聖さ~聖霊のバプテスマによって聖なる者になりなさい~ | ぶどうの木 Good News

聖さ~聖霊のバプテスマによって聖なる者になりなさい~

Sayuriです。

 

今週の集会では、クリスチャンに必要なのは、「聖さ」であることも語られました。イエスキリストという聖い方を自分の中にお迎えし、聖い霊(聖霊)にどっぷりと浸かる体験(聖霊のバプテスマ)をしたクリスチャンには、「聖さ」が分かるようになるのです。聖霊のバプテスマを受けたクリスチャンかどうかを判断するバロメーターは、異言を語る事とともに、「聖さ」が分かるようになっているかであると言えます。

「聖別」という言葉がありますが、これも「聖なることと汚れとの区別」を指した言葉です。イエス様が十字架に至るまで守り通したのは「聖さ」であり、聖い捧げものであったからこそ天の父に受け入れられて復活を果たし神の右に座られることになったのです。

イエス様は「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」「聖くなければ誰も主を見ることはできない」と仰っています。

 

 

聖霊のバプテスマを受けて聖さについて体験したある男性の証が語られました。

『ある男性クリスチャンがある日、ガソリンスタンドで給油し帰宅しました。

帰宅した後、支払った後のつり銭を、1セント(日本円で1円)多くもらっていたことに気づきました。

外は雨が降っていましたが、「どうしてもその1セントを返さなければ」という思いに駆られ、いてもたってもいられず、雨の中もう一度車を走らせてガソリンスタンドに返しに行きました。彼の中にはすがすがしく、スッキリした思いが満ち溢れました。』

救われる前ならば、「たった1セントくらいならば別にいいか。雨も降っているし、わざわざ1セントの為にもう一度車を走らせて返しに行くなんてめんどくさい。そもそも、お釣りを間違えて渡してきたのはあちら側であり、自分に非があるわけではない」と思うのが人間の肉にある「心」です。

彼は、自分の内側に聖さが入った時、たとえ1セントでも搾取することを許さない自分、聖くありたい自分に変えられたのです。霊からの「聖さ」が打ち勝った証でした。

 

 

あるクリスチャンはこの話を聞いた時、その人の「良心」による行動ではないか?と、とらえました。しかしそうではありません。「良心」というならば、どこまで行っても「心」はよろずのものより偽る肉の領域の判断です。実際に「良心」というのなら、証の彼自身は「1セントぐらい、もらっておこう!」という人です。

 

聖さは、神に対して向かう思いであり、神を畏れることが土台となっています。神を裏切りたくない!神の前に汚れのない自分でいたい!本当の自分(霊の自分)から出る思いです。

 

救われて聖霊を受け、バプタイズされた時、私たちは聖霊の働きにより、肉で思うことができなくなる体験をするようになります。

私たちは肉の思い、イエス様からではない思いで言動した時、それが悪であることを聖霊によって知らされます。内側から“聖霊により、ノックされる”のです。そして、救われる前には分からなかった、みことばに基づいた基準により、古い自分ではなく、聖霊によってきよめられた新しい自分で行動していくようになるのです。

 

私たちは改めて、「あなたの中に聖さはありますか?」と問われました。

例えば献金一つをとってみても、自分なりのやり方でやっていないか、一円単位まできっちりとできているのか。計算した時に割り切れない額になった一円以下の部分を、切り捨てるのか?切り上げるのか?神の聖さとは、これほど徹底的に清廉性を問われるものです。パウロが言う、「何らやましいことはない!」という言葉は、聖さに対して言っているのです。

また、このぐらい何が悪い?と言っていつまでもぺらぺらと自分の口から汚れた言葉が出る人、自分の状態や感情ばかり口に出す人、自分が人のつまずきになる言動をしている事にも気が付かない人には聖さがありません。あまりにも肉の先導のままの状態で生きて、神に従いたい本当の自分(霊の自分)が、肉によって圧迫されているのです。聖霊のノックにさえ気づかず、無感覚になっている状態です。内側にあふれる思いを口が語りますから、その時は、日常の中で何と交わっているのか、何をかしらとして生活しているのか、自分がどんな言葉を吐き、聞き入れてしまっているのか・・・要するに魔術の中に取り入れられてしまってはいないか、吟味し、悔い改めなければ危険です。

 

<テトス1:15~16>

きよい人には、すべてのものがきよい。しかし、汚れている不信仰な人には、きよいものは一つもなく、その知性も良心も汚れてしまっている。 彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者、また不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者である。

 

 

