自分の十字架を負うて歩くとは?②
さらに、キリスト教界における大きな問題は、聖霊派が、カルトと紙一重のところにいる事です。奇跡や癒しが行われることばかりを求め、それが神の力である事を伝えていますが、奇跡や癒しを体験しても、イエス様を受け入れない、イエス様と繋がることをしない、信仰生活を送らず日曜日を聖別しない人は大勢います。結局は御利益宗教と同じで、ラッキー!で終わってしまっているのです。
ですから、奇跡や癒しは、この信仰において、重要なことではないと分かります。いやしというのは多くの場合、肉体的な苦痛を除くだけであって、魂を新生していない事を忘れてはなりません。大事なのは、その人がいやしによってキリストの真の弟子へと導かれるのかどうか、すなわち十字架を自ら背負うかどうかということです。
そのために、クリスチャンは救いと共に聖霊のバプテスマをその人に授け、助け主聖霊の力によって歩んでいけるようにしてあげなければなりません。最も偉大なことは、イエス様が聖霊の力を受けて、私たちの救いのために十字架に至るまで苦しみの道を歩まれたことであり、そこにこそ、イエス様の権威と力があるのです
そして、イエス様は耐え忍び、苦しみ、その十字架を負い、十字架の上でサタンに打ち勝たれたのです
改めて、私たちクリスチャンが見るべきところは、長子であるイエス様が十字架にかかるまでの歩きであるのだと語られました。神の小羊イエス様はどう生きたのか、どう生きたからよみがえることができたのか(奇跡を起せたのか)が重要なのです
様々な奇跡や癒しといった霊的なしるしは、人が自分の人生と心にあった神から来ない思いを全て悔い改め、意思を意志に変えてただただみことばに忠実に喜んで従っていった時に、自然と与えられるものです。もともとそのように歩いている人には、イエス様を知れた事への感謝が満ち溢れているので、奇跡に執拗に執着することもなく、御業がなされた時もイエス様に感謝し、全ての栄光を帰す歩きができます。
クリスチャンであっても、キリストの悔い改めの呼び声に応えて、その生き方を根本的に変え、自分の人生をキリストの支配下に委ねる事ができているのか・・・それを、神に問われているのだと語られました。
今週の牧師のメッセージは、マリア福音姉妹会のバジレア・シュリンクの著書である「見失われつつある十字架への道―キリスト教における新たな流れの中で―」を通しても語られました。そこには、聖霊派に対する警告として以下のような事も記されていたので、紹介します。
・神の国が広がっていくこと、またそれによってサタンの支配から魂が救われることは、しるしや奇跡を行なうキリスト者がどれだけいるかという数には関係ありません。また、しるしと奇跡を体験する者の数にも依存しません。あくまでもイエスがご自分に真に従う者を見い出されるかどうかにあるのです。真の弟子は自分たちの主であるイエスの姿に似た者であり、サタンと罪に対する戦いにおいて力を持っているのです。なぜなら、彼らはイエスの道、すなわちイエスご自身が歩まれ、勝利に至った十字架の道を選んだからです。
・カリスマ的な賜物を与えられている人々が、そのカリスマによって神の国をもたらすことができないのと同様に、賜物を持っているからといって、彼らが神の国を心の内に抱いているということの証明にはなりません。それゆえに主イエスは山上の説教の終わりで、はっきりと次のように示されたのです。
マタイ7:21~23
わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
ここでイエスは特に霊的な賜物を持った人々に対して、しるしや奇跡に頼らないように警告しておられます。なぜなら、もし私たちが人生のあらゆる領域において神の御心を行なわなかったならば、しるしや奇跡は私たちを天の国へ連れて行くことができないからです。賜物を持った人は、その霊の賜物のゆえに高ぶらないように十分に気をつけるべきです。なぜかといえば、私たちはこうした賜物を簡単に自分の手柄にしてしまうからです。そうした霊の特別な賜物に対して、貧しく、ただ奉仕の精神しか持たない人ならば―そうした賜物については聖書に取り上げられていますが―むしろもっと謙虚になります。そういう人たちは「わたしは柔和で謙遜な者」(マタイ11:29)と言われた、イエスに似るのです。
私たちの恵みの賜物は、だれにでも授けられたリ拒まれたりする聖霊の賜物なのですが、イエスから見れば、私たちに与えられているそうした霊的な賜物はそれほど重要ではありません。
なぜなら、聖霊の賜物は恵みによるものであり、それを聖霊ご自身が意のままに分け与えられるからです。たとえば信仰がまだ浅く聖化されておらず、おそらく罪に対して戦っていない人にも、ときおり賜物は与えられます。イエスにとって重要なのは、私たちが御心を実行するかどうかということなのです。すなわち、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)ということになります。
