「主よ来たりませ」と言えますか?
holygirlです
今年の漢字(その年の世相を表す字)は、「北」になりました。私たちもエレミヤ1章から「北」についてのみことばを頂き、霊的に様々な角度から語られています
エレミヤ1:13~19
主の言葉がふたたびわたしに臨んで言う、「あなたは何を見るか」。わたしは答えた、
「煮え立っているなべを見ます。北からこちらに向かっています」。主はわたしに言われた、「災が北から起って、この地に住むすべての者の上に臨む」。主は言われる、「見よ、わたしは北の国々のすべての民を呼ぶ。彼らは来て、エルサレムの門の入口と、周囲のすべての城壁、およびユダのすべての町々に向かって、おのおのその座を設ける。わたしは、彼らがわたしを捨てて、すべての悪事を行ったゆえに、わたしのさばきを彼らに告げる。彼らは他の神々に香をたき、自分の手で作った物を拝したのである。しかしあなたは腰に帯して立ち、わたしが命じるすべての事を彼らに告げよ。彼らを恐れてはならない。さもないと、わたしは彼らの前であなたをあわてさせる。見よ、わたしはきょう、この全国と、ユダの王と、そのつかさと、その祭司と、その地の民の前に、あなたを堅き城、鉄の柱、青銅の城壁とする。彼らはあなたと戦うが、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と主は言われる。
アーメン
12月6日には、トランプ大統領が、イエスラエルの首都であるエルサレムに、アメリカ大使館を移すというニュースが流れました。このニュースに全世界のキリスト教徒(クリスチャン)は、歓喜しています。なぜなのか・・・その背景は、聖書の歴史にあります。
聖書に出てくる人類最初の人はアダムと言いますが、聖書の中で検証できる歴史上の最初の人物は、アブラム(アブラハム)であり、その子がイサク、孫がヤコブです。ヤコブの別名は、イスラエル。「イスラエル民族」という呼び名はこの人から来ています。旧約聖書には、このアブラハムの子孫であるイスラエル民族・イスラエル人の事について書かれています。彼らは、飢饉のためにエジプトに行き、奴隷の民となりました。その後、モーセが指導者となり、エジプトから先祖の土地であるカナン(今のパレスチナ)に帰りました。帰還したアブラハムの子孫(イスラエル民族)は、「士師」と呼ばれる指導者の活躍の後、タビデを王として建国に成功しました。ダビデは、エルサレムを中心の町にしました。(サムエル記下5:6~10)
ダビデの死後、その子ソロモンが国を発展させましたが、ソロモン王の死後、国は南北に分裂し、王も国民も不信仰になり、バビロニアという大国に滅ぼされ、外国に捕虜として連れて行かれました。(列王紀下25:1~12)
バビロニアはペルシャに、ペルシャはギリシャに、ギリシャは分裂してローマに滅ぼされました。イエスラエル人(別名ユダヤ人)は、大祖父アブラハムのように、行く先を知らずに全世界へと離散していきました。バビロニアから先祖の土地カナン(現パレスチナ、中心地エルサレム)に帰った人々もおり、その帰還したユダヤ人(イスラエル人)の中からイエス・キリストが生まれました。これらのユダヤ人(イスラエル人)の子孫もやがて全世界に離散していきました。
離散したユダヤ人(イスラエル人)は、多くの苦難の歴史を経て、約2500年後の1948年に、再び「イスラエル国」を、パレスチナの中心地であるエルサレムに建国しました。約600万人のユダヤ人がイスラエル国にいるとされ、それと同数かそれ以上のユダヤ人が諸外国の国民となっているようです。
しかし、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地とされるエルサレムは、しばしば争いの対象となってきました。ユダヤ教は、イエス・キリストを救い主と信じず、いまだに救い主を待ち望みながら、旧約聖書の「主」だけを信じています。イスラム教は、旧約聖書の「主」を唯一の神(アッラー)と信じていますが、イエス・キリストを神ではなく預言者のひとりと考え、ムハンマド(モハメッド)という人をイエス以上の最高の預言者だと信じています。三宗教の中身は大きく違うのですが、ユダヤ教もイスラム教も天地創造をされた唯一の神を信じている事から、聖地争いをしているのです。
ですから、イスラエルがエルサレムを首都として建国した後も、国際社会はこれを認めず、各国は大使館をテルアビブに置いてきました。
その中で、アメリカ(キリスト教国)の大使館が、テルアビブからエルサレムに移される事は、とても大きな出来事でした
神学(旧約聖書)によれば、イスラエルの首都はエルサレムだと宣言することは、ついに、イエス・キリスト再臨の準備が整った!という聖書通りの出来事が本当に成就した事になるそうです
