さて信仰とは―
holygirlです
今週の集会では、目に見えるもの(=悪霊の働きの結果)に左右されず、神・イエス様と共に歩む生活ができているか、改めて一人一人が吟味する集会となりました。
集会の日の朝、前日に悪霊の追い出しをして解放されたKさんを迎えに行くと、「まだ完全に解放されていない。まだ舌に違和感がある」と言ってきました。Kさんの古い肉の習性が、「まだ癒されていないのではないか、解放されていないのではないか」という不信仰な思いを来たらせているのが分かりました。そして、不信仰な言葉を言い続けてきた結果、舌に縛りを感じ、Kさん曰くおしの霊にずっと捕われた状態となっていた事が明るみとなりました。
Kさんの場合、約一年間悪霊に体を支配されてきた状態でいたため、せっかく解放されても、悪霊に憑かれている状態の自分を忌み嫌うことができず、「これが自分だ」と思い込むファミリアスピリットの霊(占いの霊)を切り離すことができずにいました。
これは、Kさんだけに限らず、私たちも吟味しなければならない事でした。
イエス様を受け入れて救われた後、クリスチャンが一番戸惑うのは「救われる前の肉の自分」と「新しく生まれ変わった霊の自分」との葛藤です。人間は霊だけでは生きていけないため、救われても肉があるわけですが、ファミリアスピリットは肉を支配してきた故、霊で生きようとした時に「どうせ私には無理・・・」と自己憐憫に陥ったり、「神の言葉に従うなんてできない。面倒くさい」と思わせて妨げてくるのです。そのまま慣れ親しんできた肉の思いに従って生きていたら、神に反しているわけですから、気がついたら救われる前よりも7倍悪くなってしまいます。ですから私たちは、「これが私だ」と思い込ませるファミリアスピリットの霊を、自分からはがさなければならないと語られました。
そして、ファミリアスピリットの霊をはがすためには、まず3代~4代に渡る呪い祟りの霊を、完全に断ち切る事が必要です3代~4代に渡る呪い祟りの霊は、自分の意識関係なく血の中にあります。「これが私」と思う土台には、育った家庭環境、受けて来た教育が大きく関わってきます。日本人は特に、情が頭であり、家族単位の考え方をし、先祖からのしきたりを大事にしますが、イエス・キリストに救われるという事は、血筋が断ち切られ、神の御前で「個」となるという事です。生い立ちや家族のせいにすることはできません。完全に生まれ変わった者であるという自覚をしっかりと持たなければならないと語られました。
また、現実主義で、「分かったらやる。癒されたら信じる」と言って、みことば=イエス様に言い逆らってきたKさんが教材となり、私たちは改めて聖書の中から3つの信仰について学びました
水の上を歩く信仰
マタイ14:25~33
イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。ふたりが舟に乗り込むと、風はやんでしまった。舟の中にいた者たちはイエスを拝して、「ほんとうに、あなたは神の子です」と言った。
ペテロは、イエス様だけ仰ぎ見て歩く意志を向けたにも関わらず、状態を見て恐ろしくなり、おぼれかけました。Kさんも悪霊から解放されたにも関わらず、ファミリアスピリットによって自分の肉の状態を見たことで、「まだ癒されていない。解放されていない」と思ってイエス様の力を疑い、サタンの支配下であった元の状態に戻りそうになっていました。状態を見ること、すぐにそれを口にすることは、不信仰です。【初めに言があった】とあるように、言葉に命があります。言葉がイエス・キリストです。私たちの口からは、イエス・キリスト=みことばと、みことばに基いた言葉、またサタンに信仰が奪われる事のないように、「みことばにこう書かれてある!」と宣言する言葉しか出してはいけないのだと語られました。
そして、海の上を歩き続ける=状態に左右されないためには、忍耐が必要ですが、その忍耐も助け主聖霊によって与えられている故、主にあって私たちは歩くことができるのだと語られました。
また、ペテロは漁師でしたが、水の中に落ちても自分の力で泳ぐことはしませんでした。「主よ、お助けください」と言って、すぐにイエス様に助けを求め、イエス様もまた、すぐに手を伸ばし助けてくださいました。心をつくして主に信頼し、自分の知識に頼らなかったペテロの姿勢からも、私たちは主と共に歩くクリスチャンの在り方を学びました。
箴言3:5~7
心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ。
アーメン
見ないで信じる信仰
ヨハネ20:24~29
十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。
