真理に立つ者から宗教をしている者に向けて~へブル人への手紙より~ | ぶどうの木 Good News

真理に立つ者から宗教をしている者に向けて~へブル人への手紙より~

 Sayuriです。
2016年になり、一カ月が過ぎました。
この間のぶどうの木の働きは年末から年明けにかけての韓国語版「一つになろうよ~命の絵本・命の糸に出会う本~」を用いての韓国宣教に始まり、群れの各自が置かれた場所で賢く福音伝道に遣わされ、国内では異邦人の魂の救いの為に確実に歩みを進める毎日でした。  

今週の集会は、エズラ記より、肉・霊共に完全に汚れを断ち切り聖別するという事が語られるみことばから始まりました。 

<エズラ記10:16~44>
 そこで捕囚から帰って来た人々はこのように行った。すなわち祭司エズラは、氏族の長たちをその氏族にしたがい、おのおのその名をさして選んだ。彼らは十月の一日から座してこの事を調べ、正月の一日になって、異邦の女をめとった人々をことごとく調べ終った。
 祭司の子孫のうちで異邦の女をめとった事のあらわれた者は、ヨザダクの子エシュアの子ら、およびその兄弟たちのうちではマアセヤ、エリエゼル、ヤリブ、ゲダリヤであった。彼らはその妻を離縁しようという誓いをなし、すでに罪を犯したというので、そのとがのために雄羊一頭をささげた。 <中略> これらの者は皆異邦の女をめとった者である。彼らはその女たちをその子供と共に離縁した。  


 ここに出てくる「異邦の女」と「その子どもたち」は、ヨハネの黙示録2:20に登場してくる「女預言者イゼベル」と「その子どもたち」である、すなわち、情を頭とさせる汚れた霊(偽キリスト・偽みことば・義理人情ヒューマニズムを頭とさせる女預言者イゼベルの霊)であると解き明かされました。
神の愛の前にしゃしゃり出て偽物の愛を振りかざし、神の愛を見えなくさせる情の霊力(イゼベル)と、神に反逆・反抗し、自分を神とする高ぶりの霊力(ルシファー)は互いに作用し合います。この二つを完全に兼ね備えているのが、唯一の男子であるイエス様(=みことば)に対して、自分自身も男になろうとする「男義の霊」です。この男義の霊は、いつも、自分のやり方、力ずく、この世の権威を振りかざす、圧迫する、狡い、人のせいにする…など、神の愛のなさり方とは真反対で物事を進めていきます。 

 この一カ月、群れの中においては、男義の霊との戦いの中で、各自が自分に働きかけてくる高ぶりや情の霊力がいかに巧みな罠を仕掛けてくるかを体験し、その策略を見破り戦い、勝利してきた日々でもありました。この霊的な戦いは、去年の10/25に出版された韓国語版絵本が、神が選ばれた必要な人の手に渡るための戦いでもあります。なぜなら、この絵本は詩編146:7aにあるように、「真理に飢えた者」にとっての食物なのです。

 韓国は、国民の約40%がクリスチャンと言われる、いわゆるクリスチャン大国ですが、同時に多くの人々がそれらのクリスチャンにつまずいているのが現状です。実際に今年の初めに韓国を訪れた兄弟姉妹が「イエス様信じたら天国信じなかったら地獄!」と書かれた大きなプラカードを持って歩いているのを見て「それはそうだけど、その伝え方ではイエス様から人々を散らしている」と感じたり、祈る時も、何か(悪霊)に取りつかれたように奇妙な祈りをする、大声で叫び祈る…というような異様な姿を見せられたりしていました。例を挙げればきりがないのですが、とにかく、隣国である韓国においてクリスチャンはカルトの霊によって人々の前につまずきをおいているのです。本当の福音とは、神に喜ばれ、人にも受け入れられる(ローマ14:16~18)ものなのですが、彼らは神の義を知らないで自分の義(男義)を立てようと努めてきた結果、イエス様からちらす側に使われてしまっています。(ローマ10:1~3)
この絵本は、そんな韓国のクリスチャンにつまずいてきた人達、特にクリスチャンではない人々に対して、イエス様とは?聖書とは?クリスチャンとは?ということを正しく伝えることができる画期的な絵本です。
実際に韓国国内では、クリスチャンの人向けの本は数多く出版されているが、クリスチャンではない人達に対する聖書に関する本はほとんどないとの事。そのような中で、去年、韓国語版絵本の記者会見を経て発行された新聞記事(韓国キリスト教連合新聞・韓国女性新聞)には「この本は書店に置いてあったら一度は手に取って読んでみたくなる本であり、クリスチャンではない人も読める本」であると紹介されました。 

