霊の学び―あなたの霊があなたに語る― | ぶどうの木 Good News

霊の学び―あなたの霊があなたに語る―

holygirlですニコニコ

 

今週の集会は、ぶどうの木ができて丸12年目の集会でしたぶどう今日から13年目のスタートですベル

私たちは皆、自分の肉の考えで判断し、自分の好き勝手にやりたい事をやり、言いたいことを言い、たくさんの悪いもの(病気、家庭不和、貧困など)を刈り取ってきた人生でしたが、「人間は霊の生き物である」ことを知り、霊からの学びを聖書を通して続けてきました。聖書と自分自身の人生を照らし合わせて見つめ直し、180度変えられて真反対の人生を歩くことを目的にしているのが、宗教という一線を越えて活動している“聖書学習グループぶどうの木”です。

 

先週私は臨床心理士の方と会って話をしました。臨床心理士は、人間の心を見て、心に興味を持って働きかける仕事です。彼は、児童や青年を対象に精神分析的心理療法を実践してきたそうですが、精神分析は人間の「内的世界=心」がどうなっているのか、それをどのように知っていくのかに膨大な時間と労力を費やしてきた分野だそうです。さらに、その理論やモデルは臨床実験の中から構築され、先人たちの「内的世界」の探求の成果だと言われているそうです。

人間の心と向き合い、その背後にある家庭環境や他者との関係を聞きながら、内面にあるものを吐きださせてあげる事を目指す臨床心理の世界を知れば知るほど、私は、【心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。】(エレミヤ17:9)という聖書の言葉を伝えずにはおれませんでした。どれだけ心に向き合っても、人間の心はよろずの物よりも偽るため、その時の状態や感覚によってころころ変わります。全く信用できません。それ故、患者に向き合っている臨床心理士が疲れさせられ、思い通りに行かなければイライラするのだと、彼自身も吐露していました。

 

私自身、ぶどうの木ができてから、たくさんの人の人生と向き合いカウンセリングをしてきました。まず臨床心理士のカウンセリングとの大きな違いは、心理学的な資料や経験に基づいたカウンセリングではなく、聖書=真の神の教えに基いたカウンセリングであるという事です。そして、人間の心に向き合うのではなく、人間の「霊」に向き合います。

人間は、霊・魂・体でできています。霊は、神が与えて下さった“本当の自分・神に従いたい自分”なのですが、アダムとエバが犯してしまった罪によって死んでしまっているため、まずはイエス・キリストを受け入れる事によって、その霊を生き返らせてあげなければなりません。「霊」というものは、臨床心理の世界にも、宗教の教えにもなく、唯一聖書が教えているものであり、霊を生き返らせる事ができるのは、イエス・キリストだけです。

 

そして、聖書は悪霊の存在を教えています。なぜこんな状態になってしまったのかを、人間が考えることには限界があります。一人一人違うため、ノウハウで答えを見出せるものでもありません。聖書の教えはシンプルです。「悪霊が入った」「悪霊に翻弄されている」から、「悪霊を追い出せ!」です。そのために助け主聖霊が与えられており、聖霊によって悪霊を追い出さなければ、本当のものは現れて来ません。

ぶどうの木牧師のカウンセリングは、助け主聖霊の賜物によって人間の内側に隠されているもの・悪霊の存在を見抜き、追い出し、聖書の言葉によって霊からの解放に導くカウンセリングです。それによって、たくさんの人々が神が与えて下さった真の自分と、祝福の人生を取り戻し、神を愛し、隣人を愛する者へと変えられていきました。

 

先週も、救われて8か月になるM姉妹が、「長年心療内科で薬をもらっているが、薬を飲んでも眠れず、不眠症で苦しんでいる。甲状腺の病気もあり、いつもしんどい」と打ち明けました。共に聖書を学び始めていたM姉妹の息子は、兄弟姉妹たちが持病から解放されている中、なぜ自分の母親はずっと病気で苦しんでいるのかと疑問を抱いていました。

「最近は、聖書を開いても何も入ってこない」とも言うM姉妹に対して、牧師や兄弟姉妹が向き合っていったのですが、最終的に出てきたのは、離婚した元夫に対する強烈な恨みの思いでした。元夫の不倫を許すことができず、当時、離婚調停の証拠として使った“不倫相手と夫のメールのやり取り”をずっと持っていたと言うのです。M姉妹は、自分を変えたくて前向きに聖書を学んでいたのですが、その恨みの思いが、霊の上に漬物石のように乗っかっており、霊から魂への連動ができずにいたことが分かりました。霊のM姉妹は、元夫を許したい・・・でも肉(心)では絶対に許したくない・・・その葛藤をしながらも、肉の思いが勝ってしまっている状態でした。霊の思いに満たされないように邪魔しているのは何か。それこそが、憎しみの霊、裁きの霊、恨みの霊、嘆きの霊でした。

