聖書が教える秩序① | ぶどうの木 Good News

聖書が教える秩序①

Sayuriです。

 

聖書は預言の書であり、歴史書であり、人間がどのように生きていくべきかを教える書でもあります。

そして、私たちの創造主である神が、私たちに与えた命をどのように使うべきかを教え、人生の中で豊かな実を結びながら生きていくように導いてくださるための書物でもあります。様々な角度からの聖書真理がありますが、ぶどうの木では、特に「命の使い方・命を育む家庭のあり方」にスポットを当てて13年間学んできました。

携挙について、また死後の天国、地獄についても聖書は教えていますが、それらはすべて、クリスチャンがこの地上でどのような命の使い方をしたかの延長線上にあることです。ですから私たちは、与えられた今という時、置かれた状況や環境で一人の人間としてどのように生きるかを最も大切なものとして考え、聖書・みことばによって精錬される日々を送っています。

 

今週の集会は家庭をつくる土台となる結婚~家族のあり方について学びました。

人間を造った神の秩序は、人間が考えるものとは全く異なっています。

例えば、家庭を築く土台となる「結婚・夫婦」については、肉的な男女の婚姻関係より前に、まず人間は男も女も関係なく、誰もが唯一の男子であるイエスキリストの花嫁であることが前提であると聖書は教えています。

祝福された結婚生活を送りたいと望むのならば、まずは一人一人が救われ、キリストの花嫁となる。そしてその二人が結ばれて結婚に至る。そこに祝福の子どもが生まれ、時代をつくっていく。これこそが聖書が教える「結婚」の奥義です。

 

この奥義を離れて結婚し家庭を築き、子育てをしても、魔術の霊力の中にすっぽりと閉じ込められて良いものを見ることがありません。日本人の中で、クリスチャンは0.4%しかいません。後の99.6%の人たちはこの結婚の奥義から離れて家庭を建て上げてきました。結果、現われてきたのは、挙げればきりがないほどの様々な社会問題です。原因を紐解いていくと、その多くが家庭や家族関係に起因するものであることが分かります。特に近年話題にあがっているLGBTQ問題は、生い立ち・家庭環境に問題があることが原因であると解き明かされてきました。「ぼくが性別ゼロになった理由」というNHKの番組を見ました。体は女性だが心は男性だというトランスジェンダー(性同一性障害)の当事者が、子宮と胸をとって男性として生きようとしますが、男性である事にも違和感を感じているという内容でした。彼女の家庭に家族を守り養う父親の姿がなかったことが印象的でした。そのような環境の中でLGBTQの霊力に苦しむ娘に、まっとうな導きができず、ただ情で寄り添い、気が済むように性転換手術もさせてしまう母親がいて、さらに周りの大人たちも魔術の霊力にまかれ、彼女を導いていくしかない状態でした。盲人が盲人の手引きなどすることはできず、24歳になる彼女は気丈にふるまってはいましたが、心身ともにどん底の状態になっていました。本当に、憐みの思いでしか見ることができませんでした。そして、このようになってしまった一つの命を人間が救うことなどできない、彼女を救えるのは、彼女を造った神にしかできない事なのだと強く思いました。

 

神の戒めは、「第一に神を愛すること、その次に自分と同じように隣人を愛すること」です。特に、一家の長である夫となった者の役割は大変重要です。夫は、イエス様に倣い、イエス様が私たち人間にしてくださった愛をもって妻を愛し、守ることを求められています。そして妻となった者のすべきことは神が与えてくださった夫を敬い仕えることです。

 

<エペソ5:22~6:3>

妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。 自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。 わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。いずれにしても、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい。

子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。父たる者よ。子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい。

 

<コロサイ3:18~4:1>

妻たる者よ、夫に仕えなさい。それが、主にある者にふさわしいことである。 夫たる者よ、妻を愛しなさい。つらくあたってはいけない。 子たる者よ、何事についても両親に従いなさい。これが主に喜ばれることである。父たる者よ、子供をいらだたせてはいけない。心がいじけるかも知れないから。

