聖霊のご性質と働き | ぶどうの木 Good News

聖霊のご性質と働き

holygirlですニコニコ

 

先週、牧師(母)と私と妹は、諒兄弟のトラクト「生きる力、赦す力」を通して知り合った九州の教会のO牧師に会いに行き、教会の姉妹達も共に2日間交わりました。O牧師は、ぶどうの木牧師との出会いによって長年聖霊と悪霊に対する知識なく神学によって信徒たちを導いてきたことを猛省され、聖霊の力を受けて牧会していきたいと強く望まれ、今回私たちを招待して下さいました。

その教会の姉妹たちは、ぶどうの木のトラクトを通して、正しく救いの告白をし、聖霊のバプテスマを受ける祈りと異言を頂く祈りもしていたのですが、なかなか聖霊の働きを実感することができず、異言も自然に出なかったため、O牧師もなぜなのかと悩んでいました。そんな皆さんに、イエス様がぶどうの木の牧師を通して、聖霊のご性質と働きについて語って下さいました。とても大事な教えだったので、私たちも今週の集会で、ヨハネ14章を読みながら再確認しました。

 

ヨハネ14:6~17本

イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。

 

アーメン宝石緑

よく既成の教会で聞くのが、「聖霊様、来て下さい!」という祈りです。しかし、聖霊は私たちクリスチャンと共におられ、内におられるのではないでしょうか?

イエス様を受け入れた時、聖霊も入られますが、聖霊に満たされていると感じられないのは、まず、聖霊のバプテスマを受けていないという事が考えられます。イエス様を受け入れ、聖霊も入られたら、そのままにしておくのではなく、一度全身を聖霊によって満たす体験をしなければなりません。その上で、聖霊に満たされた状態を持続することが求められます。私たちはその姿を、改めてトラクト「神の国は力である」にある人体図で確認しました。

 

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まず、この(2)~(3)の段階を経ていることが聖霊の働きを体験するために必要です。そして、常に一番右側の「聖霊に満たされ続けているクリスチャン」に対して、聖霊は働かれるのです。牧師であっても、聖霊に満たされ続けるなんて無理だという人がいますが、はっきり言って、無理な人が牧会などできないと思います。

 

イエス様だけが、道であり、真理であり、命です。イエス様を知る者・見た者は、天の父である神を知り、見たという事になります。そして、イエス様御自身が、「わたしを信じる者は、わたしのわざを行い、わたしを愛する者は、わたしのいましめを守るべきである」とおっしゃいました。聖霊はイエス様のわざを行い、イエス様のいましめを守ることができるように働く助け主です。神・イエス様の栄光に繋がることだけに働いて下さいます。

しかし、この世・自分の知恵によって神を認めるに至らない人たちは、その聖霊=真理の御霊を見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることが出来ません。これは、イエス様を愛していると言いながら、自分の私利私欲のために祈り、自分の義で、「あなたのわざを行うから力を貸して下さい!」と求めるクリスチャンに対しても言えます。イエス様が願いをかなえて下さるのは、天の父が栄光を受けるためであるとはっきりおっしゃっているにも関わらず、どんな祈りをしているのか・・・まず、誰かを裁いている人の祈りはきかれません。そして、自分の勝手な願いや希望(神の御心に無い、御旨に反している中身)には働かれません。神の御心に反していれば、祈りがきかれないのは当然です。

既成の教会では、何のために聖霊様を呼び求めているのでしょうか?自分の私利私欲が満たされ、自分の義を行えた事に対して、「聖霊の働きだ」と言っているクリスチャンがいますが、実は光の天使に擬装したサタン・悪霊の働きではないでしょうか?木は実で判断することができます。自分自身にどんな実がなっているのか、良い実なのか、悪い実なのか・・・悪い実ばかり成らせていれば、天の父に取り除かれてしまいます。

 

ヨハネ15:1~2本

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。

 

アーメンぶどう

 

また、第3ヨハネ2節には、【愛する者よ。あなたのたましいがいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと、わたしは祈っている。】と書かれてあります。たましいがいつも恵まれ、喜んでいるのか、ねたみ、裁き、憎しみ、恨みの思いがないか、衣食住が与えられ、平安に生活できているのか、健康な体が与えられているのか・・・一つでも欠けていたら、神の御心を行なっているか吟味しなければなりません。

病気や不幸を試練と思っているクリスチャンが多いですが、まずは、イエス様が癒し主であり、サタンに唯一打ち勝った神であることを信じているでしょうか?そして、自分自身が神のいましめを守っているでしょうか?信じ、いましめを守り行う時に聖霊が働き、病気は癒され、目の前に立ちはだかっていた現実問題という山は動くのです。