1948年のイスラエル建国後、パレスチナ戦争で、東半分がヨルダン領となりましたが、1967年にヨルダン領となっていた東半分もイスラエルが占領した霊的前進があり、今年2017年の終りに、ついに「イスラエルの首都はエルサレムだ」と宣言できたとなると、イスラエル建国から来年が70年、1967年から今年が40年で、確かに聖書的な数字であると語られました。
先週の集会で、牧師の霊が「エルサレムのために平安を祈れ。主が彼らを立たせて下さるように」という賛美を歌わなければならないと語られ、皆で思いを一つにして歌った事も聖霊の知らせであったと分かります。
トランプ大統領がどれだけの信仰を持ったクリスチャンなのかは分かりませんが、彼を当選させたのは、LGBTを絶対に認めないアメリカの一番厳格なクリスチャン達だそうです。
イスラエルの首都エルサレムにアメリカ合衆国大使館を移す宣言とは、エルサレムはイエス・キリストが定めた主の都だと宣言する事だと言えますそして、イエス・キリストの再臨の準備が整ったという事であるならば、いよいよ主がおられる天国に帰るか、サタンと共に地獄に落ちるのか、最後の審判の時を迎えるという事です。神の裁きは、神の家から始められます。まずは、主イエス様を信じていると言いながら、みことばを守り行わないクリスチャン、「目には目を、歯には歯を」を続けているキリスト教国は、神を愛し、隣人を愛する神の戒めに戻らなければなりません。
また、イエス・キリストの再臨の知らせは、真理であるイエス・キリストがこの地上に来られたことに対して、ずっと律法により迫害してきたユダヤ教と、偽預言者を信じる霊的カルトのイスラム教の人たちが、イエス・キリストを救い主として認める時、彼らを惑わしてきたサタンが退く時であるとも言えます
どこの国でも、日本においても、皆が聖霊の大降臨により、唯一の神が与えて下さった最大の愛であるイエス・キリストに救われ、真理に至るようにと祈ります
今週は、このような大きな出来事を受けて、神に喜ばれる自分となれているのかを吟味する集会となりました。すでに救われ、クリスチャンとされた私たちが、主が再臨されるその日まで、自分の内側を清める事のできるあわれみの期間をどのように過ごすのかが問われます。
クリスチャンの中には、主の再臨が近い、つまり携挙(空中に引き上げられ、イエス様と会う)が近い事を宣言したり、その日を待ち望んでいる人、この世の終わりや死後の世界の事を知りたがっている人がいます。また、主の再臨を前に、セカンドチャンス論を追究している神学者たちもいます。
しかし、イエス様は、「明日のことを思い煩うな」とおっしゃいました。それよりも、「一人でも多くの人に福音を宣べ伝えよ」とおっしゃいました。
マタイ6:33~34
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
マルコ16:15~16
そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。
アーメン
2000年に主が再臨されると言われてから、神がずっとその日を延長し、待っておられるのは何故でしょうか?私たちクリスチャンに福音する機会を与え、一人でも多くの人が福音を聞いて救われるようにするためです。
クリスチャンとなり、終りの日が近いと聞くと、「なら将来に希望を持つ事も無意味だし、どうせこの世がなくなるのなら、早く天に帰りたい」と思う人がいます。しかし、その考え方こそが危険です。私たちは、いずれ天に帰るこの世の寄留者であり旅人ですが、世捨て人ではありません。この地上において生かされている意味、召しと選びがあります。
福音を聞かずに生きた人への裁きがあるのと同様に、福音をしなかったクリスチャンたちへの裁きもあります。自分が携挙される事ばかりを待ち望むのではなく、皆が携挙される事を望んで福音を宣べ伝える事、そして、死後の世界を知るのではなく、天国と地獄があるという聖書にある事実を信じて、一人も地獄に行かせたくないという思いで福音を宣べ伝える事がクリスチャンには求められ、その心を神は見ておられるのだと語られました。
だからこそ、先の事を思い煩ったり、早く天に帰ることを求めるのではなく、今、与えられている一日一日を大事に精一杯生き、喜んで、感謝して、主を賛美して過ごすことによって、神の栄光をあらわし、人々を救いに導かなければなりません。「あなたが言う事なら聞きたい!!」と言ってもらえる生き方をしなければなりません。
そして、「人事を尽くして天命を待つ」と言う言葉通り、イエス様から言われたことはその日の内に全てやってから就寝する事、「イエス様、これでいいですか?」と一瞬一瞬人事を尽くせているのかをイエス様に聞いて過ごす事が、主に仕えるクリスチャンの姿勢です。また、「イエス様、私を使ってください」と祈っているのであれば、いつ、誰が尋ねて来ても自分の信仰(望み)について、やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって弁明できる自分(神の宮)、いつ、誰が訪ねてきてもお入りくださいと言える家(神の宮)の状態でなければならないと語られました。
