兄弟姉妹とは①
holygirlです
11月最初の集会は、イザヤ62章から始まりました
イザヤ62章
シオンの義が朝日の輝きのようにあらわれいで、エルサレムの救が燃えるたいまつの様になるまで、わたしはシオンのために黙せず、エルサレムのために休まない。もろもろの国はあなたの義を見、もろもろの王は皆あなたの栄えを見る。そして、あなたは主の口が定められる新しい名をもってとなえられる。また、あなたは主の手にある麗しい冠となり、あなたの神の手にある王の冠となる。あなたはもはや「捨てられた者」と言われず、あなたの地はもはや「荒れた者」と言われず、あなたは「わが喜びは彼女にある」ととなえられ、あなたの地は「配偶ある者」ととなえられる。主はあなたを喜ばれ、あなたの地は配偶を得るからである。若い者が処女をめとるようにあなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶようにあなたの神はあなたを喜ばれる。
エルサレムよ、わたしはあなたの城壁の上に見張人をおいて、昼も夜もたえず、もだすことのないようにしよう。主に思い出されることを求める者よ、みずから休んではならない。主がエルサレムを堅く立てて、全地に誉を得させられるまで、お休みにならぬようにせよ。主はその右の手をさし、大能のかいなをさして誓われた、「わたしは再びあなたの穀物をあなたの敵に与えて食べさせない。また、あなたが労して得たぶどう酒を異邦人に与えて飲ませない。しかし、穀物を刈り入れた者はこれを食べて主をほめたたえ、ぶどうを集めた者はわが聖所の庭でこれを飲む」。
門を通って行け、通って行け。民の道を備えよ。土を盛り、土を盛って大路を設けよ。石を取りのけ。もろもろの民の上に旗をあげよ。見よ、主は地の果にまで告げて言われた、「シオンの娘に言え、『見よ、あなたの救は来る。見よ、その報いは主と共にあり、その働きの報いは、その前にある』と。彼らは『聖なる民、主にあがなわれた者』ととなえられ、あなたは『人に尋ね求められる者、捨てられない町』ととなえられる」。
アーメン
シオンの義とは、「神が決めた正しいこと」です。私たちは、聖書を通して「正しいこと」とは何なのかを知っています。ですから、人が、社会が、世界が誤った道に行っているのに見て見ぬふりをしたり、黙することはできません。黙することができるなら、自分の肉の強さを忌み嫌わなければなりません。私たちは牧師を通して、“人がどうであれ、私は私。たった一人になっても、私はイエス様に従う!”という強い霊の思い、キリストの思いがあるのかと問われました。私たちは、【配偶ある者】、完全にイエス様のものとなった、キリストの花嫁になったのですから、イエス様のみことば=真理を語らずにはおれません。そのように、一人一人が自分の置かれている場所でシオンの義を示す時、そこが教会になるのだと語られました。
常に主に思い出されることを求め、休まず働く=神の思いをことごとく実行していく時、周りの人は私たちの栄えを見ます。クリスチャンの栄えとは、健康であり、社会的地位を得(役職だけでなく他者からの信頼を得ている)、経済的にも祝福されているという事です。いつもイエス様のことを思い、イエス様のために働く時、神・イエス様ご自身が全てをかえりみて、備えてくださるのですから当然です。救われる前は、うまく行っていると思っていても、突然不幸が訪れたり、病気になったりと、サタンに翻弄されながら一喜一憂する人生を送ってきましたが、クリスチャン=神の子になると、神ご自身が「あなたのとるべき祝福をサタンにとらせない!」とおっしゃってくださり、いつも祝福と恵みを100%自分の身に受けていくことができるのです。そんな祝福・命に至る道の門を私たちは通り、歩み続けなければなりません。
今週、いよいよアメリカ大統領選挙の結果が出ますが、たとえトランプ氏が勝利し、ディープステートが滅ぼされたとしても、この世からサタンが去るわけではありません。LGBTに反対し、中絶に反対する共和党が勝利して法律で定めたとしても、それでLGBT当事者の心が変わったり、中絶しなければならないような状況がなくなるわけではありません。このような問題は、サタンの支配下に人間がいる限りなくならないのです。それゆえ、シオンの義として、キリストの花嫁として、私たちクリスチャンが伝えなければならないのは、全ての人間がイエス・キリストによって水と霊から生まれ変わり、聖書を土台に、命(神が決めた性)の尊さ、自分がこの世に生かされている意味、人としての正しい在り方を学び直さなければならないという事です。それを伝えていくクリスチャンを神は喜ばれ、人に尋ね求められる者として下さるのだと語られました。そして、皆が真にキリストの花嫁となった時、この地上を支配するサタンを足の下にできるのだと語られました。
