☆皆の門出☆
holygirlです
今週は集会後に、この春高校へ進学するY兄弟と、転職をするO兄弟の門出を祝って食事会を行いました
卒業式にY兄弟から両親に贈られた手紙には、ここまで肉的にも霊的にも支えてくれた両親への感謝の気持ちと、ここからみことばの通りに、光の子らしく賢く、イエス様によって歩んでいく決意が書かれていたそうです
Y兄弟は、私たち神の家族に対してもその思いを聞かせてくれました
小学1年生で救われたY兄弟は、9年間という義務教育の期間をみことばと共に歩んできました。その中で様々な問題が生れたり、悪霊の攻撃を受けた時期もありましたが、どんな事があってもイエス様から離れる事なく、両親、弟、妹と共にみことばに戻って、神に喜ばれる神の子の姿勢を表わしてきました。そんな歩みの集大成として、Y兄弟は高校を決める際、何度もイエス様に聞き、聖書を開いたそうです。そして、イエス様に示された高校を受験して合格し、確信をもって高校生活を始められると証してくれました。
Y兄弟を一番近くで支え、見守ってきた両親も、息子からもらった手紙の中に、はっきりと自分の意志で“イエス様と共に歩む人生”が書かれている事に感謝し、最高のプレゼントとなったと話してくれました。そして、卒業式に出席した母親は、子を育てる事がどんなに尊く、喜ばしい事であるか、絵本「一つになろうよ!!命の絵本・命の糸に出会う本」にも書かれているように、次世代を担う子を生み、育むという事は神から与えられた特権である事を実感し、色々な事があったけど全てが神の御手の中であった最高の3年間であったと話してくれました
転職が決まったO兄弟も、「サタンの攻撃を受けて、イエス様への信仰を辞めようと思った時期もあったが、それでもみことばにとどまり続けてきた。神は心を見られる事を常に意識し、アーメンと言って従うようになってからは、どんどん聖霊が働いてくれるようになり、全てがうまくいくようになった。今回の転職もそうです」と証してくれました
O兄弟は、今まで派遣の仕事をしていましたが、その派遣先で神の栄光を表わして働いてきた事が実を結び、派遣先での直接雇用が決まり、経済的な祝福も得る事ができるようになりました
本当に、二人の門出は私たち神の家族にとっても喜ばしい事であり、Y兄弟の成長と、O兄弟への祝福を心からイエス様に感謝しました
そして今週の集会では、二人だけではなく、皆が霊的に旅立ちの時であり、置かれたところで新しいステージが始まるのだと語られました
去年の3月4月に、ほとんどの兄弟姉妹が聖書の舞台であるトルコに導かれ、パウロや使徒たちが福音を宣べ伝えた地(エペソ、カッパドキアなど)に行きました。一年経った今、トルコ国内で自爆テロが相次いでいるのを見ると、とても行けるような状況ではありません。神は全てご存じで、私たちに去年思いを入れて、行かせて下さったのだと分かります。
神から与えられた思いに忠実に従ってトルコに行った兄弟姉妹は、そこで聖書=みことばが真実であるという確信と、確固たる信仰を得、パウロや使徒、クリスチャンたちの志と思いを受け継いできました。また、トルコには行けなかった兄弟姉妹も霊では一つでその思いを受け、信仰が強められたのです。
聖書を疑いながら読めば、頭で理解できる箇所や、自分の肉が受け入れられる箇所だけを自分なりに解釈する宗教が生まれます。特に聖書に書かれている「霊の存在」や「霊の世界」を正しく理解していなかったり、そればかりを強調すれば、カルト的な教えになり兼ねません。宗教・カルトは、神に忌み嫌われ、人にも受け入れられないものです
しかし、私たちは聖書が非常に現実的で、ここに真実・真理が書かれている事を知っています。パウロ同様、私たちは神であるイエス様を見たことはありませんが、直接語りかけられ、神の愛に触れる体験をした事によって、イエス様=聖書のみことばに従えば間違いない!という信仰を持ち、イエス様との信頼関係を築いてきました
また、救われた時に9つの神の賜物・霊の賜物を内に頂いています
神ご自身の存在とその権威を知る力である啓示の賜物(知恵の言葉、知識の言葉、霊を見分ける力)・行う力である力の賜物(信仰の賜物、奇跡を行う力、いやしの賜物)・語る力である霊感による賜物、交わりの賜物(預言の賜物、異言の賜物、解き明かしの賜物)によって、私たちは神であるイエス様の声をしっかりと聞いて歩んでいく事ができます。そして、それがイエス様の声かどうかは、みことばで裏付けできるかどうかで分かります。ですから、決して独り善がりの宗教・カルトや、牧師=教祖(自分の意見や思想を言う人)にはならないのです。
ぶどうの木牧師は、みことばと共に、みことばをどう行えば良いのかを知恵の言葉によって教えて下さいます。牧師の意見やこの世的な知恵ではなく、みことばに沿った知恵です。
自分の肉が強いと、肉に対して厳しい事を言う牧師を血肉で見て裁く事があります。特に男義の霊に支配されている人間は、相手が女性(牧師)というだけで、“女の言う事なんて聞けるか!なんで女に言われなければならないんだ!”と裁きます。
しかし、大事なのは誰に言われたか、どんな言い方をされたかではなく、言われている内容であると語られました。みことばに沿ったことを言われているにも関わらず反逆すれば、油注がれた者(牧師)に触った事になり、自分自身が神の裁きを受ける事になるのだと語られました。
私たちは今週の集会を通して、自分が受けた事を宗教・カルトにしていないか、イエス様への信仰があるのかを問われました。
聖書のみことばにとどまる信仰があり、霊の賜物を燃え立たせているクリスチャンには、目に見えない御使いが陣をしいて炎となり、仕えていることが分かる体験をして常に喜びがあります。しかし、そうでなければ、目に見える事でしか物事を判断する事ができず、すぐに現実問題に流されてしまいます。
私たちクリスチャンは、信仰によって生きる者であると共に、特にここからはますます信仰によらなければ生きられない時代である事も語られました。
ヘブル10:37~11:1
「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。
さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
ヘブル11:6
信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。
アーメン

