携挙に対するクリスチャンの心得~第1テサロ4章5章より~
holygirlです
今、キリスト教界では、世界の情勢(特にユダヤ人・イスラエルの動き)を通して、イエス様が再臨され、救われたクリスチャンだけが天に引き上げられる日=携挙が近いと言われています。そして、携挙が、患難前なのか、患難中なのか、患難後なのかで見解が分かれ、患難前携挙説を信じるクリスチャンたちが、患難時代とはどんなものであるのか、その前兆を預言から神学的に考察して、携挙がいつなのかという話題に夢中になっています。彼らは、携挙される事、その日を待ち望んでいます。
先週、私たちは、患難前携挙説を信じるクリスチャンが広めている「携挙に残された人への手紙」というものを読みました。そこに書かれていたのは、クリスチャンが携挙された後に、反キリストが支配する7年間の患難時代があり、その中で残されたクリスチャンはひどい拷問にあい、斬首される事になるが、それを耐え忍んだ者は、7年後にイエス様と共に永遠に生きることができるという、セカンドチャンス論についてでした。
昨年の今ごろは、患難前携挙説を解くクリスチャンたちとの出会いによって、私たちもそれを1つの知識として受けていました。しかし、携挙と再臨は別なのか?携挙された後、私たちは7年間しか天国にはいないのか?と、腑に落ちない点もありました。母教会では、「ノアの時代と同じように、主の日は突然来る。終わりの日にはラッパが鳴り響き、イエス様が帰ってこられる。と同時に、この地上は火の海になる。クリスチャンはその時天に引き上げられる。しかし、クリスチャンであっても引き上げられない人が大勢いる。彼らの足から、地獄と繋がっている根っこが生えていたためだ」というビジョンを見せられていた人たちが大勢おり、患難後携挙説を聞かされてきたからです。それは、マルコ13章(最後に記載)に基づいたものです。
クリスチャンであっても携挙されないという事は衝撃的でしたが、そうならないために、地獄と繋がっている悪い根っこ=自分の欲、この世に姦淫しているものがないか、裁き、憎しみ、妬みの思いがないか常に吟味しなければならないと思いましたし、あらかじめ聞かされた事に感謝し、神を畏れて、いつ携挙の日が来てもいいように生きなければならないと強く思ってきました。
私たちには、携挙がいつなのかを追究したい気持ちも、患難前だ!患難後だ!と論じる気持ちもありません。実際、イエス様御自身も知らない事であり、神だけがご存知だと聖書(マルコ13:22)にも書いてありますから、答えは出ない問題です。しかし、あまりにもこの話題がキリスト教界の中で上がり、セカンドチャンス論まで語られ、クリスチャンたちが神からの任務とその責任を果たさずにいることに対しては、黙っておれない気持ちになりました。
今はあわれみの期間であり、この期間の内に、一人でも多くの魂が救われることが神の望みである事、そのためにクリスチャンが熱心に福音宣教しなければならない事を、先週私たちは語られました。
この世で生きることを嘆き、こんな地上は一刻も早く去りたいと願い(=裁き)、「マラナタ~主よ、来たりませ」と祈りながら、携挙の話題ばかりに夢中になっているクリスチャンがいますが、自分の家族や友人、知人が救われていないのに、携挙されていいのか?と、率直に思います。自分が彼らからの迫害を恐れて福音宣教をしていないにも関わらず、「マラナタ~主よ、来たりませ」と言えてしまうクリスチャンは、霊も肉も薄情者で愛がありません。偽クリスチャンです。福音宣教をしないクリスチャンが、神のみ旨を行なっているとは決して言えない、故に携挙されないだろうと思います。
携挙がいつかを論じるよりも、自分の周りにいる人たちが救われているかが重要です。周りにいる人たちの魂を救う責任は、そのクリスチャン自身にあるからです。
そして、イエス・キリストを受け入れて救われたら、天国に行けると思っているクリスチャンが大勢いますが、神は、「救の達成に努めなさい」とおっしゃっています。達成です
ピリピ2:12
わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。
アーメン
救われたら天国に行けるという保障はありません。むしろ、【わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけがはいるのである。】(マタイ7:21)と、イエス様はおっしゃっています。
聖書が分厚いのは、救われた後に、学ぶべき事がたくさんあるからです。肉の人から霊の人に180度生まれ変わった者こそが、「クリスチャン」=キリストに似た者となるのです。
