神との関係の築き方
holygirlです
今週の集会では、第1ヨハネ5:10~15が与えられました
第1ヨハネ5:10~15
神の子を信じる者は、自分のうちにこのあかし(=御子について立てられたあかし)
を持っている。神を信じない者は、神を偽り者とする。神が御子についてあかしせられたそのあかしを、信じていないからである。そのあかしとは、神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない。
これらのことをあなたがたに書きおくったのは、神の子の御名を信じるあなたがたに、永遠のいのちを持っていることを、悟らせるためである。わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。そして、わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである。
アーメン
神の子イエス様を信じる者は、聖書に書いてあることは確かであるという確信、イエス様は神の子であるというあかしを持っています。聖書に書いてあることを、「書いてあるから!」と言って素直に信じ、行なってきたからです。しかし、神を信じない者は、神を偽り者とします。神を信じない者とは、イエス様を信じていない人だけを言うのではありません。クリスチャンであっても、神を信じずに偽り者としてしまっている人もいるのだと語られました。
牧師(母)と私は、先週、3代に渡るクリスチャン家系で育った一人のクリスチャンにお会いしたのですが、知性で理解できる事と、理性の許す範囲内での教えを受けて来たため、聖書を読んでも自分の中に何も残らないのだと話してくれました。また、異言を求めているが出てこないとの事でした。
知性・理性で理解できる神学によって、神、みことばを知ろうとしても、頭でっかちになるだけです。あかしをするものは、御霊(聖霊)なのですが、彼らには聖霊体験がありません。どれだけ神学校で学んでも、卒業する時には、「聖書の学びを、ここからは自分自身で体験してください」と言われるそうですが、実際にその聖霊体験ができずに神学だけを教えている牧師も多いでしょう。
牧師はその方(Aさん)に、自身が聖霊の導きによって頂いてきた証(異言によって得た証も)を話しました。証を聞いたAさんは、「今までは、罪人である事を教えられて入信し、牧師から自分の出来ていない事ばかり指摘されて、ずっと悔い改めばかり強いられてきました。そのため、聖書は私にとって恐い本であり、聖書に書かれている喜びというものがどういうものなのか全く分からずに来ました。私は一体何をしてきたのでしょう。牧師さんの話すイエス様は、本当に自由で喜びがきます!!」と言って、ずっと感動、感激されていました。
そして、「神は愛から入る福音、証のある事を知り、初めて本物のクリスチャンの福音を聞きました。がんじがらめに縛られていたもの(=神学化した信仰)が取り去られたような、鎧を脱いだような軽さ、肩の荷を降ろしたような解放感、不思議で嬉しい自由感を感じています」とおっしゃっていました。
交わりの最後に、牧師がAさんに、「異言を頂く祈りもされますか?」と尋ねると、「はい、お願いします」とおっしゃったので、聖霊のバプテスマの祈りと共に、異言を頂く祈りをしました。すると、溢れ出すように異言が出始め、止まらなくなりました。それはまるで、自身の長年の歩きを悔い改め、赦しを請い、とりなしているように見えました。
知性では理解できなくても、霊が知っていることを祈り始めるのが異言です。人間が知性で考えて言葉にして祈る時は、サタンも聞いているため、祈りがきかれないように先回りします。異言は、サタンが分からない言語です。聖霊の力によって語りますから、いつでも何時間でも祈ることができます。何と祈ったらよいのか分からない時、まだ分からない未来のことも神はご存知ですから、祈らせて下さいます。神に向かってとりなすことができる祈り、神が与えている賜物であるとも言えます。そして、イエス様は後で何について祈ったのかも教えて下さいます。
私の父が海外出張中に誘拐されそうになった時、牧師である母は、その時間にイエス様に起こされ必死に異言の祈りをしました。それによって、父は誘拐の危機を逃れることができました。友達が自殺しようとして橋の欄干に立った時も、駿河湾上空で日本航空機と自衛隊機が衝突しそうになった時も、牧師は異言で祈らされ、危機的状況は回避されたのです。
