「最高のプレゼント」はイエス様~クリスマス集会~
holygirlです
もろびとこぞりて
1.もろびとこぞりて 迎えまつれ 久しく待ちにし
主は来ませり 主は来ませり 主は 主は 来ませり
2.悪魔のひとやを 打ち砕きて とりこをはなつと
主は来ませり 主は来ませり 主は 主は 来ませり
イザヤ54:4~5
恐れてはならない。あなたは恥じることがない。あわてふためいてはならない。あなたは、はずかしめられることがない。あなたは若い時の恥を忘れ、寡婦であった時のはずかしめを、再び思い出すことがない。あなたを造られた者はあなたの夫であって、その名は万軍の主。あなたをあがなわれる者は、イスラエルの聖者であって、全地の神ととなえられる。
イザヤ54:10
山は移り、丘は動いても、わがいつくしみはあなたから移ることなく、平安を与えるわが契約は動くことがない」とあなたをあわれまれる主は言われる。
イザヤ54:13
あなたの子らはみな主に教えをうけ、あなたの子らは大いに栄える。
イザヤ54:17
すべてあなたを攻めるために造られる武器は、その目的を達しない。すべてあなたに逆らい立って、争い訴える舌は、あなたに説き破られる。これが主のしもべらの受ける嗣業であり、また彼らがわたしから受ける義である」と主は言われる。
アーメン
今年最後となった25日のクリスマス集会は、賛美をし、牧師を通してみことばを頂いたあと、お招きした石野博宣教師から、メッセージを聞きました
ヨハネ3:16
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
私たちはこのみことばから、「最高のプレゼント」としてこの地上に来られたイエス様の救いについて、①救いの前提、②救いの根拠、③救いの方法、④救いの結果という4つの段階から学びました
①救いの前提
【ひとりも滅びないで】・・・「キリスト教は、『信じないと地獄だ』と言うから、傲慢な宗教だ」と言う人たちがいます。しかし、信じなければ地獄なのではなく、私たち人間は皆、アダムとイブが犯した原罪によって、すでに生まれた時からサタンの支配下で滅びに至る道、地獄に至る道を歩かされているのです。それを前提にして、神は「ひとりも滅びることがないように」と願っておられること、そこから救い出すために、イエス様を送って下さったのだと語られました。
②救いの根拠
【この世を愛して下さった】・・・第1ヨハネ4:8~9に【神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。】と書かれてあるように、神は“愛のような方”でも、“愛にあふれている方”でも、“愛に満ちている方”でもなく、“愛そのもの”です神は、愛が見える究極の形としてイエス様を送って下さいました。
【しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。】(第1コリント2:9)と書かれてある通り、まさに「最高のプレゼント」としてご自分を愛する者たちのために備えて下さったのです。
神の偉大さは、私たちの人知では計り知ることができません。【もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。】(詩篇19:1)と書かれてあるように、宇宙の創造者である方が、人の形をとって来られたのがイエス様です。神は、25日のクリスマスを選んで処女マリアの胎を通して、イエス様を地上に送られました。神は、イエス様がお生まれになる場所も選ぶことができたはずですが、イエス様が誕生する際、宿の主人たちが宿泊を断ったため、イエス様の両親であるヨセフとマリアは、家畜小屋に導かれたのでした。神は、身分の高い家や、フカフカのベッドがある家ではなく、あえて人が住む場所ではない家畜小屋でイエス様を誕生させたのでした。誕生して飼葉桶に寝かされたイエス様・・・汚くて不潔な飼葉桶は、霊的にはサタンの支配下で滅びにまっしぐらだった私たち人間の心の状態だと言えます。その心の真ん中にイエス様は来てくださったのだと語られました。
神がイエス様を世につかわされたのは、アダムとイブの原罪の血が流れているが故に神の御前で罪人とされている人間を、十字架上で流されたイエス様の血によって清め、その罪を帳消しにするためでした。イエス様にとって十字架上は、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ぶほど、痛みと苦痛を伴うものでした。それまで、「父よ」と呼んでいたイエス様が、十字架上では、私たち人間と同じ一人の罪人として、「わが神」と言って、神の御前で全ての罪を背負って息をひきとられたのです。神ご自身も、そんな愛する息子の姿を見ることができず、全地を暗くされたほどでした。神はご自身の一人息子を十字架にかけるほどに、この世を愛して下さったのです。
イエス様はおっしゃいました、【わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない】と
人間は皆、自分をこの世に誕生させて下さった天の父である神のみもとに帰らなければなりません。「神なのだから、全員が神のみもとに帰れるようにすればいいではないか!」と言う人もいるでしょう。しかし、神は愛であるが故に、私たちが強制的にご自身を信じるようにはされないのです。神が愛して下さっているように、私たちも神を愛すること、私たちとの真の愛ある関係を求めておられます。だからこそ人間に自由意志を与え、ご自身=イエス・キリストを愛して信じる者を救う事とされました。イエス様が地上にいらっしゃった時代には、富や名誉で人々を引き付けるのではなく、あえて身分の低い大工の息子であるイエス様を通して、ご自身の力を表わし、信じる者を救う事とされたのです。
ヨハネ14:10~11
わたし(イエス・キリスト)が父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。
