隣人愛とは② | ぶどうの木 Good News

隣人愛とは②

聖書を学ぶことの意義は、日常生活の中で実践してはじめて分かります。特に家庭・家族は切っても切れないものであり、【隣人愛】を実践する最適な場であり、相手です。夫婦間、親子間で、みことばが生きているのか、自身の生活において集会での学びが生かされているのか、私たちは今週も牧師を通して問われました。

 

ルカ10:38~42本

一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。

 

アーメン宝石赤

まず、集会でイエス様が牧師を通して語って下さっていることを、全て「アーメン!」と言って霊で受けながら聞けているのか・・・知性(頭)と心で受けていたら、「いい話」と思うことは「いい話」止まりで、行いに移すことはありませんし、「分かるけど、自分にはできないな・・・」「そうは言っても無理だし・・・」と、いちいち文句を言いながら聞いてしまうでしょう。(そのような思いが神に言い逆らっているという事、文句である事が分からないなら、何を学んできたのか?と牧師に戒めを受けました)

集会よりもこの世の事(肉の欲を満たすこと)を優先させていれば、集会の席に着くことさえできないわけですが、救われて集会の席に着いても、救われる前の自分の知性・心のままでいたら、霊に食物を得ていても全く吸収できずに終わってしまいます。救われる前の自分にも少しは良い所があった、〇〇の面では賞賛されてきたと、少しでも自分を誇っている人がいるとするなら、聖書ははっきりとその考えは死に至ると教えています。

 

ローマ6:20~23本

あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。

しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。

 

アーメン。まずは、罪の僕であった時=救われる前は、義とは縁のない者であり、恥とするような実を結んだことを認めなければなりません。そして、救われる前の時代のものは全て捨ててゼロからのスタートであること、罪から解放されて、神に仕える者となり、死に至る人生から永遠の命(天国)に至る人生を歩む者となったことを自覚し、神の御前にへりくだり、素直にみことばを受け入れなければならないと語られました。

 

また、先週私たちは、自分の内にあるさびを取り除くという教えの中で、舌を悪に用いていないか?と問われましたが、日常生活の中で“悪い言葉”を出さないというのはクリスチャンの基本的な教えです。

 

エペソ4:29本

悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。

 

しかし、そもそも“悪い言葉”とは具体的にどういう事なのかが分かっていなければ、舌の使い方に気をつけようもありません。

子供の働き人となったN姉妹は、子供たちとの初めての交わりで“悪い言葉”とは、“みことばに反した言葉”であると教えたそうです。相手を馬鹿にしたり、傷つけるような言葉が悪い言葉であることは子供でも分かりますが、「できない」「無理」「疲れた」「どうせ私なんて・・・」「自分なんていなければいい」「あの人のせいだ」「〇〇さんの言い方はきついよね」「〇〇さんがいると仕事がやりづらいよね」などといった言葉も、神の御前で“悪い言葉”です。うそをついたり、弁明したり、自分の利益だけを考えて出す言葉も、“悪い言葉”です。日常生活で平気で出している言葉が、自分を汚し、相手を獄に閉じ込め、みことばに反して神を敵にまわしているのです。まずは、そんな自分自身の状態を悔い改めなければならないと語られました。

感謝な事に、聖霊のバプテスマを受けているクリスチャンは、牧師に指摘されたらそれが“悪い言葉”であったことが分かりますし、自分がみことばに反する言葉を出した時に、内なる霊が「それは違うでしょ!」と教えてくれます。言葉にする前に、御霊の実の「自制」ができれば、不必要な言葉を吐いて罪を犯すこともありません。これは、おそらく聖霊を否定したり、聖霊のバプテスマを受けていないクリスチャンには分からない感覚だと思います。

 

ローマ7:15~23本

わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。

 

 

“悪い言葉”を出さないという教え一つとっても、クリスチャンホームの中でどれだけ実践できているでしょう。家族の誰かが、「無理だ・・・」と弱音を吐いていたら、「無理じゃないよ!主にあってできるよ!」と正してあげられているのか。

「自分なんていなければいい」と自己卑下になっていたら、「それは神の御前で神の愛を無にしている言葉だよ!自己卑下の霊を一緒に追い出そう!」と祈ってあげられているのか。

どんな会話も、肉の思いだけを吐いて終わることなく、最後は互いの霊を立たせる言葉で終わらなければなりません。

 

ローマ8:5~14本

なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。

それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。 

 

アーメン宝石紫

神の被造物(この世の人々)は、切なる思いで、神の子であるクリスチャンたちの出現を待ち望み、滅びのなわめから解放されたいと思っているのに、クリスチャン同士で、肉の思いに満たされた相手を霊の思いに満たされた状態に戻してあげる会話が日常的に行えていないのであれば、世の中に出ても影響を与える側ではなく、影響を受ける側になってしまいます。クリスチャンではない人の言葉は肉の思いからしか出ないので、相手に合わせて受け答えしていたら、聖霊を悲しませ、神の怒りを受ける事になることをわきまえ知るべきです。悪霊は、クリスチャンからみことばに反した言葉を出させようと機会をねらっているのです。

 