八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないて、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
ヘブル11:1
さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
イエス様が段取りを整えてくれたらやる、癒されたら信じる、奇跡を見たら信じるという人がいますが、私たちは、すでに得たと信じて実践しなければなりません。その意志を向けた時に、助け主聖霊が働いて下さり、聖書で約束された祝福と癒しを手に入れることができるのです。ですから、ぶどうの木の祈りは、全て過去形です。「イエス様、~してくださった事を感謝します」と、もらったと信じて祈ります。「~してくれますように」と祈っているクリスチャンが多いですが、それではいつまでたっても願いを主張しているだけで、勝利は得られません。一度祈った祈りは聞かれていると約束して下さっていますから、何度も同じ祈りを繰り返す事も不信仰です。自分の心の願いは、祈る前から神はご存じです。そうではなく、サタンに対して「みことばに書かれてある!」と宣言する時や、「〇〇さんを、イエス様の御名で許します」と祈ることは、日常生活の中で何度も言う祈りでしょう。祈り方一つとっても、そこに信仰があるのか問われます。
また、見て信じる人は、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」で、すぐに現実問題に流され、忘れてしまいます。自分を騙して、見なかった事にすることができます。特に男義の霊にまかれていると、「危機を乗り越えたらイエス様はいらない」「あれはたまたまだった。偶然だった」と言って事実を曲げ、自分の力でまた行おうとします。癌が3度癒されてもイエス様と繋がることができない人がいるように、奇跡を体験したら絶対に信じるというものではありません。目に見えない神・イエス様を、見ないで信じる事ができる人は、本当に幸いなのです。信仰の弱い人のために、神はしるしや奇跡を見せて下さいますが、イエス様ご自身を聖書のみことば一つ一つから見いだす事ができる人は、自分とイエス様との関係が強固なものとなり、信仰も強められていくのだと語られました。
アナ二ヤの信仰
使徒行伝9:10~17
さて、ダマスコにアナニヤというひとりの弟子がいた。この人に主が幻の中に現れて、「アナニヤよ」とお呼びになった。彼は「主よ、わたしでございます」と答えた。そこで主が彼に言われた、「立って、『真すぐ』という名の路地に行き、ユダの家でサウロというタルソ人を尋ねなさい。彼はいま祈っている。彼はアナニヤという人がはいってきて、手を自分の上において再び見えるようにしてくれるのを、幻で見たのである。」。・・・中略・・・
そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。
私たちは、サウロ(後のパウロ)が全世界に向けて福音宣教をしたことによって、イエス・キリストを知ることができました。そのサウロに遣わされたのがアナニヤです。主に呼ばれたら、すぐに答えてその御言葉を行う忠実さが、迫害者であったサウロを見える者とし、イエス・キリストを全世界に知らせる人として立たせました。私たちは、アナニヤのように100%自分を明け渡して主の声を聞いているか、主に言われたら、どんな状態であろうと、たとえ夜中であろうと、起きて、隣り人のために自分を捧げる事ができているか問われました。自分が忠実でありさえすれば、神の御計画は成就します。救われるべき選びの民を人を救うことができるのです。
また、アナニヤは主から指令を受けた時、【主よ、あの人がエルサレムで、どんなにひどい事をあなたの聖徒たちにしかたについては、多くの人たちから聞いています。そして彼はここでも、御名をとなえる者たちをみな捕縛する権を、祭司長たちから得てきているのです。】と訴えました。サウロに近づいたら自分の命がどうなるか分からなかったからです。しかし、イエス様から、【わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。】と言われ、アナニヤは従いました。そして、手をサウロの上においた時、「兄弟サウロ」と言ったのです。アナニヤの中で、一瞬にして、「迫害者サウロ」から「兄弟サウロ」となっている事からも、彼がサウロを許し、あわれみの心で、祈っていることが分かります。やはり、私たちの内に、みじんでも裁きの思いがあったら、祈りはきかれませんし、神は私たちを使ってはくれません。アナニヤの言動からも、クリスチャンとしての大切な姿勢を学びました。
