みことばの力②―霊から自分の信仰を建て上げる― | ぶどうの木 Good News

みことばの力②―霊から自分の信仰を建て上げる―

holygirlですキラキラ

 

ローマ10:1~4本

兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。

 

アーメン宝石緑

私たちが良しとする基準と、神の基準は違います。神が求めていない事であれば、たとえどれだけ熱心に祈り、行っていても、それは自分の義となります。自分なりに良いと思うこと・自分の義を立てようと努めれば努めるほど、神の義に従ってはいないのだと、このみことばは教えています。神の義とは、みことばに書かれてあることを行うことです。それ故、クリスチャンがみことばを知らなければ到底神の義を行うことなどできません。みことばに対する深い知識を教えてくれるのは聖霊ですから、聖霊のバプテスマを受けていなければ、自分なりの解釈をしてみことばを行なっているだけで、これもまた神の義に従ってはいないのです。

そして、「行いの義ではなく信仰による義だから、イエス様を信じて救われたら天国だ」と主張するクリスチャンがいますが、行いの義と信仰による義は切り離して考えられないと私たちは学んできました。神が求めておられる事は、みことばを信じて、行うことです。つまり、神を信じる信仰があれば、みことばを行うのは当然です。それが神の義であるのだと語られました。

 

神との契約は全て聖書に書かれています。その中のみことば一つ一つを自分の命よりも愛しているか、愛しているが故に信じて握りしめ、行なっているか、クリスチャンは日々問われています。私たちは、「みことばノート~勝利あるクリスチャンの生活のための天国のかぎ~」(ジューン・ニューマン・デイヴィス編集)を通しても、みことばの力を再確認し、自身の信仰を吟味しました。

この本は、筆者が7年にわたって集めたみことばを、病気や日常生活における様々な問題の項目に分けて紹介しています。私たちはこの本を、霊の薬として、自分の霊的状態にあわせて読み、みことばを宣言して病気の癒しと、問題の解決を勝ち取ってきました。みことばを霊に蓄えることは、クリスチャンが健康を保ち、神の約束のものを得るにあたって、必ず行うべき事です。本の「はじめに」には、次のように書かれています。

 

「真に生まれ変わった神の子の心の内には、クリスチャンらしからぬ行動や、罪に支配された自己中心の生活から解放されたいとの切なる願いが燃えています。でも、純真さへの願いと、祈り求めたゆるしと助けとはうらはらな現状に、がっかりしている人がたくさんいるようです。しかし、感謝すべきことには、神はもうすでに、この戦いに必要とされる強力な武器を用意してくださいました。それは、信仰をもって語られる聖書の言葉です。

【若い人はどうしておのが道を清く保つことができるでしょうか。みことばにしたがって、それを守るよりほかにありません。】(詩篇119:9)

わたしたちは水で洗うことにより、言葉によって清められ、聖なる者とされます。(エペソ5:26) 神の言葉が、罪を洗いきよめる清流であり、敵を打ちのめす、鋭いもろ刃のつるぎであり、また、聖なる道にあなたを誤りなく導いてくれるガイドです。【わたしはあなたにむかって、罪を犯すことのないように、心のうちにみ言葉をたくわえました。】(詩篇119:11)と書いてあるとおりです。・・・中略・・・

この世には、わたしたちの気をそらす声があふれていますが、聖書はいつも、いつまでも、すべての物事を決定する、唯一の最高権威である、真理の声です。心にいだいて養いましょう。あなたの思いをみことばで満たし、信仰をもって、口から語り続けましょう。神はご自分の聖なる御霊によってその約束を果して下さるので、信仰の言葉は、決してむなしくかえることはありません。 フランシス・ロバーツ筆」

 

改めて本を始めから読んでみると、筆者がどんな思いでこのノートを作ったのか、なぜいやされないのか、なぜ祈りがきかれないのかに対する答え、さらには、読者に対する預言も書かれており、全てが今の私たちの益となりました。神のみことばを軽んじ、自分の義を行なう事がないよう、今一度みことばの力を確信し、自分達の信仰を確固たる土台の上に築いていけたことを感謝します!以下、本の内容を紹介しますので、ご一読くださいクローバー

 