・この地上で、心を新たにし、自分を変え、神の国を自らの内に抱く者だけが、かの日、天の国に自分の住居を持つのです。
天国はしるしや奇跡を行なった者たちよりも、命の書に名を記されたすべての者のために用意されています。彼らは、心の打ち砕かれた人、イエスの恵みにより頼む人、救いのために流された主の血潮の力により頼む人、主を愛する人、また黙示録に書かれているように、悔い改めの道を歩み、罪に対して戦い、勝利者となった人たちなのです。
ヨハネの黙示録7:14~17
わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。
ヨハネの黙示録15:3~4
彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とを歌って言った、
「全能者にして主なる神よ。あなたのみわざは、大いなる、また驚くべきものであります。万民の王よ、あなたの道は正しく、かつ真実であります。主よ、あなたをおそれず、御名をほめたたえない者が、ありましょうか。あなただけが聖なるかたであり、
あらゆる国民はきて、あなたを伏し拝むでしょう。あなたの正しいさばきが、あらわれるに至ったからであります」。
私たちぶどうの木も、聖霊の力を受け、みことばを実践するという意味での聖霊派として、自分自身が何を求め、どんな信仰生活を送って来たのか、吟味しました。
ぶどうの木は、自分の十字架を負うて、みことばにとどまってきた主婦(現在は牧師)が始まりの小さな群れです。私たちは、牧師を通して、神がなされる奇跡は、土台から全部変えられ、神の御手の中で生きている自分になっている事だと語られてきました。そして、どんな風に主が自分を訓練して下さり180度変えて下さったのか!それが【自分の十字架を背負って歩んできた】という事だと語られました。
本当の神であれば、自分の罪をその都度悔い改め、みことばをアーメンと受け、「あなたに従います!ついていきます!」と言って、与えられている意思を意志に変えたら、必ず報いて下さいます。助け主である聖霊が働いて下さいます。神は心が欲しい、私たちの本気(真剣な気持ち)が欲しいのです。
人間は欲が強すぎます。自分中心で、神に自分を従わせることを知らずに、楽な方に逃げて行こうとします。覚醒剤、タバコ、アルコールは、逃避行に最適なものとなっています。新興宗教に入って、世の中から身を断ってしまう人もいます。また、身近な問題としては、辛抱、忍耐、赦すことができない夫婦が、すぐに別居、離婚、そして不倫してしまっています。それによって傷ついている子どもがどれだけいるでしょうか。自分の中に欲があったら、何が幸せか、自分にとって(子どもによって)良い事なのか分からなくなってしまいます。みことばによって歩くことを知れば、決して揺るがぬ土台を築くことができるのですが、互いの主張を言うだけで終わってしまっています。世の中の夫婦こそ、お互いに自分の十字架を負わなければなりません。現実逃避を考える子どもたちをなくすためにもです。
マタイ7:24~27
それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。
アーメン
故バジレア姉妹の著書には、「大きな苦しみを通って来た者は、死に至るまで命を惜しまなかった殉教者のように、イエス・キリストの真の教会の種となるでしょう。(黙示録12:11)イエスとその国のために苦しみを受けた人々によって、神の国が地上に到来し、広がっていくのです。」と書かれていましたが、種とは証であると語られました。私たちが十字架を負って歩んだことに伴ってきた証の力が、イエス様が十字架にかかられる前の最後の願いである、「真の一致・教派教会を超えて一つになる事」に繋がるのだとも語られ、先週語られた浜松リバイバルの預言に対しても励ましのメッセージとなりました。まずは、自分自身が霊からリバイバルされ、神の国を現すものとなれたことを感謝します。
最後に、バジレア姉妹の著書の中から、私たちのような小さな群れに下さったメッセージを紹介します
勇ましくあれ、小さき群れよ、
キリストの戦士の部隊よ。
勝利の旗を力強く掲げ、
堅く立ちて、
小羊の勝利を歌え。
天の大軍がともに戦い、
我らの信仰の祈りが聞かれる。
われらが信じることはかならず起こる。
悪霊は立ち去り、
打ち負かされる。
勝利は、イエス・キリストのもの、
主のみ、勝利者だ。
主は、その栄光のために、
悪魔の魔力を打ち砕き、
勝利を収め拾う。
ルカ12:29~32
あなたがたも、何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を使うな。これらのものは皆、この世の異邦人が切に求めているものである。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである。ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。
アーメン