自分の義と神の義 | ぶどうの木 Good News

自分の義と神の義

holygirlですニコニコ

 

ローマ10:1~4本

兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。

 

先週、私たちは宗教の霊について学びましたが、このローマのみことばは、宗教的にイエス様に仕えているクリスチャンに対するみことばであると教えられてきました。神・イエス様のためにしている!イエス様がおっしゃったからやる!献金をしている!毎週礼拝と祈り会に出ている!という思いで熱心に仕えているつもりでいるクリスチャンは多いでしょう。しかし、聖霊のバプテスマを受けていなければ、神の霊感によって書かれた聖書を正しく読むことはできず、何が神の御心であるのかは分かりません。彼らは、自分なりのやり方で仕え、自分にとって正しいと思うこと(=自分の義)を行なっているだけで、神の御心を行なってはいない、その熱心は深い知識によるものではないという事になります。そして、神の御前で、自分の義を立てようと努め、私はできている!やっている!と自己推薦している人に、神の義(例えば、無条件のゆるし、肉欲の自制)を行なうよう伝えると、「できない!無理!私は悪くない!イエス様に言われてない!」と簡単に口にするのです。

 

自分の義と神の義・・・これは全く違うものですが、自分の義が、神の義である(神の義と一致している)と言ってしまっているクリスチャンによって、キリスト教会はこの世の人々にどれだけのつまずきを与えてきたでしょう。人に受け入れられない人が、神に喜ばれるはずがありません。神の義は、人を正しい道に導きます。迫害・患難を同時に受ける事はあっても、後になれば平安な義の実を結ばせて下さいます。クリスチャンとして、自分の義を立てているのか、神の義に従っているのか、吟味しなければならないと語られました。

 

先週、神の家族間で分派分裂の霊が動き、集会の席に着けなかった羊が牧師を通して戒めを受けたのですが、「牧師に誤解されているけど、私の気持ちはイエス様だけが知ってくれていたらそれで良い。イエス様に自分で聞けるので大丈夫です」と答えるという事がありました。

自分なりのイエス様を持ち出して自分の義を貫けば、神の義は見えなくなります。羊に益を与える神の僕である牧師が、イエス様のみことばに基いた神の義を教えようとしても、自分なりのイエス様をつくってしまって聞く耳を持とうとしないのであれば、どれだけ祈っても、みことばを頂こうとしても、答えはもらえません。答えを授けられているのは、神の僕として自身に与えられた牧師なのですから。

自分の義を立てると、牧師との関係を軽んじ、羊ではなくヤギになってしまいます。イエス様の声を聞いていると言いながら、実は全く違う声を聞いて牧師を裁き、自分の義という殻に閉じこもっていることはないかと語られ、一人一人が吟味しなければならないと語られました。

 

また、神の義よりもこの世の律法に基いて行う自分の義になっていくと、みことばの解釈も霊的ではなく肉的になっていきます。

ぶどうの木には、LGBTの霊力から解放されたA姉妹がいるのですが、A姉妹は自分を解放して下さった神の力を宣べ伝える事によって当事者の方も解放に至ることを願って証を書きました。しかし、母親であるB姉妹は、その証がこの世に出ることを懸念しました。娘がLGBTのレッテルを貼られたらここから先、好奇な目で見られる事になると思ったからです。これは、この世の律法・常識的に考えてもっともな判断であり、我が子を守りたい母親の思いでした。世の中の人に聞いたら、ほとんどの人がB姉妹の思いに賛同するでしょう。B姉妹は次のみことばを頂きました。

 

箴言21:23本

口と舌とを守る者はその魂を守って、悩みにあわせない。

 

このみことばによってB姉妹は、やはり口と舌とを守って証を世には出さず、この先娘が悩みにあわないようにすることが神の御心であると思いました。

しかし、神の義は真反対でした。クリスチャンとして、自身が頂いた証を世に出すことは神から与えられた任務です。聖書は、クリスチャンとされた私たちが自分の証をもって福音宣教する事を命令しています。聖霊は、そのために、道を整えて備えます。A姉妹には、イエス様のために行なった時には、必ず守られるという信仰がありました。それ故、神からの証を宣べ伝える事に対して、神がこのみことばを通して、語るな!とおっしゃる事はないと、B姉妹は牧師を通して語られたのです。むしろ、B姉妹が自身の口と舌とを守る時、娘であるA姉妹の喜んでいる魂は守られ、悩みにあう事はないのだと解釈することができます。

