罪とは(諒のblogより) | ぶどうの木 Good News

罪とは(諒のblogより)

僕は、救われる前まで罪とは人間が決めた法律を犯す事だと考えていました。ですが本当の罪とは神の法律を犯すことなのです。もしあなたが神を愛しておらず、神のために何もしておらず、神のことなど完全に無視して勝手な生活をしていて、「神なんかいない」とか、「日本の神はイエスではない」とか、「神なんか信じていない」などという生活をしてきたのならあなたは神(イエス・キリスト)を悲しませてきたことになります。実は、そういう生き方こそが本当の罪なのです。そのことを聖書はこう表現しています。

イザヤ書53:6
われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。


マルコによる福音書7:17~7:23
イエスが群衆を離れて家にはいられると、弟子たちはこの譬について尋ねた。すると、言われた、「あなたがたも、そんなに鈍いのか。すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ないことが、わからないのか。それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである」。イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた。さらに言われた、「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。


ガラテヤ人への手紙5:19~5:24
肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。


神を無視して自分勝手に生きている人間は、さまざまな罪を犯すようになります。上記の赤字のさまざまな罪のリストは、毎日の人間の生活の中で繰り返されているものです。日本の国の法律で有罪とならなくても、
神の前では、これらのどれ一つを犯しても罪であり、その人は罪人となるのです。行為として現れる罪のほかに、心の中にいだく悪も罪となります。心の中に悪があるなら、それが行為に現れなくても、神の目から見れば、その人はすでに罪を犯しているのです。神は人間の心の中まで見通すことができる方なのです。メアリー・K・バクスター(http://www.eternal-lm.com/mb/cho.html)という女性がイエスさまによって地獄の世界に案内されました。それは地獄という場所が実在し罪を犯した人々がその苦しみを受けるという恐ろしさを世界の人々に伝えるためでした。

コリント人への第2の手紙 6:1~7:4
わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。神はこう言われる、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。この務がそしりを招かないために、わたしたちはどんな事にも、人につまずきを与えないようにし、かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている。すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも、むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも、真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、真理の言葉と神の力とにより、左右に持っている義の武器により、ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。コリントの人々よ。あなたがたに向かってわたしたちの口は開かれており、わたしたちの心は広くなっている。あなたがたは、わたしたちに心をせばめられていたのではなく、自分で心をせばめていたのだ。わたしは子供たちに対するように言うが、どうかあなたがたの方でも心を広くして、わたしに応じてほしい。不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、「わたしは彼らの間に住み、かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう」。だから、「彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触てはならない。触なければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。そしてわたしは、あなたがたの父となり、あなたがたはわたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。愛する者たちよ。わたしたちは、このような約束を与えられているのだから、肉と霊とのいっさいの汚れから自分をきよめ、神をおそれて全く清くなろうではないか。どうか、わたしたちに心を開いてほしい。わたしたちは、だれにも不義をしたことがなく、だれをも破滅におとしいれたことがなく、だれからもだまし取ったことがない。 わたしは、責めるつもりでこう言うのではない。前にも言ったように、あなたがたはわたしの心のうちにいて、わたしたちと生死を共にしているのである。 わたしはあなたがたを大いに信頼し、大いに誇っている。また、あふれるばかり慰めを受け、あらゆる患難の中にあって喜びに満ちあふれている。


アーメン

地獄はない、人間は死んだら何もなくなるなどという考えは、もはや違っているのです。地獄は確かに存在し人間は死んでから天国か地獄で永遠に存在し続けるのです。
 また罪を持ったままの人でも天国に入れてもらえるなどということは、決してありません。完全に聖くて正しい神のいる天国に入れるのは、罪を赦された人だけなのです。
人が永遠の命を天国で過ごすか、あるいは苦しい地獄で過ごすか、これはその人が地上で生きている間に選び取ることができ地獄に行ってしまってからでは、遅いのです。このことは他のどんなことよりも大切な、永遠を決定する決断なので死んでからでは遅いのです。今生きている時間は自分自身が神(イエス・キリスト)を深く敬い、仕える事が重要な時なのです。

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