感謝な事に、私は臨床心理士の方に福音をして彼は救われ、この場に導かれていました。彼は、牧師が行うカウンセリングを実際に見て、私から一日聞いていた話が、パズルのようにはまっていったそうです。

 

牧師は、許せない恨みの思いを抱えていたM姉妹に対して、「元御主人をゆるしましょう。ゆるさないと貴女も苦しいし、一生不眠で病気の体のまま!何も良いことはないです。そして、貴女はサタンに獄舎に入れられ、恨まれている元御主人も貴女の恨みの思いによって獄舎に入れられたままです」と語り、そこから解放されるように祈り始めました。すると、M姉妹の内にいた悪霊が絶対に言わせまいと口をつぐませ、M姉妹は大泣きし始めました。過呼吸にもなり、口を開いたと思ったら、「ゆるせない」と言って必死に抵抗していました。その間ずっと、共に救われた息子さんと今の御主人が身体をさすりながら「イエスの血」と異言で祈り励ましました。魂は許しを拒絶していたM姉妹でしたが、牧師が呼び掛けると牧師の顔を必死に見ようとしていたため、牧師は、霊のM姉妹は「ゆるします」と言って解放されたいのだと分かりました。キリストの思いに満たされていなければ、この時点で“なぜ言えないんだ!”と思ってイライラするでしょう。

悪霊対聖霊の攻防戦が1時間続き、ついにM姉妹は絞り出すように「主人をゆるします」と言うことができました。そこから、肉の思いを打ち叩きながら、「愛します」「祝福します」「尊敬します」と順番に言うことができ、一気にスッキリとした顔になり、ようやく抱えていた重荷を降ろすことができました。

後にM姉妹は、「ずっと頭が痛かった」と言っていました。頭に戻れば、「なんで私が許さないといけないの!許せるわけない!」という思いになるため、言葉にも詰まります。悪霊からの思いに完全に支配されてしまいます。頭痛も、不眠も、甲状腺の病気も、魂の状態が身体にあらわれていたのだと再確認しました。

 

内側にあるものをそのまま出させてあげるという事に対して、臨床心理の世界では、投影という方法を使って、例えば虐待を受けた当事者に対してセラピストにその時虐待をした親の気持ちが投影され、当時の状況を再現する事によって、当事者の内側にあるものを引き出すという事をするそうです。そして、セラピストは当事者への憎しみの気持ちが入ってしまうため、上の人にその気持ちを出してもらうのだそうです。それこそカルトと紙一重?の世界だと思いました。

「悪霊」と言えばカルトで、心理療法は地に足の着いたものなのか・・・真に人間を解放する力は唯一真の神にあるのであって、人間の力には限界があることを、臨床心理士の方も認めるに至れたことは感謝でした。

人対人ではなく、間に神・イエス様がいるカウンセリングは神の守りの中にあります。神が相手の髪の毛の数まで知っており、相手の人生の全てを知っているため、神の言=聖書に基いて言葉をかける時、相手は霊から満たされ、それが魂に連動し、体(見た目)にも表れていきます。

そして、クリスチャンであれば、自分で自分のカウンセリングもできます。

【わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。】(ガラテヤ5:16~17)と書かれてある通り、霊の思いと肉の思いは真反対です。肉が喜ぶことは、霊が苦しく、肉が嫌だと思うことは霊がやりたい事です。それによって、本当の自分が行ないたいことがはっきりと見えてきます。自分が何に苦しみ、何が妨害しているのかも分かってきます。

 

こんな言葉がありますひらめき電球

 

私は見ることによって動かされません。

私は感じることによって動かされません。

私は自分の信じることによってのみ動かされます。

霊的なことは自然のことよりも現実的であることを知りなさい。

自分の霊に目を向けることを学びなさい。

あなたの霊が、あなたに語ります。

あなたの霊は、あなたの頭が知らないことを知っています。

スミス・ウィグルスワース

(1859~1947年)

 

自分の霊が自分に語ることをしっかりと聞くことが大切であり、霊の思いに従い続けることが偽りのない信仰となります。そして、信仰通り身になり、良い実が成り、奇跡が起きてきます。肉が霊に服従することによって、みことばを体現するクリスチャンとなれるのだと語られました。

 

第1コリント2:9~16本

しかし、聖書に書いてあるとおり、

「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」

のである。そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。

 

アーメン宝石緑

 

 