そのようにして、マタイ25:1~13に書かれている【主の再臨のために油を用意している花嫁】に、ヨハネの黙示録19:7~8に書かれてある【正しい行いの象徴である麻布の衣を着ることを許された者】にならなければ、決して私たちは神に喜ばれず、「主よきたりませ」と言うこともできないでしょう。
主の再臨を恐れないのは、パウロに倣って、何らやましいところはないと言えるクリスチャンだけです。私たちはそれで義とされるわけではありませんが、パウロのようにそう言い切れなければなりません。それが神に喜ばれる者の姿であると語られました。
第1コリント4:1~5
このようなわけだから、人はわたしたちを、キリストに仕える者、神の奥義を管理している者と見るがよい。この場合、管理者に要求されているのは、忠実であることである。わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。いや、わたしは自分をさばくこともしない。わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。(←パウロは自分が裁かれるところにはいないという確信があったからこそ、ほまれを受けると言ったのです。)
アーメン
今、どれだけのクリスチャンが、「主よ、きたりませ」と喜んで言えるキリストの大使となれているでしょうか?
「きたりませ」と言えないクリスチャン、行いの伴わない生ぬるいクリスチャン、さらには福音を聞いた事がなく、「きたりませ」という意味さえ分からない異邦人が多いため、神はあわれみの期間を延ばされているのではないでしょうか。
ヨハネの黙示録3:14~22
『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないために身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』
神学や自分なりの宗教によって神を小さくしている人、聖霊の力や悪霊の存在を信じず使徒行伝の時代はもう終わっていると考えている人、せっかく福音を聞いても、聞く耳を持たず、神の力によって奇跡を見ても信じない人や、救われるという事がとてもハードルが高いものに感じて(占って)いまだに救いを躊躇している人・・・私たちが福音や、交わりをする時、様々な人に出会います。
イエス様は私たちを通して、そんな人たちの、心の戸をたたいて下さっているのだと分かります。イエス様の声(みことば)を聞いて、疑うことなく戸をあけるなら、イエス様は入って下さいます。そして、救われてクリスチャンとなったのであれば、愛されているが故に懲らしめを受ける事もありますし、何もしないのではなく、みことばと聖霊の力によって悪霊に打ち勝ち、勝利を得る者となる事が求められます。自分勝手な解釈をして、真理を曲げる者となってはなりません。救われるとは、悪霊の支配下から救い上げられたという事ですから、救いを継続するために、全てのみことば=聖書の権威を信じて、自分をキリストと似た者にしていかなければなりません。そのような人たちが、主の再臨の時に、共に座につくことができるのです
ヨハネの黙示録22:12~21
「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。わたしイエスは、使いをつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」。
御霊も花嫁も共に言った、「きたりませ」。また、聞く者も「きたりませ」と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。
この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。
これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。
主イエスの恵みが、一同の者と共にあるように。
アーメン
テトス2:11~14
すべての人を救う神の恵みが現れた。そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。
全ての者を救う神の恵みであるイエス・キリストが現れたクリスマスが近づいていますイスラエル人が選びの民であったのと同じように、私たちもこの時代の選びの民として、イエス・キリストの生誕を喜び、救い主イエス・キリストの栄光の出現・再臨を待ち望む者でいられる事に感謝します。