私たちの学びでは、救われて180度真反対に変えられていないならば、天国行きなど望めません。裁き、高ぶり、我こそは!の言動、肉のやり方の前に、真理も聖霊の助けもないからです。しかし、救われたら天国に行けると思っているクリスチャンは、人を裁き、神の御前で高ぶった言動をし、肉のやり方を相変わらず行なっています。肉の人=この世の人と同じ生き方を続けています。救われても、救いの達成に努めてはいないという事は明らかです。
ヨハネの黙示録3:14~22
『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」。
3月3日=耳の日に、神の愛の戒めをしっかりと聞き、真に生まれ変わらなければならないと改めて語られました。
そして、今週の集会では、テサロニケ人への第一の手紙4章、5章を通して、救いの達成に至るまでのクリスチャンとしての生き方と、携挙・主の再臨について確認しました
<テサロニケ人への第一の手紙4章>
4:1~8
最後に、兄弟たちよ。わたしたちは主イエスにあってあなたがたに願いかつ勧める。あなたがたが、どのように歩いて神を喜ばすべきかをわたしたちから学んだように、また、いま歩いているとおりに、ますます歩き続けなさい。わたしたちがどういう教を主イエスによって与えたか、あなたがたはよく知っている。神のみこころは、あなたがたが清くなることである。すなわち、不品行を慎み、各自、気をつけて自分のからだを清く尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲をほしいままにせず、また、このようなことで兄弟を踏みつけたり、だましたりしてはならない。前にもあなたがたにきびしく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて、報いをなさるからである。神がわたしたちを召されたのは、汚れたことをするためではなく、清くなるためである。こういうわけであるから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、聖霊をあなたがたの心に賜わる神を拒むのである。
アーメン
ここに書かれている事を、一つ一つ吟味しなければなりません。神がわたしたちを召されたのは、汚れたことをするためではなく、清くなるためです。清くなるとはどういう事なのか・・・すなわち、不品行を慎み、自分のからだを清く尊く保ち、情欲をほしいままにしない事です。情欲があれば、それが足の裏から地獄へと繋がる根となり、イエス様が再臨されても、引き上げられません。
自分の肉が握っているものに、どれだけの価値があるでしょうか。パウロは、【しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。】(ピリピ3:7~8)と言っています。この世に対する情欲がある限り、私たちは救われても、肉の人のまま、この世の人と何ら変わりがないのです。
私たちは、みことばを通して、この世のものは全て、神の国と神の義を求める事によって、神ご自身が与えて下さるにも関わらず、救われる前の自分と同じようにそれを求め、握り、自分の力で得ようとしていないかと問われました。全てのことは許されていても、全てのことが益になるわけではなく、むしろ、滅びに至る危険性があるものがたくさんあります。聖霊のバプテスマを受けているクリスチャンは、神が、日常生活の中で一つ一つ教えて下さっている警告を、聖霊によって知ることができます。もし、聖霊が知らせてくれる神の警告を肉の欲の強さによって拒んでいるのならば、神を拒んでいる事になります。それが大きな罪であることは言うまでもありません。
罪を犯した後に、知らなかったと偽り、弁明することはできません。イエス様は、私たちの心の奥底までご存じだからです。そして、全ての汚れに対して報いをなさいます。この事一つとっても、「早く携挙されたい!」と簡単に言えるでしょうか?何らやましい事はないと言える自分でしょうか?本当に、今日明日に主が来られても大丈夫ですか?神は侮られるような方ではありません。
4:9~12
兄弟愛については、今さら書きおくる必要はない。あなたがたは、互に愛し合うように神に直接教えられており、また、事実マケドニヤ全土にいるすべての兄弟に対して、それを実行しているのだから。しかし、兄弟たちよ。あなたがたに勧める。ますます、そうしてほしい。そして、あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位を保ち、まただれの世話にもならずに、生活できるであろう。
アーメン
兄弟愛についても、自分の肉の強さによって、人を赦せないままいるのであれば、自ら汚れた者となっています。神の戒めは、第一に神を愛すること、第二に隣人を愛することです。無条件の赦しと、無条件の愛は、聖書の基盤となる教えです。それが行えていない人、裁きの心で家族や周りの人々を切り捨てている人が、携挙されるでしょうか?
