13年目初集会①―ヘブル人への手紙13章を霊で読む― | ぶどうの木 Good News

13年目初集会①―ヘブル人への手紙13章を霊で読む―

holygirlですニコニコ

 

先週のブログ『握っているものがあれば祈りもゆがむ』で、祈り方を紹介しましたが、ぶどうの木の祈り方は悪霊がいる事が分かっている前提での祈りなのだと再確認しました。

ぶどうの木の兄弟姉妹たちは、数ヶ月のうちに悪霊の存在と動きが分かるようになります。牧師が特別に教え込んだわけではなく、ただ日々みことばと、みことばに基いた教えを「アーメン」と受けて霊に蓄えていくだけで、確実に進歩している羊の姿に、牧師自身が毎回驚かされています。

聖書のみことばを知性や心で理解するのではなく、霊で読む時、文面だけでは分からない神の奥義を知るようになります。私たちのみことばの解釈の仕方に対して、神学を学んできた既成の教会の牧師から、「そういう意味ではない」と指摘を受けたこともありますが、神の御心は神の霊によってでしか分からないのだと、私たちは体験を通して学んできました。大事なのは、みことばの意味や歴史的背景を知る事よりも、そのみことばをどのように受けて実行し、どんな実を成らせたのかという事だと思います。

そして、先週のブログにも書いたように、見える状態から、「いやして下さい」と祈るのではなく、なぜ病気になってしまったのかを知る・・・そのためには聖霊が必要です。悪霊の存在を軽んじたり、悪霊の存在が分からないクリスチャンは聖霊のバプテスマを受けていないと断言できます。なぜなら、霊の世界は聖霊対悪霊の戦いの世界であり、悪霊を見極め、的確に戦うために聖霊が助け主として与えられているからです。聖霊と悪霊に対する理解は、セットだと思います。

 

また、悪霊は神の言葉を読ませないように、聞かせないように攻撃してきます。集会中の居眠りは最も分かりやすいあらわれであり、それによって牧師は羊の霊的状態を知ることができます。その羊に一番必要だからこそ、悪霊は攻撃してくるのです。それを本人が自覚すれば、意思を向けて眠気の霊と戦うことができます。

さらに、大事なメッセージの途中でトイレに行ったり、咳き込む事も、たまたまではなく、聞かせまいとする霊力や、自分の内側にある悪が出されていると言えます。聖なる集会場で起きる事を軽んじてはなりません。聖なる集会場に行かせまいとする霊力も、常に働いていることも忘れてはなりません。それほど、霊の世界は見える世界よりも現実的であり、クリスチャンは日々戦いの中におかれていること、戦う権威はクリスチャン自身に授けられているのだから、行使しなければならないのだと語られました。

 

 

13年目初集会を迎えるにあたり、長老を通してヘブル13:1~17が与えられました。霊でみことばを解釈する牧師を通して、私たちは今週もみことばに対する理解を深め、クリスチャンとしての在り方を確認していきましたガーベラ

 

①ヘブル13:1~3本

兄弟愛を続けなさい。旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は、気づかないで御使たちをもてなした。獄につながれている人たちを、自分も一緒につながれている心持で思いやりなさい。また、自分も同じ肉体にある者だから、苦しめられている人たちのことを、心にとめなさい。

 

アーメン宝石赤

そのまま読めば、【旅人】は、旅をしている人であり、【獄につながれている人】は、今刑務所に入っている人だと受けるでしょう。しかし、霊で読むと、【旅人】は、自分と関わる全ての人です。76億人の世界人口の中で自分と関わる人がどれだけいるか・・・それだけ考えても自分と関わる人は神の導きによって出会ったとしか言えません。そして、【獄につながれている人】は、サタンの獄屋につながれている人です。つまり、イエス様に救われていない全ての人、救われていても信仰の破船にあって苦しんでいる兄弟姉妹たちの事です。その上で、このみことばを読んでいくと、隣人愛について教えられますひらめき電球