僕たる者よ、何事についても、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、目先だけの勤めをするのではなく、真心をこめて主を恐れつつ、従いなさい。 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。あなたがたが知っているとおり、あなたがたは御国をつぐことを、報いとして主から受けるであろう。あなたがたは、主キリストに仕えているのである。不正を行う者は、自分の行った不正に対して報いを受けるであろう。それには差別扱いはない。主人たる者よ、僕を正しく公平に扱いなさい。あなたがたにも主が天にいますことが、わかっているのだから。

 

 

今、ぶどうの木にはたくさんの人が導かれてきていますが、実際にぶどうの木につながっているのは、ほとんど母親と子どもたちです。父親たちは、救われ霊的にキリストの花嫁になっていても、この世の霊力にまかれているので、ぶどうの木につながり、集会の席に着く、ということができません。安息日を聖別することなく自分の義を立て、この世の仕事や自分の肉欲を満たすことに身を委ねている姿は、霊的に夫を裏切り、不貞を行う不倫妻そのものです。自分の夫を敬わず、不貞を続ける妻を夫は守り切れるでしょうか?

今週は一つの動画が与えられました。それは、一家の長である上に立つ権威(夫)には特別に家族を守る権威と力と油が注がれるというものでした。サタンが支配するこの世の中にあって、一家の長の忠実な祈りにより妻や子供も行く先々で御使いに守られていました。驚いたのは彼が家を空けている間は御使いがその家を悪しき霊どもから守っていたのですが、彼が帰宅すると御使いは去り、今度は彼自身の権威によって家と家庭が守りの中に入ったのです。それほど、一家の長が真にキリストの花嫁として立つ時には、大いなる守りと祝福が家庭に与えられることを教えられた動画でした。

 

また、みことばは、子供たちに対しても家庭内においてのあり方を教えています。

それは「両親に従いなさい」という事です。子供にとっての第一の戒めです。

子どもは親を選べません。社会や家庭が乱れ、今や離婚している親を持つ子供の割合は、6人に1人だそうです。離婚再婚(死別は除く)の繰り返し、(また最近は未婚で子供を生んだ母親が資金面での優遇制度を要望しているというニュースも耳にします)、両親揃っていても家庭がうまく機能していない機能不全家庭という環境の下で振り回されるのはいつも子どもたちです。そんな中で「あんな親、敬えるか!」と思う子供たちもたくさんいるはずです。

しかし、親が悪いから、みことばを行えないのでしょうか?

 

ある姉妹は、真理に従わない夫、過去に自分を傷つけた夫、とてもではないが、みことばにある「夫」のようでない夫。そんな夫を肉で見て、平安と喜びを無くし、占い、裁き(赦さず)の思いに捕らえられ、その魂の状態から体に不調を来していました。

「なんであんな夫に従える?仕えるなんてできない。ばかばかしい

夫が悪いから、みことばを行えないのでしょうか?夫が良くなったら従える?

 

<Ⅰペテロ3章1~2

同じように、妻たる者よ。夫に仕えなさい。そうすれば、たとい御言に従わない夫であっても、あなたがたのうやうやしく清い行いを見て、その妻の無言の行いによって、救に入れられるようになるであろう。

 

 

もちろん「しっかりしなさい!」と叱咤されるべきは、一家の長である父親です。

しかし、この週は、「その父親をそのままにしている母よ!何をしている!」とみことばを通して妻たちに対しても訓戒が入った週でもありました。

みことばが教えるのは「相手(夫・親)を見るのではない、人間に仕え、give and takeで相手から何かを得ようとするのではない。報いを下さるのは人からではない。主から来るのです。」という事です。

ですからクリスチャンならば、どこまでもまずはイエス様と自分の関係においてみことばに従順に従うのみです。私たちは人に仕える者以前に、主に仕えるものであることを忘れてはなりません。