 この本を伝える私たち自身もまた、神の義を知らないで、自分の義を立てようと自分の肉をもって努める者であってはならないのです。
 これからたくさんの人を導いていく中で、情や高ぶりで動いてしまうようなことがあれば、それは自分の義・男義となり、チャーミングの霊や姦淫の霊、党派心の霊、偶像礼拝の霊などの悪霊を次々と動かすことになります。
 そうではなく、クリスチャンは常に聖霊に明け渡した空っぽな器であり続けることによって、神の義を行うのだと語られました。目の前に置かれた相手の事を一番知っているのはその本人でも、私でもありません。ご存知なのはイエス様ただお一人です。そのイエス様に信頼して自分自身は常にイエス様につながり、イエス様からの司令があるまでは静まっています。そして、司令が出た時には自分という明け渡した器から淀みなく生ける水の川を注ぎ出します。そのようにして初めて相手の飢え渇きを潤していく事ができる。神から注がれる喜びのあぶらが豊かに注がれた(へブル1:9)時に、クリスチャンは目の前の人の国籍を、地上から天に上げることができるのだと語られました。 

<詩編146編>
主をほめたたえよ。
わが魂よ、主をほめたたえよ。わたしは生けるかぎりは主をほめたたえ、ながらえる間は、わが神をほめうたおう。もろもろの君に信頼してはならない。
人の子に信頼してはならない。彼らには助けがない。その息が出ていけば彼は土に帰る。
その日には彼のもろもろの計画は滅びる。ヤコブの神をおのが助けとし、その望みをおのが神、主におく人はさいわいである。主は天と地と、海と、その中にあるあらゆるものを造り、とこしえに真実を守り、しえたげられる者のためにさばきをおこない、飢えた者に食物を与えられる。主は捕われ人を解き放たれる。主は盲人の目を開かれる。主はかがむ者を立たせられる。主は正しい者を愛される。主は寄留の他国人を守り、みなしごと、やもめとをささえられる。しかし、悪しき者の道を滅びに至らせられる。主はとこしえに統べ治められる。シオンよ、あなたの神はよろず代まで統べ治められる。
主をほめたたえよ。   


 ここに二人のクリスチャンがいるとします。
 それぞれが車を運転して目的地を目指すわけですが、前者はイエス様には助手席に座っておいてもらって自分がハンドル操作をする。時折、隣のイエス様に行く先を聞きます。そして言います。「オッケー!イエス様。ついてきて!私、イエス様の為に頑張ります!」そしてイエス様の為に一直線に目的目指して運転します。ハンドルという主導権を自分が握って一生懸命。右に行くにも左に行くにも自分が判断し、運転は続きます。到着時刻も到着方法もすべては自分の腕と判断次第…。行く先でトラブルが起こったとします。例えば嵐にあったとします。「何でこんな道に来てしまったんだろう!やっぱり違う道の方が良かったかな。もっと違う道に変更だ。いや、この嵐が去るまでもうちょっと待ってから進む事にしよう…」反対にとても快適な運転になり素晴らしい景色が現れたとします。「やっぱり私の判断が良かったんだ。イエス様も私を信頼してくれているはず。私ってすごい!」…これでは迷走してしまいます。一寸先は崖かも知れません。気が付けばイエス様はいなくなり、自分がイエス様に成り代わって(自分が頭・自分の義)いることを知ります。自分を賢い者と見て、自分の判断によって力ずくでやり方を突き通し、不安定な足元はすぐにぐらついてしまいます。「これだけやったのだから」と、主を誇ることをせずに自分を誇り、人から称賛されることを喜ぶ状態は、神の目から見て、完全に男義の霊(情・高ぶり)にまかれている状態そのものです。
 主に喜ばれることが何であるか、神の義とは何かをわきまえ知ることのできる魂と、それを行う力を得るために聖霊によってもう一度造り変えられなければ、(ローマ12:2)どんなに一生懸命に頑張っても、善行を積んでも(律法を行っても)神の目から見たらその人間には男義(情・高ぶり)の汚れがべったりとしみこんでいるため、受け入れられるものではありません。主よ主よという者が皆天国に入れるわけではない(マタイ7:21~23))というみことばの真意がここにあります。