 

みことばは、肉でもらう事もできます。自分の義に都合のよいみことばを持ってくる事もできます。また、律法に従う事ばかりに重きを置いている人が読めば、自分の頭で理解できて信じられる事=合理的な部分だけを受け入れ、神の力を小さくしてしまう事もあります。律法に偏れば、霊的に解釈する人はカルト的だと感じ、受け入れられなくなります。

霊の思いに満たされて「神は守って下さる!」と主張するA姉妹と、肉的・律法的に聖書解釈をするB姉妹が教材となり、イエス様はその事を私たちに教えて下さいました。

 

話は少し変わりますが、みことばの受け方という点で、カトリックは肉による誤解釈をして、結婚を禁じ、禁欲を命じ、神父やシスターという聖職者を生みましたが、それによってゲイやレズビアンといった同性愛の霊が動き、神父の小児愛者が増えているという問題があります。そして、カトリックは聖書を肉で読むため、息子を十字架にかけられ処刑された母マリアがかわいそう・・・母マリアのようにイエス様に寄り添う者にならなければ!と、どこまでも人間的見方と思いを持ち、イエス様が3日目に復活された事よりも、十字架にかけられたイエス様を仰ぎ見る信仰を持ってきました。プロテスタントは、十字架刑の死から復活したイエス様と、イエス様が天に帰られた後に与えられた聖霊の力に重きをおいています。聖霊によらなければ、神の奥義を知ることはできません。

神に対して熱心であり、自分の人生を捧げているつもりであっても、土台が違えば全て違うのです。

 

肉と霊は真反対であり、肉の思いは死、霊の思いは命と平安です。そして、霊の事ばかり言いすぎればカルトになっていきますし、肉の事ばかりを言えば、救われた特権を放棄し、救われる前と同じ状態に留まってしまいます。ボーリングで例えるなら、どちらもガータです。両者が交わることはありません。しかし、聖霊によって正しくみことばを解釈する時、唯一無二の神の義が浮き彫りとなり、クリスチャンとして霊的ストライクゾーンを歩むことができるのです。

 

第2テモテ3:16~17本

聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。

 

アーメン宝石ブルー

 

自分の義を立てようと努め、神の義に従わなければ、律法から解放されることはありません。【キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。】と書かれてある通り、イエス様を信じ、聖霊のバプテスマを受けることによって、私たちは律法から解放されたのです。そして、聖霊の力と神の知恵によって何事でもすることができる者となりました。

自分をかえりみたり、自分で何とかしようとする(=自分の義を立てる)と、「できない!無理!」という言葉が先に出てきますが、今週の集会でイエス様は牧師を通して、「あなたの魂を主にゆだねたら!肉の思いが死んだら!聖霊が助けて下さいます。そして真理=神の義に至らせて下さいます」とおっしゃいました。

【わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。】(ピリピ4:13)

【生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。】(ガラテヤ2:20)

と書かれてある以上、「できない!無理!」とは言えないのだと語られました。

 

神の義は、聖霊の力によって従い行うことができます。神の義=みことばを聞いても行なわないのであれば、どれだけ神に対する忠誠を誓う言葉を並べても、自分の義を行なっています。そして、その心は利(自分の利益、肉の欲を満たしたい思い)におもむいているのだと語られました。

 

エゼキエル33:30~33本

人の子よ、あなたの民の人々は、かきのかたわら、家の入口で、あなたの事を論じ、たがいに語りあって言う、『さあ、われわれは、どんな言葉が主から出るかを聞こう』と。彼らは民が来るようにあなたの所に来、わたしの民のようにあなたの前に座して、あなたの言葉を聞く。しかし彼らはそれを行わない。彼等は口先では多くの愛を現すが、その心は利におもむいている。見よ、あなたは彼らには、美しい声で愛の歌をうたう者のように、また楽器をよく奏する者のように思われる。彼らはあなたの言葉は聞くが、それを行おうとはしない。この事が起る時――これは必ず起る――そのとき彼らの中にひとりの預言者がいたことを彼らは悟る」。

 

アーメン宝石紫

 