神はどこまでもあなたの心を見ておられ、みことばに従うあなたの心を見て、行いを見て、その聖さによって聖霊は働いてくださいます。相手に働きかけ、相手を変えてくださいます。

牧師に対して、「自分はやっているのに」と訴えてくる羊がいますが、本当にそうでしょうか?微塵でも汚れたところはないでしょうか。聖霊は聖いところにしか働かないと教えられてきましたが、聖霊が働いていない状態ならば、そこには悪と罪があるのです。

みことばは真実であり、神の聖さを見極める目はごまかすことはできません。

報いがないと感じるならば、それは自分がみことばへの不従順であるために、悪霊の出入りする門を開けてしまっているからなのか、相手のつまずきになるような言動のせいなのか、それとも、よほど相手を縛る霊力の縛りが強いためなのか、訓練なのか、迫害なのかよくよく見極め、悔い改めること、戦うべきことは速やかに行う必要があります。

まずは、自分の内側を吟味して、しみもしわもないように聖め続けなければなりません。

 

<Ⅰペテロ1章13~16>

それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。 従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。

 

 

イエス様は「私が聖なる者であるから、あなた方も聖なる者になりなさい」とおっしゃいました。自らを聖め、何らやましい事がないと言える自分であれば、よくよく自分と自分の周りを見てください。健康が与えられていませんか?日々の生活の中に平安がありませんか?感謝すべきことが生活の中にちりばめられていませんか?そういったことによって私たちは神が報いてくださっていることを知るのです。

神は誰をも偏り見ることはしません。各々にその行いに従って報いをされる方であることを忘れて自分勝手な言葉を吐き続けるならばその人の内に、神に対する畏れ、聖さなどありません。

「あの人が○○だから敬えない!赦せない!みことばにはそう書いてあるけどそんなこと言ったって難しい!」と言い続けるならば、それは反キリストの罪の中にいるのです。自分の意見を言う高ぶりです。反キリストの言葉・思いがある魂は汚れ、その状態は体にも表れてくるのです。

一つ、分かりやすいエピソードを紹介します。

「あるクリスチャンが、イエス様に言われて、知り合ったばかりの一人の老人の家の片付けに行きました。その家は何年も掃除されていなかったため、とても汚かったそうです。大変労苦しながら掃除をしていた最中、その老人の息子が訪ねてきました。そして、そのクリスチャンに「なんで掃除なんかしてくれているんだ?掃除をした見返りに、この老人からたくさんの謝礼金をもらうことが目的か?」と怪しんで尋ねました。その時そのクリスチャンは次のように返答しました。「いいえ、私はこのご老人から何かをもらおうなどとは全く思っていません、私が働いたことの報いは、神がくださいますから。」それを聞いた息子は、大変驚き(そんな風にこの世の人間は誰も考えない)、後に、イエス様を受け入れ救われたのです。」

・・・・いかがでしょうか。

 

 

それぞれが、キリストの花嫁であって、その二人が結婚するならば、これ以上の祝福はありません。そこに祝福の子どもが授けられるのは、神の秩序にかなった当然の報いなのです。

しかし、私たちの多くは、救われる前に結婚、子育てをしてきました。神の秩序に反した土台の結婚と家庭の築きを行ってきた道のりはいつ何が起こってもおかしくはない状態でした。LGBTQに苦しむ子供が私だったかもしれない、自分の子どもだったかもしれないのです。しかし、神は私たちを憐れんでくださいました。神は愛であり、完全なるお方です。私たちが何歳で、どんな状況の時に救われるのかはすべて神のご計画の内にあります。

それは一人ひとりにオーダーメイドの祝福を与えるための神の計らいでもあります。そのことを喜んで、私たちは魔術と情欲に支配されていた古い時代の自分を脱ぎ捨て、すべてのことを益にしてくださる神に信頼して生きるのです。

 

つづく・・・