昨日11月1日は、世界福音連盟(WEA)の呼びかけによって、迫害下にある教会を特に覚えて祈る国際祈祷日という事で、私たちもこのイザヤ62章をもって、全世界の兄弟姉妹のため、ここからの日本、世界のために、皆で祈りましたアメリカにばかり注目してきましたが、国内においても売国の動き(日本乗っ取り計画)が加速していることを知ることになり、自国のことに無関心であってはならないと痛感しました。各国の大人も子供も自国のこと、政治について真剣に考えている時に、日本は大人も子供も鬼滅の刃に夢中になっている現状をみると、日本の将来は真っ暗だと思ってしまいますが、今こそクリスチャンが祈りの家になって互いに支え合い、人々を目覚めさせる福音・真理を語っていかなければならないと語られました。
そして、兄弟姉妹のために祈る日にちなんで、ぶどうの木の兄弟姉妹、神の家族の在り方についても、『神の国は力である―ぶどうの木13年間の歩みの証―』を通して再確認していきました。牧師との関係、兄弟姉妹との関係を理解することは、クリスチャンとしての土台固めになります。神が定めた群れに集められ、そこで共に学び、成長していける事を喜び、この教えが一人一人の身に成就したことを感謝します。以下、ご一読ください
兄弟姉妹とは
◆「神の家族は霊的な繋がりを持つ」
羊は一人では歩けません。神が油を注いで、羊を任せられた牧師と、兄弟姉妹がいなければ、霊的なことは何一つ分からず、クリスチャンとしての成長もありません。兄弟姉妹とは、神が決めた群れに集められてくるキリストの肢体です。
コリント人への第1の手紙12章18節
【そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。】
聖書に【だれをも肉によって知ることはすまい。】(Ⅱコリント5:16)と書かれてあり、牧師と同様に、もちろん兄弟姉妹を肉で見てはいけません。兄弟姉妹もまた、霊対霊の関係です。すべての事を霊によって知るのです。群れに集められているメンバーは、神が決めた兄弟姉妹であり、自分の好みや都合で集まっているものではありません。神は、羊を神の清さ・聖さにあずからせ、天国に導きます。そのためにありとあらゆる環境・もの・人・事柄をつかい、羊の霊的成長のために訓練されるのですが、その訓練の中心の場こそが群れとなります。群れの羊は神の家族といわれます。神が決めた霊においての家族です。それぞれが自分にとっての益のために与えられたキリストの肢体であり、各自が群れの中で役割を果たしています。ある人は手、ある人は足であり、指であり、また耳であるのです。皆が連動して一つのキリストの体を動かしています。
コリント人への第1の手紙12章12節~14節
【からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、 からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるように バプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。】
あるキリストの肢体が通っている訓練や霊的戦いを知ること、勝利の証を聞くことは、他のキリストの肢体にとって非常に大切なことです。なぜなら、その道のりは、必ず自分の歩みに関係してくるからです。神によって聞かされていることは、今後、同じ霊の戦いを通る羊の為に神が備えてくださっている指標となります。ですから、「このケースは他人事」「この戦いは私には来ない」というものは一つもありません。見ること聞くこと体験すること全ては、神の御計画の内にあり、霊的には兄弟姉妹は一切のものを共有しているのです。
使徒行伝4章32節~34節に書かれてある【信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有にしていた。】の持ち物とは(霊的には)羊たちの通っている訓練、証の事です。これを共有することにより、自分が実際に体験していない戦いや、サタンの策略などについて学ぶ事ができるため、その群れの羊の霊的成長はとても早いのです。また、一人の羊が、祝福の道か呪いの道かを選ぶ時、訓練の中で立ち上がれない時や迷った時には、霊の目が開けた牧師や同じ霊的体験を持ったキリストの肢体が使われ、愛にあって真理を語り、互いに励まし合って支え合い、祈り合ってイエス様からの祝福の道を選べるように導かれていくのです。
キリストの肢体が一つ思い一つ心となり、共に痛み、苦しみ、喜びを共有していく中で、隣人に対して互いに愛し合う事を学び、その愛によってキリストの肢体同士がしっかりと結び合わされていきます。そして、自分のことだけでなく、互いに祈り合って、キリストの肢体に勝利を得た時、それは自分自身の証にもなり信仰も一層強められていくのです。