自分の心が利におもむいていなかったか、何かを握って自分の義を主張していないか、私たちはさらに兄弟の証を通しても自分を吟味することができましたひらめき電球

 

最近餅屋をオープンした韓国のC兄弟は、工事費の請求額について仲介会社から当初の提示金額よりもはるかに高い金額を請求され、「工事費がかかることは仕方がないが、追加料金がかかることの了承を得てから工事をしてほしかった。後からこれだけかかったから払えというのはおかしい!」と腹を立て、仲介会社との間に分派分裂の霊が動いていました。仲介会社からは、「そんなにお金に困っているなら、請求額の中の1万円分はこちらが支払いますよ」と言われ、馬鹿にされているような思いと、「ならばそうしてくれ!」という思いも強くなっていきました。

先週のブログ「善をもって悪に勝つとは?」にも書いた通り、“普通ならこうするべきだ!”というのも自分の義であり、自分なりのルールを主張しても相手には通用しません。相手のルールの中では、当初の見積もりと違ってしまう事は当然であり、それが事後報告であっても問題ないからです。

C兄弟は真理を知っているが故に、「許します、愛します、祝福します、尊敬します」と言葉にはしていても、心の中では怒りがおさまっておらず、奥さんのD姉妹から仲介会社への支払い(全額)を速やかに行うよう言われても、相手から連絡がないからそのままにしておけばいい!払ったとしても全額する必要はない!と言って、なかなか行いに移すことができませんでした。

 

しかし、C兄弟の霊は神の子ですから、助け手であるD姉妹から「神はどこまでもあなたの心を見られるのに、腹を立てている時点で相手を裁いているし、苛立ったまま終わることはどうなのか?お金を握ってサタンに門を開いたら破滅しかない。相手を許し、どこまでも善を行っていった時、神がかえりみて下さる!」と語られ、D姉妹の祈りと信仰の助けによって、C兄弟自身が神の義とは何かを冷静に考え始めました。1万円あれば、娘たちが欲しいものを買ってあげられるが、たった1万円を握ったことによって、ここからの神からの祝福を放棄しても良いのか・・・神の義は、どこまでも相手を許し、愛し、祝福し、尊敬し、主に信頼して善を行うことであり、その時、自分たちの生活も商売も、神ご自身がかえりみて下さる・・・C兄弟は、自分の態度をまず悔い改め、仲介会社にも連絡をして、全額入金した事を伝えました。

仲介会社の社長もクリスチャンでした。神が出会わせて下さった事に感謝して始まった事を、サタンは憎しみ、裁きで終わるように働いてきましたが、【何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知る】ことができたC兄弟とD姉妹の信仰の行いによって、仲介会社と和解する事ができ、オープンを祝って食事をしようという導きに至りました。まさに善をもって自分の悪に勝ち、相手との間に働いていた悪にも勝ったのです!!

C兄弟は、「もしクリスチャンとしてこの真理を知らなければ、狭い視野の中で裁いて終わっていた。クリスチャンになって、霊の世界を知り、広い視野をもって物事を判断できるようになったことは、大きな変化だ」と証してくれました。

 

C兄弟は、目先の富(握った一万円)を計算していましたが、大局を見る者へと変えられました。いつもイエス様を第一に考え、今できる事を精一杯して活きるのがクリスチャンです。その連続が日々となり、時間の流れとなります。神はその中で様々な思いを入れて下さいますが、計算は立てさせません。今これを選択すれば、後にこうなるといったシナリオは作らせません。神のなさり方は人知では計り知れないからです。刻一刻と変わる霊の世界、時間の流れの中で、明日の事さえ分からない人間の計画に何の意味もありません。

見せられる大局さえ、いきなり変えてしまうことのできる神の力を見せられた時、人間のはかなさ、無力さも思い知らされますが、クリスチャンの道の変化は神による変化です。かつては、サタン悪霊による変化の人生でしたが、今は神によって変化する道を歩める特権が与えられているのです。この違いが分かるならば、自分の魂を主に委ねることができるのだと語られました。

 

そして、自分は悪くない!自分に非はない!と言い張って自分の義を立てる事は簡単ですが、霊は苦しいです。C兄弟を通して、たとえ、肉が絶対認めたくないと思っても、打ち叩いて神の義に従った時、霊からの喜びと平安に満たされ、全ての問題が円滑に解決されていくのだと語られました。