そして、マタイ7:21~23に、【わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。】と書かれてある通り、「主よ、主よ」と言うクリスチャンが、みな天国に入れるのではありません。自分の義ではなく、いつも主と繋がれるようにチャンネルを合わせ、神に求められた時にタイムリーに仕えることができているクリスチャンだけが天国に入れるのだと語られました。
信仰の土台が違えば、現実問題を突きつけられた途端、簡単に揺らいでしまいます。10年間の信仰生活が漠然とイエス様を追い求めるものであったKさんの土台は、確固たる信仰によってできたものではありませんでした。イエス様はおられる!という初めの愛の証も、みことばをもらって歩むこともなかったのですから当然です。ぶどうの木牧師はKさんに、「10年という期間の中で、たとえ、積み上げてきたものがあったとしても、一度、全て違ったと認め、捨て去りましょう。そして、改めてイエス様に、あなたからのものは戻してくださいと祈りましょう」とおっしゃいました。古い皮袋に新しいぶどう酒は入りません。そのように、土台を新たにしたKさんは、今まで不信仰であった事を認め、集会の最後に「確信を持って信じることを学んだ」と話してくれました。そして、その確信は心から生まれるものではなく、みことばを信じることで生まれるものである事も再確認しました。
エレミヤ17:9に、【心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。】と書かれてあるように、心にはサタンが忍び込みますから、その確信は簡単に奪われてしまいます。ですから、私たちは自分の心を信じたり、心に従ってはなりません。私たちが信じるのは霊の思いであり、霊に蓄えられたみことばにとどまり、主に信頼して行う事で確信を得なければならないと語られました。
ガラテヤ2:18~21
もしわたしが、いったん打ちこわしたものを、再び建てるとすれば、それこそ、自分が違反者であることを表明することになる。わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。
ガラテヤ5:16~17
わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。
アーメン
今回、Kさんが導かれ、共に交わりを持てたことをイエス様に感謝します
ぶどうの木ができた10年前に、Kさんも信仰生活を送り始め、こうして神のタイミングでお会いすることができました。Kさんの10年間は、決して平らな道ではなく、悪霊に翻弄されてもきましたが、イエス様は神の御計画の日に備えてKさんを守り、導いてきて下さいました。
神は24時間、世界中の祈りの勇士たちの異言で、私たちクリスチャンを守って下さっています。リレー方式で、一秒たりとも尽きることなく、祈りは継続されているのです。自分が異言を語る時、それは祈りのリレーの順番が来たのだと思うと嬉しくなります神は、選びの民が救われる事をサタンに邪魔させません。命を落とす事を、決してサタンに許しません。
私たち一人一人も、Kさんもそうでした。今救われ、真の神・イエス様と共に歩けている事を心から感謝します。
「みことばをもらう」という事を知らず、どういう事なのか分からなかったKさんは、浜松での交わりの後、初めてみことばをもらったそうです
マタイ3:17
また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
マタイ4:19
イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。
アーメンでした
Kさんの召しと選びに従ったここからの働きを祈ります
そして、「一つになること」は、神の御心であり、イエス様が十字架にかかられる前の最後のメッセージですイエス・キリストを信じる全てのクリスチャンが一つとなり、置かれた場所でキリストの肢体としての働きを忠実に行なえた事を感謝して祈ります
ヨハネ17:17~23
真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました。また彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします。
わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。
アーメン