そのような神の家族の交わりにおいて、しっかりと心しておかなければならないことがあります。それは、兄弟姉妹と自分を比べ、「自分はあの人よりもできている、優れている」 と高ぶったり、反対に「自分はできていない」と自己卑下に陥るべきではないという事です。例えば、「あの人は尊敬できるけれど、他の兄弟姉妹はできない」というように優劣をつけて兄弟姉妹を見る人、他者の悔い改めの証を聞いて、「なんて愚かな人、私は絶対にこの人のようにはならない」「聖書を学んでいても、いつまでたっても変わらない人もいるんだ」 と見下す人は、審判者です。それらは皆、神の御前では肉にある愚かな虚栄であり、神に忌み嫌われる高ぶりの心から出てくるものです。
また、神は、自分自身が見えていないことを、兄弟姉妹の姿を通しても教えて下さいます。 ある人の気になるところが、別の人には全く気にならないという現象が人間界では普通にありますが、神の御前では、相手は自分の鏡であり、自分にも同じものがあるからこそ気になり反応します。兄弟姉妹に対して抱く感情・審判者の見方が、自分の内側にあった悪を知らせ、聖くなるための霊的掃除に繋がるのです。人の状態を自分の肉で判断し始めた途端から、占い、裁き、ねたみ、憎しみ、自己推薦、自己憐憫、自己卑下が生まれ、血肉の戦いが始まります。兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある大きな梁に気づいていない…という事のないように、何が神の御旨であるかを知るために、みことばに立ちかえる必要があります。
また、兄弟姉妹や他者が罪に陥っている姿を自分に見せられる時こそ、イエス様がそのクリスチャンの心を見ておられるということを忘れてはなりません。果たして、自分は他者を見て裁くのか、それとも、自分も同じ罪に陥ってはいないかとへりくだって自分を吟味するのか、その人のために祈るのか、愛にあって真理を語るのか…。神はあなどられるような方ではありません。どのような場面も、どのような瞬間も、全てが自分にとっての聖さに至る訓練の場なのです。神の御前で聖さを保つ者は、いつでも自分は神の御前に生かされている自覚を持っています。その聖さが、聖霊のバプテスマを受けたクリスチャンに与えられた宝です。
クリスチャンは皆、神の御前で高価で尊い存在であり、それぞれがイエス・キリストを証するための召しと選びを持ち、そのためのオーダーメイドの主の訓練が与えられていきます。その事をしっかりと理解し、互いに尊敬し合うクリスチャンの集まりが群れであり、真の神の家族なのです。自分が発した言葉や霊力によって、家族の内部から他の肢体に対して霊的圧迫やつまずき、呪いが及ぶことが無いよう、また、それによって自分自身が汚されることのないようにしなければなりません。
テサロニケ人への第1の手紙4章3節~8節
【神のみこころは、あなたがたが清くなることである。すなわち、不品行を慎み、各自、気をつけて自分のからだを清く尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲をほしいままにせず、また、このようなことで兄弟を踏みつけたり、だましたりしてはならない。前にもあなたがたにきびしく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて、報いをなさるからである。神がわたしたちを召されたのは、汚れたことをするためではなく、清くなるためである。こういうわけであるから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、聖霊をあなたがたの心に賜わる神を拒むのである。】
テサロニケ人への第1の手紙4章9節~12節
【兄弟愛については、今さら書きおくる必要はない。あなたがたは、互に愛し合うように神に直接教えられており、また、事実マケドニヤ全土にいるすべての兄弟に対して、それを実行しているのだから。しかし、兄弟たちよ。あなたがたに勧める。ますます、そうしてほしい。そして、あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位を保ち、まただれの世話にもならずに、生活できるであろう。】
そして、絶対に忘れてはならないことは、群れに導かれてきた一匹の羊が解放と勝利を得る時、そこに、牧師をはじめとしたキリストの肢体の祈り、導き、忍耐と寛容による見守り、無条件のゆるし、キリストの愛がどれだけ注がれてきたのかという事です。キリストの肢体は、【右の手のしていることを左の手に知らせるな】(マタイ6:3)と聖書に書かれてあるように、「自分が祈ってあげた、自分がやってあげた!」といちいち主張しませんし、行いの全てが主にあって初めてできることなので、誇ることもありません。それぞれが自分とイエス様の関係ゆえに黙って祈り、みことばに基づいた信仰の行いをします。