そして、イエス様への信仰によって私たちが第一に行うべき事が“福音”です
福音の姿勢、熱心さ=信仰については、聖書に次のように書かれています。
使徒行伝28:22b~31
実は、この宗派については、いたるところで反対のあることが、わたしたちの耳にもはいっている」。
そこで、日を定めて、大ぜいの人が、パウロの宿につめかけてきたので、朝から晩まで、パウロは語り続け、神の国のことをあかしし、またモーセの律法や預言者の書を引いて、イエスについて彼らの説得につとめた。ある者はパウロの言うことを受けいれ、ある者は信じようともしなかった。互に意見が合わなくて、みんなの者が帰ろうとしていた時、パウロはひとこと述べて言った、「聖霊はよくも預言者イザヤによって、あなたがたの先祖に語ったものである。
『この民に行って言え、あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。そこで、あなたがたは知っておくがよい。神のこの救の言葉は、異邦人に送られたのだ。彼らは、これに聞きしたがうであろう」。[パウロがこれらのことを述べ終ると、ユダヤ人らは、互に論じ合いながら帰って行った。]
パウロは、自分の借りた家に満二年のあいだ住んで、たずねて来る人々をみな迎え入れ、はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた。
ローマ1:11~17
わたしは、あなたがたに会うことを熱望している。あなたがたに霊の賜物を幾分でも分け与えて、力づけたいからである。それは、あなたがたの中にいて、あなたがたとわたしとのお互の信仰によって、共に励まし合うためにほかならない。兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしはほかの異邦人の間で得たように、あなたがたの間でも幾分かの実を得るために、あなたがたの所に行こうとしばしば企てたが、今まで妨げられてきた。わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある。そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。
第2テモテ1:6~14
こういうわけで、あなたに注意したい。わたしの按手によって内にいただいた神の賜物を、再び燃えたたせなさい。というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。だから、あなたは、わたしたちの主のあかしをすることや、わたしが主の囚人であることを、決して恥ずかしく思ってはならない。むしろ、神の力にささえられて、福音のために、わたしと苦しみを共にしてほしい。神はわたしたちを救い、聖なる招きをもって召して下さったのであるが、それは、わたしたちのわざによるのではなく、神ご自身の計画に基き、また、永遠の昔にキリスト・イエスにあってわたしたちに賜わっていた恵み、そして今や、わたしたちの救主キリスト・イエスの出現によって明らかにされた恵みによるのである。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不死とを明らかに示されたのである。わたしは、この福音のために立てられて、その宣教者、使徒、教師になった。そのためにまた、わたしはこのような苦しみを受けているが、それを恥としない。なぜなら、わたしは自分の信じてきたかたを知っており、またそのかたは、わたしにゆだねられているものを、かの日に至るまで守って下さることができると、確信しているからである。あなたは、キリスト・イエスに対する信仰と愛とをもって、わたしから聞いた健全な言葉を模範にしなさい。そして、あなたにゆだねられている尊いものを、わたしたちの内に宿っている聖霊によって守りなさい。
アーメン
皆が、霊的に宗教・カルトから完全に解放される旅立ちの春であると共に、置かれたところでますます活発に福音を宣べ伝えていけた事を感謝します
コロサイ1:3~29
わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神に感謝している。これは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対していだいているあなたがたの愛とを、耳にしたからである。この愛は、あなたがたのために天にたくわえられている望みに基くものであり、その望みについては、あなたがたはすでに、あなたがたのところまで伝えられた福音の真理の言葉によって聞いている。そして、この福音は、世界中いたる所でそうであるように、あなたがたのところでも、これを聞いて神の恵みを知ったとき以来、実を結んで成長しているのである。あなたがたはこの福音を、わたしたちと同じ僕である、愛するエパフラスから学んだのであった。彼はあなたがたのためのキリストの忠実な奉仕者であって、あなたがたが御霊によっていだいている愛を、わたしたちに知らせてくれたのである。
そういうわけで、これらの事を耳にして以来、わたしたちも絶えずあなたがたのために祈り求めているのは、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力とをもって、神の御旨を深く知り、主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ、あらゆる良いわざを行って実を結び、神を知る知識をいよいよ増し加えるに至ることである。更にまた祈るのは、あなたがたが、神の栄光の勢いにしたがって賜わるすべての力によって強くされ、何事も喜んで耐えかつ忍び、光のうちにある聖徒たちの特権にあずかるに足る者とならせて下さった父なる神に、感謝することである。神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。
御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。
あなたがたも、かつては悪い行いをして神から離れ、心の中で神に敵対していた。しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのである。ただし、あなたがたは、ゆるぐことがなく、しっかりと信仰にふみとどまり、すでに聞いている福音の望みから移り行くことのないようにすべきである。この福音は、天の下にあるすべての造られたものに対して宣べ伝えられたものであって、それにこのパウロが奉仕しているのである。
今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。わたしは、神の言を告げひろめる務を、あなたがたのために神から与えられているが、そのために教会に奉仕する者になっているのである。その言の奥義は、代々にわたってこの世から隠されていたが、今や神の聖徒たちに明らかにされたのである。神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。わたしたちはこのキリストを宣べ伝え、知恵をつくしてすべての人を訓戒し、また、すべての人を教えている。それは、彼らがキリストにあって全き者として立つようになるためである。わたしはこのために、わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力しているのである。
アーメン

