ人とは、儀式ばかりにこだわり、律法を行なわなければ罰があたると思っている人です。神の国に入るために一生懸命に肉で努力しています。しかし、神としっかり繋がっている人は、時代がどうであれ、神の国の中にいます。

そして、このみことばを通して教えられるのは、神はどこまでも個人的な神であるという事です。ノアの家族は、神の声に忠実に聞き従ったので、箱舟をつくってその中に入り、洪水から守られました。ロトも神の目から見て良い人であったため、神に選ばれ、神が滅ぼすと決めたソドムの町から妻子と共に導き出されました。その時、み使いが「後ろを振り返って見たら滅びる」と警告しましたが、ロトの妻は振り返ったため、塩の柱になりました。これに対して、「ロトの妻なのに、塩の柱にするなんて神はひどい!」と思うのであれば、やはり神との関係を理解しているとは言えません。「あなたの信仰故にあなたの家族を助ける」という神ではなく、「あなたの信仰故にあなたを守る」という神です。家族が神に反逆したことによってその身に刈り取りをしていても、あなた自身がそれによって問題を背負うことのないように、聖別されなさいとおっしゃる神です。神にとって大事なのはご自分の声に聞き従うかどうかであり、仮に家族皆がその声を聞いたとしても、そこからの歩きは家族単位ではなく、“個”として尊重され、神は心(意思)を見ておられ、一人一人の意志を試されておられるのです。

私たちは今まで、一つの家庭で一人が救われたら、一つの国で一人が立ちあがったら、神はその人を通して家族を救い、国民全員を救うことができるのだと語られてきました。自分自身が立ち上がり、みことばによって180度真反対に変えられたら、その自分を通して周りを救うことができます。同じ穴のムジナ状態であれば、サタンが先回りして攻撃をしかけ立ち上がれないようにされるでしょう。だからこそ、霊力を見分けて、まずは自分がいつも霊の思いに満たされる環境を求め、霊的出エジプト(救われる前の自分がいた場所から完全に出てくる、生まれ変わる)しなければならないのです。全世界に福音を宣べ伝えたパウロは、まさにその例えにふさわしい人物です。先人パウロの歩みは私たちクリスチャンの模範です。

しかし、以前、既成の教会からぶどうの木に導かれてきた姉妹が、使徒行伝15:36~38の【幾日かの後、パウロはバルナバに言った、「さあ、前に主の言葉を伝えたすべての町々にいる兄弟たちを、また訪問して、みんながどうしているかを見てこようではないか」。そこで、バルナバはマルコというヨハネも一緒に連れて行くつもりでいた。しかし、パウロは、前にパンフリヤで一行から離れて、働きを共にしなかったような者は、連れて行かないがよいと考えた。】という箇所を読んだ時に、“パウロはなんて冷たい人間なんだ”と思う!と話してきた事がありました。私たちはそのみことばの受け方に驚きました。【愛は寛容であり、情け深い・・・】と、愛について教えているのはパウロです。パウロは福音宣教の足を引っ張る者、働きを共にしなかったような者は、連れて行かない方がよいと、まず神の事を思って言ったのです。そして、この先バルナバの事は取り上げられず、新約聖書の後半はパウロの働きが書かれている通り、パウロの判断は正しかったのです。姉妹の発言を通して、彼女が目の前の事しか見えず、何が神のみ旨であり、全きことであるか広い視野でわきまえ知ることができない事がはっきりと分かったのでした。結局彼女は、神の愛と人間の愛情の違いが分からず独り善がりのイエス様像を作り上げ、真実の愛で向き合う牧師を裁いて群れを出て行きました。彼女だけに限らず、かつて既成の教会からぶどうの木にいた兄弟姉妹たちは、自分なりのイエス様像があるため、神の僕であり霊の監督者である牧師が忠告をしても、「私のイエス様はそんな事は言っていない」と言い出し、牧師を裁いて皆出ていきました。「イエス様は二人いるのですか?」と何度問うた事でしょう。

自分なりの愛・優しさの基準で神を見るならば、みことばの受け方を誤ります。そして、神は冷たい、厳しいと平気で言えてしまうのです。先に学んだように、神と私たちの関係は、主人と召使いの関係です。自分の肉に心地よいことが愛ではありません。自分を甘やかしてくれる人が、優しい人ではありません。そんな見方をしていたら、クリスチャン以前に社会人としても失格でしょう。真に自分のために命をかけて向き合ってくれる人、神の御前で忠実に訓戒してくれる人を求める自分でないのであれば、人として成長することはできません。そして、クリスチャンとして、自分をかえりみる事なく相手のために向き合えているのか、神の御前で神に示されたことを忠実に相手に伝え、時に訓戒できているかも問われました。

パウロの働きについては、使徒行伝を通しても確認しました。そして、これが牧師・働き人の在り方でもあり、皆が置かれた場所で牧師になるよう語られてきたぶどうの木の羊たちにとっては、パウロのような姿勢で神に仕え、徹底的に自分の言うべきことを伝えることができているか問われました。

 

使徒行伝20:17~38本

そこでパウロは、ミレトからエペソに使をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。そして、彼のところに寄り集まってきた時、彼らに言った。