筆者ジューン・ニューマン・デイヴィスさんのあかしブーケ2

 

「みことばの奉仕を始めてから、奇跡的ないやしの証(あかし)が、あちらこちらから寄せられてくるようになりました。今日も聖霊によってご自分の子たちに語っておられる、キリストの福音のメッセージの正確さは、こうした目覚ましいいやしの結果を伴うあかしとなって、あなたにも確信を与えてくれるでしょう。

1969年にイエス様の力でいやしを経験して死をまぬかれて以来、主は日ごとに、みことばに伴うしるしをもって、このメッセージの確かなことを証明して下さいましたが、こうしてわたしに与えられた任務は、神の力によっていやされた人たちに、そのいやしを守り、健康であり続ける方法を教えて、勧め励ますことでした。それからも、主イエス様はわたしに、『わたしの民に、わたしのやり方を教えなさい!』と何度も命じられました。聖霊がわたしの内に生き生きと教えてくださった事をそのままお伝えするのですが、神への飢え渇きを満たそうと日々求め続け、その度に主がわたしに答えて下さったみことばが集められて、この“みことばノート”が出来上がりました。七年にわたって集められましたが、いまだに新しいみことばを、宝石のように見つけては加えていっています。

奉仕に当たらせて下さった一人一人の人に、手を置いていやしを祈ったあと、みことばの処方箋を与えてあげました。この人たちが一日に四度、三回ずつ、ある一定の期間、もらったみことばを実際に声に出して読み上げますと、闇の霊力が打ち負かされていきました。まだ症状が現れているときはなおさら、疑ったり、信仰を弱らせている余裕はありません。

【ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。 】(ヤコブ1:6~7) 兄弟たちは小羊の血と彼らのあかしの言葉によって、敵に打ち勝つからです。(黙示録12:11) 父なる神から賜わったいやしの奇跡というプレゼントを盗み取ろうとする、悪の霊力をかわして受け付けないために、こうしたみことばを同じように用いるなら、誰でもいやしを保ち続けることができます。わたしは機会のあるごとに、その人のいやしや解放のための個人的な必要に応じて与えるみことばに添えて、信仰を養うための次のようなみことばも与えてあげます。

 

第1ヨハネ3:8b本

・・・神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。

 

ヨハネ15:7本

あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。

 

詩篇84:11c本

・・・(主は)直く歩む者に良い物を拒まれることはありません。

 

箴言10:11本

正しい者の口は命の泉である、悪しき者の口は暴虐を隠す。

 

エレミヤ1:12本

主はわたしに言われた、「あなたの見たとおりだ。わたしは自分の言葉を行なおうとして見張っているのだ」。

 

詩篇138:2b本

・・・あなたはそのみ名と、み言葉をすべてのものにまさって高くされたからです。

 

民数記23:19本

神は人のように偽ることはなく、また人の子のように悔いることもない。言ったことで、行わないことがあろうか、語ったことで、しとげないことがあろうか。

 

詩篇89:34本

わたしはわが契約を破ることなく、わがくちびるから出た言葉を変えることはない。

 

ローマ8:2本

なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。

 

ローマ8:11本

・・・キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。

 

詩篇107:20本

(主は)そのみ言葉をつかわして、彼らをいやし、彼らを滅びから助け出された。    」

 

 

障害物ブーケ2

何かが障害となって、いやしなどの祈りの答えを得られないことがあります。長く結果を見ない場合、信仰の戦いをりっぱに戦い抜く期間が満ちていないのか、何かが妨げとなっているかのどちらかです。まず、日常の会話や思いの中で疑いを遊ばせてはいけません。信じて主を待つことです。主のことばは、決してむなしく帰らないことを知るべきです。・・・・・・

「彼らが呼ばないさきに、わたしは答え、彼らがなお語っているときに、わたしは聞く。」(イザヤ65:24)とあるとおりに、すぐに答えを見る場合と、忍耐して待ち望む場合とがあることを覚えておきましょう。祈り求めた瞬間からもう答えはもらっているので、感謝して信じ続けるのですが、ダニエルのように待つ場合もあります。祈りに応えて下さる時と場合、その方法などすべて、わたしたちの思いと神の思いとは、はるかに異なっています。しかし、みこころにそった祈りの答えは必ず来るのです。神には、何でもできない事がないからです。(ルカ1:37、18:27、エゼキエル12:21~28)