そして、病気の癒しは何のために求めているでしょうか?第1に、神に仕え、自身を使って頂きたいという思いで求めているでしょうか?第2に隣人のために生きたい!福音するために癒されたい!と求めているでしょうか?神の御心にかなった祈りをする時、自分自身をすべて捧げて祈る時、求めたら与えられるとイエス様は約束して下さっているのです。

 

 

ヨハネ14:18~31本

わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。イスカリオテでない方のユダがイエスに言った、「主よ、あなたご自身をわたしたちにあらわそうとして、世にはあらわそうとされないのはなぜですか」。イエスは彼に答えて言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である。

これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。『わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る』と、わたしが言ったのを、あなたがたは聞いている。もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きいかたであるからである。今わたしは、そのことが起らない先にあなたがたに語った。それは、事が起った時にあなたがたが信じるためである。わたしはもはや、あなたがたに、多くを語るまい。この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない。しかし、わたしが父を愛していることを世が知るように、わたしは父がお命じになったとおりのことを行うのである。立て。さあ、ここから出かけて行こう。

 

アーメン宝石ブルー

何もせずに、自身は何も変わることなく、聖霊の働きをただただ待ち望んでいるクリスチャンがいますが、聖霊は助け主であり、私たちが何もしなければ働いて下さいません。聖霊は、イエス様のみことばを行うことに意思を向けて一歩踏み出した時にはじめて、働いて下さいます。まずは自分が変わること!自分が一歩踏み出すこと!この教えが欠けている教会がたくさんあり、この誤解こそがサタンの策略です。

イエス様を愛していると言いながら、戒めを行なわないなら、真にイエス様を愛してはいません。イエス様を愛しているなら、戒めを心にいだいて守り、行ないます。そして、クリスチャン自身がイエス様をあらわすことができるのです。それがクリスチャンになったという事です。

そして、イエス様が【もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。】とおっしゃって下さることは、最も素晴らしいクリスチャンの繁栄であり、最高の富ですキラキライエス様が内におられ、共に住んでおられるのですから、「主よ、来てください!」と求める必要はありません。また、まるで耳が遠い人に言うように、「主よ!」と叫び求めなくても、イエス様はちゃんと聞いておられます。私たちの心の内は全てご存知であり、何を求め、何をたくらみ、どんな悪を抱いているのかお見通しです。イエス様との距離が遠く感じる教えも、サタンの策略だと思います。

 

イエス様は目には見えません。実際の声も聞こえません。しかし、天にあげられる前に、私たちクリスチャンに聖霊の存在を教えて下さいました。そして、【助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。】とおっしゃいました。ですから、私たちは牧師を通して、「助け主聖霊に聞く訓練を求めなさい」と語られました。聖霊は静かで穏やかな方ですから、肉がうるさく、この世の事に煩わされていたら、聖霊の指示は分かりません。肉を打ち叩き、聖霊に満たされたクリスチャンだけが、神の言=みことばを語る者となるのだと語られました。

そして、そのようなクリスチャンとなって世に出ていくことが求められます。サタンはイエス様に対してなんの力もありませんが、クリスチャンが聖霊に満たされることなく、この世の影響を受けて心を騒がせているなら、自ら敗北しています。何を握らされ、何に捕らわれているのか、吟味しなければならないと語られました。

 

聖霊のご性質と働きについて、ぶどうの木牧師が語った事を聞いた九州の教会の皆さんは、ヨハネの黙示録3:15〜16に【わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐きだそう。】と書かれてある通り、自身がどれだけ生ぬるいクリスチャンであったかを悟り、自分が神の戒めを守り行う者ではなかったことを認めました。特に裁きの思いが自分の内にあった故に、聖霊の働きを止めていたこと、神に忌み嫌われるクリスチャンのまま祈り求めていた事に気づき、悔い改めに至りました。そして、改めてぶどうの木牧師の導きのもと、異言を求める祈りをすると、異言が溢れ出たのです。

 

O牧師は、交わりを通して語られたことを受け、「私は既成の教会が聖霊の力によって変わることを示したい!彼らの見本になりたいです!」と涙ぐみながらおっしゃいました。そして、自身が何十年もゆるせないまま、その存在さえも憎んで来た人がいることを告白されました。悪霊の存在を知らずにきたために、血肉の戦いをしてきたことをぶどうの木牧師を通して解き明かされ、自身の罪の重さに気づかれました。牧師の内に憎しみの霊があれば、信徒の魂を解放するメッセージなどできません。信徒が圧迫され、聖霊が働かれなかったことも理解できました。

