イエス様=みことばは私の内に①
holygirlです
今週の集会は、雅歌2:11~15から始まりました
雅歌2:11~15
見よ、冬は過ぎ、雨もやんで、すでに去り、もろもろの花は地にあらわれ、鳥のさえずる時がきた。山ばとの声がわれわれの地に聞える。いちじくの木はその実を結び、ぶどうの木は花咲いて、かんばしいにおいを放つ。わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい。岩の裂け目、がけの隠れ場におるわがはとよ、あなたの顔を見せなさい。あなたの声を聞かせなさい。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。われわれのためにきつねを捕えよ、ぶどう園を荒す小ぎつねを捕えよ、われわれのぶどう園は花盛りだから」と。
先週語られたように、私たちクリスチャンの歩きには、神に心を試され、聖別されるための訓練が伴います。当座は喜ばしいものではありませんが、後になれば、平安な義の実を結ぶことができると約束されています。上の雅歌のみことばを通しては、訓練の中で起こる難題と思えるような事は、「きつね」程度のものであるのだと語られました。ただし、あなどったら訓練を経て花盛りになってきたぶどう園を荒されてしまいます自分の肉の思いが騒がしかったら、すでに勝利を得ていても見えません。しかし、今週の集会で、すでにぶどうの木のぶどう園は花盛りであると語られ、喜んでアーメンと受けました
そして、神に愛されている私たちの顔は美しく、その声は愛らしいというみことばを受け、今週の集会では、神に愛され、喜ばれるクリスチャンの姿(顔・声)について学びました。
神に愛され、喜ばれるクリスチャンの姿を一言で言うと、「霊から生まれ変わっている」という事だと語られました
仏教、神道、新興宗教など、全ての“宗教”は、サタンが真の神・唯一の神を見えなくさせるためにつくったものです。人間をマインドコントロールする“カルト”だとも言われます。“宗教”を信じる人は、自分の心にぴったり来る神、人間がつくり出した神(偶像)、あるいは、神格化された人間(教祖・先祖)を選び、困った時にそれに頼ります。“宗教”は、人間が神を利用しているため、まず自分自身が変わるという教えはありません。日本人に馴染みのある仏教であれば、「あなたはそのままでいい」というのが常套句です。
キリスト教という“宗教”も、自分自身がみことばによって変わっていないのであれば、他の宗教と同じです。以前、キリスト教“宗教”をしている人の姿を分かりやすく教えられた事がありました。
ぶどうの木牧師が、あるクリスチャンの車に乗ろうとした際、その方は運転席に座っており、助手席はレースできれいに飾られていたため、自分のためにこのようにして下さったのかと感謝し、助手席に乗り込もうとしました。しかし、その方は「貴女は後ろに乗って下さいますか。この席は、イエス様の席なので」と得得として言ったそうです。
この車の中の様子こそ、キリスト教“宗教”の心の内を表しています。ハンドルを握っているのは自分です。イエス様=みことばが、左ではなく右だとおっしゃっても、その言葉を無視して左に進むことができてしまいます。自分のペースでアクセルを踏んで暴走でき、やりたくなければブレーキを踏むこともできます。主導権は自分であり、事故にあった時=自分の力ではどうしようもない問題が起きた時だけ、助手席に座っておられるイエス様に相談し、祈る・・・そのように自分は全く変わろうとしないクリスチャンが大勢いると思います。
いつまでも自分が生きていて、アドバイスを受ける感覚で聖書を開いているのであれば、それは宗教であり、真理に到達することはできません。
しかし、みことばはそのようには教えていません。生きているのは自分ではなく、イエス様が自分の内に生きておられるのだと教えています。
ガラテヤ2:19~20b
わたしは神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。
ガラテヤ5:16~17
わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。
アーメン