 

マタイ6:33本

まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

 

アーメン宝石赤

 

日韓関係はどうでしょうか?先週私は、母(牧師)と妹と共に韓国に行ってきました。韓国の兄弟姉妹との交わりを通して、日本で報道されているニュースと韓国で報道されているニュースが違うことに驚き、どちらも自分の義を立てている事が分かりました。自分の立場からしか物事を見ず、自分の主張を言い続けるのが政治です。しかし結果的に、その影響はブーメランのように自国が受ける事になり、互いの益になっていません。

神の義は、第一に自分の命よりも神を愛し、第二に隣り人を愛する事です。憎しみ、裁き、うらみ、分派分裂は、神から来るものではない事は明らかです。日本人、韓国人関係なく、クリスチャンがやるべき事は、みことばに従って許し、愛し、祝福し、尊敬し、善をもって自分の内にある恨みや批判の霊と、日韓の間に働く分派分裂の霊という悪に勝つ事です。まずはクリスチャンが神の義に従うことが求められている事を、韓国の兄弟姉妹と再確認し、今回出会った韓国のクリスチャンにもその思いを伝えることができました。

台風の影響で日本への帰国が1日延び、サタンの迫害だと一瞬思いましたが、すぐに神の御心は、15日の光福節の日にとどまって祈ることなのだと教えられました。そして、大統領演説時に日韓の間に働く悪霊を縛り上げ、日本人と韓国人が真理に至るようにと祈ることができました。

感謝な事に、私たちが帰国後、韓国の中で、反日デモに対してやりすぎだ!という声が上がり、それをやめさせるデモが始まったという事を知りました。聖霊が働いているのが分かり、イエス様は私たちの心の願いを叶えて下さるのだと益々確信しました。

 

第1コリント16:22〜24本

もし主を愛さない者があれば、のろわれよ。マラナ・タ(われらの主よ、きたりませ)。主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。わたしの愛が、キリスト・イエスにあって、あなたがた一同と共にあるように。

 

アーメンガーベラ

 

先週、ぶどうの木は、聖書が宗教(困った時の神頼み)ではなく、真理であることを伝えるためにできた群れであると語られました。そして、ぶどうの木の始まりに韓国青年が使われたこと、私に韓国語習得の思いが入れられ、真珠の友達夫婦と出会ったことで、韓国にも真理を学び、それを伝えている兄弟姉妹がいることを通しても、ぶどうの木は韓国にも真理を伝えていく群れであることを再確認しました。

さらに、ぶどうの木はエゼキエル34章の預言によって誕生した群れでもあります。自分の義を立てて牧会している牧師によって、健全に養い育てられずにきた羊たちが、助けを求めて導かれてくることも増えましたが、改めてみことばを確認し、私たちは預言通り【良い栽培所】としての働きができるよう、一人一人が神の義を立てることに努めなければならないと語られました。

真理は一つビックリマークまずはクリスチャンが、そして、クリスチャンの家族が、日本人が、韓国人が、世界の人々が真理に至れたことを感謝して祈りますクローバーキラキラ

 

エゼキエル34章本

主の言葉がわたしに臨んだ、「人の子よ、イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して彼ら牧者に言え、主なる神はこう言われる、わざわいなるかな、自分自身を養うイスラエルの牧者。牧者は群れを養うべき者ではないか。ところが、あなたがたは脂肪を食べ、毛織物をまとい、肥えたものをほふるが、群れを養わない。あなたがたは弱った者を強くせず、病んでいる者をいやさず、傷ついた者をつつまず、迷い出た者を引き返らせず、うせた者を尋ねず、彼らを手荒く、きびしく治めている。彼らは牧者がないために散り、野のもろもろの獣のえじきになる。わが羊は散らされている。彼らはもろもろの山と、もろもろの高き丘にさまよい、わが羊は地の全面に散らされているが、これを捜す者もなく、尋ねる者もない。

それゆえ、牧者よ、主の言葉を聞け。主なる神は言われる、わたしは生きている。わが羊はかすめられ、わが羊は野のもろもろの獣のえじきとなっているが、その牧者はいない。わが牧者はわが羊を尋ねない。牧者は自身を養うが、わが羊を養わない。それゆえ牧者らよ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる、見よ、わたしは牧者らの敵となり、わたしの羊を彼らの手に求め、彼らにわたしの群れを養うことをやめさせ、再び牧者自身を養わせない。またわが羊を彼らの口から救って、彼らの食物にさせない。