そして、語られてきたように、それぞれが置かれたところで自分を吟味するために、改めて以下のみことばから、その一つ一つを自分と照らし合わせました。

 

<テトス1:6~14>

長老(一家の上に立つ権威)は、責められる点がなく、ひとりの妻の夫であって、その子たちも不品行のうわさをたてられず、親不孝をしない信者でなくてはならない。監督たる者は、神に仕える者として、責められる点がなく、わがままでなく、軽々しく怒らず、酒を好まず、乱暴でなく、利をむさぼらず、かえって、旅人をもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、信仰深く、自制する者であり、教にかなった信頼すべき言葉を守る人でなければならない。それは、彼が健全な教によって人をさとし、また、反対者の誤りを指摘することができるためである。 

実は、法に服さない者、空論に走る者、人の心を惑わす者が多くおり、とくに、割礼のある者の中に多い。(宗教の霊にまかれている人…外側だけ整えていたら良いと思う人は聖さがなく、魔術の霊に捕らえられる)彼らの口を封ずべきである。彼らは恥ずべき利のために、教えてはならないことを教えて、数々の家庭を破壊してしまっている。 (真理ではなく、魔術によって他者・家族・子どもを導くところには破壊と悲惨がある。国の上に立つ権威も、魔術によって国を導いている。その報いが機能不全の家庭から起こる社会問題として表れている)クレテ人のうちのある預言者が「クレテ人は、いつもうそつき、たちの悪いけもの、なまけ者の食いしんぼう」(聖さがなければ何度も同じことを繰り返すあざけりとなる)と言っているが、この非難はあたっている。だから、彼らをきびしく責めて、その信仰を健全なものにし、ユダヤ人の作り話や、真理からそれていった人々の定め(魔術)などに、気をとられることがないようにさせなさい。

 

<テトス2:1~3:11>

しかし、あなたは、健全な教にかなうことを語りなさい。(神の御旨をわきまえ知るために、内側をきよめ、精錬されなさい。みことばを蓄え、自分の身としなさい)老人たちには自らを制し、謹厳で、慎み深くし、また、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように勧め、年老いた女たちにも、同じように、たち居ふるまいをうやうやしくし、人をそしったり大酒の奴隷になったりせず、良いことを教える者となるように、勧めなさい。そうすれば、彼女たちは、若い女たちに、夫を愛し、子供を愛し、慎み深く、純潔で、家事に努め、善良で、自分の夫に従順であるように教えることになり、したがって、神の言がそしりを受けないようになるであろう。若い男にも、同じく、万事につけ慎み深くあるように、勧めなさい。あなた自身を良いわざの模範として示し(置かれた場所でまずは自分が模範となる。家庭ではまずは両親から)、人を教える場合には、清廉(聖さ)と謹厳(厳しさ。甘やかすのではなく、神の愛と権威によって躾ける)とをもってし、非難のない健全な言葉を用いなさい。(操り・脅迫・支配ではなく、みことばに裏づけられた言葉を語る)そうすれば、反対者も、わたしたちについてなんの悪口も言えなくなり、自ら恥じいるであろう。 

奴隷には、万事につけその主人に服従して、喜ばれるようになり、反抗をせず、盗みをせず、どこまでも心をこめた真実を示すようにと、勧めなさい。そうすれば、彼らは万事につけ、わたしたちの救主なる神の教を飾ることになろう。(その姿が神の栄光となる) すべての人を救う神の恵みが現れた。そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、(私たちは罪に死に、義に生きるクリスチャンとなった)慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。(招かれる者は多いが選ばれる者は少ない。神のもとに来ることができる人とそうでない人がいることを、神はご存じである。私たちは神に招かれたのなら熱心になって聖さに至る訓練を受け、選ばれる者とならなければならない。神に文句を言う前に、自分自身が行いのない信仰になってないのか吟味すべきであるし、自分の行いに聖さがあるのかも同時に吟味すべき。実がならないのは、神の側に問題があるのではない。人間の罪と悪が神と自分との間を隔てている。すべての問題は人間の側にあり、どこまでも吟味するのは自分自身である。) 

あなたは、権威をもってこれらのことを語り、勧め、また責めなさい。だれにも軽んじられてはならない。 

あなたは彼らに勧めて、支配者、権威ある者に服し、これに従い、いつでも良いわざをする用意があり、だれをもそしらず、争わず、寛容であって、すべての人に対してどこまでも柔和な態度を示すべきことを、思い出させなさい。(ねたむ人はいつでも人と比較して自分の立ち位置をはかる。もし誰かに憎まれていると思うなら行って和解しなさい。それが聖さに至る行いの一歩)わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、迷っていた者であって、さまざまの情欲と快楽との奴隷になり、悪意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互に憎み合っていた。ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。 