聖書には、牧師の証のような具体的な異言の証は書かれていません。そのため、これは自分自身が体験しなければなりません。異言を頂いたAさんは、すぐに異言の祈りによる聖霊体験をすることができました。不機嫌になっていた相手の事を思い、異言で祈った最後に、「ハレルヤ、ハレルヤ・・・・」と主を褒め称えはじめて止まらなくなり、「あなたの祈りは全てきかれた」というイエス様の思いが伝わってきたそうです。この実感はAさんにとって初めての経験だったそうで、その直後、その相手の態度が変わったのだと話して下さいました。これは、Aさんに与えられたあかしでした相手の態度が変わったという事実を、“たまたま”と思う人にとっては、そこ止まりです。Aさんは信仰によって“異言で祈ったから相手が変わった”と思えました。
【神の子を信じる者は、自分のうちにこのあかしを持っている。神を信じない者は、神を偽り者とする。神が御子についてあかしせられたそのあかしを、信じていないからである。】(第1ヨハネ5:10)と書かれてある通りです
信じる人にとってだけ頭では理解できない事、説明できない事が現実に起きます逆に、祈っていても、自分の理性によって、超自然な神の働きを信じることができない事があります。
先週、ぶどうの木の長老の長男が、大学合格を通して語られたことを紹介しましたが、実は、彼は一番行きたかった学部に入れなかった事に対して、合格直後は、自分の実力が足りなかったのだと卑下していました。志望学部を3つに増やして挑む3次試験の前に、「イエス様の御心の学部に導いて下さい」と祈ったからこそ、神は分かりやすく進むべき道を教えて下さったのですが、最初、長男はそれを悟ることができなかったのです。「神が行かせたかったのは、この学部だったのだ!」と率直に喜べない彼は、不信仰であることが示されました。そして、イエス様は彼の母親を使い、「本当にその学部に行くと決めていいのか?浪人して、もう一度第一志望だった学部を受けてもいいんだよ」と心を試しました。それでも彼は「イエス様に祈ってこの学部に決まったのだから行く!」と信仰の言葉を出し、感謝して大学生になることを決めたのです。
また、S姉妹は、仕事でのトラブルがあった時に、聖霊が働いて問題を解決してくれたにも関わらず、「でも、私がもっとこうするべきだった。私が悪いんだ・・・」と落ち込んでいたことが明るみになり、聖霊の働きに鈍感であっては、日常生活の中で信仰による喜びなど得られるはずがないと戒めを受けました。そして、自己中心的な思いに陥って神が働いて助けて下さっていることが見えなくなっていたこと、神に対する感謝や喜びを言葉にするのではなく、自分のマイナスな思いを言葉にしてサタンに武器を作るチャンスを与えていたことを悔い改めました。
私たちは、Aさんの証と、長老の長男、S姉妹の霊的状態を通して、【わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。そして、わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである。】(第1ヨハネ5:14~15)というみことばの土台に立てているのか問われました私たちが、神の御旨に従って願い求めるなら、神の超自然な働きを体験する事ができるのです
神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さると、ヨハネは確信していました。それだけのあかしを得ていたからです神学からではなく、聖霊体験からイエス様を知った私たち一人一人も、確信に至るだけのあかしを頂いてきました。神の御旨に従って願い求めることができるよう、みことばを信じ、守り、行なうことを徹底的に教えられ、全ては神の愛が土台になければならないと学んできました。そんな神の愛に基いた思い=神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞き入れて下さるのです。
何より、救われた時に、「イエス様、私の人生を導いて下さい」と祈っている事を軽んじてはならないと語られました。救われた時から、神は自分を最善の道に常に導いて下さっていること、たとえ自分が不信仰、不忠実であっても、神はこれでもか!と御自身を現わして下さり、天使が遣わされ守られていること、それによって、私たちの祈りは成就していっている=神のみ旨だけが堅く立っているのだと語られました。
箴言19:21
人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。
アーメン
そして、願い求めたことはすでにかなえられたと信じなければならない事を、私たちは再確認しました。願い求めて祈った次の瞬間に、不信仰な言葉を出しているという事は、恐らく皆、心当たりがある事です。例えば、熱が出て熱の霊を追い出し、「イエス様、完全に癒されたことを感謝します」と祈ってすぐに、「まだ、熱がある・・・」と言ったリ、「主にあってできた事感謝します!」と祈ってすぐに、「でも、できなかったらどうしよう・・・」と弱音を吐いているのであれば、その祈りを無効にしているのだと語られました。
以前、ある牧師家族と食事に行った時に、その牧師が食事の前に、「全ての食べ物に感謝して、いただきます」と祈って下さったのですが、祈り終わった次の瞬間、息子に「これは嫌いでしょ?これはアレルギーが出るから食べない方がいい」と言い出したのです。それを聞いていたぶどうの木の牧師は、「今、祈ったばかりじゃないですか!」と突っ込みました。その牧師は、「あっ!そうですね」と恥ずかしそうに笑い、その週の週報にこの学び・出来事を紹介していました。
祈りにおいては、先に異言の事でも書いたように、神(聖霊)とサタンの攻防戦です。信仰の祈りをしている時は、聖霊が活発に動き出しますが、不信仰の言葉を出した途端に、サタンが武器をつくります。不信仰の言葉は、「こいつは熱に弱いのか」「これが苦手で思い煩いの種なのか」とサタンに知らせているのと同じですから、そこばかりを集中攻撃してくるのです。私たちは、神を信じ忠実に従うのか、自分の肉に負けてサタンの支配下にいる事を求めるのか、いつも心を見られているのです。神の力を信じず、神にも不可能な事があると言うのであれば、それは高ぶりであり、神の御前で忌み嫌われます。
ヘブル11:1
さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
アーメン
牧師は、どんな体の状態であっても、癒されたと信じ、神の御用のために一歩踏み出し出かけてきました。その信仰の一歩を神は喜ばれ、外に出た瞬間に状態が去ることを何度も経験してきました。当然、神の御用をしている時も完全に守られてきました。このように、肉の状態は、サタンの攻撃によってコロコロ変わり、うそつきですから、「静まれ!私の肉!」と言って制しなければならないと語られました。そして、自分の肉で感じること、思うことを言動にする事によってサタンが動く事のないようにしなければならないと語られました。
この神(聖霊)対サタンの戦いにおいて勝利するためには、忠実と忍耐が必要ですみことばを握りしめ、宣言して、自分の心の迷い(を持ってくる悪霊)と戦わなければなりません。また、神は私たちが苦手なものを克服できるように、それを主にあってできるようにするためにも、訓練されます。そのためにわざわざ苦手な物、苦手な事を持ってくる事もあります。神は愛であるが故に、肉に厳しいこと、辛いことも、その人をより良いクリスチャンに成長させるために与えるのだと語られました。
ヘブル12:4~11
あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、
「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。
あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。
アーメン
みことばも同様に、自分の肉に心地よいものだけを受け付けていたら、大事な神のメッセージを見失います。自分の耳に痛い戒めや、自分の肉が受け付けたくないみことばも、へりくだって受けなければなりません。
T姉妹は、4月から高校3年生になる娘C姉妹の将来を思い煩い、出遅れてはならないからと、子供が目指したいと言っている道(職業)の情報収集をしていました。すると、子供の進路のためにも予備校に行くのはどうかと夫(救われているが、聖書を学んでいない)が提案してきました。子供の進路に対して行けるところに行けばいいと、半ばあきらめモードであった主人が応援体制になってくれたことを喜んだT姉妹は、それに賛同し、予備校選びを始めました。C姉妹とも相談しながら候補をあげる中で、日曜日休みがあるが、始業式の日も授業がある学校と、日曜日休みなしの学校という2つを選び、C姉妹と共に後者の学校に決めたのですが、もっと希望にそった学校があるのではないかと諦めきれず、予備校選びを続け、申し込みができずにいました。聖書を開いてもみことばを頂くことができず、そんな状況にうんざりしていた矢先、【明日のことを思いわずらうな】(マタイ6:34)というみことばが語られました。自分の価値観でもっと良いもの、もっと良い環境を求めて時間を浪費するのは自分の肉の習性であった事、C姉妹が納得して選んだ予備校講習を喜び、煩いは全て捨てて申し込みをしました。
しかし、そこから予備校参加のために欠席する集会は、神の国において特別な日となることが示され、先週は、安息日を軸に何事も選択するクリスチャンの心得が語られました。T姉妹は、まだまだ生ぬるい自分であったことを悔い改め、改めて予備校に行く事が神の御心であるか吟味しました。