今週は集会後に、この春高校へ進学するY兄弟と、転職をするO兄弟の門出を祝って食事会を行いました

卒業式にY兄弟から両親に贈られた手紙には、ここまで肉的にも霊的にも支えてくれた両親への感謝の気持ちと、ここからみことばの通りに、光の子らしく賢く、イエス様によって歩んでいく決意が書かれていたそうです


小学1年生で救われたY兄弟は、9年間という義務教育の期間をみことばと共に歩んできました。その中で様々な問題が生れたり、悪霊の攻撃を受けた時期もありましたが、どんな事があってもイエス様から離れる事なく、両親、弟、妹と共にみことばに戻って、神に喜ばれる神の子の姿勢を表わしてきました。そんな歩みの集大成として、Y兄弟は高校を決める際、何度もイエス様に聞き、聖書を開いたそうです。そして、イエス様に示された高校を受験して合格し、確信をもって高校生活を始められると証してくれました。
Y兄弟を一番近くで支え、見守ってきた両親も、息子からもらった手紙の中に、はっきりと自分の意志で“イエス様と共に歩む人生”が書かれている事に感謝し、最高のプレゼントとなったと話してくれました。そして、卒業式に出席した母親は、子を育てる事がどんなに尊く、喜ばしい事であるか、絵本「一つになろうよ!!命の絵本・命の糸に出会う本」にも書かれているように、次世代を担う子を生み、育むという事は神から与えられた特権である事を実感し、色々な事があったけど全てが神の御手の中であった最高の3年間であったと話してくれました

転職が決まったO兄弟も、「サタンの攻撃を受けて、イエス様への信仰を辞めようと思った時期もあったが、それでもみことばにとどまり続けてきた。神は心を見られる事を常に意識し、アーメンと言って従うようになってからは、どんどん聖霊が働いてくれるようになり、全てがうまくいくようになった。今回の転職もそうです」と証してくれました