【自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ】(マタイ22:39)とイエス様はおっしゃいました。しかし、これは第2の戒めであり、第1の戒めは、【心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ】(マタイ22:37)です。神を愛して戒めを守り行っていない人間が、隣り人を愛していると言っても、それはイゼベルの霊・情欲の霊による偽善にすぎません。人の心はよろずのものよりも偽り、はなはだしく悪に染まっていますから、隣り人が自分の意にそぐわなければ、一気に腹が立ち、簡単に関係を断ってしまいます。だからこそ、本当の隣人愛は、まず神を愛する事からであると私たちは語られました。クリスチャンは神との関係をしっかりと築いているからこそ、神の戒めを守って隣り人を愛することができるのです。

 

私たちは霊・魂・体でできており、霊をよみがえらせる事によって、まず霊にみことばを蓄え、それを魂、体に連動させていきます。霊が神に向く時、魂は隣人に向きます。神に仕える気持ちで、隣人にも仕えることができます。

霊から魂への連動のパイプが詰まっていると、神には仕えていても(実際は仕えているつもりでいるだけ)、隣人の痛みが分からないクリスチャンになってしまいます。

また、霊的なことばかりに偏ると、魂(知性・心)はいらないという思考ルートになり、どんどんカルト的になっていきます。ぶどうの木牧師もかつてそのような状態に陥りました。霊と魂を切り離して考えることはできません。霊がよみがえれば、魂も清く正しいものになっていきます。ぶどうの木牧師は、【主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。】(詩篇23:3)というみことばによって、魂が死んでいた事に気付かされ、霊の学びを魂で実践する事によってカルトから解放されました。

 

ある姉妹は、ぶどうの木牧師と同様、カルト的になって人をつまずかせた時のことを振り返って、「私は神に仕え過ぎていた」と発言しました。しかし、そのような言葉自体、自分の肉がピンピン生きている状態で神に仕えていることを証明しており、高ぶりであると戒めを受けました。

生きているのは私ではなく、イエス様が私の内に生きておられるという事がなくなってしまうと、独り善がりの歩みになっていきます。どこまでも自分がやる!という思いでいたら、イエス様を助手席に座らせて、自分が運転している状態と同じです。クリスチャンは、イエス様に明け渡した器であり、神が喜ばれるのは明け渡した器だけです。運転手はイエス様、イエス様と一体となっている自分でなければならないと語られました。

キリストの思いに満たされたら、【友のために命を捨てる】のがクリスチャンです。このみことばもそのまま受けたら命がいくつあっても足りません。友のために、自分をかえりみずに真理を語ること、自分の利益を求めず、常に【受けるより与える方が幸い】という立場でいなければならないのだと語られました。そして、【福音のためならどんな事でもする】という姿勢も再確認しました。

 

第1コリント9:19~23本

わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。

 

アーメン。奴隷は言い訳しません。無条件で聞き従います。何とかして幾人かを救うというキリストの思いに満たされていれば、どんな相手であっても赦し、愛し、聞き従います。このみことばの土台にも隣人愛があるのだと語られました。

 

第1に神を愛し、その愛を土台に隣人を愛することを私たちは忘れてはなりません。その隣人は、自分自身の訓練のために、とんでもない言動をしてくる場合もありますが、どのように接するのか、サタンの獄屋にいる人の立場になって思いやることができているのか、苦しんでいる人を心にとめて祈っているのか、神は私たちの心を見ておられます。そして、その隣人は御使いであるとヘブルのみことばは教えてくれています。他の箇所では、それはイエス様御自身であると教えています。

 

マタイ25:31~46本

人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。

 

アーメン。

私たちは、改めて主に仕えるように、隣人に仕えることができているか問われました。

 

 

②ヘブル13:4本

すべての人は、結婚を重んずべきである。また寝床を汚してはならない。神は、不品行な者や姦淫をする者をさばかれる。

 

アーメン宝石紫

このみことばの通り、婚前交渉や自慰行為によって寝床を汚してはなりません。神は不品行な者や姦淫をする者をさばかれます。同性婚も神の秩序を犯す罪です。婚前交渉によって妊娠し、結婚することは神の秩序に反しています。神は結婚後の祝福として子を授けることを決めておられるからです。秩序を乱せば、すぐに離婚、そして再婚・・・次世代を担う子どもたちが傷つきます。また、望まない妊娠により中絶をして、命を奪うこともあります。クリスチャンとして、自分を大切にし、そのような誘惑を受けないように身を守る必要があると語られました。