「わたしが、アジヤの地に足を踏み入れた最初の日以来、いつもあなたがたとどんなふうに過ごしてきたか、よくご存じである。すなわち、謙遜の限りをつくし、涙を流し、ユダヤ人の陰謀によってわたしの身に及んだ数々の試練の中にあって、主に仕えてきた。また、あなたがたの益になることは、公衆の前でも、また家々でも、すべてあますところなく話して聞かせ、また教え、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、強く勧めてきたのである。今や、わたしは御霊に迫られてエルサレムへ行く。あの都で、どんな事がわたしの身にふりかかって来るか、わたしにはわからない。ただ、聖霊が至るところの町々で、わたしにはっきり告げているのは、投獄と患難とが、わたしを待ちうけているということだ。しかし、わたしは自分の行程を走り終え、主イエスから賜わった、神のめぐみの福音をあかしする任務を果し得さえしたら、このいのちは自分にとって、少しも惜しいとは思わない。わたしはいま信じている、あなたがたの間を歩き回って御国を宣べ伝えたこのわたしの顔を、みんなが今後二度と見ることはあるまい。だから、きょう、この日にあなたがたに断言しておく。わたしは、すべての人の血について、なんら責任がない。神のみ旨を皆あますところなく、あなたがたに伝えておいたからである。どうか、あなたがた自身に気をつけ、また、すべての群れに気をくばっていただきたい。聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである。わたしが去った後、狂暴なおおかみが、あなたがたの中にはいり込んできて、容赦なく群れを荒すようになることを、わたしは知っている。また、あなたがた自身の中からも、いろいろ曲ったことを言って、弟子たちを自分の方に、ひっぱり込もうとする者らが起るであろう。だから、目をさましていなさい。そして、わたしが三年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがたひとりびとりを絶えずさとしてきたことを、忘れないでほしい。今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。御言には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある。わたしは、人の金や銀や衣服をほしがったことはない。あなたがた自身が知っているとおり、わたしのこの両手は、自分の生活のためにも、また一緒にいた人たちのためにも、働いてきたのだ。わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」。

こう言って、パウロは一同と共にひざまずいて祈った。みんなの者は、はげしく泣き悲しみ、パウロの首を抱いて、幾度も接吻し、もう二度と自分の顔を見ることはあるまいと彼が言ったので、特に心を痛めた。それから彼を舟まで見送った。

 

アーメン宝石緑

 

集会の後半は、K兄弟の証を通して、神との関係が分かっておらず、独り善がりに神だと言い始めていくとカルトになるのだと語られました。身の回りで起きる現象や、歌詞の一節、時にはみことばを使って、カルトの霊はK兄弟をどんどん神の道から引き離していきました。その時の感覚は地に足がついていないフワフワしたものであったとK兄弟は証言しています。

神との正しい関係を築いていないままクリスチャンだと言う人は、おそらくこの世の人に嫌悪感を抱かれていると思います。カルトの霊を放っているからです。独り善がりで“何でも神にゆるされている、神が分かってくれていたらいい”と思い込んでいるため、世間から見れば一般常識に欠け、肉でできていない事を指摘されているにもかかわらず「迫害」だと思って自分を吟味することをしない、「イエス様に言われた」と言って、知性で深く考えもせずに何でも決断して行動に移してしまう、「クリスチャンだから、罪だから」と言って協調性なくふるまう、「イエス様に悔い改めたから」と言って相手に謝罪しないなど、人に非難され、受け入れられない存在になっているなら、クリスチャン(=キリストに似た者)とは到底名乗れません。さらに、日曜日だけ“クリスチャン”で、月曜日から土曜日までは肉のフリータイムで、やりたいようにやり、言いたいように言ったり、神対サタンの霊の戦いがあることを学んでいても、日常生活の中では、血肉の戦いを繰り返し、平気で悪口を言い、人の言動を批判している(=審判者の霊)のであれば、全く神との関係を意識していないことは明らかです。

K兄弟は、先週のブログを通して、『なぜこの人にこんなに嫌われるのか?拒絶されるのか?と思うことがあれば、まず自分が相手を怒らせるような事をしていないか吟味しなさい』というメッセージを受けた時、自分がカルトの霊によって傷つけたN姉妹に対して、心底悔い改めなければならないと思ったそうです。K兄弟は、以前イエス様に言われたと思い込んで、N姉妹に結婚を申し込んだ事がありました。しかし、それは自分の魂が伴っていなかったため、すぐに撤回する事となりました。自分のカルト的思考による言動によってN姉妹を巻き込んでしまったわけですが、K兄弟自身はその事の重大さを受け止めきれずにいました。N姉妹も、K兄弟と自分は霊的に似ている部分があり、K兄弟を見て裁いていたことをイエス様に語られ、先にK兄弟に対して悔い改めていました。

今週の集会で、自身の証が教材として皆に紹介された事で、自分の歩みを改めて清算することができたK兄弟は、初めてN姉妹に対しても、「本当に悪かった。申し訳ありませんでした」と謝罪することができました。それは自分を捕らえてきたカルトの霊を、足の下にできた大きな勝利となりました王冠2

 

先週与えられた動画のメッセージの中で、特に印象に残った一言がありましたダイヤモンド

 

「クリスチャンだから聖書を読むというならやめなさい。それを実践したいから読むのです。」

 

聖書をただ義務的に読んでいるだけでは、御言葉を自分の身にしていくことはできません。神と自分の関係をわきまえ知り、神が求めておられることをことごとく実践していきたいという気持ちで読んではじめて、御言葉を自分の身に成就させていく信仰の歩み、神との歩みができます。自分はどうであったか・・・一人一人が吟味し、改めて神との正しい関係のもと、神に喜ばれ、人にも受け入れられる生き方をしていけた事を感謝して祈りますぶどうキラキラ