真の富とは「祝福の資源なるイエスキリストを知ること」 | ぶどうの木 Good News

真の富とは「祝福の資源なるイエスキリストを知ること」

Sayuriです。

 

 

死の使いが持ってくる様々な状態と戦いながら、牧師がイエス様に語られたことは、対峙している症状は、ぶどうの木が戦っているLGBTを使った人類滅亡のサタンの策略、前進していくぶどうの木の働きの先にある霊力、そこにいる人たちを騙している様々な悪霊力との戦いでした。

 

そして、この群れの兄弟姉妹の霊的状態、羊たちの34代の悪霊との戦いでもありました。

吐き気は神の宮である体から、汚れた物が出ていく必要があると語られましたが、なかなか吐き出すことができず、苦しいばかりです。頭痛は、いつまでたっても自分の価値判断・やり方・占いによって思い煩い、みことばにすべてを信頼できない状態。特に心臓の痛みはイエス様よりもお金を愛し、握らされている状態。自分のやり方(この世がかしら)で自分を守ろうとする。ここにいる兄弟姉妹がたくさんいるのです。

牧師からは「人が全世界を儲けても、自分の命を失いまたは損したら、なんの得になろうか。皆が握っているものが多すぎる!しっかりイエス様だけを仰ぎ見て歩いているか?それぞれが吟味してください!この世に片足を突っ込んだままではイエス様と共に歩くことはできません。握ったもの、自分の考え、やり方で滅ぼされてしまいます。それが人間を地獄に引き込むサタンのやり方なのだと知り、忌み嫌わなければなりません!」と訓戒が入りました。

 

<ルカ9:23~26>

それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、自分の栄光と、父と聖なる御使との栄光のうちに現れて来るとき、その者を恥じるであろう。

 

この戦いは牧師の訓練でもあり、定期的に行われる霊のメンテナンスでもありました。

牧師はこの戦いを通して、未だ様々な霊力の下にいる羊たちのとりなしをしていたのです。

そして牧師自身としては自分が牧会する羊を騙しているこれらの霊力に打ち勝っていなければ羊を預かり牧会する任務は果たせないのだと語られました。

 

牧者は地獄の入り口に吸い込まれそうな羊をその破れ口に立って、羊を地獄にやるまいと命がけで戦う者です。しかし、救われてもなお、イエス・キリストよりもこの世・サタン悪霊を愛して自ら地獄行きを選択してしまう人もいます。どんな生き方をするのかは、その人間の意志にかかっています。

牧者は牧者の訓練を通りますが、群れの一員とされた羊にも問われることがあります。

もし、羊自身が怠惰であり、自分を騙している霊力と真剣に戦わないならば、その分の戦いはすべて牧者に来ます。サタンは群れの牧者をつぶしにかかり、群れを散らしにくる。それが霊の世界で起こる事です。羊は各自、自分の怠惰によって牧師を攻撃するサタンの武器に自分が使われていないか吟味する必要があります。

 

そして、今回O牧師を通して示された黙示録のみことばと、姉妹を通して与えられた詩篇のみことばから、私たちぶどうの木の兄弟姉妹もそれぞれが自分を吟味しなければならないと語られました。

 

<ヨハネ黙3:15~22>

わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。 このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。(あなたは裸の王様なのです。この世に何の保証があるのか?握っているものは何だ?それはすべて裸の恥ではないか) そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣(真っ白で汚れのない聖さ・清さをあらわす。自分の考えや、そんなことまでは無理です、信じられない、と言うようなドブネズミのような汚れではない)を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。 すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。 勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。

 

 

<詩篇1篇>

悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。

このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。
それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。

 

 

人間にとって真の富とは、「祝福の資源なるイエスキリストを知ること」であり、どのようなことが起こっても、イエスキリスト=みことばに留まっている人が神の目から見て、「富んでいる者」です。

 

イエス様=みことばよりも、この世を重んじ、自分の価値観や、古い時代の思考回路に振り回されたり、自分のやり方により頼む者を、「あざける者」と言います。自分の頭や感覚で理解できないことに対しては「宗教じゃない?カルトじゃない?」と言って自分を吟味することなく、主にあって起こってきた事柄の方を否定するのです。

肉と霊は真反対なので、自分では「大丈夫」という人ほど、神の目から見たら、みじめで哀れで、貧しく、目も見えず(霊的盲目者)、裸な者なのです。あざける者は、神に対する高ぶり=不信仰のゆえに、悪人であり、罪人であると、みことばは教えています。これを聞いて、「え!?私は信仰があるつもりなのに、不信仰と言われるのか?これ以上どうしろというのか?」と思うでしょうか。しかし、この世の中でどんなに自分の力で頑張っても守れるものなど何もなかった!と痛感して救われた私たちが、微塵でもこの世に良いものがあった、より頼むべきものがある。自分は賢く、自分のこれまでのやり方にも価値があったと握り、再びこの世に引き返そうとするのなら、神から、悪人で罪人であざける者と呼ばれるのは当然のことなのです。だから、牧師から、神の国に属する者となりながら、片足をこの世に突っ込んでいては真理の道は進めない!その道は危ない!という訓戒が入ったのです。

子育てにおいても、この世の情報や自分のやり方が、子どもを真に安全で全うな道に導くことはありません。自分や子どもの生き方に対して、すべてのことを世の情報から得るのか、主に信頼するのか…それはその人が口から出している言葉で分かります。この世を握り、この世のどこへ出入りし、何と交わり、何を聞いているのか。霊的に盲目なままで無防備にこの世に出入りしているのであれば、あまりにも現実主義になりすぎて(見えるものしか信じない)見えないものを信じる信仰など育つはずがありません。