また、外部の人々に対してそしりを買うような働き方をしたり、言動をしているのであれば、イエス様から散らす側に使われています。人としての品位(人や物事にそなわっている気高さや上品さ。品格)がなければ、世の中の人に対して福音しても説得力がありません。人の悪口を言う人、平気で遅刻をする人、人をあてにして自立しようとしない人、物事に対して怠惰な人、不潔でだらしない人、すぐ嘘をつく人、いつも言い訳をする人、何事も口先だけの中途半端で信頼できない人、献金を正しくしていない人・用いていない牧者、いつも喜びの笑顔のない人などなど、そのような人が伝える福音に誰が耳を傾けるでしょう。まず、自分を救え!あなたが変われ!と嘲られるだけです。
クリスチャンとは、180度生まれ変わった人を言います。罪を犯しても悔い改めたら大丈夫!という安易な考えを持たずに、品位を保つことに意志を向け続けなければならないのです。何度も同じ罪を犯して悔い改める事は、イエス様を十字架にかけて何度も血を流して頂くという事であり、それは神を嘲っていることを忘れてはなりません。
4:13~18
兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。
アーメン
このみことばは、主が来臨される時=携挙の日について教えています。
そして、続く5章には、携挙に対する心得について書かれています
<テサロニケ人への第一の手紙5章>
5:1~11
兄弟たちよ。その時期と場合とについては、書きおくる必要はない。あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。
アーメン
【主の日は盗人が夜くるように来る。人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。】と書かれてある通り、イエス様は、思いがけない時に、不意に帰って来られます。盗人がいつ来るのか察知できないのと同じです。(患難前携挙説を信じるクリスチャンは、「盗人が夜くるように来る」という事を、こっそり来ると解釈し、携挙は秘密に行なわれると思っています。それ故、携挙に残された人が驚く事のないように手紙を残そうと考えるのです。)
しかし、まず神の国と神の義を求めて生きるクリスチャン、御霊によって歩んでいるクリスチャンにとっては、それがいつなのか、霊で分かり、盗人のように不意に襲われることはありません。
現に、昨年から、新世界秩序を目指すための人口削減計画による人工地震や人工台風、疫病が続き、戦争のうわさも聞こえてきています。聖書の黙示録に書かれている666の獣の刻印は、マイクロチップを体に埋め込まれる事だと語られてきましたが、今年に入り、それがついに日本の中にも入ってきた、日本人もマイクロチップを入れ始めたという事を耳にしました。マイクロチップを入れた者はサタンと共に地獄に行く事が決定してしまうため、決して入れてはなりません。
患難の時代は着実に近づいている、いや、もう突入しているのではないかと霊で分かります。目を覚まして世の中の動きを見極め、判断している者は、患難の時代に流されることはありません。常に油を用意した花嫁であること、光の子として、昼の子として、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、主と共に生きる事が、益々求められているのだと語られました。
5:12~28
兄弟たちよ。わたしたちはお願いする。どうか、あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々を重んじ、彼らの働きを思って、特に愛し敬いなさい。互に平和に過ごしなさい。兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。御霊を消してはいけない。預言を軽んじてはならない。すべてのものを識別して、良いものを守り、あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。
どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。
兄弟たちよ。わたしたちのためにも、祈ってほしい。すべての兄弟たちに、きよい接吻をもって、よろしく伝えてほしい。わたしは主によって命じる。この手紙を、みんなの兄弟に読み聞かせなさい。
わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。
アーメン
このみことば通りに生きているか・・・生きていなければ携挙はあり得ません。
特に、すべてのものを識別して、良いものを守り、あらゆる種類の悪から遠ざかるためには、聖霊の力・霊を見分ける力が必要不可欠です。今の自分はみことばを行なっているのか、みことばに反する言動をしていないか、これはイエス様から来ているものなのかと、一つ一つイエス様に聞いていった時、自分の至っていない部分、責められるべき部分が見えてきます。今週の集会では、そんな自分に気付き、心から悔い改めて、善を追い求めた結果、素晴らしい実をならせることができた姉妹の証を聞くことができました。
聖書の教えは、自分という人間を心底見つめさせられます。救われるまでに、何を学び、何を考えてきたのか問われます。当たり前に思ってきたこと、教えられてきた事が真実ではなかったと分かるようになります。自分が持ってきた固定観念・既成概念に気づかされ、それを捨てなさいと言われます。霊の世界を知って物事の見方が変わってくると、人にかける言葉も変わってきます。対処の仕方も変わってきます。それによって、救われる前の人間関係が保てなくなり、家族や友達が離れていくこともあります。肉の人から霊の人に変わるという事は、生易しいことではありません。痛みや苦しみが伴って当然です。しかし、そのようにして清くならなければ、主を見ることはできません。
そして、全ての問題や不和の原因は自分自身にあったと悟り、認め、変わることができれば、一気に物事は好転します証をしてくれた姉妹も、私たち一人一人も、それを体験しながら責められるところのない者=霊の人へと変えられてきました。この段階を経なければ携挙はされないと私たちは教えられています。
救われたら終わり、イエス様を信じたら天国だと勘違いしているクリスチャンがどれだけたくさんいるでしょう。神は愛ですが、裁き主でもあります。救われたら、裁きがないのではありません。この地上を去った時、全ての人間が最後の審判を受けるのです。一刻も早くその日を望める人、何らやましい事はないと言える人は、本当にハレルヤなクリスチャンだと思います。天国はそのような人たちのために用意されているのでしょう。しかし、人間は罪深いです。一分一秒でも自分を吟味するあわれみの期間が残されている事に感謝して、自分に与えられている自由意思を何に向けるのか、一つ一つ聞き、神に喜ばれる言動をして行かなければならないと語られました。