神からのプレゼントであるイエス様と出会う時は、自分の人生が順風満帆な時(物事が順調に思い通りに運んでいる時)ではなく、恐らく、悩みや不安、恐れを抱いているような人生の谷間の時が多いでしょう。世の一番暗い時に、世界を照らすためにお生れになったイエス様は、「インマヌエル」=「神われらと共にいます」と呼ばれ、私たちの人生の一番暗い時に、希望の光として私たちを照らし、神の愛によって救って下さろうとしているのです。
第1ヨハネ4:16
わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。
アーメン
③救いの方法
【御子を信じる】・・・神は全ての人に平等に、救い主イエス様を送って下さいました。この救い主が来られたという福音は、すでに「聖書」という形で世界中の国の言語に訳されています。今や、私たちが自由意志を向けて求めさえすれば、知ることができるようになっています。神ですから、自分に全ての人間の心を向けさせて一度に救うことも可能でしょう。しかし、あえて宣教の愚かさによって、信じる者を救う方法をとられました。その中で、十字架の言は、滅び行く者には愚かですが、救いにあずかる者にとっては、神の力となります。神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれるのです。それは、誰一人、自分が素晴らしい人間だったから救われたと誇ることがないようにするためです。
イエス・キリストという「最高のプレゼント」を受け取ることは決して難しいことではありません。努力して得るのであれば、それはプレゼントではなく報酬になってしまいます。プレゼントは、どのように受け取るでしょうか?ただ喜んで手を差し出して、「はい、いただきます!ありがとうございます!」と言って受け取ればよいのです。こんな気前の良い話があるでしょうか?だからこそ、GOOD NEWSなのです
④救いの結果
【永遠の命を得る】・・・私たちはイエス様に救われた事によって、滅びという問題に解決を得ることができました。だからこそ、永遠の命(天国行き)を目指して、自分の命をイエス様のために使わなければなりません。自分の時間の中で残ったものや余った分を捧げるのではなく、最高のものをもってイエス様に応える人生、最高のプレゼントに応える人生を送らなければならないと語られました。
第1テモテ6:12
信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである。
アーメン
石野宣教師を通して語られたメッセージを受けた後、先週に引き続いて証の会を行なっていったのですが、その中でぶどうの木の教師を通して、「最高のプレゼント」であるイエス様に救われた者としてやるべき事を語られました
「最高のプレゼント」であるイエス様を受け取った自分が、どう生きていくべきかを学んできたのがぶどうの木ですイエス様に救われ、聖書に従い始めた時、今までの自分の価値観や、やり方が変わる体験をします。ぶどうの木のほとんどの兄弟姉妹達は、一昨年トルコ旅行をし、その中でイスタンブールにあるアヤソフィアを観光しました。アヤソフィアとは、もともと教会でしたが、白い漆喰を塗られてイスラム教のモスクにされた場所です。今は、漆喰が剥がれ落ちて、イエス様や使徒ヨハネの絵などがあらわれており、確かにそこが教会であった事が証明されています。アヤソフィアを通して、どんなに偽物が覆っていても、本当のもの=真理は決して隠されない、闇は光に打ち勝たない事を学びました。そして、私たち自身も、救われたことによって、人間の情や、自分の価値観、やり方という白い漆喰が剥がれ落ちて、神の御心を行いたい本当の自分・霊の自分が現れてくるようになるのです。
救いの結果である永遠の命を得るためには、隠されてきた自分の内側にあった悪が全て明るみにされ、完全に清い者・キリストに似た者となることが求められます。神は、その過程の中で様々な出来事や人々を使って、私たちを試し、訓練されます。特に、自分の内側にあった悪霊と他者を通して放たれる悪霊、人との間に動く悪霊との戦いに勝利していくことが、内側を清めるために必要不可欠な事です。
その中で忘れてはならないのは、「最高のプレゼント」であるイエス様を受け取ったという事は、同時に、悪霊と戦う権威と、助け主聖霊を頂いたという事です私たちクリスチャンは、血肉の戦いをするのではなく、敵はサタン・悪霊であるという真理に立って、悪霊と戦う時、必ず勝利すると約束されているのです
今年、「WAR ROOM 祈りのちから」という映画のDVDを見てぶどうの木の皆が力づけられ、励まされましたが、悪に対して悪で打ち勝つのではなく、悪に対しては善・祈りのちからで打ち勝たなければならないと学びました。それが、助け主聖霊によってできる特権を頂いていること、祈る事で聖霊が働いて下さり相手を変えることができることも、私たちは学びました。
霊の世界においては、“自分の持ち場”と“神の持ち場”があります。自分の考えや、やり方で何とかしようとする時、“神の持ち場”に入って、神の働きを邪魔している事になります。「もろびとこぞりて」の2番の歌詞にあるように、地上で悪魔のひと矢を打ち砕く祈りをしたのであれば、あとは主に信頼して、喜び、ゆだねること、それが、“自分の持ち場”でするべき事であり、その時神ご自身が、神のやり方で働いて下さるのだと語られました。
マタイ18:18
よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。
エペソ6:12
わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
第2コリント13:8
わたしたちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば力がある。
アーメン
つづく・・・