魔術に打ち勝つためのイエス様の十字架 | ぶどうの木 Good News

魔術に打ち勝つためのイエス様の十字架

holygirlですキラキラ

 

先週は隣人愛について語られましたが、今週はそれとは真反対である操り、脅迫、支配となる言動について学び、自分自身を吟味しました。

この3つの単語だけを聞いたら、「そんなひどい言葉は吐いていない」と思うかもしれませんが、実は気づいていないだけで、すでにこのような言葉が出る霊力の下に私たちは置かれているのだと語られました。

 

最初の人間であるアダムとエバは、へび(サタン)にそそのかされて、善悪を知る木から実をとって食べた事により知識を得てしまいました。へびのそそのかしは、魔術(人の心を惑わすもの)であり、神との約束を破った二人はエデンの園から追放される事になりました。エデンの園の外=この世は、サタンの支配下にあり、霊的には人間をだまし、そそのかす魔術=闇のわざが充満しています。神に反抗したアダムとエバの罪により、後に誕生する人間は皆この魔術(魔力、まじない、占い)を受けることになったのです。

またサタンは、魔力、まじない(お守り、音楽、ドラックなど)を使ったり、占い(知識)を人間に与えて、翻弄してきました。賛美の働き人であった堕天使サタンは、特に音楽を使って人の心を操るのだと語られました。

例えばA兄弟は、救われる前から好きな歌手がおり、今もコンサートに通うほどのファンなのですが、牧師が「なぜその歌手の歌が好きなの?」と尋ねると、「その当時の自分を思い出してなつかしい気持ちになるから」と答えました。牧師は、古いものは過ぎ去って全てが新しくなった自分が、なぜ過去の思いに浸りたいのか?自分の後ろ髪を引っぱるものは何なのか?そこにまじないが動いていないか?と問い、身近に動く霊力に気を付けなければならないとおっしゃいました。

 

旧約聖書には、エジプトの王が呪いの祈りにより、戦いに勝利して国々を支配していったという話があり、新約聖書には、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた女にとりついていた悪霊をパウロが縛り上げると、一つの町が大混乱の後に滅びたという話があります。現代においても、レーガン大統領の夫人が占星術の指示によってレーガン大統領のスケジュールを決めていたと言われますし、日本においては、大嘗祭で神々に供える米を作る場所を、亀の甲羅を焼いて占って決めました。それほど、魔力、まじない、占いは、当たり前のように用いられ、人々の生活に根ざし、人々が頼りにしてきたものなのです。

 

そして、神に反抗してきた血は偶像礼拝(=自分の意見を崇拝)する罪を生み、神の声に聞き従わない頑固な人間にしていきました。また、人間は他者を自分の思い通りに動かしたいがために不正な方法を使って操るか、脅迫して、支配するようになりました。それは家庭・親子関係の中で、寺の僧侶と信徒の関係の中(徳川家康がつくった制度)で、政治と皇族の関係(政治に利用される皇族)の中で、当たり前のように行われている事なのだと語られました。

特に自身の舌によって、人を操り(そそのかし)、脅迫し、支配していないか、兄弟姉妹が教材となって分かりやすく教えられ、自分を吟味することができました。

 

B姉妹は、小学生の息子がみことばをもらったと言ってきた時、自分と同じ個所をもらっていた事に対して「お母さんの見たの?」と、喜んでみことばをもらった息子の霊を悲しませる言葉を発してしまいました。これが兄弟の前につまずきを置く発言であると牧師に戒められ、「イエス様だね!一致したね!」と言ってあげたら、息子の霊が満たされ、信仰が強まる機会となったであろうと語られたそうです。

 

C姉妹は、霊が飢え乾き何杯もお茶を飲んでいた青年に対し、「これがお酒なら良かったと思っているでしょ?」と言葉をかけました。C姉妹はずっと原因不明の咳に苦しんでいたのですが、牧師はその言葉を聞いて、「それ!その言葉は必要ない」と戒めました。日頃何気なく出している言葉がへびのように相手をそそのかし、汚していた事に気づいたC姉妹は悔い改めに至り、咳も収まったのです。

 

D兄弟は、賛美をする前に喜んで前に出て来た姉妹2人に対して、冗談交じりに「ここで録音しているよ」と言いました。すると姉妹たちは一気に喜びを失い、後ろに引きさがってしまったのです。せっかく霊の思いに満たされて神の御前に出てきた姉妹たちを肉の思いに戻した言葉であったと、D兄弟は戒めを受けました。