イエス様は、ご自身が再臨される前に、大勢の人々を救いに導きたいと願っておられます。しかし、私たちは、人数集めをするために働いているのではありません。教会とは、真に変わりたい!神の言を聞きたい!霊の糧を得たい!と思う人たちが集う場所、永遠に渇くことのない水と、命のパンを得る場所であると思っています。そして、そのような心を持っている人は、日常生活においても聖霊が豊かに働き、自ずと、良い実をならしていくでしょう。【木は実で判断しなさい】とイエス様はおっしゃいました。そのクリスチャンが、良い実を結んでいるのか、悪い実をならしているのかで、クリスチャンとしての歩みを判断することができるわけですが、反対に、どんな木に繋がっているかで、その良し悪しは変わります。どんな木=イエス様に繋がっているのかで、そのクリスチャンの考え方も、求めるものも、祈る内容も変わってくるのです。
携挙に対する考え方もその一つです
日々、主イエス様のために精一杯生きていたら、いつ携挙があっても、十分に準備ができている自分ですから、慌てる必要はありません。サタンに負け、世の光になれない人の逃げ道として、携挙の話題がされる事のないようにと祈ります。今、「携挙に残された人への手紙」を配布する時間があるならば、自分がキリストに似た者に生まれ変わり、一人でも多くの人が真理を知って救われる事に熱心になるようにと祈ります。
未来預言については、様々な神学論があります。もちろん、預言を軽んじてはならないと書かれていますが、イエス様御自身が、終わりの時代には、にせキリストや、にせ預言者が起こると忠告されています。悪魔が自分の時が短いのを知り、躍起になって動いているが故に、益々クリスチャンの存在意義も問われていくでしょう。
クリスチャンにとって大事なのは、まだ時間が与えられている事に感謝して、この時代を信仰によって生き抜き、神に与えられた務めを果たす事ですそれをふまえて、最後にイエス様御自身が話された、患難時代、携挙・再臨についてのみことばを霊に刻んでおきたいと思います
マルコ13章
イエスが宮から出て行かれるとき、弟子のひとりが言った、「先生、ごらんなさい。なんという見事な石、なんという立派な建物でしょう」。イエスは言われた、「あなたは、これらの大きな建物をながめているのか。その石一つでもくずされないままで、他の石の上に残ることもなくなるであろう」。
またオリブ山で、宮にむかってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにお尋ねした。 「わたしたちにお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。またそんなことがことごとく成就するような場合には、どんな前兆がありますか」。そこで、イエスは話しはじめられた、「人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだと言って、多くの人を惑わすであろう。また、戦争と戦争のうわさとを聞くときにも、あわてるな。それは起らねばならないが、まだ終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに地震があり、またききんが起るであろう。これらは産みの苦しみの初めである。
あなたがたは自分で気をつけていなさい。あなたがたは、わたしのために、衆議所に引きわたされ、会堂で打たれ、長官たちや王たちの前に立たされ、彼らに対してあかしをさせられるであろう。こうして、福音はまずすべての民に宣べ伝えられねばならない。そして、人々があなたがたを連れて行って引きわたすとき、何を言おうかと、前もって心配するな。その場合、自分に示されることを語るがよい。語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊である。また兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。また、あなたがたはわたしの名のゆえに、すべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
荒らす憎むべきものが、立ってはならぬ所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。屋上にいる者は、下におりるな。また家から物を取り出そうとして内にはいるな。畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。この事が冬おこらぬように祈れ。その日には、神が万物を造られた創造の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような患難が起るからである。もし主がその期間を縮めてくださらないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選ばれた選民のために、その期間を縮めてくださったのである。そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、『見よ、あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、しるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。だから、気をつけていなさい。いっさいの事を、あなたがたに前もって言っておく。
その日には、この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。そのとき、彼は御使たちをつかわして、地のはてから天のはてまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。(←この箇所だけを見ても、患難前携挙説があり得るのか?疑問です。)
いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。そのように、これらの事が起るのを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。それはちょうど、旅に立つ人が家を出るに当り、その僕たちに、それぞれ仕事を割り当てて責任をもたせ、門番には目をさましておれと、命じるようなものである。だから、目をさましていなさい。いつ、家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、わからないからである。あるいは急に帰ってきて、あなたがたの眠っているところを見つけるかも知れない。目をさましていなさい。わたしがあなたがたに言うこの言葉は、すべての人々に言うのである」。
アーメン