自己中心的な思考になっていたら、自分に注がれてきた目に見えない愛と恵みに気が付くことはできないでしょう。目に見える兄弟姉妹を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできません。私たちの神は高ぶるものを退け、へりくだるものに恵みを与えられる神です。
また、救われる前に持っていた兄弟姉妹間の肉的な関係は、霊の関係に変えられて行かなければなりません。友人であっても、夫婦であっても、親子であっても、神の御前に一人の“兄弟姉妹”なのです。
【『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。】(マタイ22:37~39)これがイエス様が私たちに求めておれらる最も大切な戒めです。群れに集められた一人一人が、まず神と自分との関係を築き、イエス様をかしらに神の家族として互いに愛し合い、ゆるし合い、祈り合い、励まし合いながら、共に主を賛美する交わりを通して、さらにそれぞれの信仰を成長させていきましょう。
コロサイ人への手紙3章12節~16節
【だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。】
コリント人への第1の手紙12章20節~27節
【ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、 からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。】
ガラテヤ人への手紙5章13節~15節
【兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう。】
ガラテヤ人への手紙5章25節~6章10節
【もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。もしある人が、事実そうでないのに、自分が何か偉い者であるように思っているとすれば、その人は自分を欺いているのである。ひとりびとり、自分の行いを検討してみるがよい。そうすれば、自分だけには誇ることができても、ほかの人には誇れなくなるであろう。人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである。御言を教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさい。まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく 者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。】
◆「兄弟姉妹間に働く情欲の霊・姦淫の霊」
聖書は、【何よりもまず、互いの愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである。】 (Ⅰペテロ4:8)と教えています。イエス様がかしらで兄弟姉妹が交わるところには、霊からの喜びと励ましと平安が伴いますし、交わりによって信仰が強められていきます。互いの愛を熱く保ち、互いの益のために足を洗い合う聖なる交わりからは、たくさんの良き証が生まれてきます。しかし、【悪い交わりは、良いならわしをそこなう。目ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。あなたがたのうちには、神について無知な人々がいる。あなたがたをはずかしめるために、わたしはこう言うのだ。】(Ⅰコリント15:33b~34)というみことばがあります。霊の交わりではなく、肉の交わりならば、その交わりの場が、同じ霊力を持った者同士の姦淫の場に成り下がってしまいます。情欲で交わるところには、姦淫、ねたみ、裁き、偶像礼拝、支配、党派心、分派分裂の霊が動き、その交わりによって互いが汚されていきます。「類は友を呼ぶ」という言葉がありますが、救われる前の仲の良い関係、集まっているグループなどは、同じ霊力を持つ者同士の姦淫の霊での集まりです。互いの肉の利害関係が一致しているのです。同じ趣味や目的、価値観を持つ者同士の関係は、霊的に見たら偶像礼拝によって繋がっている関係です。また、誰かの悪口や傷のなめ合いをするための集まりは、裁きやねたみ、憎しみの霊によって繋がる関係です。そこから党派心の霊力が動き、分派分裂へと進んでいきます。どれも、人間の情欲的な関係です。きよさに目覚めたクリスチャンが、過去の自分の人間関係を振り返る時、「救われる前、どのような霊力の下に集い、互いの吐く言葉でそそのかし合い、汚し合っていたかがよく分かった。そこに何の良きものも益になるものも無かった。今はそこに何の楽しみも見出せない」と言っているのも、よく耳にします。
