改定版「未来へのプレゼント」前半② | ぶどうの木 Good News

改定版「未来へのプレゼント」前半②

3. イエス・キリストとは 

 

イエス・キリストは神のひとり子でしたが、約2000年前にマリヤという女性の胎内に、聖霊によって超自然 にやどり、この世に誕生しました。(西暦で使われる 紀元前は、英語でいうとBC[before Christ]、紀元後は、 AD[Anno Domini : ラテン語で “ 主の年において ”]・ AC[after Christ]と言い、Christ= キリストの誕生が 基準になっています。) 

 

※集会での補足説明

元号があるのは日本だけです。元号をやめたら良いという声もある中、イエス・キリストを基準にした西暦を使うことを嫌がり、天皇を基準にした元号を使うことにこだわっているのが、日本人の中にある反キリストの血なのです。

 

そして、肉体をもつ人間として30歳までは大工の息子 として成長され、そこから聖霊を受けて神の子として教えはじめ、弟子たちと共に数々の御業と奇跡を起こ して巡り歩かれたのです。イエス様が生きておられた時代であっても、人々に自由意志が与えられていました。神の子として受け入れる者もいれば、どんなに奇跡を見せられても信じず、「自分を神だと思っている奴」とあざける者もいました。イエス様は人心のねたみによって十字架刑に処されることになったのです。(実は、この処刑の史実こそが、AD : 主の年において生きる全人類への神の愛の御計画の始まりです! ) その時でさえも、イエス様は誰をも恨んだり裁くことはしませんでした。ただ人々の罪を許し、彼らのために、 「父よ、彼らをお許しください」と言って、とりなして祈ったのです。そして、私たち人間が犯してきた罪も、これから犯す罪も神に覚えられないように、十字架にかかってくださったのです。これを十字架の和解(神と人間の間)の力といいます。

 

イエス様が誕生する前(BC)は、直接神から人間に報復 があり、それは恐ろしいものでした。40日間雨を降ら せ続け、当時の人間を水で滅ぼしたこともあります。その時、神に従っていたノアという人の家族8人だけは箱舟の中に入り、救われました。ノアの箱舟…あなたも聞いたことがありませんか?(「船」という漢字は、 「舟に八人の口」と書く事からも、聖書の教えは、大陸を 渡って中国に入ったことが分かると言われています。) 

 

自分の罪の帳消しのためにあえて十字架に架かって下さったとイエス・キリストを信じる者は、罪に定められることはありません。神は、ひとり子イエス様の言うことならすべて受け入れると約束されました。イエス様は、神と私たち人間とをつなぐ弁護人となって下さったのです。 死後3日目によみがえられたイエス様は、弟子たちにもう 一度あらわれ、こう語られました。 

 

マルコによる福音書16章15節〜20節

 『「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマ(洗礼)を受ける者は救わ れる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉(異言)を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受 けない。病人に手をおけば、 いやされる」。主イエスは 彼らに語り終ってから、天にあげられ、神の右にすわられた。弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。』 

 

これは、おとぎ話ではありません。あなたが今、イエス・ キリストを自分の人生の主として受け入れれば、これらの約束はあなたのものとなり、神に受け入れられ、天国 行きの切符を手にすることができるのです !

 

 

4. イエス・キリストを受け入れる 

 

受け入れることはとても簡単であり、その後は健康面においても、社会的にも経済的にも祝福が約束されています。ですからまずは、イエス・キリストを主として受け入れることをおすすめします。

 

 ローマ人への手紙10章9節〜10節

 『すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、 自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。』 

 

声に出して、読んでください。

 

 ①救いを受ける祈り

 「愛する天のお父様、イエス様。私がこれまで犯してきたすべての罪をお許しください。イエス様が、私の罪のために十字架にかかって下さり、3日目に神が死人の中からイエス様をよみがえらせたことを信じます。イエス様、どうぞ私の中に入って下さい。そして、私のこれからの人生を導いて下さい。イエス様の御名前によって感謝して祈ります。アァメン」

 ※「アァメン」とは、“ そうなったと信じます ” という意味です。

 

おめでとうございます!!これであなたも今日から、神・イエス様が内に住んでおられるクリスチャンです。聖書には、救われたあなたがするべき事として、 『あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返 して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。』(ピリピ人への手紙4章 4節~7節) と書かれています。

 

聖書は神からのラブレターです。クリスチャンとは、この聖書に書かれていることを守り行う人のことを言います。 しかし、生身の人間が行っていくことは本当に大変です。 自分の考えや思いとは真反対の教えもあるでしょう。イエス様御自身にとっても、十字架にかかることは取り除いてほしいほど、ひどく恐ろしいことでした。では、 なぜできたのでしょうか ? イエス様には、助け手がいたのです。その方を、『聖霊 』と言います。

 

※集会での補足説明

イエス様御自身も、苦しい時、「取り除いてください」と祈られたので、私たちも求めればよいですが、その次に、「御心のままになさってください」とおっしゃったことを忘れてはなりません。ここに、神の御計画を遂行するイエス様の忠実と愛があるのです。「絶対にこうしてほしい!」という握ったものがあれば、「御心のままに」とは祈れないでしょう。どんな時も、神は最善のものを与えて下さると信じているでしょうか?神が御心のままになさって下さることが一番最善・最高のものなのです。

 

 

5. 聖霊のバプテスマ(洗礼)を受ける 

 