 

E姉妹は、49日法要の前に、寺の僧侶にクリスチャンであるため欠席する事と、葬式における僧侶の威圧的な言動によって母親が精神的におかしくなってしまった事を伝えながら聖書真理を話すことができたのですが、帰る際に「法事よろしくお願いします」と言ってきてしまいました。その夜、未信者であるご主人が、E姉妹のつじつまが合わない言動に対して、悪霊に使われて指摘してきました。E姉妹はサタンからの迫害だと思いましたが、牧師は、E姉妹の情の部分をサタンがつついてきたのだと解き明かしました。この状況を言い換えれば、聖霊が迫害ではなく自分を吟味するよう教えているという事になります。せっかく真理・福音を伝えても、情から出る最後の一言で全てを台無しにしてしまっていないか、自分の発言によってサタンに武器・すきを与えていないか、私たちも問われました。

 

私たちの発言は、常にサタン・悪霊が聞いています。へびの舌のように、ペロペロと簡単に言葉を出すのではなく、言ってもいい言葉かどうか吟味しなければなりません。「無理」「できない」というマイナスな言葉を出さない、無責任に言葉を出して相手を不安にさせたり、惑わして終わらない、「大変だね」「疲れた」などと、自分や相手を呪って終わらないよう注意しなければなりません。自分が言葉を自制したら、サタンは攻撃できないため、いつも平安でいられるのだと語られました。

 

ヤコブ1:19本

愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。

 

聖霊がいると、肉で言動した時に、「違うでしょ」と教えてくれます。ぶどうの木の皆は、それが分かる自分に変えられていることに感謝です。そして、教材になってくれた兄弟姉妹たちも、自分の過ちに気づき、悔い改められた事に感謝です。

もし、そこから自分の過ちを責めはじめ、「あの時言わなければ良かった」「皆に知られて恥ずかしい・・・」などという思いがくるのであれば、それはサタン(魔術)です。聖霊は罪と悪を知らせるだけで、そこから自分の過ちを責めてくるのはサタン(魔術)であることを忘れてはならないと語られました。

 

そして、魔術によって曖昧にされているのがイエス様の十字架の意義であると語られ、唯一この魔術に打ち勝ったイエス様の十字架、「イエス様の十字架を負う」とはどういう事なのかを学びました。

 

私たち人間には、誰にでも生まれた時から背負わされている3つの重荷があります。

 

①生きるという重荷

誰一人として望んでもいなかったのに、この世の中に生まれてきた宿命。

人生は幸せなことばかりではありません。突然、“なぜ?!こんなはずではなかった”という出来事が起こります。事故や災害、大病もいつ我が身に起きるか誰にも分かりません。1秒先の事が分からない世界の中で、命がある限り、たとえどんなに無目的で、虚無的な生活になろうと生きなければならないのです。

 

②罪という重荷

生まれつきの皮膚の色、容姿、性別、家柄など、変えることのできない条件をもって生きていく中で、人と自分を比較して妬んだり憎んだり、不平不満や悪口を言ったり、うそをついたり、だましたりしながらどんどん悪(神様の目からみた罪)を重ねる宿命。その罪の奴隷状態が、心身の不調・病を来たらし、永遠の滅び(地獄)に繋がります。

 

③死の重荷

どのような人生を歩んだとしても、結局は皆死んでいくという宿命。聖書には裸で生まれ、裸で死んでいくと書かれていますが、いつかは必ず何も持って行くことができずに、死ななければならないという孤独と恐怖を抱えています。

 

そして人間は、現実問題やぬぐえない悲しみや痛みからなんとか解放されたい時、宗教や哲学、果ては占い師など誰かの助言を求めて生きてきました。宗教や哲学、自分なりの信心は、一時しのぎの気休め、心の拠り所にはなるでしょう。しかし、それらは全人類が共通に抱えているこれらの3つの重荷を降ろさせることはできません。

今まで、特に私たち日本人が信じてきた、人の手が作り出す木や石の偶像(仏像、地蔵、位牌)やお守り(数珠)、人の経験に基づく人生観や世界観という哲学、いわゆる先祖伝来の言い伝えや、誰かの悟りや宗教といわれるものは、人間を真に救い出すことはできないのです。これがサタンの支配下における魔術(魔力・まじない・占い)であり、真の神への反抗であると語られました。

