隣人愛とは① | ぶどうの木 Good News

隣人愛とは①

holygirlですニコニコ

 

先週のブログ「聖書が教える家庭・家族の在り方」は、共感してリブログして下さった方もおり、たくさんの方々に読んで頂くことができました。棚の中に綺麗に並べられた本や、飾り棚に並べられた高価な皿や壺のようにみことばをしまっておくのではなく、毎日使う食器のように役立てなければならないと教えているクリスチャンの方もおり、アーメンでした。

また、今回のブログに対して、新しく働き人となったN姉妹や、子育て真っ最中の姉妹たちが、自身の体験を基にコメントを書いてくれたので紹介しますリボン

 

N姉妹ヒツジ

今回このタイミングで子供の働き人をさせて頂けることになり、みことばを頂きながらこれまでの自分の歩きを振り返ることができ感謝でした。みんなの前で話しながら自分の霊もアーメン!で、気が引き締まりましたし、改めてみことばに留まり歩むこと、幼い時から聖書に親しみ歩くことの大切さと素晴らしさを語られました。母がイエス様に繋がり忠実に導いてくれたから、今の自分があることにも改めて感謝を思いました。聖書はいつの時代も変わることのない、人が生きていく上で根底に持っていなければならない大切なことが書かれてありますね。善悪の判断も、周りの人にどう接しなければいけないかも、誰に聞かずともみことばを蓄えた人はそこから答えを出せる。そしてその答えは絶対に間違わない!みことばだから!悩んだり、ふわふわ曖昧な考えになったりせず、一本筋の通った生き方ができる人は本当に強いです。そしてイエス様にすべてを委ね、いつも平安で喜んで生活ができます。世の中から、人から生きていく術を学ぶのではなく、この世を創り、すべての人間を創った神から、聖書から学ぶことですね!これから子供たちに自分の受けてきたこと、体験してきたことを話しながら、イエス様と共に歩く人生がいかに素晴らしいかを伝え、子供たちが益々体験していけるように主にあって導いていけたことを感謝します!自分も益々明け渡していく訓練でもあることに感謝し、共に成長していきます!

 

A姉妹ヒツジ

N姉妹の就任の挨拶は、本当に心に響く霊が喜ぶものでした!私自身も小5の娘と同時期に救われ、共に聖書を学ぶようになり、日々迫害で心が折れそうな時も、唯一家で娘とイエス様の話しが出来る事、お風呂で2人で賛美を合唱できる事が日曜集会を待たずして聖霊に満たされる喜びの時間でした。

私が牧師を通して学んだ事、娘が子供の学びでW先生を通して学んだ事、確かに理解している範囲で日常生活で起きてくる問題に当てはめ、解決し、同じ歩調で信仰が強められていったことが感謝でした。

その週に必要な事が本当に毎週リアルタイムで語られる事に2人で驚き感謝しての毎日でした。学校の先生には解決できない事も、みことばに従ったら全てが解決することを娘と共に体験体得させていただいております。

聖書なくして、我がまま娘の思春期をどう扱っていたかと想像すると恐ろしく、今こうして親子で学ばせて頂いていることに感謝しかありません。

学校、友達関係、日々色々な事が起きていますが、みことばで声かけすると、曇った表情も一気に明るく平安に変わります。神に愛された一人の姉妹、とても愛おしく思います。合言葉は、主にあってできる!喜ぶ事が力!で励まし合い、みことばを愛して行い、神に喜ばれる子育てをしていきます!

 

B姉妹ヒツジ

聖書を学び始めたきっかけは、自分の子育てについて悩んだからでした。先ず親が変わる事からスタートで、主にあって様々な訓練を通していただいてきました。様々な体験をしてきましたが、今は、親となり神の子を預かる事は、やっぱり神が与えてくださった最高の祝福なのだと確信する日々を送っています。

肉では夫婦であり親ですが、霊では兄弟姉妹として、達し得た所に従って、みことばにより祈り合い、訓戒し合い、助け励まし合ってきました。そんな中で自分や家族が霊に立ち返り、解放されて力を得る交わりに一番の喜びを感じ、爆発的な聖霊の力を体験し、イエス様への感謝が溢れる体験をたくさんしてきました。歩みは決して理想的なものではなく様々な失敗を繰り返しながらでしたが、それがあるから体得できた事もたくさんあり、一つ一つがイエス様からいただいた宝物なので大切にしています。子供に対しては、箴言三章をいただいていて、知恵=イエス様が一番の富とする人生を生きて欲しいと願っています。

集会で語られたさびを取り去り、いつも聖霊に満たされた状態(御霊の実の状態)を守り、自分自身が生ける水の川を流すのだという自覚を持って喜んで進んでいきます。

 

C姉妹ヒツジ

神の秩序正しい導きによって、全く新しい親子関係が築かれた今日に感謝します。子どもとの会話において、霊を立たせる声かけで終わらせるという親の心得、アーメンです。聖書を学び、寛容な心で第三の天からものを語り、子どもを霊の思いに戻してやれる大人がますます増えるように祈ります。身の回りで証が与えられていることに感謝し、それぞれが証の言葉で異邦人を救い出せる光となれたことを感謝します。