ところが、万事良好と見える祈りがまったく答えられない場合もあります。わたしたちに見えない未来のこともすべてご存じであるのは、ただお一人の神だけですから、あとになって答えのなかったことをかえって感謝できるような経験をした人たちもいます。しかし、人の救いについてはそうではありません。神は誰一人滅びることがなく、全ての者が悔い改めに至ることを望んでおられるからです。(第2ペテロ3:9)

疑いは禁物です!(ヤコブ1:6~7) 疑いは、天のお父様の愛と保護とを信じない、あからさまな不信のあらわれであり、罪だからです。【あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。】(詩篇55:22) サタンも、あなたから全ての祝福を奪い取ろうとして、じっと隙をうかがっています。不信感、恐れ、心配、混乱、迷いは全て疑いに付き物です。しかし、【あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。】(エジプト14:13)【神がわたしたちに下さったのでは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。】(第2テモテ1:7)

 

 

1973年3月25日の預言ブーケ2

 

主なるイエス・キリストは言われる、「わたしの愛する子たちよ。主の言葉に耳を傾けなさい。まず初めに、あなたの思い煩いや気がかりな事は、全てわたしにゆだねて任せなさい。わたしはあなたを見守り、いつも心にかけている。あなたの心の願いは、こうしてかなえられる。何度も言っているように、『わたしは直く歩む者には良いものを拒まない』。神は人のように偽ることはなく、また人の子のように悔いることもない。言ったことで、行わないことがあろうか、語ったことでし遂げないことがあろうか。わたしは日々あなたを祝福したいと、どれほど願っていることか。

わが子たちよ。わたしの賜物を消してはいけない。わたしを信じ、わたしの言葉を信じなさい。わたしの言葉は真理であって、わたしはわたしの真理によって、あなたを聖別した。あなたを救うために、わたしがあなたに臨んだ時にあなたのうちに宿った力は、わたし自身の全能の力だ。わたしが送った言葉に、その命じられたことを行わせるのは、この全能の力だ。わたしは最初の者、アルパでありオメガであり、初めであり終わりであって、聖書にあるわたしの約束のことばは、ことごとく『しかり』であり『アーメン』である。わたしの僕たちの手によって書かせたわたしのことばは、力に満ちていて、霊と魂とを完全に切り離す。天と地を創造したほどの力だ。この同じ言葉が、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、心にある。きょう、この救いをあなたにもたらし、日常生活でわたしの言葉をどう使うかを教えてあげよう。こうして使ううちに、もし心に疑わないなら、あなたが命じ送るわたしの言葉は、必ずその喜ぶところを果すことを悟りなさい。

さあ、日々、全ての造られたものの父なる、いと高き神に自分を捧げる真の礼拝をもって一日を始めるがよい。わが恵みの座に、あなたの愛と尊敬とをこめた、まごころからなる賛美を携えてきなさい。そうすればするほど、わたしもあなたに対して十分な恵みを与えることができる。テモテの書にある祈り方(第1テモテ2:1~5)は、わたしの前によく、わたしの心にかなっているから、順序よく守りなさい。

 

【そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。これは、わたしたちの救主である神のみまえに良いことであり、また、みこころにかなうことである。神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。】(第1テモテ2:1~5)

 

全ての人が救われて真理を悟るに至ることがわたしの望むところだ。牧師や長老たちのさいわいな模範にならうことを、兄弟たちに勧める。そして、互いに平和のうちに過ごすよう心がけなさい。そうするなら、自分の求めるところをあなたが述べる時、わたしはあなたの心の願いを尊んで叶えてあげよう。わたしの言葉は、むなしくわたしに返ることがない。わたしとわたしの言葉は一つであって、書かれてあるとおりに行なわせよう。

わたしのやり方は、あまりに素朴で、見逃す者が多い。敵も日々働いて圧迫してくるが、わたしはあなたの苦闘を知っている。さあ、わたしの言葉を日々口にして日常生活の場であらわされる主の栄光を見るがよい。わたしが世から選び出した者たちよ。あなたにとって、このわたしの言葉が霊であり、また命である。造られる以前からわたしに知られている、わたしの者たちを、わたしは完全な平安の内に守ろう。人知では到底測り知ることのできない神の平安で守ろう。わが口から出る、この言葉の通りになれ、わたしがすみやかに来るその日まで。」