私たちが救われ、この席に招かれ、霊からの学びを受けることができているのは、一方的な神のあわれみです。この世の知者や学者には分からない事、愚かだと思っている事が、救にあずかる私たちにとっては神の力ですビックリマーク神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いのですグーキラキラそれ故、この世の権威に対して何の恐れもありません。

そして、クリスチャンの中には、テレビやラジオ、路傍伝道やポスティングの働きを担い、一度に大勢の人に福音を届けている人もいますが、ぶどうの木の兄弟姉妹は皆、自身の隣り人から福音を聞いて救われてきました。地道で愚かな宣教方法であっても、信じる者は救われます。逆に、信じないという心の頑なさがあれば、どれだけ大々的に福音を伝えても、一人も救われません。福音を聞いて救われる確率、さらに招かれた後に選ばれる確率がいかに低いか、その中で今招かれている自分であることを忘れてはならないと語られました。

 

第1コリント1:18~31本

十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。すなわち、聖書に、

「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」

と書いてある。知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。

兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。

 

アーメン宝石ブルー

さらに牧師は、自身の体験から次のように証をして下さいました。

「私は、【この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち無きに等しい者を、あえて選ばれた】というみことばを聞いた時、腹が立ちました。救われた当時、“私はビジネスを成功させて地位も名誉もある。一生懸命努力してきた人間だ。無きに等しい者ではない!”と思っていたからです。母教会の兄弟姉妹の学歴や身分だけを見たら、自分より劣っていたため、それも腹立ちの原因でした。実際、兄弟姉妹からも、『あなたのような人がなぜ導かれてきたのか?著名な人なのに・・・』とも言われていました。兄弟姉妹の判断もおかしかったわけですが・・・。

自分の努力を誇り、築き上げてきたものを誇っていた矢先に、十万人に一人の難病となって命を奪われそうになったにも関わらず、まだそんな文句を神に対して言っている自分・・・そんな自分がこの世で一番みじめな人間であることを悟り、認めるまで、神は何度もこのみことばを与えて下さいました。地位も名誉も、富も、病気で命を取られたら何の役にも立ちません。イエス・キリストの前で、人間には何の肩書もありません。一人の人間として、神に仕える者かどうか、見られるのはその忠実な心だけです。自分は本当に無きに等しい者であったと認めた時、霊から解放され楽になりました。

救われたのは、招かれたのは自分が良い人間だったからではありません。一方的な神のあわれみです。そして、ぶどうの木ができてからのこの12年間、私は毎週日曜日は休まずこの席に着き、主の御用に仕え、同じように神のあわれみによって導かれてきた人に語ってきたのです。」

 

神学的に聖書を学び、知性で分かる部分だけを教えている教会はたくさんあります。しかし、霊からの学びをしている教会がどれだけあるでしょう。知性で学べば、聖書は歴史と預言の書物にすぎません。霊で読んだ時にはじめて、聖書=神の力を知ることができ、自分の内面を丸裸にされ、神に対してただただへりくだり畏れる思いになれるのです。そのようにして、自分自身が180度変えられたクリスチャンが、世の光、地の塩となるでしょう。

私たちぶどうの木の13年目の歩みも、一人一人が聖書真理という光を放っていけたことを感謝しますキラキラ

 

イザヤ60:1~5本

起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。もろもろの国は、あなたの光に来、もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る。あなたの目をあげて見まわせ、彼らはみな集まってあなたに来る。あなたの子らは遠くから来、あなたの娘らは、かいなにいだかれて来る。その時あなたは見て、喜びに輝き、あなたの心はどよめき、かつ喜ぶ。海の富が移ってあなたに来、もろもろの国の宝が、あなたに来るからである。

 

イザヤ60:14~15本

あなたを苦しめた者の子らは、かがんで、あなたのもとに来、あなたをさげすんだ者は、ことごとくあなたの足もとに伏し、あなたを主の都、イスラエルの聖者のシオンととなえる。あなたは捨てられ、憎まれて、その中を過ぎる者もなかったが、わたしはあなたを、とこしえの誇、世々の喜びとする。

 

イザヤ60:19~22本

昼は、もはや太陽があなたの光とならず、夜も月が輝いてあなたを照さず、主はとこしえにあなたの光となり、あなたの神はあなたの栄えとなられる。あなたの太陽は再び没せず、あなたの月はかけることがない。主がとこしえにあなたの光となり、あなたの悲しみの日が終るからである。あなたの民はことごとく正しい者となって、とこしえに地を所有する。彼らはわたしの植えた若枝、わが手のわざ、わが栄光をあらわすものとなる。その最も小さい者は氏族となり、その最も弱い者は強い国となる。わたしは主である。その時がくるならば、すみやかにこの事をなす。

 

アーメン王冠1