 

 

③ヘブル13:5~6本

金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。だから、わたしたちは、はばからずに言おう、

「主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか」。

 

アーメン宝石緑

金銭を持ってはダメと言われているのではなく、愛してはならないと言われています。サタンはこの世の神であり、この世の人々はお金を追い求めています。良い学校に行くことを目指すのはなぜでしょう?良い就職先、高給を得るためになっていないでしょうか?経済的な余裕は誰もが求めるものであり、経済的に苦しければ、ますますお金を求めるようになります。

しかし、全知全能の神は、【自分の持っているもので満足しなさい】と言われます。神は私たちに何が必要であるか、どれだけ必要であるかご存じの上で備えて下さっているからです。ある姉妹は、いつもこのみことばの箇所を、「自分の持っているもので我慢しなさい」と読んでいたそうです。我慢という受け取り方になっているのであれば、情欲的であり、神に文句を言っている事になります。

 

ピリピ4:19本

わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。

 

アーメン。

家族であっても、友達であっても、金銭問題はじめ、感情の行き違いによって離れていくことは多々あります。しかし、神は決して離れず、あなたを捨てないとおっしゃっています。自分の心で神を閉め出すことのないように、神・イエス様との関係を強固なものとし、【主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか】と言える自分でなければならないと語られました。

 

 

④ヘブル13:7~9本

神の言をあなたがたに語った指導者たちのことを、いつも思い起しなさい。彼らの生活の最後を見て、その信仰にならいなさい。イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。さまざまな違った教によって、迷わされてはならない。食物によらず、恵みによって、心を強くするがよい。食物によって歩いた者は、益を得ることがなかった。

 

アーメン宝石ブルー

食物によって歩く者=自分の欲を満たそうと歩く者は、益を得ません。どこに目を向けて歩くべきか。私たちは先人の歩み、先に訓練を通って勝利してきた牧師、兄弟姉妹の歩みに目を向けて歩まなければなりません。イエス・キリストは、聖書の時代においても、今の時代にもおいても変わりません。霊で読むとき、聖書に書かれていることは、今の私たちの生活、社会とも一致しています。だからこそ、聖書なしでは歩けません。聖書から答えを得て、前進するものへと変えられます。聖書=イエス様を通して与えられる恵みによってのみ、私たちは満たされ、心を強くすることができます。そう言える自分であるか、一人一人が吟味するよう語られました。

 

 

⑤ヘブル13:10~16本

わたしたちには一つの祭壇がある。幕屋で仕えている者たちは、その祭壇の食物をたべる権利はない。なぜなら、大祭司によって罪のためにささげられるけものの血は、聖所のなかに携えて行かれるが、そのからだは、営所の外で焼かれてしまうからである。だから、イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである。したがって、わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外に出て、みもとに行こうではないか。この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたちの求めているものである。だから、わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。そして、善を行うことと施しをすることとを、忘れてはいけない。神は、このようないけにえを喜ばれる。

 

アーメン宝石赤

ユダヤ人(イエス様が救い主であることを認めず、救い主をいまだに待ち望んでいる人)のおきてにしがみついて、救いを見いだそうとする人は、イエス様がいけにえとなられた十字架という祭壇から助けを受けることはできません。ユダヤ人のおきてによると、大祭司は罪のためのいけにえとして、殺された動物の血を携えて聖所に入りますが、動物の体は、町の外で焼かれます。イエス様は、そのユダヤ人の律法を全うするために、ご自身が罪のためにいけにえとなり、町の外で苦しみを受けて死なれました。そして、十字架上で流された血によって、私たちの罪は洗いきよめられたのです。

だからこそ、私たちは、イエス様が救い主であることを認めない霊的ユダヤ人=この世の人たちの関心事にまかれる事なく、迫害を恐れることなく、町=この世から出てイエス様だけを仰ぎ見なければならないと語られました。