 

実際、今年もたくさんの被災地が生まれてしまいましたが、復興は思うようにできていません。福島の復興だけでもあと10年はかかると言われている中で、台風と河川の氾濫による被害は東日本大震災以上であり、屋根の修理が2年後だと言われている人たちもいます。被災地に手が行き届かない中、先週は、新天皇が新穀を神々に供え、自身もそれを食して、国家、国民のために安寧と五穀豊穣を天照大御神に感謝して祈念する大嘗祭が行われました。真の神への反抗があるところには、おどろおどろしい魔術があるのです。そんな儀式のために24億円の税金が使われましたが、一代に一度の儀式のために建てた神殿はすぐにつぶされるそうです。24億円あったら、被災地の復興がどれだけ進むでしょうか・・・天照大御神という神話の神に向かって、天皇が祈りを捧げる事よりも、現実的に税金を使って成し遂げられることがたくさんあります。天皇も一人の人間です。一人の人間が、24億円をかけて祈りを捧げる儀式が本当にこの国のためになるでしょうか?ありがたいでしょうか?真の神を知っているクリスチャンにとっては、おどろおどろしい儀式であり、真の神に反抗する罪深い儀式です。

さらに、国民の中には今日食べる物にも困窮している人たちがおり、国民一人あたりの負債は800万円以上であるにも関わらず、首相主催の「桜を見る会」では、公費を私物化して約5500万円の税金が使われたと言われています。消費税を10%にされて苦しんでいる人々が大勢いる中で、こんな税金の無駄遣いがあるでしょうか。

このように政教分離と言いながら、天皇制を政治に利用し、宗教と伝統文化を重んじてきたのが日本です。しかし、その現状はトラクト「日本人の皆様へ 今、知らせたいこと」の表紙そのものなのです。

 

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生まれたら生きなければならない・・・

生きようとしたら罪を犯す・・・

そして、必ずいつか死ぬ・・・

その重荷の上に、さらに日本人として宗教と伝統文化に従事しなければならない・・・

気がついたら、日本という国はそんな日本人が負う重荷に耐えられずに、沈没しているのです。

 

では、誰のもとに行ったら、この重荷を降ろして休むことができるのか。聖書には、【すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。】(マタイ11:28)と書かれていますが、わたしとは、唯一の神、人間一人一人を母の胎内で大切に組立て、各人の髪の毛の数までご存知の神です。この方こそが、本当の神様であり、

①永遠無窮の神・・・永遠に存在する

②不変なる神・・・どんなことがあっても変わらない

③聖なる神・・・微塵の汚れも許されないきよい神

④全知全能の神・・・全てを知っており、不可能なことはない

⑤愛なる神・・・あなたを創造し、この世に誕生させ、誰よりもあなたを知り、愛しておられる神

⑥義なる神・・・不正を憎み、不義をこらしめ、悪を裁く

といわれる方です。

その方のもとに行って初めて、人間はこれらの重荷を降ろすことができるのです。そして、正真正銘のこの神は、ご自身の一人子であるイエス・キリストを信じる者は、救われると教えて下さっています。イエス・キリストによって、初めて、やっと、全ての重荷は取り除かれるのです。

 

そして、真の神・イエス様は、

だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。】(ルカ9:23、マルコ8:34)

とおっしゃいました。

 

「自分の十字架」と言う時、既成の教会では、現実問題やぬぐえない悲しみや痛みの事を意味します。霊を見分けることなく、病気を受け入れ、事故を受け入れ、貧困を受け入れ、家庭の不和を受け入れているクリスチャンが大勢います。彼らは、「イエス様も十字架上で苦しまれたのだから、あなたもイエス様のその姿にならい、従って生きなければならない」という神学を聞いているため、自身に起こる全ての事が自分が負うべき十字架であると理解しています。そして、【自分の十字架を負うて私に従ってきなさい】とおっしゃったイエス様を仰ぎ見て、苦しみに耐えて生きる事こそ、キリストに似た者であると思っています。病気になってもそれが自分が背負った十字架だから癒しを祈ったらダメだと思っているため、「主よ、わがままかもしれないですが、できれば癒してください」と祈るのです。親しかった人と分派分裂しても、無条件で人を赦すことができずにそのまま十字架を背負っているという事もあります。

これが正しい十字架の負い方だと思っているのです。

救われる前は、生きる・罪・死・宗教・伝統文化という重荷を負い、救われたらそのような十字架を負わなければならないのか・・・ならば、救われる前と何も変わりません。

 

聖霊によってみことばを読む時、神の奥義に到達します。

 

マルコ8:34~38本

それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」。

 

イエス様は牧師を通して、私たちが負う十字架には3つの意味があるのだと教えて下さいました。

 

①イエス様の十字架によって、神の恵みと、血によるきよめを与えられた

神の恵みは、無条件の赦しによる平和、いやし、経済的祝福など、全ての面に対して注がれます。そして、血によるきよめによって聖なる者になれるのです。

 

②イエス様の十字架によって、サタンが敗北した

十字架上での死から三日目によみがえった事によって、サタンは完全に敗北したのです。

 

③イエス様の十字架によって、イエス様の御名と十字架の血の力、聖霊の力を得た

 

ですから、イエス様の十字架は、絵画や、カトリックの十字架で見るような悲惨な姿ではなく(そこにとどまるものではなく)、権威と力があるものなのです。

私たちは、重荷を負ってきた日本人という自分を捨て、この3つの意味がある十字架を負う責任を担い、イエス様に従う者とされたのだと語られました。

この聖霊による教えを受けた時、“十字架を負うという事は苦しみである”という印象が一気になくなり、十字架を負える事に感謝が満ち溢れましたキラキラ

 

そして、自分の命を救おうと思う者=自分のやり方で頑張ろうとする者は命を失い、福音のために命を失う者=神にゆだねることができる者は人の命を救うことができる事。

目の欲・肉の欲・持ち物の誇りを必死に追い求めて全世界をもうけても、自分の命を損したら何の得にもならない。私たち人間は明日命があるかも分からない、いつ大病になるかも分からない存在であり、神に生かされて今の自分がある事。

命に対しては、持っている全財産=代価を差し出しても役に立たず、買い戻すことができない事。

神のことを思わず人のことを思って、神・イエス様への信仰と、みことばを人前で恥じるのであれば、自分も同じように神から恥だと思われ、知らないと言われるのだと語られました。

今まで自分の情欲により、神の恵みと力を放棄してきたのであれば悔い改め、情と欲を十字架につけて私たち自身も一度完全に死ななければなりません。そうすれば、キリスト・イエスに属する者となり、肉を打ち叩いて死んだクリスチャンの体(明け渡した体)をイエス様が用いて生きることができます。自分の肉では一歩も行けない時、一番肉が弱い時こそ、イエス様が最大限にあらわれて一番強いのだと語られアーメンでした。

 

ガラテヤ5:24本

キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。

 

ガラテヤ2:18~21本

もしわたしが、いったん打ちこわしたものを、再び建てるとすれば、それこそ、自分が違反者であることを表明することになる。わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。

 

ローマ6:6~14本

わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。

 

アーメン宝石赤

 

私たちはこの魔術に覆われている日本において、重荷を捨て去り、解放されたクリスチャンであることを忘れてはなりません。

罪を悔い改めても、すぐにまた罪を犯し、罪を犯すから「してよい事と、してはいけない事」という規則をつくるという悪循環が、律法主義にし、教会とクリスチャンを縛っていますが、この現状も、魔術によって神に反抗しているあらわれであるとも語られました。律法主義は、神の義を行なっているとは言えません。御霊ではじめたことを、肉(自分のやり方)で仕上げようとする事がないようにしなければなりません。

改めて、私たちクリスチャンは、最初の人アダムが善悪を知る実を食べる前の状態、神が愛されて造られた魔術のない、何の汚れもない清い状態、聖霊に常に満たされた状態に戻らなければならないと語られ、アーメンでした!いつもイエス様の十字架=3つの意味を仰ぎ見て神の義を行い、神の栄光をあらわしていけたことを感謝しますまじかるクラウン

 

ガラテヤ3:1~5本

ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。まさか、むだではあるまい。すると、あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。

 

ヤコブ1:12~21本

試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。

あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである。

愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。

 

エレミヤ17:5~10本

主はこう言われる、

「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人は、のろわれる。彼は荒野に育つ小さい木のように、何も良いことの来るのを見ない。荒野の、干上がった所に住み、人の住まない塩地にいる。おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。彼は水のほとりに植えた木のようで、その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない。その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ」。

心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。
「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。

 

アーメンゆめみる宝石