霊の監督者の働き―カルトからの解放―
holygirlです
神は霊ですから、羊を養う牧者を選び、特別な油の注ぎを与えて、大切な羊の命を預けます。それゆえ、群れの牧者・牧師とは、「目に見えることよりも、霊的なことの方が現実である。私の霊は、私の頭が知らないことを知っている」というクリスチャンの歩きの中で、神の目から見た羊の『清さ・聖さ』のために、“益”のために、羊をサタンの策略から守り、戒め、訓練し、育て、聖別へと導く神の僕です。
神をおそれ、神としっかり繋がっている牧師は、常にみことばに基づいた言動をします。聖書は【人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益な書物】(第2テモテ3:16)ですから、牧師は聖書に基づいて羊を訓戒します。神は牧師を使い、みことばを通して、ありのままの自分の姿を教えて下さいます。羊はみことばが示される時、自分自身がその状態である事を謙虚に受け入れ、悔い改める必要があります。そうやって一つ一つ示される自分の肉の状態から離れ、正され成長していく過程を、「義(神がよしとされる者)に導かれていく」と言います。クリスチャンとは、神の霊感によって書かれた聖書によって、【あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者】(第2テモテ3:17)にならなければなりません。地上に宿っている間、牧師は羊が神をおそれ、完全にととのえられたクリスチャンになるための監督者でもあるのです。
「日常生活の中で何がイエス様で、何がサタンの働きなのか分からない」と言う羊がいます。サタンは自分の周りの環境や他者を使って私たちを誘惑してきます。特に家族や友人であれば、情が動き、あたかも自分のために言ってくれていると思って、受け入れてしまいがちですが、大事なのは、誰が言ったかではなく、その人が神の声を聞くクリスチャンなのか、土台にみことばがあるかどうかで判断しなければなりません。サタンは巧みに、自分の魂(知性・意思・感情)=肉に働きかけてくることを、まずは自覚しておくことが大切です。牧師は、そのサタンの働きを見抜き、イエス様が導いてきた羊を守り仕え、その羊を神の聖さに到達させ、神から真の祝福を受けられるようにと整えます。肉にべったりと張り付いているサタン・悪霊どもをはがす作業は、時に肉が悲鳴をあげるほど辛く、厳しく、途中で逃げ出したくもなります。そのような時、牧師も命懸けで向き合います。牧師がサタンにあなどられたら、この戦いには勝てず、羊を奪還することはできないからです。羊が偽り、自分をごまかしたり弁明していれば、それを見抜く力も聖霊によって授けられ、羊にまとわりつき、こびりつく、または、羊の内に居座る悪霊をとことん追い詰めます。全身全霊で清さと聖さをもって向き合い、その人の魂、また長年サタンの支配下で慣れ親しんできた肉の習性・習慣をきよめ洗い流し、パン種さえも取り除いていきます。
その時、羊自身が意志を向けてこれに協力する事が最も重要です。聖霊の賜物・油の注ぎによって羊の解放のために語られる知識や知恵(方法)は、受け取る羊側が行なわなければ何の役にも立ちません。行わないのは不信仰で不従順であり、なんの解決も祝福も得られません。それどころか、神の恵みを無駄にしているのです。【私の羊は私の声に聞き従う】(ヨハネ10:27)というみことばを握りしめて、牧師を血肉で見て裁くのではなく、敵は真理を聞かせまいとするサタンである(血肉の戦いではない)という真理に堅く立って、自分の霊の監督者である牧師と協力して戦う時、真の解放に至ることができるのです。
もし、霊の監督者である牧師の言う事を拒絶するのであれば、牧師とはなんの関係もなくなります。牧師は霊においての責任はありますが、肉における責任はありません。自由意思を与えられている中で、羊が肉の思いに従って生きる事を選ぶのであれば、とりなし祈り、真に解放されたいと思えるよう、霊の飢え渇きを祈ります。しかし、羊自身は、牧師を拒絶して進むのであれば、サタンの敷いたレール(救われる前よりも7倍悪くなる道)を歩むことになり、行き着く先は地獄であるという事も、聖書は教えています。
ヨハネ13:8
ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。
使徒行伝20:26~27
だから、きょう、この日にあなたがたに断言しておく。わたしは、すべての人の血について、なんら責任がない。神のみ旨を皆あますところなく、あなたがたに伝えておいたからである。
へブル6:4~8
いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。たとえば、土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込で、耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる。しかし、いばらやあざみをはえさせるなら、それは無用になり、やがてのろわれ、ついには焼かれてしまう。
