狭い門から入れー御心を忠実に行えるクリスチャンとなるためにー ②
サタンは私たちが救われてもなお、古い自分に引き戻そうとして様々な策を講じて持ってきます。
特に気をつけなければならないことが二つあると、牧師を通して語られました。
一つは交わりについてです。「悪い交わりは良いならわしをそこなう」(Iコリント15:33)と聖書に書かれてあるように、交わりによって自分の霊性が汚されることがあります。聴いている音楽、見ているテレビ、交わる人、そこで聞く言葉や自分が発する言葉。お土産でありがちな、どこかの民族のお面や置物などを家に置いておくことも、霊性を汚します。古着などは、その人の持っている霊力をそのまま受けることになるので要注意です。
以前、プロテスタントのクリスチャンが、人からもらったポスターを自分の部屋に貼っただけで一気に体調が悪くなり、殺されそうになったことがありましたが、間一髪のところでそのポスターを処分して霊力を退け、一命をとりとめた、という話がありました。実はそのポスターには十字架につけられたイエス様が写っていました。そこからカトリックの霊力が入り、その人を攻撃したのです。
カトリックの人がお守りとしているマリアのメダイや、イエス様が磔になった十字架など、仏教の数珠や神道のお守り同様どこでも手に入れることができるため、容易に私たちの生活の中に入ってきます。
私たちの肉は、日常の中でどれほどこの世の霊力にさらされて生きているのでしょうか。それらの霊の出どころも分からず、何でもかんでも受け入れてしまううち、自分の霊性が汚されて、異邦人と全く同様の感覚となってしまいます。クリスチャンがそうなってしまうと、状態はこの世の人より7倍悪くなるのです。
しかし、だからと言って私たちは世捨て人にならなければいけないのでしょうか?
ぶどうの木の長老は産婦人科医であり、不妊治療に関わる仕事をしています。近年の生殖医療は、精子・卵子提供による補助生殖医療により、家族関係に歪みを生み出す可能性を生み出し、さらにはヒトの遺伝子の改変をも可能にしています。人間が、神の領域である生命の誕生に手を加えることは、一歩間違えばその人にある神の計画を大きく変えてしまいかねず、それは大変な罪を犯すことになります。その霊力の中にまかれてしまい、現代の医療に迎合してしまうようならば、長老自身も罪を刈り取ることになってしまいます。しかし、その中にいてしっかりとこの世から聖別され、神の御旨をわきまえ知り、人々が罪を犯さないように光となって影響を与えていくのならば、その置かれたところで使われていく器となっていけるのです。
宣べ伝える者がいなければ福音は伝わりません。この世の中にあって世の光となり、NO IS NO!と声を上げ、裸の王様に裸だと伝え、裸の恥を見せないように賛美の衣を着せるのがこの世においてのクリスチャンの使命です。
また、クリスチャンは羊に例えられ、群れで行動することによって安全が守られていますが、一旦その群れから出て迷子になった羊はどう猛な狼に殺されてしまいます。救われてイエス様の羊になっているにも関わらず群れに属さず、古い時代を愛し、自分勝手に動き回っているのは、もはや羊でもなく、ヤギです。いずれにせよ、狼の餌食になって滅ぼされてしまうでしょう。
二つ目は、自分の口から出る言葉に注意しなくてはならないという事です。「初めに言があった、すべてのものはこれによってできた」(ヨハネ1:1-3)と聖書に書かれてあることを軽んじることはできません。言葉ほど自分に身近なものはありませんが、日常でどんな言葉を出しているかによって、自分という土壌にどんな言葉の種をまいたかによってその刈り取るものが大きく違ってくるのです。「イエス様が死人の中からよみがえったことを信じます!」という言葉を自分にまけば、やがてその種が芽を出し成長し、花を咲かせます。そして豊かに、信仰どおりの実を結ばせることができます。