一つの証を紹介します。
救われて間もなくのことです。先に証を紹介した、既成の教会から導かれてきたO姉妹が、霊と肉の聖別の訓練の中で、牧師から戒めを受けていました。S姉妹も何度か交わりを持ち、その都度話をしてきました。そんなある日、突然O姉妹がS姉妹を訪ねてきました。S姉妹は驚いたのですが、家にあがってもらう事にしました。「今日は、どうしたのですか?」と問うと、「この前、牧師に言われたことが納得できない。あなたはどう思うか、あなたの考えを教えて欲しい」と聞かれたのです。O姉妹は、牧師のいないところで、S姉妹に、「あなたの気持ち、分かるよ。牧師が言う事はきついですね。そんなこと言われても分からないよね」と、同調して慰めて欲しかったのでしょう。この人なら、自分の気持ちを分かってくれるかも知れないと、肉に心地よい言葉を求めてきたのです。S姉妹はすぐに、情欲~私の気持ち、分かって~慰めて~同調して~の、姦淫の霊力が姉妹を使って働きかけてきたことが分かりました。ですから、「それは、私がどう思うかということよりも、分からないことは牧師に直接聞いてみればよい事ではないですか?イエス様が与えて下さった牧師なのですから。そもそも牧師不在の中訪ねてこられて、このような質問をされているのは、姦淫の霊によるものではないですか?」と返答しました。すると、O姉妹は、「姦淫の霊力って、男女の間にだけ動くものかと思っていたけれど、こういうことも姦淫の霊なんですね!」と驚いていました。そして、聖霊が教える悪霊力を見分けるということについて、一つ学んだようでした。その日は互いにイエス様に聞いて御霊による交わりをしました。最初に醸し出していた情欲の霊力は消えていて、O姉妹が、「牧師の言う事が納得できない」と言う事は、交わりの中で一切ありませんでした。一通り話をすると、スッキリしたようでした。O姉妹が帰宅する際、「今日、来られて話されたことは霊の監督者である牧師に報告しておきますね。すべてのことを闇の中で行うのではなく、公明正大に光の中で行う、それが互いを守ることですね」とS姉妹は話しました。もちろん、O姉妹も納得していました。
当時S姉妹はクリスチャンとして幼子でしたが、瞬時に、「これは、情で来られたなぁ」 と分かり、イエス様からの訓練だと思いました。どうしたらいいですか?と、イエス様に聞いてO姉妹と交わっていきました。終始、聖さを守ることを目指しました。伝えるべきことははっきりと伝え、霊力を動かすような不要な言葉、そそのかすような言葉は一切出さないと決めていました。S姉妹がO姉妹をそそのかしたら、O姉妹は一気に情欲の霊に囚われ、牧師への裁きと不信仰に持って行かれ、解放に至れないからです。
交わりの中では、O姉妹を騙している情欲の霊力に汚されないように、引っ張られないようにS姉妹は自分を守らなければなりませんでしたが、同時に相手も守らなければならないと思っていました。血肉の戦いではありませんから、サタンを足の下にするために全ての行いを光の中で行うように努めました。
また、O姉妹はかつて自慢の手作りカレーをS姉妹の自宅に届けた事がありました。しかし、それは霊力的に、「私のものを食べなさい」という支配と姦淫の霊が動いてのことでした。このようなことが情欲の霊をかしらとする霊的関係のうちに行われた場合は、党派心から分派分裂の霊が動き、羊が守りの中から迷い出てしまうことになるのです。
ぶどうの木にはかつて、O姉妹のような既成の教会で学んでいた人が助けを求めてやって来ました。皆が、宗教=自分の義を行っていました。彼らは宗教の被害者でした。サタンに攻撃されるだけ攻撃されていて、その現状は悲惨なものだったのです。独り善がりの宗教をやっているクリスチャンは、異邦人や兄弟姉妹、特に、救われたばかりの幼子を迷わせ、圧迫します。「イエス様と言えば何でもいいのか?」と思わせ、人々をイエス様から散らしてしまいます。自分の義で生きる人は、自分のやり方を変えない頑固さ(自分偶像礼拝)を持っています。そして、人の世話をすることによって、イエス様に仕えているという満足感を得ています(自分の義がかしらの世話は、やってあげたという支配の霊)。
彼らは、ぶどうの木を通して真理を伝えられ、力を得るための聖霊のバプテスマも与えられました。そして次々に証が生まれました。しかし、いざ彼らに「神の義を行う者=主の兵卒」 として自分を聖別する訓練が臨んだ時、彼らはそれを嫌がりました。そして、「耳に痛いことを言われたくない」という肉の思いで一致する者が集まり、党派心の霊によって生まれた一人のリーダーに従うようになり、最後は、「悪霊の存在と、追い出し方を教えていただいて感謝します。これからは、自分でできます!」と言って、後ろ足で砂をかけるようにして一斉に出て行ったのです。その当時のことを書き残したS姉妹の手記を紹介します。
つづく・・・