アーメン
この牧師と羊の関係を前提にして、私たちは真理の道からそれ、カルトに陥る原因について、ぶどうの木のK兄弟の歩みを教材に学びました。
聖書に、【狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。】(マタイ7:13~14)と書かれてあるように、命にいたる門は狭く、真理の道は細いです。私たちはその道を歩き続けるために、神の僕である牧師の声に素直に聞き従って歩まなければなりません。しかし、神が「しなさい!」という事に、嫌だ!と言い逆らい始めると、当然真理の道からそれていきます。自分にとって都合の悪いこと、嫌なこと、苦手なことを肉を打ち叩いてやろうとしなかったら、カルトに陥っていくのだと語られました。その時には、みことばを頂いたと言っても、自分の肉に心地よいみことばをもらい、自分なりの解釈をしているでしょう。「イエス様がおっしゃった!みことばで語られた!」と独り善がりに言っていても、牧師との霊の一致はありません。サタンもみことばを使います。
K兄弟は、自身の歩みがカルトに陥っていたことを証してくれました。自分の霊はおかしいと思いながらも、もう一人の自分が言動しているようなフワフワした感覚、突然襲ってくる眠気、大言壮語して周りを巻き込もうとしたり平気で偽証する舌、身勝手・自己中心的な言動、傷つきたくないからと自分の身を守る事ばかり考える自己愛、神と言いながら自分の意見を言い表す高ぶり・不信仰、この世の富(金)と名誉を追い求める情欲に満ち溢れた状態が、K兄弟を通して現れていました。クリスチャンは、霊⇒魂⇒体にみことばを連動させて生きます。霊から語られたことを魂で感じ、考え、行動してはじめて、神に喜ばれ、人にも受け入れられます。しかし、K兄弟は、霊から語られたことを魂(知性と心)で考えもせずに、イエス様が言っているからと行動に移していたのです。
また、カルト化すると、牧師との交わりを避けるようになります。K兄弟は、
「牧師に素直に話すことができなかったのは、牧師への裁きと、牧師の語ることが理解できない面があったからです。牧師への裁きは、理解してもらえないのではないかという一方的な占いからくるものでした。牧師の語ることが理解できない面は、牧師がイエス様に明け渡して語る言葉が、この世の知性による言葉ではなく、イエス様から語られる言葉であったため、頭に戻って考えると理解できないためでした。男性が聖書の学びから離れてしまうことが多いのも、男性の方が知性で理解できないと前に進めないところがあるためではないかと思います。自分の思いがキリストの思いと違っていれば、牧師はイエス様に語られて忠実に指摘してくださいますが、それを嫌がり牧師を裁き、交わりを避けていては私はもはや牧師の羊ではなく、ヤギになってしまいます。牧師からも、『あなたは私の羊ですか?牧師はあなたに必要ないですね』と語られ、神が与えて下さった牧師にこのようなことを言われたことに対し、自分の行いに罪があったことを気づかされました。」
と証言しています。そして、自分のやり方に固執するのではなく、それが神の御心であるのか、神が与えた牧師の霊と一致しているのか、みことばは何を語っているのかを吟味し、神に明け渡して歩む事がクリスチャンとして大事であると語られたそうです。
箴言18:1~3
人と交わりをしない者は口実を捜し、すべてのよい考えに激しく反対する。愚かな者は悟ることを喜ばず、ただ自分の意見を言い表わすことを喜ぶ。悪しき者が来ると、卑しめもまた来る、不名誉が来ると、はずかしめも共にくる。
ヤコブ1:19~25
愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。
アーメン
牧師は霊の監督者として、羊が自分でもらったみことばに達し得ているかどうかを見ます。自分がもらったみことばにどういう意味があるのか、牧師を通して教えられると、その深みを知ることができ、自分の歩みの中で大切な杭であることを悟れるのですが、自分自身でそこまで深く読み取ることができているかと、私たちは問われました。みことばをつまみ食いするのではなく、神がどう導こうとされているのかを自分で聞き、知ってはじめて、神と自分の一対一の関係を築いていくことができるのだと語られました。K兄弟は、2019年7月に水の洗礼を受けた時に頂いた3つのみことばから、今回自分の歩みを振り返り証を書くに至りました。
伝道の書5:10~12
金銭を好む者は金銭をもって満足しない。富を好む者は富を得て満足しない。これもまた空である。財産が増せば、これを食う者も増す。その持ち主は目にそれを見るだけで、なんの益があるか。働く者は食べることが少なくても多くても、快く眠る。しかし飽き足りるほどの富は、彼に眠ることをゆるさない。