先週、牧師たちが交わった姉妹は、実は数年前に既成教会で「イエス様が救い主」であることを信じるのみの救いの告白をしており、昨年、初めて牧師たちと会ったときは「イエス様のよみがえりについては、信じられない」というスタンスでいました。そこから牧師が正しい救いの告白に導き、彼女は「神がイエス様を3日目に死人の中からよみがえらせたことを信じます!」と言葉にしました。それから一年後、その信仰の言葉の種は見事に育っていました。
「よみがえりなど、信じられない」と言っていた彼女はすっかり変えられて、「そうですよね!人を造り、この世界を作った神なのだから何でもできますよね!」と、よみがえりのことも当たり前のように信じている言葉が聞かれました。これは、先週も語られたように、みことばをまかれた地が、おのずと信仰を成長させた証、聖霊によって内側から変えられた証でした。
不信仰の言葉、みことばに反逆する言葉、自分の情欲の言葉などを自分にまいても、その言葉のとおりに自分の身に刈り取ります。「復活など信じられない」「神がいるなどバカバカしい」と不信仰な言葉を出し続ける人には一生神が見えません。聖書の教えを自分のちっぽけな価値観で判断して「宗教臭い」という人には一生聖書にある宝も、善悪の正しい判断も分かりません。自分の言葉によって自らがめくらつんぼになってこの世と共に罪に定められ滅びへの道を進むしかありません。自分の現実問題ばかりに目を留めて、感情で、感覚で、情欲で言葉を出すのなら、自らを言葉で呪っているのです。その状態はずっと変わらないし、それが病気であるならば癒されることもありません。
先週、ある女性牧師さんと、ぶどうの木の牧師が交わりました。その牧師さんは、神学校を出ておられ、76歳の今も現役で福岡の地域の方々のカウンセリングをしておられます。そのような中で、「聖書に書かれている悪霊と戦う事なしにこれらの問題の解決はない」ことを切実に感じるようになられ、飢え乾いてぶどうの木の牧師に悪霊の追い出しについて教えて欲しいと言ってこられたのです。ぶどうの木牧師は、この世の中は聖霊と悪霊との戦いの場であること、聖霊と悪霊の教えはセットであること、悪霊に打ち勝つには聖霊のバプテスマを受け、聖霊の賜物によって霊を見分け、的をついた戦いをしなければならないことなどを語りました。福岡の牧師さんもご自分が救われた際に、イエス様のよみがえりを信じる信仰告白をしたか定かではなかったので、改めて正しく救われ、聖霊のバプテスマも受けていただきました。聖霊を受けられた牧師さんは、ぶどうの木で語られてきた教えを全て、よく理解されていきました。
そして、具体的に悪霊と戦う話になった時、一つの質問をされました。それは、「どうやって自分の中の悪霊を見破り戦うことができるのか」という事でした。ぶどうの木牧師は自分の中にいる悪霊の正体は、御霊の実によって見分けることができることを伝えました。
肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。
御霊の実は、イエス様が私たちに下さった性質であり、これはイエス・キリストのご性質です。「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ2:20)のみことばにもあるように、私たち自身が聖霊で満たされる時、自分自身があらわす性質はキリストの性質、御霊の実だけになります。それ以外の思いが来た時には、それは聖霊からの思いではなく、悪霊がもってくる肉の思いなのです。
御霊の実以外の思いが来た時には5秒と遊ばせず、みことばによって悪霊と戦い、肉の思いを退け、自分自身が神の子であることを保つことが、本当のクリスチャンであり、これも自分自身の内側をきよめる聖別に必要な行いの一つです。
聖別の訓練の中で、クリスチャンに求められるのは、戦い抜く強さです。「戦っている」と言っても、それは単発では終わりません。悪霊が自分に攻撃してきて罪を犯させるのならば、先ずはその悪霊を見極めて霊の世界でその動きを封じ、追い出します。その後は魂と体の領域、肉の責任です。自分の肉は自分で制する必要があります。悪霊の追い出しは、人間の肉から悪霊を引きはがす行為です。重要なのは、そのあと、自分がどれだけその罪を忌み嫌うか、二度とそこには行かない!という決心ができるか。そして行動に移せるかです。悪霊が出ていった自分の肉が情と欲だらけであれば、悪霊はすぐに戻ってきます。罪を忌み嫌うことのない心が悪霊を呼び寄せるのです。