現実問題を目の前に置きこの世の情報ばかり、相手の見えるところばかりで物事を判断するならば、すぐに平安をなくし、恐れが襲ってきます。悪い事ばかりを占いそれを言葉に出す時、その言葉がサタンの格好の武器になります。サタンは「ここがあいつの弱みか!この方法であいつを揺さぶればあいつは簡単に信仰をなくすぞ!」と喜び、執拗に攻撃してくるようになります。現実問題、この世の都合ばかりを握っていたら、サタンはずっとそれを使って攻撃してきます。子どもの教育を握っていたら子どもが使われ、仕事を握っていたら仕事が使われて、霊の交わりをする機会も霊の糧を得る機会も失ってしまいます。気が付いたら霊の生き物であるはずのクリスチャンが肉の思いに支配された、ただの肉の塊に成り下がっているのです。霊はしぼみ、イエス様の声など聞こえません。人は握ったものによって滅ぼされると教えられてきましたが、握ったものがあればサタンがそれを武器に攻撃してくるからです。握っているものがあなたをイエス様から離すサタンの武器になる、という理由があることを覚えておかなければなりません。

 

めくらであざけりに陥っている人は、自分の姿が見えていません。自分では信仰があると思っているかもしれませんが、信仰がある人とは、状態に捕らわれず、血肉の戦いをせず、どんな時もたゆまずみことばに留まり、守り、行う人を言います。

霊の監督者である牧師は、神から預かった羊に真の富を知らせ、得させる働きがあります。ですから、羊の霊的状態を指摘し、心の戸を叩きます。それを、嫌がって無視するのか、交わりを避けるのか、または霊の交わりよりも肉に仕えることを選ぶのかは、その羊次第ですが、意志を向けて自分の心の扉(肉の領域です。自分で意志を向けるのみ)を開ける人は祝福を得ます。イエス様と共に食事をする=命に至るパン・すべてに勝利された霊なるみことばをいただき、霊からの元気を得ることができます。再び神の子としての自分を取り戻して、流れのほとりに植えられた木となり祝福にあずかる者となれるからです。

 

牧師の母教会にはたくさんの証があります。今回、牧師を通して、この世の情報をかしらとするのではなく、すべてのことをイエス様に聞くことが、この世の災いから逃れる唯一の道であるという証を聞きました。

それは1995年に起こった、阪神淡路大震災での事でした。母教会の兄弟姉妹たちは皆、不思議なことに、危機的な状況が起こる事をイエス様に知らされていたのです。それは「地震がくる!」という具体的なものではありませんでしたが、例えば、それぞれにトイレットペーパーを多めに買っておこうとか、水を多めにストックしておこうという思いを入れられて、皆そのとおりにしていました。また、聖霊に聞いてその日は旅行に出かけていた人もいました。

そして地震が起こりました。

備蓄を整えていた人は家屋の倒壊などがない地域の人で、直接の被害はありませんでした。聖霊に促され旅行に出ていた人の家は、大変な被害に遭った神戸にありました。しかし、家を不在にしていたため、命を取り留めることができました。

神戸に住んでいたある人は、家が倒壊してしまったのですが、超自然な導きで命を取り留めることができました。彼女は、普段一階で寝ていましたが地震が起こった日は二階で寝ていました。地震が起こり、寝ていた二階部分がそのまま一階に落ち、一階はぺちゃんこになりました。もし、普段どおりに一階で寝ていたら間違いなく圧死していたところでした。当日は冬でしかも明け方に起こった地震だったのであたりは真っ暗闇で何も見えません。しかし、彼女の部屋に掛けてあった懐中電灯が地震によって床に落ち、その衝撃でライトが付いたのだそうです。手の届くところにあった懐中電灯を拾い、辺りを照らしてみると、辺り一面にガラスの破片や倒壊した家具や壊れた木片など、様々なものが散乱しているのが分かったそうです。それで彼女はまずスリッパをはき立ち上がりました。ここからどうやって逃げようかと思い、辺りを照らしていた時、彼女は驚きました。自分の前に、道ができていたのです。それは地震で外れたふすま、ドア、倒れた柱や家具によってできた安全な道でした。まさに、イエス様が、ここに道がある、この道を歩きなさい。と備えてくださった道でした。彼女は懐中電灯で照らしながらその道を行きました。そして、安全な場所までたどり着き、後ろを振り返ると、さっきまで自分がいた場所はすでに火の海になっていたのです。

兄弟姉妹たちはこの様にして命を取り留め、災難を逃れていました、しかも、復旧や復興も、彼らのいる場所がどこよりも早かったそうです。

彼らの身に起こったことは、まさに詩篇91そのものでした。彼らはこの世の情報により頼むよりも、この世のどんなことよりも、イエス様を避けどころとしていたのです。

霊が蘇った人間、聖霊が導いてくださっているクリスチャンとはこのような人を言います。神のおきてをいつも喜んでいる人は、実を結んでいく、というみことばに間違いはありません。

 

 

<詩篇91篇>

いと高き者のもとにある隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。

主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。
主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。
そのまことは大盾、また小盾である。あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。
あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。
これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道であなたを守らせられるからである。彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする。あなたはししと、まむしとを踏み、若いししと、へびとを足の下に踏みにじるであろう。
彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう。