握っているものがあれば祈りもゆがむ | ぶどうの木 Good News

握っているものがあれば祈りもゆがむ

holygirlです晴れ

 

握っているものがあれば、祈りもゆがみます。今週は、自分自身の祈りを吟味するたとえ話を2つ聞きました。

 

長年牧会をしてきたある教団の牧師(50代男性)が、突然脳梗塞で倒れ、同じ群れのA牧師がぶどうの木の牧師に祈りの要請をしてきました。ぶどうの木牧師がA牧師に、「群れの皆さんはどのように祈っておられるのですか?」と尋ねると、A牧師は、「『主よ、いやして下さい』と祈っています」と答えました。そして続けて、「恥ずかしながらどう祈ったら良いのか分かりません。教えて下さい」と言いました。

クリスチャンの多くが、この場合「いやして下さい」とひたすら祈っていると思います。断食の祈り、早天祈祷、徹夜祈祷を一生懸命行うでしょう。病気の場合はいやしを祈り、困った時は主に助けを求める・・・それが、今まで私たちが見て来た既成の教会のクリスチャンの姿です。しかし、祈りがきかれない・・・と言って落胆したり、どんどん不信仰に陥っているクリスチャンも大勢見てきました。

クリスチャンに必要なのは、この時はこうするといったノウハウを覚える事ではありません。時と場合によって、一人一人に対する神の御心は違いますから、その御心を正しく聞き、羊を導くのが牧師の仕事だと思っています。

 

ぶどうの木牧師はA牧師に、まずとりなしの祈りをするように伝えました。

「イエス様、〇〇牧師がこの状態を来たらせてしまったことをお許しください。ここまでの私達の歩みのすべての間違い、罪を悔い改めます。」

本人ができれば一番良いですが、できない場合は、聖霊の導きにより祈るよう示された周りのクリスチャンに、執り成す事が求められています。神は長寿を約束して下さっていますから、50代で脳梗塞で倒れることなど、神からは来ません。ならば、何かしら罪を犯しているという事になるので、まずは神から来ていない状態を来たらせていることを悔い改めるのです。

 

次に、【聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう。】と聖書に書かれていますから、「彼の罪をお許しください。彼は何をしているか(何をしてきたか)分からずにいます。彼の罪が覚えられないようにして下さい」と祈ります。

聖霊の火で罪を焼き切り、彼を平安なポジションに置いてあげるのです。

神は生きている者の神ですから、この祈りはすでに死んでしまっている人には通用しません。死んだ人に対して、「天国に行かせてあげて下さい」とは祈れないという事でもあります。死んだ瞬間、その人は最後の審判を受け、地上での罪を問われ、天国行きか地獄行きかが決まります。だからこそ、クリスチャンは相手の命がある内に福音を伝え、罪のゆるしと、魂の救いを勝ち取らなければならないのです。

 

そして、医者や周囲の人から吐かれた呪いの言葉(この場合、「脳梗塞は後遺症が残る」という言葉)が成就しないように、イエス様の御名と血によって取り消す祈りをします。

「イエス様、彼に吐かれたあなたから来ていない言葉は、イエス様の御名前と十字架の血によって取り消します。受け付けません。」

 

最後に、サタンに向かって引きさがるようにみことばを突きつけて命じ、復活を宣言します。

「ナザレ人イエス・キリストの御名によって命じる!サタンよ!〇〇牧師に指一本触れること許さない!【信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる】と書かれてある!【わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう】と書かれてある!退け!地獄に帰れ!二度と戻ってくるな!イエス様、〇〇牧師が完全にいやされ、復活した事を感謝します!」

聖霊によって霊を見分けることができたら、何の悪霊がいるか分かり、具体的に名前をあげて縛り上げることができます。3代~4代に渡る呪い祟りの霊、妬みの霊、裁きの霊、憎しみの霊、うらみの霊は、全ての病気の霊的原因となっていると言えます。そして、復活・いやしを頂いたと信じて過去形で祈ることに力があります。

 

このようにして、ぶどうの木牧師とA牧師が祈った翌日、医者が「2、3日眠っているでしょうが、起きた時には何の後遺症もない」と断言したという勝利の報告がA牧師のもとに届いたそうですまじかるクラウンイエス様が祈りに応えて下さったという体験があるからこそ、イエス様との絆も強くなっていきます。クリスチャンとして、祈れる事に感謝が満ち溢れます。決して裏切らない神であることを確信します。そのような神との関係が築けているか、私たちは吟味しました。

 

ヘブル11:1本

さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。

 

アーメン宝石赤

 

また、B牧師からは、次のような祈りの要請もありました。

「駐車場で他人の車に自分の車をこすり、相手の車が少しへこんでしまった。ティッシュでふいたら分からないぐらいだから、黙って行こうか悩んだが、一応電話番号と名前を書いた紙をワイパーにはさんできた。私に請求が来ないように祈って下さい」と。

ぶどうの木牧師は、「そのような祈りをすることはできません」と答えました。なぜなら、完全にお金を握っている祈りだからです。自分が加害者でありながら、その場を黙って立ち去ろうと考えたのも、“黙っていたら請求は来ない”と思ったからです。

イエス様は、ルカ12:13~15に書かれてある通り、お金の分配人ではありません。お金の心配をして、神に求めなければならない状況にあることも吟味ですが、お金を握ることによって、車を傷つけられた被害者の気持ちを無視する事は神に忌み嫌われるものです。また、“このぐらい大丈夫。ティッシュでふいたら分からない”と弁明し、自己正当化して判断したその心もまた、神に忌み嫌われます。

 

クリスチャンは、その場に誰もいなかったとしても、神は全てご存知であるという清い心と正しい良心を持っているべきです。【わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである】(第1ペテロ1:16)と書かれてある通りです。

“人は見ていなくても、人は知らなくても、イエス様はご存知だからうそはつきたくない。ごまかしたくない”という心が自分自身にあるかどうかが問われます。

「金持ちになりますように!」と祈ったり、自分の利益だけを求めて、「私が勝ちますように!」と祈るクリスチャンがいますが、清い心と正しい良心を持っているクリスチャンは決してそのようには祈れないはずです。自分の心から何が出てくるのか?いつも損得勘定をしているのか?弁明、言い訳ばかりしているのか?・・・クリスチャンはいつも公明正大に生きていなければならないと語られました。

 

ぶどうの木牧師はB牧師に、「まず自分の不注意と、この状況を来たらせてしまったこと悔い改めてください。真っ先にお金の心配をしたことも悔い改めてください」と伝えました。日常生活の忙しさ、慌ただしさは神から来ません。自身の不注意が来たらせたことを認める、神の御前にへりくだる事から祈りを始めました。

 

箴言28:13~14本

その罪を隠す者は栄えることがない、言い表わしてこれを離れる者は、あわれみをうける。常に主を恐れる人はさいわいである、心をかたくなにする者は災いに陥る。

 

アーメン宝石赤

このみことばは、エレミヤ3:12~14bにも繋がります。

 

エレミヤ3:12~14b本

あなたは行って北にむかい、この言葉をのべて言うがよい、

『主は言われる、背信のイスラエルよ、帰れ。わたしは怒りの顔をあなたがたに向けない、わたしはいつくしみ深い者である。いつまでも怒ることはしないと、主は言われる。ただあなたは自分の罪を認め、あなたの神、主にそむいてすべての青木の下で異なる神々にあなたの愛を惜しまず与えたこと、わたしの声に聞き従わなかったことを言いあらわせと、主は言われる。主は言われる、背信の子らよ、帰れ。わたしはあなたがたの夫だからである。

 

アーメン宝石紫

 

そしてぶどうの木牧師は、B牧師が自分の言葉で罪を言い表した後に、「このチャンスを益にして下さい。相手に福音ができるよう、私を使って下さったことを感謝します」と祈るよう伝えました。

 

先週のブログ「お金に対するきよさ」にも繋がりますが、富は必要に応じて神が与えて下さるものです。

 

ピリピ4:19本

わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。

 

真理に従った祈り、みことばに基いた祈りによって、神は富も添えて与えて下さいます。それによって、聖書のみことば=イエス様に対する確信が生まれます。信じて間違いない!と断言できるようになります。

お金を握っていれば、お金に対する祈りしか出てきません。全てがお金・自分の利益に繋がっていきます。しかし、イエス様は枕するところもなく、衣食が足りればそれで良しとおっしゃいました。クリスチャンの宝・富は、天に蓄えるべきもの、天国の住まいのために築き上げるものであり、この地上で蓄えるべきものではありません。一流ブランドや、贅沢する事に価値をまだ置いているなら、クリスチャンとして肉の自分から霊の自分へ変えられてはいないのだと語られました。

 

ルカ12:33~34本

自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。あなたがたの宝のある所には、心もあるからである。

 

 

また、C牧師は、申命記1:2~6によって自分は11日の道のりに40年もかかり、荒野をさまよっていたのだと教えられたそうです。

C牧師は、「荒野をさまよっていたのは、荒野をさまよう心を持っていたからです。それは正しい心の状態ではありませんでした。いつも自分の内側が荒野でした。いつも悪いことが起こると想定して悲観的に生きていると、悲観的なことばかり起こってきましたが、今、神様の勝利の光が差し込み、私は荒野から救い出されました」と証して下さいました。

牧師として長年牧会をされてきたC牧師ですが、ずっと真理に基いた神の力を求めていたのです。牧師というプライドを捨て、ぶどうの木に真理があると確信して尋ねてきて下さるその姿勢と、自分の立場をかりみずに、神だけを仰ぎ見て清く、正しくあろうとする素直な心は、クリスチャンとして見習うべきであると語られています。

 

何の理解も答えも祝福もないまま、荒野をさまよったり、同じ山の周りをグルグル回っているだけのクリスチャン人生を送って来た人がたくさんいるでしょう。どんな祈りをしてきたでしょうか?

改めて、木は実で判断します。良い実は、信仰の行いと祈りによって成らせることができます。異言の祈りであれば、どんな場所でも何をしていてもできます。聖霊が自由に働けるように絶えず祈ることのできる異言の祈りもクリスチャンには必要です。

神の御前で、秩序正しい祈り、神に喜ばれる祈りをして、13年目の歩みをスタートできたことを感謝します!