本当に、二人の門出は私たち神の家族にとっても喜ばしい事であり、Y兄弟の成長と、O兄弟への祝福を心からイエス様に感謝しました

そして今週の集会では、二人だけではなく、皆が霊的に旅立ちの時であり、置かれたところで新しいステージが始まるのだと語られました

去年の3月4月に、ほとんどの兄弟姉妹が聖書の舞台であるトルコに導かれ、パウロや使徒たちが福音を宣べ伝えた地(エペソ、カッパドキアなど)に行きました。一年経った今、トルコ国内で自爆テロが相次いでいるのを見ると、とても行けるような状況ではありません。神は全てご存じで、私たちに去年思いを入れて、行かせて下さったのだと分かります。
神から与えられた思いに忠実に従ってトルコに行った兄弟姉妹は、そこで聖書=みことばが真実であるという確信と、確固たる信仰を得、パウロや使徒、クリスチャンたちの志と思いを受け継いできました。また、トルコには行けなかった兄弟姉妹も霊では一つでその思いを受け、信仰が強められたのです。
聖書を疑いながら読めば、頭で理解できる箇所や、自分の肉が受け入れられる箇所だけを自分なりに解釈する宗教が生まれます。特に聖書に書かれている「霊の存在」や「霊の世界」を正しく理解していなかったり、そればかりを強調すれば、カルト的な教えになり兼ねません。宗教・カルトは、神に忌み嫌われ、人にも受け入れられないものです

しかし、私たちは聖書が非常に現実的で、ここに真実・真理が書かれている事を知っています。パウロ同様、私たちは神であるイエス様を見たことはありませんが、直接語りかけられ、神の愛に触れる体験をした事によって、イエス様=聖書のみことばに従えば間違いない!という信仰を持ち、イエス様との信頼関係を築いてきました

また、救われた時に9つの神の賜物・霊の賜物を内に頂いています

神ご自身の存在とその権威を知る力である啓示の賜物(知恵の言葉、知識の言葉、霊を見分ける力)・行う力である力の賜物(信仰の賜物、奇跡を行う力、いやしの賜物)・語る力である霊感による賜物、交わりの賜物(預言の賜物、異言の賜物、解き明かしの賜物)によって、私たちは神であるイエス様の声をしっかりと聞いて歩んでいく事ができます。そして、それがイエス様の声かどうかは、みことばで裏付けできるかどうかで分かります。ですから、決して独り善がりの宗教・カルトや、牧師=教祖(自分の意見や思想を言う人)にはならないのです。
ぶどうの木牧師は、みことばと共に、みことばをどう行えば良いのかを知恵の言葉によって教えて下さいます。牧師の意見やこの世的な知恵ではなく、みことばに沿った知恵です。
自分の肉が強いと、肉に対して厳しい事を言う牧師を血肉で見て裁く事があります。特に男義の霊に支配されている人間は、相手が女性(牧師)というだけで、“女の言う事なんて聞けるか!なんで女に言われなければならないんだ!”と裁きます。
しかし、大事なのは誰に言われたか、どんな言い方をされたかではなく、言われている内容であると語られました。みことばに沿ったことを言われているにも関わらず反逆すれば、油注がれた者(牧師)に触った事になり、自分自身が神の裁きを受ける事になるのだと語られました。
私たちは今週の集会を通して、自分が受けた事を宗教・カルトにしていないか、イエス様への信仰があるのかを問われました。
聖書のみことばにとどまる信仰があり、霊の賜物を燃え立たせているクリスチャンには、目に見えない御使いが陣をしいて炎となり、仕えていることが分かる体験をして常に喜びがあります。しかし、そうでなければ、目に見える事でしか物事を判断する事ができず、すぐに現実問題に流されてしまいます。
私たちクリスチャンは、信仰によって生きる者であると共に、特にここからはますます信仰によらなければ生きられない時代である事も語られました。
ヘブル10:37~11:1

「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。
さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
ヘブル11:6

信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。
アーメン


そして、イエス様への信仰によって私たちが第一に行うべき事が“福音”です

福音の姿勢、熱心さ=信仰については、聖書に次のように書かれています。
使徒行伝28:22b~31

実は、この宗派については、いたるところで反対のあることが、わたしたちの耳にもはいっている」。
そこで、日を定めて、大ぜいの人が、パウロの宿につめかけてきたので、朝から晩まで、パウロは語り続け、神の国のことをあかしし、またモーセの律法や預言者の書を引いて、イエスについて彼らの説得につとめた。ある者はパウロの言うことを受けいれ、ある者は信じようともしなかった。互に意見が合わなくて、みんなの者が帰ろうとしていた時、パウロはひとこと述べて言った、「聖霊はよくも預言者イザヤによって、あなたがたの先祖に語ったものである。
『この民に行って言え、あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。そこで、あなたがたは知っておくがよい。神のこの救の言葉は、異邦人に送られたのだ。彼らは、これに聞きしたがうであろう」。[パウロがこれらのことを述べ終ると、ユダヤ人らは、互に論じ合いながら帰って行った。]
パウロは、自分の借りた家に満二年のあいだ住んで、たずねて来る人々をみな迎え入れ、はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた。
ローマ1:11~17