 

 

今週の集会では、【隣人愛】について学びました。【隣人愛】とは、【自分を愛するように、隣り人を愛すること】ですハート

【隣人愛】を掲げている企業や病院、学校がありますが、そこにいる職員や生徒の中で【隣人愛】とはどういう事なのか説明できる人がどれだけいるでしょう。これは聖書の言葉です。真の神を愛さず信じていない人間に、【隣人愛】と言ってもピンと来ず、それを求めても行うことはできません。なぜなら、【隣人愛】の前に求められているのは神に対する愛だからです。

『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』

まず人間は、神・イエス様と自分の関係を知らなければなりません。これなくして、隣人を愛することはできないのだと語られました。

 

ローマ8:31~32本

それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。 

 

ローマ8:38~39本

わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

 

アーメン宝石紫

 

先週末、天皇陛下の即位祝賀式典と、両陛下即位パレードが行われました。祝辞の中で「日本国民は天皇陛下のためにがんばります」という言葉があり、天皇を神として大勢の人が死んでいった第2次世界大戦の時のことを思い、ドキッとしました。「天皇陛下、万歳!」と万歳三唱しているのも異様に感じました。

私たち人間が愛し、心をつくして仕えるのは、主なる神だけであるにも関わらず、日本人は国家神道を土台に天皇を崇拝し、見える人間だけに愛を注ぐ道徳教育を受けてきました。人に対してどうあるべきかという心(魂)の教育の中で【隣人愛】を学んでいても、悪霊は心に入り込んでくるので、正しい判断(神の義)よりも情欲に先導されてしまえば、相手に嫌われたくないからと妥協したり、自分の身を守ることを優先させてしまいます。それよって余計に問題がこじれたり、いずれは爆発してしまうような我慢が伴う(偽善)ことがあります。また、自分が助けて相手の状態が良くなったり、問題が解決すると、自分を誇りたくもなります。神を頭にしていない【隣人愛】は成立しないのです。

 

聖書は、まず真の神であるイエス・キリストを受け入れて死んでいた霊を生き返らせて神との関係を回復し、霊から人間を教育します。第一に自分対神との縦の関係がある事、その次に隣人を愛するという自分対人との横の関係があることを教えます。それによって、どんな状況下においても神が自分の心を見ておられる、神の御前でこれは行なって良い事なのか、これは言っても良い事なのか、自分の言動はどうなのかを第一に考え、聖書の教え(神の言)に照らし合わせて過ごせるようになります。そうすると、自ずと他者に対する批判や悪口は言えなくなり、聖書に書かれてある通り、【愛、喜び、平和(平安)、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制】の思いを持って人に接する事ができるようになります。困っている人や病気で苦しんでいる人、悩みや問題に押しつぶされそうになっている人がいたら、放ってはおけなくなり、福音を伝えたい思いに満たされます。たとえ相手がその愛に応えなくても、怒ることはありません。神によってさせて頂いている事であり、神が全てご存知であるという信仰に立つことができるからです。この真理に立つ時、私たちは全ての人に対して善を行うことができるのです。

 

ローマ12:17~21本

だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。

 

アーメン宝石ブルー

 

イエス様は【隣人愛】について次のようにおっしゃいました。

 

ヨハネ15:12~14本

わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

 

アーメン宝石赤

そして、次のようなたとえ話もされました。

 

ルカ10:25~37本

するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。

 

アーメン宝石緑

この時代の祭司は、神と人間をつなぐ仲介者であり、罪人のために犠牲をささげ、罪が許されるように祈る人であり、レビ人は、神殿で奉仕する人です。どちらも神に仕える仕事をしていましたが、強盗に襲われた人を助ける事なく、見て見ぬふりをして向こう側を通っていきました。クリスチャンと言いながら、真理を知っていながら、何もせずに見て見ぬふりをしていないかと問われました。

強盗に襲われた人を助けたのは、サマリヤ人でした。サマリヤ人は、一番身分の低い人と言われていましたが、彼は強盗に襲われた人を気の毒に思い、介抱しました。

このたとえ話のあと、イエス様は、「だれが強盗に襲われた人の隣り人だと思いますか?」と聞いたのではありません。「隣り人になったと思いますか?」とおっしゃいました。ここに大きな違いがあります。私たちは隣り人になっていかなければならないのです。

行動が伴った人、自分の状況をかえりみずに時間もお金も、自分にとっての計画も全て捨てて慈悲深い行いができる人、霊的に友のために自分の命を捨てることができる人が、隣り人になるのだとこのみことばを通して語られました。

 

日常生活の様々な場面でどのように振舞うのか、神は常にその心を見て試しておられます。この世に生きている限り、真理を知らずに救われてもいない人は皆、強盗に襲われた人です。【これらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。】(マタイ25:40)とイエス様がおっしゃったように、自分の隣り人に対して、神・イエス様と同じように愛し、敬い、仕えることのできるクリスチャンにならなければいけないと語られました。

 

ローマ14:7~8本

すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。

 

アーメン宝石紫

 

 

つづく・・・ベル