聖書が教える秩序② | ぶどうの木 Good News

聖書が教える秩序②

<コロサイ2:20~3:17

もしあなたがたが、キリストと共に死んで世のもろもろの霊力から離れたのなら、なぜ、なおこの世に生きているもののように、「さわるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られているのか。これらは皆、使えば尽きてしまうもの、人間の規定や教によっているものである。これらのことは、ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙そんと、からだの苦行とをともなうので、知恵のあるしわざらしく見えるが、実は、ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではない。

このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。

だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのために、神の怒りが下るのである。あなたがたも、以前これらのうちに日を過ごしていた時には、これらのことをして歩いていた。しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。

だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。 これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。

 

 

 

私たちは救われて聖霊をいただいた時に、皆が、イエス様は生きた者のための神であることを実感させてもらえる証、初めの愛をいただいています。もし、家族、兄弟姉妹がこの世の=サタンからの霊力にまかれて、イエス様から離れようとしたときには、その初めの愛を思い出させて、イエス様に立ち返るように働きかけていかなくてはいけません。サタンはありとあらゆるものを使って、クリスチャンをイエス様のもとから引き離そうとしてきます。クリスチャンがイエス様につながっていなければ、霊がボロボロになって、自分でイエス様の声を聞くことができません。聖さは無くなり、魂は汚れた悪しき思いで満たされていきます。その結果として様々な身体的な状態を刈り取ることになるのです。

家庭の中で子どもがそのような状態におちいった時には、両親が一致して、与えられた権威と愛によって訓戒し、子どもをイエス様から引き離そうとする霊力に立ち向かうことが必要です。ひとりひとりが神と自分との関係を持っています。子供であっても大人であっても同じです。クリスチャンが、滅びに向かっている人に対して神の愛を持って忠実に語るならば、イエス様は最後の審判の時にその言葉をもって個々の生き方を問います。

みことばでは、子が従うべきは「両親」です。まずは家族の中の上に立つ権威である夫、父親が真理に立つことが大切ですが、妻、母親もともにみことば、主にあっての両親の一致、一枚岩であってこそ、子どもを正しい道に導くことができるのです。

親がすべきこと、兄弟姉妹がすべきことは、個人とイエス様をつなげ、個々の信仰を育てていくことです。サタンに翻弄された人生を送ってきて、今更取り返しがつかない状況のように思えても、そこにこそ神の力に信頼する信仰が大きな生きる力になります。先のLGBTQの霊に翻弄された方に対しても「イエス様がいるから大丈夫!信頼して生きていこう!」と言って希望を与えてあげられるのはクリスチャンだけなのです。

 

<ヨブ33:19~30>

人はまたその床の上で痛みによって懲らされ、その骨に戦いが絶えることなく、
その命は、食物をいとい、その食欲は、おいしい食物をきらう。その肉はやせ落ちて見えず、その骨は見えなかったものまでもあらわになり、その魂は墓に近づき、その命は滅ぼす者に近づく。もしそこに彼のためにひとりの天使があり、千のうちのひとりであって、仲保となり、人にその正しい道を示すならば、神は彼をあわれんで言われる、『彼を救って、墓に下ることを免れさせよ、わたしはすでにあがないしろを得た。彼の肉を幼な子の肉よりもみずみずしくならせ、彼を若い時の元気に帰らせよ』と。

その時、彼が神に祈るならば、神は彼を顧み、喜びをもって、み前にいたらせ、その救を人に告げ知らせられる。彼は人々の前に歌って言う、『わたしは罪を犯し、正しい事を曲げた。しかしわたしに報復がなかった。
彼はわたしの魂をあがなって、墓に下らせられなかった。わたしの命は光を見ることができる』と。

見よ、神はこれらすべての事をふたたび、みたび人に行い、その魂を墓から引き返し、彼に命の光を見させられる。

 

 

また、みことばは、家庭についての個々のあり方を教えているだけでなく、社会においてのあり方も私たちに教えています。

学校や職場で、自分が遣わされいている場所でも上に立つ権威に真心から従い、また働くのは、神の前に正しいことです。血肉で上に立つ権威を見て、審判者になって裁いたり、どうせあの人はこうだからと占ったりすることなく、神が立てた上に立つ権威を祈り、主に仕えるようにやるべきことをやるのです。その時に迫害があったとしても主が必ず実を成らせてくださいます。

ある姉妹は、自分の会社の社長に対して審判者となり、自分の量りではかり裁いていたために、相手に愛を注ぎだすことができていなかった霊的状態が明らかにされたと話してくれました。彼女は、この世の人の声(この世の人間というフィルターを通して入れられてくる社長の評価)・魔術を受け入れ、そちら側に立っており、曇りのない自分の霊によってイエス様の御旨を聞いていくことができていなかったことを悔い改め、立ち上がって前進しています。

私たちはいつでも、主の御前にあるという事をすっかり忘れ、この世・肉の感覚に忠実になって自らが審判者になっているのなら、クリスチャンとしての立ち位置も分からなくなり、神に喜ばれる行いをすることができないと教えられました。

 

<エペソ659

僕たる者よ。キリストに従うように、恐れおののきつつ、真心をこめて、肉による主人に従いなさい。 人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い、人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。 あなたがたが知っているとおり、だれでも良いことを行えば、僕であれ、自由人であれ、それに相当する報いを、それぞれ主から受けるであろう。 主人たる者よ。僕たちに対して、同様にしなさい。おどすことを、してはならない。あなたがたが知っているとおり、彼らとあなたがたとの主は天にいますのであり、かつ人をかたより見ることをなさらないのである。

 

 

自分が家族の中で最初に救われたケース、職場や学校の中で自分だけがクリスチャンでいるケースなど、私たちはそれぞれ様々なシチュエーションの中に置かれています。

その中で私たちが関わる隣人が、反キリストの霊に使われ迫害してくる人かもしれません。救われていても、なかなか真理に従えない、強情な人かもしれません。

しかし、状況がどうであっても私たちが置かれた場所で最初にクリスチャンとなったのなら、それは神に最初に選んでいただけたという事なのです。

最初に選ばれたクリスチャンには果たすべき責任があります。まず、誰よりも自分自身が最初にみことばを行っていく、という事です。あなたが夫であっても、妻であっても、子であっても、僕であっても、人の上に立つ主人であっても置かれたところであなたが先に救われた者なら、あなたが神とその人の仲保者となり、イエス様がされたように周りの人の足洗をして聖めるのです。

「クリスチャンはいつでも受けるより与えるが幸いであり、その報いは神が与えてくださる。」そのことを忘れることなく、家庭でも、職場でも、学校でも、しっかりと神の僕としての任務を遂行していこうではありませんか。