カルト(霊的ラザロ)からの解放② | ぶどうの木 Good News

カルト(霊的ラザロ)からの解放②

確かにこの教会は聖書のみことばを語っていました。しかし、逆に言えば聖書のみことばしか語っていなかったのです注意 母は、みことばを言われれば、「アーメン」でした。変な言い方かもしれませんが、「アーメン」と言わざるを得ませんでした。しかし、霊はどんどん圧迫されていき、イエス様から離れたら地獄行きという恐怖心しかなくなり、魂(知性・意志・感情)はいらないと思わされていきました。そして、日本においてはみことばを正しく教え、知恵の言葉を語ってくれる牧師が近くにいなかったため、テープを聴いた一人一人が、自分に都合よくみことばを受け止め解釈していました。

聖書は分厚い書物です。そのすべてが神・イエス様から私たちへのメッセージ=みことばですドキドキ 聖書を読めば読むほど、たくさんのみことばに出会います。それは本当にすばらしいことです音譜しかし、それを受ける側が肉に都合よく解釈すれば、イエス様と言いながらいつの間にか反キリスト=サタンに支配されている状態になったり、先週のブログに書いたように“正義の戦争主義”という考えが生れてしまいます。また、みことばを伝える時に神の愛がなければ、一切が無益であり、相手を圧迫し、恐怖心を与えるサタンの武器となってしまいます。サタンも光の天使に偽装して、盗み・殺し・滅ぼすためにみことばを使うのです

また、聖書を読んでいくと、矛盾がある事に気づきます。1つの事柄について真反対のことが書かれていることがあるのですひらめき電球


例えば、「結婚」について第1コリント7:28には、【しかし、たとい結婚しても、罪を犯すのではない。また、おとめが結婚しても、罪を犯すのではない。ただそれらの人々はその身に苦難を受けるであろう。わたしは、あなたがたを、それからのがれさせたいのだ。】と、結婚に対して否定的なことが書かれています。

しかし、マタイ19:4~6には、【『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない。】と、肯定的なことが書かれています。


カルトになると否定的なみことばだけを持ってきて、結婚を禁ずる教えが出来上がってしまいます。偏ったみことばのとりかたにより、霊の自由をなくし、サタンの策略にまんまとひっかかっていくのです。

だからこそ、羊の状態をよく知り、時に応じて与えられるみことばと、その人に必要な【知恵の言葉】をイエス様に聞いて語ることのできる、油注がれた牧師の存在がとても重要ですキラキラしかし、もしその牧師自身が神の事を思わず、自分の都合よくみことばを解釈し始めたとすれば、油の注ぎはなくなり、その教会は完全にカルト教団となってしまいます。

残念ながら、母が通っていた教会は2009年8月に、カルト教団として新聞に取り上げられました。「お金を愛するのは地獄へのルート」と脅し、十分の一献金以上のお金を出させたという理由で裁判となり、敗訴したのです。

その時、この教会の牧師に臨んだイエス様からのみことばは、ヨブ記36:17~18だったという事が、私たちの耳にも入ってきました。


ヨブ記36:17~18本

「しかしあなたは悪人のうくべきさばきをおのれに満たし、さばきと公義はあなたを捕えている。あなたは怒りに誘われて、あざけりに陥らぬように心せよ。あがないしろの大いなるがために、おのれを誤るな。」


神を畏れる戒めのみことばでしたが、6年経った今、この出来事を偽って教える牧師の説教(神のものは神に返すように言っただけ)も聖霊の導きによって聞かされました。はじめは純粋にイエス様の教えを喜び行ない、イエス様がご自身を現していた教会が、カルト教会へと変わってしまいました。そこには、様々な誘惑、サタンの策略、悪霊の動きがありました。

私は何度か、「もう関係ないからいいじゃん!」と言った事がありますが、その度に母からは「私はあの教会を通していやされ、聖書のみことばとサタンとの戦い方を知ったの。その恩は忘れない」という言葉が返ってきました。そして、「カルトを経験した私だからこそ、そこにいる人たちを助け出すことができる」と言って、今やカルト教団のレッテルを貼られた教会に残されている兄弟姉妹、そして、道を誤った牧師のために何ができるのかをイエス様に聞き続けてここまできました。

テープを聴くことをやめ、「自分とイエス様」の関係を改めて築きなおし回復した母は、2007年9月2日に、ぶどうの木の牧師となりました。母が家庭集会において愛にあって真理を語っていった事で、イエス様は、聖書の約束どおり母を通してご自身を現されていきました。そして、そのしるしと奇跡によって、たくさんの人が救われていきましたクローバー


