神を愛する者はいましめを守り行う
holygirlです
エペソ6:10~18
最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。
アーメン
一番最初に、Oさんを憑依していた悪霊が暴れ出した時、それぞれが必死に悪霊を追い出し、異言で祈り、立ち向かいましたが、こちら側が霊で一致していなかったため、イエス様のお名前に力はあっても、へび(悪霊)をつかむことがなかなかできませんでした。そこから、一人一人が自分のやるべき事を聖霊に聞き、牧師を先頭に悪霊を追い出す人、異言で祈る人、逃げ出せないように部屋の扉の前に立ち「イエスの血」を唱える人、その場にはいなかった兄弟姉妹たちに状況をメールし、一致の祈りを要請する人となっていきました。その都度、自分が直接悪霊に向き合っていくのだと聖霊に促された人がOさんの前に立ちました。すると、油が注がれ、どのみことばをつきつけるべきなのか、どのようにOさんに語って行けばよいのか教えられるのです。悪霊の追い出しには、主の兵卒の連携がとても大切であると語られました。
そして、みことばに力がある事。日頃から自分の霊にどれだけのみことばを蓄えているのかが重要であり、この様な場に立たされた時に、みことばという武具を身につけて戦えるクリスチャンとなっていなければならないと思いました。
Oさんに憑依していた悪霊との7時間に及ぶ戦いの中で、私たち自身が神の武具をつけていなければ、決して打ち勝つことはできませんでした。
クリスチャンは、<聖なる霊・聖霊>対<悪の霊・悪霊>の霊的な戦いをしています。その霊的な戦いに完全に勝利せよと、神は武具をくださっています。神の武具とは、まずは「みことば」であり、神の武具を身に着けるとは、「みことば」を自分の中に蓄え、実践して、成就させることです。そして、強い「信仰」をもって「福音」に出て行くことです。<聖なる霊・聖霊>の力によって、<悪の霊・悪霊>に勝利していくのです。
また、悪霊の追い出しは、霊を見分ける賜物がなければ空を打つ戦いをしてしまいます。疲れさせられるだけです。イエス様を受け入れた時に聖霊のバプテスマも受けていると主張するクリスチャンたちがいますが、悪霊の追い出しの時に、真に聖霊の力を受けているのかは明確になると思います。イエス様を受け入れた後、改めて聖霊のバプテスマの祈りをし、霊の賜物が開花していなければ、悪霊の動きが見えず、あざけられるだけです。霊の賜物がない=聖霊が働いていない中での悪霊の追い出しは、カルト的で、未信者には受け付けられません。おどろおどろしく、気持ち悪いものです。と同時に、カルト筋からの異言も、悪霊に対して効力はありません。悪霊が悪霊を追い出す戦いを繰り返しているところに、聖なる霊・聖霊が働く余地はないのです。
そして、悪霊と対峙するクリスチャン・牧師にやましい事が一つでもあれば、悪霊はそこを突いてきます。今回は、牧師が女性だった事もあり、マーティンという男の霊は、男尊女卑になって「お前の父親に聞いてみろ!夫に聞いたのか!」と何度も言ってきました。その場にいた姉妹たちにも同じように言ってきました。しかし、牧師にはやましい点が一つもなかったため、悪霊は「お前は男よりも強い女だな!」と言ってひるみました。クリスチャンとしてのきよさなしに、悪霊を追い出すことはできないのだと改めて語られました。
神の武具を身に着けるために、私たちは日々聖書を開いて読み、みことばを蓄え、悪霊にすきを与えないようにしなければなりません。しかし、一人で聖書を読めば独り善がりになってしまう危険があります。だからこそ、モーセの十戒にあるように、クリスチャンは神が決められた安息日を聖別し、霊での交わりの場を設ける必要があります。その聖なる集会の中で、すでに武具を身に着け、聖霊に満たされ、力を得ている牧師から、正しい霊の食事を与えてもらうのです。牧師は、群れの羊を主に使っていただける器、キリスト・イエスの良い兵卒となるように養い、育てる召しを受けていますから、油が注がれ、羊の霊に対して正しい霊の食事(適切なみことば、聖霊の賜物による知恵の言葉)を与えてくれます。そして、羊たちは、与えられた食事をアーメンと言いながら喜んで霊で受ける事により、その栄養分を神の武具として蓄え、身に着けていくのです。
AさんとKさんが意思を向けてすぐに集会で霊の糧を得ていったように、ここからOさんと、Oさんの家族にもそれが求められます。
私たちクリスチャンは、まず神の国(安息日を聖別して集会に参加する)と神の義を求める(全てのみことばに服従する)という前提の中で、サタンの支配するこの世の中で、聖霊の導きにより守られて生きることが可能です。一つでも不従順ならば、自分を導いているのは悪霊です。悪霊を自ら招き入れているのです。
今週の集会では、ヨハネ14章が与えられました
ヨハネ14:1~17
「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。トマスはイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
アーメン
神を愛する者は、戒め(神の言・律法)を守り行います服従します
そこに聖霊が働きます
そして、聖霊はあらゆる真理に導いて下さいます。
愛⇒服従⇒聖霊⇒真理
それが、真理に従っているクリスチャンの姿なのだと語られました。
ヨハネ14:26
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。
ヨハネ16:13
けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
もし、神を愛していると言いながら、戒めを守り行なっていないのであれば、不従順な偽キリスト、不法を働く者であり、そこには悪霊しか働きません。
マタイ7:21~23
わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
第2テサロ2:9~12
不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。
ここに出てくる【自分らの救となるべき真理に対する愛】が、聖霊なのだと教えられ、聖霊を受け入れない不従順なクリスチャンになっていないか自分を吟味しました。
マタイ12:31~32
だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。
第1ヨハネ2:3~6
もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである。「彼を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである。「彼におる」と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。
アーメン
クリスチャンは、熱いか冷たいか、白か黒かでなければなりません。なまぬるい者は吐きだされます。神の愛である戒め(神の言)が厳しいと思うならば、そこがすでにサタンに対して弱点となっています。
主イエス様を愛し、感謝し、真の神であるイエス様を信じる信仰によって何事でもする事ができる!と宣言して、その弱点と戦わなければなりません。そのように、本気に、真剣になってはじめて、聖霊が助けてくださるのだと語られました。
この地上においての一瞬一瞬がサタンとの霊的戦いの場です。その中にあって、常に勝利を勝ち取るために、私たちは神を愛し、戒めを守り行うことによって、聖霊に満たされ続け、力を得たクリスチャンとなっていきますなれた事を感謝します