 後者のクリスチャンは、自分をただの空っぽの器としてイエス様に主導権を明け渡した状態で運転席に座り、「次はどうしますか。」「次はどうしますか。」と、一つ一つの行動をイエス様の指示に聞き従って行っていきます。右に行くのか左に行くのか、一時停止するのか…そこに自分の魂(感情・意思・知性)は関係ありません。自分のやり方・自分の義・自分の意見を言いません。ただ、その時々に静まってイエス様が行けと言われれば進み、止まれと言われれば止まります。進む先々でいろいろな状況が目の前に広がる時も、そこに目を留めて一喜一憂することなく、イエス様に戻って聞きます。静まってイエス様に聞いていくと、一つの方法、二つの方法や、みことばによって自分の今の状態、霊の世界の状態を解き明かして下さいます。自分が不忠実であったなら悔い改め、大きな霊的戦いの中にある迫害であるのなら、それを乗り越える知恵も与えて下さいます。足元を固め、信仰と信頼を持って主に委ねる運転は続きます。振り返ってみると、辿ってきた道中には確かに証が成っています。その時、主が共にいて下さった事を実感し、イエス様の御わざに感謝してすべての栄光をイエス様に帰するのです。

<箴言3:5~8>
心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、
そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を見て賢いと思ってはならない、
主を恐れて、悪を離れよ。そうすれば、あなたの身を健やかにし、あなたの骨に元気を与える。  


 前者と後者の違いは、「宗教」と「真理」の違いです。
 前者のように、どんなに善行と思う事を行ったとしても、それが自分の義(男義)で行っているなら、それを、内側が変えられていない「宗教する者」と呼びます。
世界には、内側が造り変えられずに律法の行いだけをするユダヤ教、イスラム教、ヒンズー教、仏教、神道、その他の新興宗教をしている人びとがいます。自分は無神論者だから、と言って宗教なんてしていないという人がいますが、実は自分自身の考えが全て正しいという、自分自身を神として偶像礼拝をする、自分教という宗教をしている人です。
全て、男義の霊力の支配下にまんまと捕えられています。
 このように宗教をしている人たちが、男義の霊によって世界各地で宗教戦争を起こしているのです。「神の名のもとに!!」と自分の義を振りかざし、(神様ついてきて!と)平気で他者の命の尊厳を奪っていきます。愚かな話です。いくつかの宗教が互いに互いを尊重できるのも、男義に捕えられている同類の霊力だから出来ることです。しかし、情の上で成り立った互いの尊重などは一つ事が起これば簡単に手のひらを返すようにして分派分裂です。反対に宗教の中で教団教派に分かれているのは「我こそは!」と自分を正しい者とするプライドです。情で寄りあったり、プライドで牽制し合ったり。男義の霊によってそんなことを繰り返しているうちに、真の神の言・真理である聖書までもが「宗教」の経典の一つとして数えられるようになってしまいました。
男義が操る「宗教」だけがあまりにも長い間この世の中にはびこっていて、人間はその方法でしか神を知り、つながることができなくなったのです。しかし、ここに真理という神の隠された「奥義」が、新しい権威ある教えとして明かされました。神の言葉・真理はどんな時代にも決してすたれることはありませんでした。忠実なクリスチャンによって正しく読まれ、聖霊の力によって解釈されて静かにひそやかに守られ、確実に受け継がれてきました。
 それが、霊によって生まれ変わる、霊→魂→体から成る新しい自分に造り変えられる、真に神とつながり、神の内を生きることができるという、力ある「真理の教え」です。後者は、その真理に立つ者・神の義を行う者の姿です。 

 「宗教」と「真理」の違いは、「新しく内側から造り変えられているか=新生しているか」どうかの違いです。 

<ヨハネ3:5~6>
イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。 肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。 

<ローマ12:1~2>
兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。  


 今週は、へブル人への手紙を通して、自分の義(男義)にまかれて「宗教」をしている人がどのようにして「真理(神の義)」を行う者になれるのかを、教えていただきました。人類が初めて誕生した所は中東にあり、豊かな水の源である川と肥沃な大地の恵みを受けて人類の文明が発展してきたことは周知の通りです。人間は、命の起源をたどっていく時に神を否定することはできません。旧約時代の人間と、神との関係は非常にはっきりしたものでした。神は人間に善悪の判断を教え、従うようにと、正しい人間の生き方である律法を与えました。人間は神という偉大な存在に畏敬の念を持ち、律法に反する罪を犯してしまえば自分の命の糧である上等な家畜を生贄として捧げ、その燔祭をもって神に許しを乞うていました。
 しかし、人間は神に仕えているつもりでも、律法を守りきることはできませんでした。何度も何度も間違いを繰り返しました。その度に最上の動物の血を流し、燔祭を捧げることを続けてきました。年ごとにその時代の大祭司が人間の犯してきた罪の贖いの為に燔祭の儀式を行うのです。しかし、結局人間の罪は何度燔祭を捧げても無くなりませんでした。人間の罪とは、人間の内にあるものなのです。何度燔祭を捧げて、うわべを掃除したところで、内に罪がある限り、そこからじわじわと汚れが染み出してくるのです。(これを原罪と言います)結局、動物の血の燔祭では、人間の内側である魂まではきよめられなかったため、人間は変わることができなかったのです。人間が神の前に立つ時に、自分という人間は変わらずに神(それぞれが聖なるものと思い込んでいる偶像)を拝しようとする姿は、ユダヤ教、イスラム教、ヒンズー教、仏教、神道、もちろん、内側が変えられていないクリスチャンも!様々な宗教の礼拝の姿に重なります。 