ただ悪霊を追い出す祈りをすることが“戦い抜く”ことではありません。信仰の完成者であるイエス様を仰ぎ見て、自分の情と欲とを十字架につけ、肉を霊に服従させることまでやって、初めて「戦い抜いた・勝ちぬいた」といえるのです。そこに必要なのは自分の肉を打ちたたく自制です。この自制もまた、御霊の実の性質として私たちに与えられていることに感謝します。
このようにして、私たちは聖別の訓練を通り、ひたむきに自分をきよめていきます。しかし、戦い抜くことを怠り、いつまでも肉の思いに先導されているうちに、情欲の切り株から苦い根を生えさせるならば、悪いものの刈り取りは繰り返されます。情欲を十字架につけず、そこに甘んじているならばその人にはイエス様の十字架の恵みも神の力も無駄なものになってしまい、良い実など結べるはずがないのです。一杯の食=このぐらい何が悪いと言いながら、真剣に神の訓練に向かわないならば、エサウのように神の国を受け継ぐ権利さえも奪われてしまうのです。情欲の人間ならば「神は残酷だ、みんなを救うことが愛ではないか」というでしょうが、そうではありません。聖書には、神は愛であると同時に裁き主でもあると書かれています。神は人間を愛し、神側ができるすべてのことをすでに2000年前に成し遂げられました。また、人間一人ひとりに自由意思を与えてくださったのも人間に対する尊厳と愛です。そのような人間が滅びの道を行くことを、一番嘆いておられるのは神ご自身なのです。陶器が陶器師に対して何を言う事ができるでしょう。私たちは神と人間との関係をまずは覚えなければなりません。
聖書が教える真理とは棚ぼた式の御利益宗教とは違います。自分の生き方を変えて、良いものを蒔き、良いものを刈り取るという神のルールがあります。
狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。
にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
霊から変えられ、真に神の御旨=みことばを行う者でなければ、天国に入ることはできません。単発で預言をしても、悪霊を追い出しても、力あるわざを行ったとしても、聖別の訓練を通り、自分の生き方そのものを天国に帰るにふさわしいものにしていなければ、父のもとには行くことができないという事です。
「私が道であり真理であり命である」と言われるイエス様と共に歩く醍醐味は、神の御手の中にある自分の人生の至福の計画を知って、神と共に生きることです。
多くのカトリック、プロテスタントのキリスト教指導者は、肉的な解釈によって、信徒を導いています。
カトリックでは、祈りは、イエス様の肉の母のマリアがイエス様に取り次ぎ、イエス様が天の父にとりなすという流れになっているようです。ある人はその理由として「マリアはイエス様のお母さんだから、お母さんから息子に取り次いでもらうのは悪い事ではない」と言っていました。が、聖書にはそのような事は一切書かれていませんし、これは非常に人間的な情欲的な考え方であり、何が神のみ旨で神に喜ばれ全き事か…が分かっていません。また、そのように十字架にかかられ、信仰の完成者となられたのはイエス様ただ一人だと聖書には書いてあるにも関わらず、そこに人間であるマリアを入れてくることによってイエス様の栄光を汚す高ぶりの霊が動いています。そもそも、マリアは無原罪であるという教えも、聖書には書いていないことであり、意味不明です。
「木は実で判断しなさい」のみことばによって私たちは自分自身も吟味します。自分の人生の実はどんなものだったでしょう。神の摂理に従っていなければ、どれだけ自分の力でもがいても良い実は結ぶことはできません。もし自分自身がよい実を成らすことのできなかった木であるなら、最初から、自分の土壌を耕しなおして良い地にして種をまき、新たに良い実を成らせる木を育てなければなりません。