わたしは、あなたがたに会うことを熱望している。あなたがたに霊の賜物を幾分でも分け与えて、力づけたいからである。それは、あなたがたの中にいて、あなたがたとわたしとのお互の信仰によって、共に励まし合うためにほかならない。兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしはほかの異邦人の間で得たように、あなたがたの間でも幾分かの実を得るために、あなたがたの所に行こうとしばしば企てたが、今まで妨げられてきた。わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある。そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。
第2テモテ1:6~14

こういうわけで、あなたに注意したい。わたしの按手によって内にいただいた神の賜物を、再び燃えたたせなさい。というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。だから、あなたは、わたしたちの主のあかしをすることや、わたしが主の囚人であることを、決して恥ずかしく思ってはならない。むしろ、神の力にささえられて、福音のために、わたしと苦しみを共にしてほしい。神はわたしたちを救い、聖なる招きをもって召して下さったのであるが、それは、わたしたちのわざによるのではなく、神ご自身の計画に基き、また、永遠の昔にキリスト・イエスにあってわたしたちに賜わっていた恵み、そして今や、わたしたちの救主キリスト・イエスの出現によって明らかにされた恵みによるのである。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不死とを明らかに示されたのである。わたしは、この福音のために立てられて、その宣教者、使徒、教師になった。そのためにまた、わたしはこのような苦しみを受けているが、それを恥としない。なぜなら、わたしは自分の信じてきたかたを知っており、またそのかたは、わたしにゆだねられているものを、かの日に至るまで守って下さることができると、確信しているからである。あなたは、キリスト・イエスに対する信仰と愛とをもって、わたしから聞いた健全な言葉を模範にしなさい。そして、あなたにゆだねられている尊いものを、わたしたちの内に宿っている聖霊によって守りなさい。
アーメン

皆が、霊的に宗教・カルトから完全に解放される旅立ちの春であると共に、置かれたところでますます活発に福音を宣べ伝えていけた事を感謝します

コロサイ1:3~29

わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神に感謝している。これは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対していだいているあなたがたの愛とを、耳にしたからである。この愛は、あなたがたのために天にたくわえられている望みに基くものであり、その望みについては、あなたがたはすでに、あなたがたのところまで伝えられた福音の真理の言葉によって聞いている。そして、この福音は、世界中いたる所でそうであるように、あなたがたのところでも、これを聞いて神の恵みを知ったとき以来、実を結んで成長しているのである。あなたがたはこの福音を、わたしたちと同じ僕である、愛するエパフラスから学んだのであった。彼はあなたがたのためのキリストの忠実な奉仕者であって、あなたがたが御霊によっていだいている愛を、わたしたちに知らせてくれたのである。
そういうわけで、これらの事を耳にして以来、わたしたちも絶えずあなたがたのために祈り求めているのは、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力とをもって、神の御旨を深く知り、主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ、あらゆる良いわざを行って実を結び、神を知る知識をいよいよ増し加えるに至ることである。更にまた祈るのは、あなたがたが、神の栄光の勢いにしたがって賜わるすべての力によって強くされ、何事も喜んで耐えかつ忍び、光のうちにある聖徒たちの特権にあずかるに足る者とならせて下さった父なる神に、感謝することである。神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。
御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。
あなたがたも、かつては悪い行いをして神から離れ、心の中で神に敵対していた。しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのである。ただし、あなたがたは、ゆるぐことがなく、しっかりと信仰にふみとどまり、すでに聞いている福音の望みから移り行くことのないようにすべきである。この福音は、天の下にあるすべての造られたものに対して宣べ伝えられたものであって、それにこのパウロが奉仕しているのである。
今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。わたしは、神の言を告げひろめる務を、あなたがたのために神から与えられているが、そのために教会に奉仕する者になっているのである。その言の奥義は、代々にわたってこの世から隠されていたが、今や神の聖徒たちに明らかにされたのである。神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。わたしたちはこのキリストを宣べ伝え、知恵をつくしてすべての人を訓戒し、また、すべての人を教えている。それは、彼らがキリストにあって全き者として立つようになるためである。わたしはこのために、わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力しているのである。
アーメン