私たちとの交わる中でO牧師は、内側からキリストの思いに初めて満たされ、憎しみが神の愛へと変わりました。そして、私たちが帰った後、その神の愛を長年憎んできた相手に注ぎ出すことができ、和解することができました。さらに、自身の神学と牧会の仕方を捨て、悔い改め、聖霊に聞き、聖霊によって語ることを求めて、その週から牧会を始められました。週報を作らず、ディボーションテキストを用いてみことばを読み、祈り、神と交わるというやり方をやめ、その日、その時に自分の霊からあふれる思いを言葉にして信徒に語っていったそうです。すると信徒から、「今日の先生のメッセージは力強かったです!とても恵まれました!」と言われ、聖霊による礼拝の在り方を体験し、聖霊の力を実感したと早速証を聞かせて下さいました。意思を向けたら、古いものは一瞬にして過ぎ去ります。全てを新しくして下さる神なのですピンクハート

 

全ての道で主を求め、明け渡すことによって御霊によって歩むことができます!プログラムをつくることなく、集まって来る一人一人が聖霊に聞くことによって、神の御心にかなった集会を行うことができます。牧師も、その日に集められた羊の益になるメッセージをすることができます。羊は、牧師の神学を聞きたいのではなく、神が語られることだけを聞きたいのです。

神学を学び頭脳偶像礼拝になると、神に対して自己主張・自己正当化が始まります。できる事と、無理な事の判断を頭でするようになり、「主にあってできる!」という教えはありません。みことばを選り好みするクリスチャンに聖霊は働きません。霊で聖書を読み、みことばを実践する時、神の御心を行なうクリスチャンと認められ、聖霊の助けを100%得ることができるのだと語られました。

 

最後に箴言3:1~35に書かれてある生き方こそ、聖霊に聞き従ったクリスチャンの歩みであると語られましたので紹介します赤薔薇

 

箴言3:1~35(リビングバイブル)本

私の教えを忘れてはいけません。充実した人生を送りたければ、私の命令を忠実に守りなさい。いつも正しい生活をし、人には親切にするのです。この二つが心から行なえるように、しっかり身につけなさい。神にも人にも喜ばれ、物事を正しく判断できるようになりたければ、徹底的に神様に頼ることです。絶対に自分を頼ってはいけません。何をするにも、神様を第一にしなさい。神様がどうすればよいか教えてくださり、それを成功させてくださいます。

思い上がって、自分の知恵をあてにしたりしてはいけません。むしろ、神様をたいせつにし信頼することで、悪の道から離れなさい。心も体もみずみずしく元気いっぱいになります。

収入があったら、まずその一部をささげて、神様をあがめなさい。そうすれば、倉には食べ物があふれ、酒蔵は極上の酒でいっぱいになります。

神様に懲らしめられても、腹を立ててはいけません。あなたを愛していればこそ、そうなさるのです。父親がかわいい子供の将来を思って罰するのと同じです。

良いことと悪いことの区別がつき、物事を正しく判断できる人は、大金持ちよりもしあわせです。高価な宝石であれ何であれ、このような知恵に比べたら問題にもなりません。知恵が与えるものは、充実した人生、財産、名誉、楽しみ、平安です。知恵はいのちの木、いつもその実を食べる人はしあわせです。

神様の知恵によって地球は造られ、宇宙は完全に出来上がりました。神様の知恵によって、泉は地中深くからわき上がり、空は雨を降らせます。

二つのものを求めなさい。善悪を見分けて実行する知恵と良識です。この二つを見失ってはいけません。知恵と良識を持つことはたいへんな名誉です。そればかりか、生きる力が与えられ、失敗をしたり、道を誤ったりすることもなくなります。この二つのものが見張ってくれるので、安心して眠れます。また、神様がそばで守ってくださるので、みじめな思いをすることも、悪人の悪だくみを恐れることもありません。

人に何か頼まれたら、すぐにしてやりなさい。「いつかそのうち」などと、あとに延ばしてはいけません。あなたを信じきっている隣人を陥れてはいけません。どうでもいいようなことで争うのはやめなさい。暴力をふるう連中をうらやみ、その手口をまねてはいけません。神様はそんな連中が大きらいです。しかし、きよく正しく生きる人には親しくしてくださいます。

結局、悪者は神様にのろわれ、正しい人は祝福されます。あざける者はあざけられ、謙そんな人は助けられ、知恵のある人はたたえられ、ばか者は恥をかくのです。

 

アーメンダイヤモンド

【知恵】を、「イエス様」に置き換えて読むと、クリスチャンとなった恵みをより深く理解することができました。主の御前で、正しい者であるか・・・日々自分自身に問いながら、御霊によって歩んでいけたことを感謝します王冠1

 

ガラテヤ5:16本

わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。

 

ローマ8:14本

すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。

 

アーメン!