エペソ4:25~5:13本

こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。わたしたちは、お互に肢体なのであるから。怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。また、悪魔に機会を与えてはいけない。盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい。悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。

こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。また、不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。それよりは、むしろ感謝をささげなさい。あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。だから、彼らの仲間になってはいけない。あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい――光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである――主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。

 

アーメン宝石ブルー

 

また、私たちは牧師を通して、家族との会話が、肝心なところに到達しないまま終わる事のないようにしなさいと戒めを受けました。

自分のことを理解してもらえるまで話ができているか、相手のことが分かるまで親身に話を聞いてあげているか・・・コミュニケーションをしている‘つもり’でいるだけで、実際には深くまで話せていない家庭ばかりです。それが、現代では精神病(うつ病)や発達障害に至らせることも、私たちは学びを通してはっきりと教えられてきました。

家族と会話せずに黙る舌、日常生活が忙しく、心に余裕がないまま(心を亡くしたまま)肉の思いばかりを家の中で吐く舌、家族に対する裁きの言葉が先に出てしまう舌、感謝よりも文句がでる舌、言葉足らずな説明しかできない舌、自分の気持ちを相手に分かるように伝えられない舌。その舌の使い方、コミュニケーション不足が様々な家庭問題を生むきっかけとなるのだと語られました。

余計な言葉を出すのなら、その分異言に舌を使うこともずっと言われてきました。神のみ旨にかなうとりなしをすることによって、置かれた場所で聖霊の働きを活発にすることができるのも、クリスチャンに与えられた特権であることを再確認しました。

 

ローマ8:26~27本

御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。

 

アーメン宝石緑

日常生活の時間の使い方、舌の使い方を丁寧に行うこと、表面的なことで終わらず、深くまで見て、聞いて、話し合うことも、神の求めておられる家族の在り方です。それによって、家族間で隠されていたことが明るみになり、たくさんの問題が浮き彫りになることもあるでしょう。自分の人生の中で、家庭の中でまいてきたものは、良いものも悪いものも皆刈り取らなければなりません。

「救われたのに何でこんなに問題ばかり起きるの!?」と不信仰になる人がいますが、今まで触れてこなかった事に触れ、暗やみに光が照らされたら、内に潜んでいた悪霊が大暴れするのは当然です。サタンは、暗闇の世界で光を放っているクリスチャンを攻撃してきます。その中で、示される悪霊を一つ一つ縛り上げ、追い出していく事で、一人の人間が180度変わっていき、家庭内も大改造されていくのです。当座は喜ばしいことではないでしょう。しかし、後になれば平安な義の実を結ぶようになります。そこに到達する前にやめてしまったら、後の状態は初めよりも7倍悪くなってしまうため、クリスチャンは互いに励まし合い、祈り合い、共に悪霊と戦っていかなければならないのです。

 

ローマ8:18本

わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。

 

アーメンキラキラ

 

最後に、【隣人愛】については、ローマ14章で再確認しました。

【隣人愛】の反対は、人を裁くことです。自分と意見が合わないからと言って、裁くのはみことばに反しています。先人パウロは、「他人の僕をさばくあなたは、いったい何者であるか。彼が立つのも倒れるのもあなた(主人)にかかっている!しかし、彼は立つようになる。神は彼を立たせることができる」という信仰に立ち、福音を伝えていきました。私たちは、家庭において、職場において、学校において、各自が置かれている場所において一人一人がパウロと同じ姿勢で人々に向き合えているのか問われ、自分の言動で相手をつまずかせていないか、自分の善悪の判断で相手を苦しめていないか、自分にとって良い事が、そしりの種になっていないか吟味しました。「迫害」と言いながら、実は自分のまいたものの刈り取りであることは多々あります。迫害は、なんらやましい事はないと言える自分である時に初めて言えます。神のさばきの座の前に立った時には、一人一人が神に対して、非難を受けたり疑惑をまねいたりした事柄について、そうせざるを得なかった理由や身の潔白を述べること(=自分の言いひらき)をしなければならない事を忘れてはなりません。

 

ローマ14:1~4本

信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。

 

ローマ14:13~19本

それゆえ、今後わたしたちは、互にさばき合うことをやめよう。むしろ、あなたがたは、妨げとなる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めるがよい。わたしは、主イエスにあって知りかつ確信している。それ自体、汚れているものは一つもない。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのである。もし食物のゆえに兄弟を苦しめるなら、あなたは、もはや愛によって歩いているのではない。あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない。キリストは彼のためにも、死なれたのである。それだから、あなたがたにとって良い事が、そしりの種にならぬようにしなさい。神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。こうしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、かつ、人にも受けいれられるのである。こういうわけで、平和に役立つことや、互の徳を高めることを、追い求めようではないか。

 

アーメン宝石ブルー

クリスチャンには、「我慢」ではなく、救われた事に感謝し、主が必ずかえりみて勝利を得させて下さることを信じて「忍耐」する【隣人愛】が、常に求められています。

今一度、皆が自分の内にある悪・罪と戦い、【隣人愛】を注ぎ出せる者となれたことを感謝して祈ります赤薔薇