そして今週の集会で、ぶどうの木と、かつて母がいた教会とは何が違うのかを語られました
カルト化してしまった教会には、霊の事=“みことば”しかありませんでした。霊⇒魂⇒体へとみことばを連動させて、みことばを行うのではなく、霊/魂/体と区分されて、霊のことは大事、魂はいらないという教えになってしまったのです。聖書に書かれているみことばだけを言って、周りの人や社会との交わりを絶ち、自分たちの世界の中だけで生活をしていたら、それはただの気違いですあせる
ぶどうの木は違います。実生活にみことばがどう即しているかを学んできました。牧師はみことばだけを説教してきたのではありません。皆の実生活の問題に対して、みことばを与え、そのみことばをどう行なっていけば良いのかを具体的に教えてきました。最初は、特に家族問題(親子関係・夫婦関係・嫁姑関係)に対して、みことばにどう書かれてあるかを確認し、それを行うことのできる聖霊の力によって、皆が信仰でみことばを行う一歩を踏み出していきました。
そして、家族が一つになる事、互いに愛し合う事を求める中で、イエス様は新たな段階として、社会問題に対しても目を向けさせて下さり、聖書には何と書かれてあるかを世の中に伝える役目を私たちに与えて下さいました。
同性愛の問題、日韓関係の問題、イスラム国の問題、母子家庭の問題、銃社会の問題、覚せい剤やDVの問題などにしっかりと関心を持ち、地に足をつけて考える事、みことばと照らし合わせてクリスチャンとしての自分の立ち位置を知る事、さらには、世の中に影響を与える者として、自分の信仰について問われたら丁寧に説明する事、賢く福音する事も求めるようにと教えられてきました。

第1ペテロ3:15~16

ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。しかし、やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい。そうすれば、あなたがたがキリストにあって営んでいる良い生活をそしる人々も、そのようにののしったことを恥じいるであろう。

しかし、母が通っていた教会は新聞もテレビも見てはいけません。「神は無きに等しいものを選ばれたのだから学歴はいらない、みことばだけを知っていればいい」という教えのもと、世の中から完全に隔離されていくのです。その中で、兄弟姉妹達の家庭は崩壊していました。「肉の家族よりも神の家族!家族を捨てなさい」という教えにより、家族をかえりみない行いが、家族に嫌悪感を与え、家族から孤立する状態を生みだしていったのです。
聖書の教えの土台、イエス様が一番伝えたい教えは、【互いに愛し合いなさい】【一つになりなさい】ですが、完全にそれが欠如した集団と化してしまったのです。

ぶどうの木は、【互いに愛し合う事】【一つになる事】を求め、どうすればそこに到達できるのかを学び実践していく群れである事を再確認しました。この神の御心を成し遂げるためには、人としての在り方、家族の在り方、命の使い方をしっかりと聖書から学んでいく必要があります
キラキラ
神が人間に宛てて書かれたラブレターと呼ばれる聖書の教えを守り行なう学びのどこを「おかしい!カルトだ!」と言って責めることのできる人がいるでしょうか?

【わたしたちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば力がある。】(第2コリント13:8)と書かれてある通り、真理である聖書の教えを、霊⇒魂⇒体へと連動させているクリスチャンであれば、必ず神は人々を納得させる力を与えてくださいます
私たちはそれを体験・体得してきました。


ローマ14:18本

「こうしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、かつ、人にも受け入れられるのである。」


イエス様は愛の神です。聖書のみことばを正しく受け入れ、実践しているクリスチャンは世の中の人に嫌悪感など与えませんビックリマークそして、真理に従うクリスチャンにだけ、イエス様はご自身の栄光と力を現されるのです虹


ヨハネ14:21本

「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう。」


私たちはカルトを体験し、カルト化していく教会を見せられました。本当に恐ろしい世界です。母は3年いましたが、マインドコントロールと恐れが取り除かれるのに6年かかりました。カルト・宗教の霊はいつも私たちの信仰に入り込もうとしてきます。だからこそ、互いに関心を持ち、おかしいことを見極め、おかしいと言える自分でいる事が大切であり、それが、裸の王様に裸と言う神の愛だと語られました。
母がいた教会に対しても、私たちは裁くのではなく、神は彼らをもう一度立たせることができる方であるという信仰によって、神の愛で語り、とりなして祈っていきたいと思いますキラキラ2

ローマ14:4
他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。

そして、カルト(霊的ラザロ)からの完全なる解放、復活を祈ります

ヨハネ11:32~44
マリヤは、イエスのおられる所に行ってお目にかかり、その足もとにひれ伏して言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」。イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた、「彼をどこに置いたのか」。彼らはイエスに言った、「主よ、きて、ごらん下さい」。イエスは涙を流された。するとユダヤ人たちは言った、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」。しかし、彼らのある人たちは言った、「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」。イエスはまた激しく感動して、墓にはいられた。それは洞穴であって、そこに石がはめてあった。イエスは言われた、「石を取りのけなさい」。死んだラザロの姉妹マルタが言った、「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」。イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。

アーメンキラキラ