イエス様は、隣りにいるのではなく、自分の内におられるのであれば、どんな変化が身に起きるでしょう。私たちは、難破船だったところから神に救われ、自分をつくって下さった神のもとに帰ることができました。人間・自分がつくった神ではありません!自分をつくった神です!その神に不可能はありません。ですから、どんな病を持っていても、精神的に辛い状態にいても、難題を抱えていても、全てを元通りの健全な姿、状態に戻して下さいます。神が愛してつくった人間の元の姿=【霊の自分】に戻して下さるのです。
そこから、自分を支配していた悪霊を徹底的に!追い出し、霊にみことばを蓄えていった時、魂(心)も変わります。自分の肉の欲通りに言動できなくなります。みことばに従う事で、神が共におられるという確信と平安を得、人を妬んだり、裁く気持ちがなくなり、穏やかな顔になります。魂の状態が体にあらわれていると聖書は教えていますから、体も元気になります。
難破船に至った自分の肉の習性や価値観、好み、その全てが180度変わりますぶどうの木牧師は、好きな色、好きな食べ物、着る服、髪型が変わり、大好きだったお酒が飲めなくなり、難病が癒されました。また、富(仕事)に仕えずに夫に仕える主婦となった事で、1週間で夫から「変わったね!僕もイエス様を信じるよ!」と言われ、夫も救われました。そして、同窓会に行っても、誰も自分の事が分からないほど別人に生まれ変わっていた事に気づかされたと証して下さいました。
また、次のようなクリスチャンもいました。ぶどうの木牧師が、病気で苦しんでいる人がいるので、祈ってあげてほしいと頼まれ、イエス様に言われて本人に電話をした際、その方は、「まだ、朝のお祈りをしていません。イエス様とまだ会話していないので、貴女とお話することはできません。後にしてもらえますか?」と言ったそうです。また、半年前に他の教会からぶどうの木に導かれてきたK兄弟は、毎朝、1時間以上を要する祈りをし、今まで犯してきた罪を悔い改めて紙に書いては、その紙を燃やしてきたと話してくれました。
このような儀式的な行いを神は求めておられるでしょうか?それは神の義でしょうか?自分の義ではないでしょうか?神は生きておられます。私たちは神の内を生き、動いています。御霊に導かれている神の子です。一日一日が新しく、同じ日課を繰り返す日々は、クリスチャンにはありません。主の霊のあるところには自由があります
ガラテヤ3:3~4
あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。まさかむだではあるまい。
アーメン
礼拝一つとっても、一般の教会では、その日の週報が用意され、牧師はプログラムにそって進行していきますが、群れの羊が日曜日にどんな状態で来るのか、どんな思いで着席しているのかを知っているのは神だけです。あらかじめ用意されたプログラムが、彼らの霊の必要を満たしてくれるでしょうか?その日、その時に、群れの羊の顔を見て、生ける水の川が流れ、必要を満たすメッセージを語るのが、真に油注がれた牧師の姿であり、聖霊が支配されている教会の在り方であると語られました。
私たちが信じているのは“宗教”ではなく、“真理”です。“真理”に従うクリスチャンには力があります魂の領域ではなく、霊から変えられて全てが新しいので、神から見て、顔が美しく、福音を伝える声は愛らしいのです
その姿は、サタンに支配されている世の中の人に対しても、神の栄光となっていなければなりません。周りの人に、宗教臭い、カルトっぽいと思われているのであれば、まず自分を吟味です。その上で、蒔いたものの刈り取りではなく、真理に従っているが故の迫害なのだと神がおっしゃるのであればハレルヤであり、この戦いは主の戦いであると信じ、信頼して、前進あるのみです
エペソ4:17~24
そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。
アーメン
これらの教えを通して、まず、霊から変えられるための訓練を求める事、その訓練は握ったものを捨て去り、パン種を完全に取り除くまで、真に聖別されるまで続くのだと語られました。そして、一人一人が自分の達し得たところを知り、さらなるステージに向かうために、ガラテヤ、ローマ、エペソ、ヤコブからたくさんのみことばが与えられ、クリスチャンとしての姿勢も再確認していきました。
いくつかポイントをおさえて、次のブログにまとめたいと思います
つづく・・・