この世は、私たちの住むところではなく、国籍は天にあり、天にすまいがあります。クリスチャンとしてこの地上での任務があるからこそ、地上で生かされていることを忘れてはなりません。イエス様に助けられながら、神の素晴らしい御名を宣べ伝えることこそ、賛美の供え物です。そして、善の行い、施しの行いといういけにえを神は喜ばれるのだと語られました。

 

 

⑥ヘブル13:17本

あなたがたの指導者たちの言うことを聞きいれて、従いなさい。彼らは、神に言いひらきをすべき者として、あなたがたのたましいのために、目をさましている。彼らが嘆かないで、喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならない。

 

アーメン宝石紫

指導者、私たちにとっては牧師の言うことを聞きいれて、従うことは私たち羊の益です。祭壇の上からメッセージを語ることだけが牧師の仕事ではありません。私たちが地獄に行くことのないように地獄の破れ口に立ち、24時間目をさまして神に向かってとりなし、危険な時は自分をかえりみずに訓戒して下さるのが牧師です。羊に対する霊的責任を負っていることを、羊も自覚する時、牧師を裁いたり、群れを離れて勝手な行動をすることはできないでしょう。

また、私たちはそんな牧師の思いも今週の集会で聞きました。

「情欲で牧会はできません。羊の命を守るために、肉ではきついと思うこと、できれば言いたくないと思うことを伝えなければならない時があります。義理・人情・ヒューマニズム・道徳教育を頭とさせようとする女預言者イゼベルの霊にまかれたら、YESかNOかをはっきり伝える事などできません。だからこそ、常にイゼベルの霊との戦いがあります。日本は特にそでの下の世界というものがあります。牧師が自分の肉において好きな信徒に良くしたり、献金額が多ければえこひいきしたり、好き嫌いが生じる人間関係が既成の教会にはあることを、散々見せられてきました。信徒も、牧師が誰を一番大事に思っているかを考えているため、イエス様のためではなく、牧師のために仕え、牧師に少しでも裏切られたと思えば、憎しみや恨みに変わります。そして、教会の中で党派心による分派分裂が起き、教会自体がなくなってしまったという話も聞きます。

牧師と羊の関係において、付き合いの長さや、会っている回数は関係ありません。長年教会に属している羊が特別だとも思っていません。10年前に救われた羊も、昨日救われた羊も、ブログだけを読んでくれているまだ見ぬ羊も、神の御前で皆平等であり、私はイエス様がおっしゃることをそのまま忠実に伝えるだけです。

牧師である私が少しでも裁いて伝えたら羊は聞けません。“なんで分かってくれないの?分かって!”という情欲、“いい加減にして!聞かなかったら地獄だよ!”という高ぶりや、相手を自分の感覚で審判する思い、“もうこの人がどうなろうと関係ない。疲れた。関わりたくない”という裁きの思いがないか、いつも自分を吟味します。一人のクリスチャンとして、情欲を入れずに語る訓練が必要です。それは皆さんにも求めてほしい訓練です。情欲を入れずに心から相手のだめだけを思って語れば、必ず聖霊が働き、相手も“私のために言ってくれている”と分かる時が来ます。悟ることができるのです。」

と語られ、私たちは牧師と羊の関係、その関係の上には必ずイエス様がおられることを再確認しましたひらめき電球

 

このようにヘブル13:1~17に書かれている一つ一つのみことばを牧師が噛み砕いて教えて下さった事により、それぞれに必要な事が語られました。ぶどうの木の集会にはプログラム(週報)がありません。牧師もメッセージをあらかじめ用意していません。着席した途端にあふれ出る生ける水の川によって、一週間この世に出て渇いてしまっていた私たちの霊は生気がみなぎります。直面していた問題に対してどう対処したらよいか、集会でのメッセージを通して答えを頂けます。兄弟姉妹の証を通して、自分の状態や状況を吟味し、イエス様に信頼してみことばを行う時に得る勝利を確信することができ、励まされます。だからこそ、集会を休んではならないのだと言われている事も、霊から納得できるのです。

 

ヘブル3:12~15本

兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。それについて、こう言われている、

「きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。

 

ヘブル10:19~25本

兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、愛と善行とを励むように互に努め、ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。

 

アーメンダイヤモンド

 

つづく・・・ぶどう