牧師はT姉妹に、「予備校選びの発端となったご主人のかしらはイエス様であったか?」と問いました。救われていても、反キリストの霊にまかれて迫害をしてきていた主人が発端となっている事であれば、その時点でイエス様からであるか、サタンからであるか、霊を試す必要がありました。
実はC姉妹には、昨年からここまでの歩み・証を書く事が言われていたのですが、そこに意志を向けて書き切ることができずに1年が経ってしまっていました。高校3年生になる前のこの春休みで、その証を書き切ることが何よりも優先するべき事でした。牧師は、C姉妹の証が、反キリストの霊にとらわれた父親を解放する事になるからこそ、C姉妹から証を書く時間を奪おうとして、反キリストの霊がT姉妹をそそのかしたのだと解き明かしました。
そこからT姉妹は、改めて自分を吟味しました。すると、以前から、「この世と姦淫してはならない」というみことばをよくもらっていたが、自分の肉の都合で受け付けてこなかった事、自分に心地よいみことばだけを受けてきた事をイエス様に指摘されました。そして、頂いていたみことば【明日のことを思いわずらうな】(マタイ6:34)の前には、【まず神の国と神の義とを求めなさい。】と書かれてあるにも関わらず、そこを自分の肉の思いによって省いてしまっていたこと、まず神の国と神の義とを求めるとは、証を完成させる事であったと悟りました。
また、牧師を通しては、【明日のことを思いわずらうな】とは、予備校の事ではなく、C姉妹の進路・人生の事であると解き明かされ、T姉妹は一気に解放されました
証とは、岩の土台をつくることですこの土台なしに、クリスチャンは家を建て上げる事はできません。砂の土台であれば、すぐに倒れてしまいます。C姉妹も、証という岩の土台がなければすぐに心が揺らぎ、永遠のいのちを与えて下さったイエス様が導いて下さっているという確信を持てない歩みとなってしまいます。
マタイ7:24~27
それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。
C姉妹は、もともと自殺の霊に捕われていたところから救われたのですが、救われた後も、自分を苦しめてきた肉の習性を忌み嫌えずにきました。古い肉に、神の言葉を入れようとしていたため、とても宗教的になってしまう事もあり、それに対して父親は「いつも聖書に縛られているように見える!」と思っていた事が今回明るみになりました。C姉妹は牧師を通して、「古い自分を忌み嫌い、岩の土台の上に神との関係を築いていかなければならない。全てが新しくならなければいけない。証を書き上げたら、自分がどんな道に進みたいのか、予備校に行くべきか、神のみ旨がどこにあるのか分かるようになる!」と語られ、その第一歩である証を書き上げることができました
ルカ5:36~39
それからイエスはまた一つの譬を語られた、「だれも、新しい着物から布ぎれを切り取って、古い着物につぎを当てるものはない。もしそんなことをしたら、新しい着物を裂くことになるし、新しいのから取った布ぎれも古いのに合わないであろう。まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、新しいぶどう酒は皮袋をはり裂き、そしてぶどう酒は流れ出るし、皮袋もむだになるであろう。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。まただれも、古い酒を飲んでから、新しいのをほしがりはしない。『古いのが良い』と考えているからである」。
アーメン
イエス様=みことばを知ったら、自分のやりたい事が全部できなくなると思っているのであれば、それは自分の宗教心です。神は人間を愛しているが故に、その人間にとって最善の道に、秩序正しく導いて下さる方です。順番が違えば、違うとおっしゃいます。危険な道であれば、そっちに行ってはならない!と、みことばを通して、牧師を通して警告します。T姉妹は、今回様々な角度から自分の歩みについて語られ、予備校に行ってはならないと言われるのかと思ったが、そうではなく、自分の心の問題であり、主の霊のあるところには自由があるのだと悟ったと話してくれました。私たちも、T姉妹とC姉妹の証を通して、神は奪う神ではなく、いつも最高のものを、最善の形で与えて下さる神である事を再確認しました
C姉妹の証は、またブログで紹介します
神の子を信じる者は、自分のうちに御子について立てられたあかしを持っていますここから益々、確固たる聖霊体験による証を頂き、私たちを通して救われた皆さんも、同じように体験していけたことを感謝します