聖霊によって自分自身を、その生き方を180度変えられたものは、御霊による実を成らせることができます。そのクリスチャンを教え、導く牧者はなおさら、明け渡した器として、完全に聖別されることが必要です。
そして、信仰の戦いを戦い抜くためにも、私たちはしっかりと武具=みことばを自分の内に蓄えなければならないとあらためて語られました。
<詩篇119:9>
ぶどうの木では救われてわずかな日数しか経っていない幼子でさえも、聖霊によって、みことばをいただくことができます。しかし成長してくるにつれ、そのみことばから何を語られているかを知ることが重要になってきます。なぜなら、それが自分で分からなければ、そのみことばを握りしめて実際に行動に移すことはできないからです。
成長したクリスチャン・牧師の内には、すでにみことばが蓄えられています。
感謝なことにぶどうの木の賛美はすべてみことばからできていますし、私たちが蓄えておくべき最低限のみことばを集めた武具の冊子も作成されています。そのほか、様々な学びの書物もみんなに行きわたるように分け与えられています。自分が意志を向ければ、それを読みさえすれば成長につながる一切のものが各々に備えられています。それらは聖霊によって生み出されたものですから、みことば同様、自分の霊に蓄えられていくものです。みことばは、霊に蓄えておくものであり、知性で暗記するものではありません。日々みことばに親しんでいると、自然にみことばを蓄えるようになっています。
みことばが蓄えられているクリスチャンは、日常生活の中で、いちいち儀式的に聖書を開くことはありません。(もちろん聖霊によって聖書を開きみことばを確認すること、祈ることは多々ありますが)牧師は、一瞬一瞬、イエス様~と会話していたら、腹からポンとみことばが語られてくるのだそうです。そしてみことばに基づいた、知恵の言葉も与えられてくるので、自分を明け渡して口を開く。その時に生ける水の川が自動的に流れ出すのだそうです。異邦人の前でならば、宗教臭いと言われることのないような言い方ができる知恵も助け主聖霊によって与えられてきました。
儀式的に、朝は聖書を開いてお祈りをしてから一日を始めなければならないと、自分の義で決めているクリスチャンもいるようですが、そんなことをしていたら今この瞬間に起こっている霊の流れに乗ることはできません。
本来クリスチャンは、自分自身が歩くみことばです。聖書を書かせた方が内にいらっしゃるのですから。
自分の意見ではなく、みことばに基づいた知恵を語るのが世の光地の塩であるクリスチャンであり、そのようなクリスチャンが行く先々はどこでも教会となります。いつでもどこでも、みことばと一体となったキリストの花嫁。それが神が求めておられるクリスチャンの姿であると語られ、アーメンでした。
それから神はサウロを退け、ダビデを立てて王とされたが、彼についてあかしをして、『わたしはエッサイの子ダビデを見つけた。彼はわたしの心にかなった人で、わたしの思うところを、ことごとく実行してくれるであろう』と言われた。
最後に、このみことばから、神が全世界の中からこのようなクリスチャンを探し求めているという事が語られました。神は招いた一人一人に対して、ご自分の御心を忠実に成し遂げていく人間かどうかを見ておられるのだということを忘れることなく、私たちも御心を忠実に行い続けることができるように、主の訓練によりさらに精錬、聖別され、常に御霊の実を表していくクリスチャンとなれたことに感謝します。
聖霊によってこれまで出会ってきたクリスチャンたちが、その召しと選びによって繋がっている今の時です。その聖霊の導きは、日本国内に留まらず、韓国にも及んでいます。いよいよ、地は平らに成らされるという預言の年が終わるカウントダウンの時期に入りました。ぶどうの木は最後まで預言の成就に向かって全力で走り抜きます。