 

アーメン赤薔薇

 

 

今週の集会の最後に、証の時間が与えられました。

色々な教会、聖会を転々としてぶどうの木に導かれてきたK兄弟は、舌にくぼみができ、その癒しをずっと求めてきました。医師の診断では、舌の横側に歯型ができるほど舌がむくんでおり、実際の原因は分からず漢方による治療法しかないとの事でした。しかし、漢方を飲んでも良くなることはありませんでした。牧師からはずっと霊的な症状であると言われていました。彼の吐く言葉があまりにも反キリストだったからです。そこから、彼は自分の舌の使い方に気をつけ、吐く言葉を自制するようになりました。牧師の言葉に対して必ず「いや」と否定の言葉を出していたのがなくなり、素直に聞き従う羊に変えられていきました。そんな彼が最近、改めてインターネットで自分の舌の状態を検索すると、「水毒症状」という言葉が目に留まりました。ストレスで体内に水がたまってむくみ、舌がくぼむのだと・・・。そこで、彼は「みことばノート」を開きました。すると、「むくみ、浮腫(水がたまる病気)」という項目のページがあり、自分の症状についてのみことばがあることに驚きました。

 

詩篇32:6b本

・・・大水の押し寄せる悩みの時にもその身に及ぶことはない。

 

詩篇69:15本

大水がわたしの上を流れ過ぎることなく、淵がわたしをのむことなく、穴がその口をわたしの上に閉じることのないように
してください。

 

詩篇144:7本

高い所からみ手を伸べて、わたしを救い、大水から、異邦人の手からわたしを助け出してください。

 

アーメン宝石ブルー

K兄弟はこのみことばを自身への処方箋として1日に4度、3回ずつ声に出し、完全なるいやしを勝ち取ると宣言しました。牧師を通しては、改めて、今までK兄弟が内にためてきた水=みことばが毒となっていのだと解き明かされました。みことばをあざけり、みことばを行わない姿勢は、どれだけみことばを聞いていても、K兄弟の中で生ける水ではなく毒水となっていたのです。実際、ぶどうの木に導かれてくるまでのK兄弟の舌からは、人の悪口、不平不満、裁きの言葉しか出ていなかったのです。冒頭のローマ10:1~4に戻りますが、教会でみことばを聞き、熱心に祈っていても、日常生活と結びつけてみことばを行なえていなければ自分の義どころか反キリストであり、何も得ることはできないのです。

 

私たちクリスチャンは霊の生き物ですから、体にあらわれる状態は霊から魂、体にみことばを連動させることによっていやすしかありません。

W姉妹は、自分のやり方を貫いて体にまで悪い刈り取りをしたのですが、その時には頭皮がカチカチに硬くなっていたそうです。原因が分からずにいましたが、自分のやり方をやめ、改めてみことばに戻り、みことばに従うことに意思を向ける生活を始めると、美容師も驚くほど頭皮がやわらかくなったのだと証してくれました。

 

小学6年生のY姉妹は、精神病のレッテルを貼られた叔母と一緒に行動することがずっと恥ずかしかったのだと正直に話してくれました。そこから、自分も叔母も救われ、霊は神の子となり、心の底から叔母に良くなってもらいたい!イエス様によって新しい人生を幸せに生きて行ってもらいたい!というキリストの思いに満たされて向き合うようになった時、叔母が自分と同じみことばをもらって霊の一致を喜んだり、大きな声を出して暴れることなく、自分の話を落ち着いて聞いてくれるようになったのだと証してくれました。クリスチャンに年齢は関係ありません。子供であっても、血肉の戦いではなく、相手の霊を見て、語ることができます。相手を救いたい!という気持ちで向き合った時、その愛によって相手が変わっていく事を改めて皆が語られ、霊から生ける水の川が流れ出た幼子の証と、信仰に感動しましたハート

 

みことばの力によって、皆が霊から180度生まれ変われたことを感謝して祈ります乙女のトキメキ