主なる神はこう言われる、見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、わたしはわが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う。わたしは彼らをもろもろの民の中から導き出し、もろもろの国から集めて、彼らの国に携え入れ、イスラエルの山の上、泉のほとり、また国のうちの人の住むすべての所でこれを養う。わたしは良き牧場で彼らを養う。その牧場はイスラエルの高い山にあり、その所で彼らは良い羊のおりに伏し、イスラエルの山々の上で肥えた牧場で草を食う。 わたしはみずからわが羊を飼い、これを伏させると主なる神は言われる。わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものとは、これを監督する。わたしは公平をもって彼らを養う。

主なる神はこう言われる、あなたがた、わが群れよ、見よ、わたしは羊と羊との間、雄羊と雄やぎとの間をさばく。あなたがたは良き牧場で草を食い、その草の残りを足で踏み、また澄んだ水を飲み、その残りを足で濁すが、これは、あまりのことではないか。わが羊はあなたがたが、足で踏んだものを食い、あなたがたの足で濁したものを、飲まなければならないのか。(←反キリストの霊、偽キリストの霊、男義の霊、プライドの霊、宗教の霊によって、みことばに自分の意見や解釈を入れて教える牧師、真理をまっすぐ伝えない牧師注意

それゆえ、主なる神はこう彼らに言われる、見よ、わたしは肥えた羊と、やせた羊との間をさばく。あなたがたは、わきと肩とをもって押し、角をもって、すべて弱い者を突き、ついに彼らを外に追い散らした。それゆえ、わたしはわが群れを助けて、再びかすめさせず、羊と羊との間をさばく。わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる。すなわちわがしもべダビデである。彼は彼らを養う。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主なるわたしは彼らの神となり、わがしもべダビデは彼らのうちにあって君となる。主なるわたしはこれを言う。

わたしは彼らと平和の契約を結び、国の内から野獣を追い払う。彼らは心を安んじて荒野に住み、森の中に眠る。わたしは彼らおよびわが山の周囲の所々を祝福し、季節にしたがって雨を降らす。これは祝福の雨となる。野の木は実を結び、地は産物を出す。彼らは心を安んじてその国におり、わたしが彼らのくびきの棒を砕き、彼らを奴隷とした者の手から救い出す時、彼らはわたしが主であることを悟る。彼らは重ねて、もろもろの国民にかすめられることなく、地の獣も彼らを食うことはない。彼らは心を安んじて住み、彼らを恐れさせる者はない。わたしは彼らのために、良い栽培所を与える。彼らは重ねて、国のききんに滅びることなく重ねて諸国民のはずかしめを受けることはない。彼らはその神、主なるわたしが彼らと共におり、彼らイスラエルの家が、わが民であることを悟ると、主なる神は言われる。あなたがたはわが羊、わが牧場の羊である。わたしはあなたがたの神であると、主なる神は言われる」。

 

アーメン赤薔薇

 

最後に・・・

この時に宗教の霊に対して主ご自身が戦って下さるという預言もイザヤ27:1~6を通して新たに頂きました。キリスト宗教の終わりが告げられました。ここから、神が植えられなかった教会は抜き取られ、神の義に従わないクリスチャンは破滅していくでしょう。真理に従って成らせた実だけが全世界に満ちることを祈りますぶどう

 

イザヤ27:1~6(リビングバイブル)本

その日、神様は恐ろしく鋭い剣で、素早く動く蛇、とぐろを巻いている蛇、海の竜であるレビヤタンを殺します。

イスラエルの解放の日に、国民が次の賛歌を口ずさみますように。イスラエルはわたしのぶどう園。神であるこのわたしが、実を結ぶぶどうの手入れをする。毎日水をかけ、昼も夜も、敵が近づかないように見張る。イスラエルへの怒りは、もうおさまった。いばらが彼らをわずらわせようものなら、手をついてあやまり、赦しを求めない限り、この憎い敵を焼き払う。やがてイスラエルが根を張り、つぼみをつけ、花を咲かせ、世界を実でいっぱいにする時がくる。

 

アーメンダイヤモンド