聖霊とは、天なる神(父)とイエス様と一緒に、宇宙を造った爆発的な力をもつ方です。その力の絶大さを、 人間の言葉で表現することは不可能です。聖霊が働かれる時、人知では測り知ることのできない愛・喜び・ 平安や、聖書に書かれていることを理解し、行う力が与えられるのです。そしてもう一つ、神と直接会話で きる『異言』という言葉もいただけます。人間が知性で考えて言葉にして祈る時は、サタンも聞いています。すると、祈りがきかれないように先回りしてしまうことがあるのです。異言はサタンが分からない言語です。聖霊の力によって語りますから、いつでも、何時間でも 祈ることができます。何と祈ったらよいのか分からない時、まだ分からない未来のことも神はご存じですから、祈らせて下さいます。

 

ローマ人への手紙8章26節〜28節

 『御霊 (聖霊)もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめき(異言)をもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。』 

 

今、イエス様を受け入れたのならば、聖霊と異言も同じようにいただくことができます。しかし、 これまで仏教や神道、新興宗教、心霊術や様々な占い、コックリさんなどのオカルトを信じ行ってきた人は、先に悔い改めま しょう。神は、365日毎日祝福されるように願って、 人間を創造して下さったので、「昨日は運勢がよかったけど今日は悪い」といった生き方をしてほしいと思ってはいません。また、イエス様以外のものを神と信じてきたことは大きな罪なのです。神は唯一の神であられます。そして、 『わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御 旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって 「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか」と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、 「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ。」』(マタイによる福音書7章21節〜23節) と書かれているように、クリスチャンとは名ばかりの教えの中で妥協し、不従順であった兄弟姉妹も悔い改め、みことばに立ち返りましょう。 

 

声に出して、次のように祈ってください。

 

②今まで信じてきた宗教、神々からの解放の祈り

 「愛する天のお父様、イエス様。私が今日まで犯してきた オカルト・宗教の罪をお許し下さい。今まで信じてきたこと、教えられてきたことは、すべて間違いだったと認め、たった今捨て去ります。イエス様の十字架の血によって、私を清めて下さい。罪が許されたことを感謝し、イエス様の御名前によって祈ります。アァメン」 

 

続けて聖霊の力と異言をいただきます。 

 

③真の神と聖書に対する理解力が与えられる聖霊のバプ テスマを受ける祈り 

「愛する天のお父様、イエス様。私に聖霊と火によって バプテスマ(洗礼)を授けて下さい。私の全身を聖霊で満たして下さい。たった今聖霊をいただけたと信じます。 そして異言も下さい。いただいたと信じ、舌を動かします。 (ララララ…と声を出して舌を動かしてください。) イエス様ありがとうございます。あなたがおっしゃる通り、しるしと奇跡を行い、異言を語ります。すべての栄光はイエス様に帰して、感謝して祈ります。アァメン」

 

※集会での補足説明

聖霊のバプテスマと同時に、異言を頂くことに対しては、疑問や反論もありますが、これは、牧師の体験を通して与えられた祈り方です。この祈りによって、ぶどうの木の羊たちは、老若男女問わず異言を語ることができます。異言の力については、日常生活の中で体験し、証も頂いています。異言を否定することは決してできません。

 

イエス様は、私たちと同じ人間の形をとってこの世に生まれました。ですから、イエス様は私たちの痛み、苦しみ、悲しみをご存じです。そんなイエス様が、十字架刑への道を歩めたのは、聖霊のおかげです。聖霊の力によって、文句一つ言わずに、神の御計画を成し遂げるために、十字架にかかることができたのです。私たちも、イエス様に倣い、聖霊の力によって何事でもすることができます。

多くのクリスチャンは、イエス様を見本にして、みことばを行おうと肉の努力をし、早天・徹夜祈祷を行い、イエス様に近づこうとしています。聖霊のバプテスマを受けていなければ肉の努力になって当然です。ローマ10:1~4には、【兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。】と書かれています。自分の義であるのか、神の義であるのか、それも聖霊によらなければ分かりません。

私たちは、イエス様御自身が自分の内に入られたという事に重きを置いています。ですから、自分の肉を明け渡す時、イエス様が自分を通してあらわれるのだと語られてきました。努力はいりません。自分自身の肉を打ち叩いて明け渡すだけで良いのです。それによって、自分の義(自分のやり方)ではなく、神の義(神のやり方)を知り、行なうことができるのだと語られました。

 

聖書は特殊な生活を送るように教えてはいません。祈りに専念し、社会との関係を断つのがクリスチャンであれば、修行僧と同じであり、クリスチャンになるハードルは高く、逆になりたいと思う人はいないでしょう。また、プロテスタントの堕落は、「救われたら皆天国に行ける」という教えから来ていると言われています。イエス様は【律法の終りとなられた】という事をもってきて、律法を守らなくてもよい、イエス様はどんな罪でも許してくださると、都合よく解釈しているクリスチャンがいるそうです。それにより、やりたい放題に生きているクリスチャンが大勢生まれ、まだ救われていない異邦人につまずきを与えています。【律法の終りとなられた】または、【律法を成就するために来られた】というのは、律法の土台があり、さらにその上に、律法では不可能なことも、イエス・キリストによってできるようにして下さったという事であり、律法そのものがなくなるということではありません。

 

聖書は、人としての在り方を教える書物です。この世の人より悪くなり、そしりを得ているのであれば、クリスチャン失格です。特別なことが求められているのではなく、人間として、日常生活をどう生きるのか、父として、母として、夫して、妻として、子供として、嫁としてどう生きるのかを学ぶために聖書はあります。聖霊のバプテスマを受けたら、老若男女問わず、皆がハレルヤ!で行っていけるからこそ、神が人類に平等に与えた書物なのです。

そして、聖霊は、イエス様の助け主です。イエス様は神の言・みことばと言われました。祈ってもきかれないのは、みことばに基いた祈りではないからです。みことばを成就するために、神の世界を広げるために、聖霊は助けて下さいます。自分の祈りがみことばによって造りかえられた自分の霊から来ているものであるか、吟味しなければならないと語られました。

 

後半は、来週紹介します晴れ