伝道の書5:4~6
あなたは神に誓いをなすとき、それを果すことを延ばしてはならない。神は愚かな者を喜ばれないからである。あなたの誓ったことを必ず果せ。あなたが誓いをして、それを果さないよりは、むしろ誓いをしないほうがよい。あなたの口が、あなたに罪を犯させないようにせよ。また使者の前にそれは誤りであったと言ってはならない。どうして、神があなたの言葉を怒り、あなたの手のわざを滅ぼしてよかろうか。
伝道の書4:9~12
ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって良い報いを得るからである。すなわち彼らが倒れる時には、そのひとりがその友を助け起す。しかしひとりであって、その倒れる時、これを助け起す者のない者はわざわいである。またふたりが一緒に寝れば暖かである。ひとりだけで、どうして暖かになり得ようか。人がもし、そのひとりを攻め撃ったなら、ふたりで、それに当るであろう。三つよりの綱はたやすくは切れない。
アーメン
このみことばの深みを自分自身でしっかりと悟り、言葉にあらわすことが彼の真の解放に至ると思っています。イエス様は、カルトから解放されたK兄弟のあるべき姿として、テトス2:6~15を与えて下さいました。
テトス2:6~15
若い男にも、同じく、万事につけ慎み深くあるように、勧めなさい。あなた自身を良いわざの模範として示し、人を教える場合には、清廉と謹厳とをもってし、非難のない健全な言葉を用いなさい。そうすれば、反対者も、わたしたちについてなんの悪口も言えなくなり、自ら恥じいるであろう。(中略)すべての人を救う神の恵みが現れた。そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。あなたは、権威をもってこれらのことを語り、勧め、また責めなさい。だれにも軽んじられてはならない。
アーメン
熱心な選びの民になるために、K兄弟をカルトから解放して下さった事に感謝します。そして、助け主であり、教師でもある聖霊が、カルトがいかに危険で、身を滅ぼすことになるのかをK兄弟に教え、一つ一つ訓練して下さったその経緯を通して、私たちも自分のやり方をしてカルトに陥ることがないように益々注意深くみことばに聞き従って歩んでいかなければならないと語られました。
へブル11:1
さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
信仰がなければ神に喜ばれることはできません。見えることしか信じない、地獄や携挙の存在が理解できないなど、自分の知性で受け入れられないことを全て拒絶し、ただ見聞を広めるために聖書を勉強しているという感覚でいるなら、目に見えない神を真に愛し、信頼することはできないでしょう。聖霊によってのみ分かること、知ることができる世界がありますが、自身が神の御前で清くなければそれを悟ることはできません。また、私たちは神がなさる事を全て知ることはできませんが、神は私たちの全てを御存じの方です。この信仰、“神は私の思いを御存じでおっしゃっている!できない事はさせない!”という信仰で、私たちは未知なる領域に一歩踏み出すことができます。牧師は、「大丈夫!できる!」と羊の背中を押すことができます。(注!牧師が肉の思いで誘導したら、それこそカルト、教祖のようになります。牧師の発言は責任重大です。)そのように、神への信仰をもって細い真理の道を歩む者だけが永遠の命を得ることができるのだと学んできました。イエス様のみことばをしっかりと自分の人生に刻みながら、頂いた証と証を繋ぎ合わせながら、神が定め導いて下さる道を歩む時、ほえたたけるししであるサタンは近づくことができません。
第1コリント9:24~27
あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない。
アーメン
最後に、信仰の歩みを体験体得したK兄弟を通して生まれたメッセージを紹介します
羊は一人では歩めません。霊的なことを解き明かして下さる牧師と、同じキリストの肢体である兄弟姉妹がいて、初めて霊的なことを理解し、自分の目の前に置かれたイエス・キリストの道を歩むことができます。“信仰”、“キリスト教”と言えば異邦人(真の神を知らない人・救われていない人)は、「宗教」をしているという先入観をもちがちですが、聖書の学びは人の在り方を教え、自分の人生にも意味を見出すことができます。神がおられ、人間を創った神に従うことが最善であることを聖書の学びの中で体験・体得できることに喜びを感じる毎日です。一人でも多くの方がこの証を通して、この学びを知ることができれば幸いです。
K兄弟の証は、完成しましたら紹介します