<へブル1:1~3>
神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。 

<へブル2:1~4>
こういうわけだから、わたしたちは聞かされていることを、いっそう強く心に留めねばならない。そうでないと、おし流されてしまう。というのは、御使たちをとおして語られた御言が効力を持ち、あらゆる罪過と不従順とに対して正当な報いが加えられたとすれば、わたしたちは、こんなに尊い救をなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか。この救は、初め主によって語られたものであって、聞いた人々からわたしたちにあかしされ、さらに神も、しるしと不思議とさまざまな力あるわざとにより、また、御旨に従い聖霊を各自に賜うことによって、あかしをされたのである。 

<へブル6:1~3>
そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。今さら、死んだ行いの悔改めと神への信仰、洗いごとについての教と按手、死人の復活と永遠のさばき、などの基本の教をくりかえし学ぶことをやめようではないか。神の許しを得て、そうすることにしよう。 


  へブル人への手紙の著者は、もともと、そのような神の律法を守ることに熱心なユダヤ人でした。ユダヤ人は、旧約の時代に、神から直接律法を与えられた選ばれた民族であることに誇りを持っています。律法が記されている旧約聖書を経典として律法こそが全てであるという律法主義の中で熱心に律法を守り行っています。旧約聖書は、救い主を預言するものですが、その預言の通りに約2000年前にイエス様が地上に来られてもある者は信じ、ある者は信じませんでした。イエス様を認めず、2000年たってもまだ旧約聖書に留まっているのが、現代のユダヤ教徒です。この手紙の著者は、ユダヤ人の中でも、イエス様こそ預言されていた救い主であり、神が与えた「律法の完成者」なのだという事に目が開き、耳が聞こえるようになった人物です。そして、残りのユダヤ人に対して、『律法を行うことによってのみ神に認められるという自分の義から成る力ない「宗教」から解放されようではないか。神が求めておられるのは宗教の礼拝の姿ではなく、自分自身を聖なる供え物として神にささげる霊的な礼拝である。そのために送られてきた神の御子、救い主であるイエス様を見ないか!彼がたった一度流した血には旧約時代に幾度となく捧げ続けられてきた動物の燔祭とは比にならないほどの罪を清める力がある。それによって私たちの罪(原罪)はきよめられ、内側から造り変えられるのだ』と伝えています。そして旧約の時代には、神の義を行いたいと望んでも自分の力では出来なかった苦しい歩きを、イエス・キリストが送ってくださった助け主聖霊の力によって行えるように変えてくださるのだという事を力説しています。 

へブル人への手紙は、イエス・キリストは神の子であり、御使い(天使)以上のお方、モーセ(律法を神から預かった者)以上のお方、人間の大祭司(人間の犯した罪を消すための幕屋での儀式を行う人)とは次元の違う大祭司、人間の中にこのお方と比較できるような人はいないと論じた、言わば、「宗教」からの解放を宣言する論文であると言えます。(「一年で聖書を読破する」鈴木崇巨著より抜粋) 

<ローマ10:1~4>
兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。  


 この世の、様々な宗教をしている人たち、無宗教で自分偶像礼拝の人たちも皆、霊的ユダヤ人であると言えます。
 今週はへブル人への手紙を通して、あらためてイエス様は皆が「宗教」から解放され、「真理」に立ち返ることを求めておられるのだと語られました。そして福音にあずかる私たちクリスチャンは、一人でも多くの魂の解放のために、真理によってますます内側をきよく掃除され、造り変えられ、聖霊に満たされた明け渡した器として、生ける水の川を注ぎ出して福音していかなくてはならないと語られました。
 クリスチャンは肉がついていながらこの世に生きている限り、その一瞬一瞬が、聖別のための戦いです。私たちは神の義を行わせない男義の霊とは何かをしっかりと見極め、訓練の中で日々悔い改め立ち上がっていく体験を経ながら精錬されていきます。
 主の軍隊として主の御用に間に合う者とされ続ける特権に与かれていることを感謝します。