この言葉は確実である。わたしは、あなたがそれらのことを主張するのを願っている。それは、神を信じている者たちが、努めて良いわざを励むことを心がけるようになるためである。これは良いことであって、人々の益となる。しかし、愚かな議論と、系図と、争いと、律法についての論争とを、避けなさい。それらは無益かつ空虚なことである。異端者は、一、二度、訓戒を加えた上で退けなさい。たしかに、こういう人たちは、邪道に陥り、自ら悪と知りつつも、罪を犯しているからである。 

 

 

聖書は人間が作り出した人生の指南書とは全く別次元のものです。

しかしながら、約2000年の間にこの尊く聖い教えが、「キリスト宗教」という魔術に変えられてきました。それは、人間の知性で神のことを学ぶ神学によってもたらされてきました。

神は、人間の頭で神を理解できるように私たちを造られてはいないのです。しかし、そこに対して果てしのない系図や、神の目から見て無知で愚かな論議を持ってきて宗教論を建て上げてきました。結果、神の名のもとにたくさんの戦争や殺戮が繰り返されてきた歴史があります。よく、「キリスト教が一番人殺しをしたではないか。他国を侵略して植民地支配していったのもキリスト教国、日本に原爆を落としたのもキリスト教国であるアメリカだ。そんな神を信じれるか!」という声を聞きます。そんな時、私たちははっきりと言えます。「すべてがサタンの支配下で、魔術によって操られてきた。すべて、間違っていた」と。

 

2019.10.25に春秋社から「福音派とは何か?~トランプ大統領と福音派~」という書籍が発売されました。著者は、ぶどうの木とも繋がりがある鈴木崇巨氏です。

その中では、近代に新しく表れてきた聖霊により異言を語り、聖霊の賜物による力、聖霊体験を強調した「福音派」、「カリスマ派」と呼ばれる教会を、「もう一つのキリスト教」として紹介されています。そして聖霊の働きによる異言や奇跡を行う教会はまさに、2000年前の原始教会の姿であると述べられています。ローマ帝国のキリスト教国教化以後、聖書の「知的な、教育的な教え」の部分だけが強調される「伝統的な」教会が中心となり、しだいにそこでは人の知恵、知識のフィルターのかかった教えがなされるようになりました。2000年間キリスト教界の大数を占めたその「伝統的な」教会の姿が、多くの日本人がイメージするキリスト教会の姿です。しかし、聖書には理論整然とした「知的な」教えとふしぎな「聖霊の恵みの賜物」(カリスマ)の両方が書かれてあります。私たちぶどうの木はその聖書に書かれてあるどちらのみことばも学び、愛し、実践する群れなのです。

 

神の言である聖書を真に読み解くには、まず、第一に創造主が遣わした一人子であるイエスキリストを受け入れることによって救われ、自分の霊をよみがえらせることが不可欠です。そして、神が私たちに何を伝えてくださっているのか、どのように導いてくださっているのかを実際に体験するためには、聖霊のバプテスマを受けなければなりません。聖霊は私たちに神のみ旨を知らせ、それに従っていく力を与えてくださる力強い助け主です。ぶどうの木は、聖書に書いてあることが本当かどうかを証明するための実験室です。ノウハウや、学問として聖書を学ぶのではなく、「聖書に○○と書いてあるからおこなってみる」という、実にシンプルな姿勢で聖書=神の言=イエスキリストと共に歩いてきた結果が、ホームページにも紹介されている兄弟姉妹の証(実)です。神は知性で追い求めるものでもなく、フィーリングで感じるものでもありません。神のルール・秩序に従って進んだ時に「私はいる」とはっきりとご自身をあらわしてくださる方です。神は私たち一人一人が体験する神なのです。

 

長い歴史の中で、聖書真理から離れたところでは、良い実を成らせることはできませんでした。サタンの策略にかかり、国の秩序は乱れ、家庭はガタガタに壊されていきました。

聖書は古いという人がいますが、そうでしょうか。神の言葉はいつまでも変わる事はありません。そこから道を外れて狂っていったのは人間の方です。

私たちは真理に従えば力があり、真理に逆らっては何事もすることはできません。

今こそ、私たちは原始教会からの教えを受け継ぐものとして、真理に従い、みことばに素直に正直に誠実に従い、神の御旨を行っていきます。