完全なる聖別―ガラテヤ人への手紙より― | ぶどうの木 Good News

完全なる聖別―ガラテヤ人への手紙より―

holygirlですニコ

ガラテヤ6:14
しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。

今週はこのみことばを通して、『完全なる聖別』について語られました
韓国語版の絵本を出版するために、本格的に作業に取り掛かった6月から昨日に至るまでの4ヶ月間、ぶどうの木の一人一人が内側を吟味し、長年隠されていたマンホールのふたが開けられ、大掃除となりました。神の御心である一冊の絵本を完成させ、世の中に出版させるためには、凄まじい霊の戦いがあります。サタンが、それを阻止しようと攻撃してくるからです。
6月から先週までのブログにも書いてきたように、兄弟姉妹にあった様々な問題が明らかにされ、牧師の戒めと知恵の言葉によって、各自がぶどうの木の前進に対して足を引っ張ってきた霊力を縛り上げてきました。そして、今週皆が霊的に整えられたタイミングで、出版社から見本で絵本が一冊届けられました。牧師を通して、皆が光になって霊的に足並みを揃えて次のステージに立てたタイミングで、絵本も完成してくるのだと語られました。

主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。

このみことばを私たちは軽んじていたのではないかと戒めを受けました。
救われる前の私たちは、仕事、家柄、学歴、名誉、地位、外見、能力などを誇って生きてきました。それは、少しでも周りの人がうらやみ、驚くような自分でありたいと願う私たちの中にある肉の思いです。しかし、未だにそれを良しとして誇っているのであれば、私たちは聖別されたクリスチャンとは言えないのです。

ぶどうの木の牧師は、救われ十万人に一人の難病が癒された後、このガラテヤ6:14を頂きました。初めてこのみことばを読んだ時、【わたしもこの世に対して死んでしまった】・・・肉は、自分の居場所がなくなったような孤独を感じたと共に、どういう事なのだろう?思ったそうです。当時牧師は仕事で成功をおさめ、地位と名誉を得て有名になり、経済的にも豊かな暮らしをし、この世にどっぷりと浸かっていました。今振り返れば、この世の神であるサタンにとてもかわいがられた人生でした。
しかし、救われてしばらく仕事を続けていく中で、このみことばの意味をよく理解していったそうです。今までのように肉でがんばっても上手くいかない、自分のやり方が一切通用しない、まさに、この世は何一つ力になってくれない、かわいがられない歩きを体験したのです。完全にイエス様に明け渡さなかったら、何もできない自分となっていることを身をもって知ったそうです。
それと同時に、神に愛されていることを実感したと証してくださいました。そして、母教会の牧師から、「仕事を辞めなさい」と言われた時、牧師はすぐにその言葉に従いました。この世でどれだけ地位、名誉、お金があっても、自分の難病を癒してくださったのは、イエス・キリストであり、イエス様に頂いた命をイエス様のために使う決心をしていたからです。

私達は牧師の証を通して、このような体験が自分たちになければ、今もサタンにかわいがられて、真理の道を歩いていないのだと語られました。
さらに、群れの中では、お金を握り、お金に翻弄されてきた人生を歩んできた者や、家族を握り、血の中にある3代~4代に渡る呪い祟りの霊を断ち切れないままイエス様に従おうとしてきた者がいた事も、この4ヶ月間で明らかになり、何かを握ったままでは、イエス様に100%自分を明け渡すことはできない事も改めて語られました。

この世で得たものを誇り、握っているものがある人は、イエス様を一番としていないので、神の目から見れば傲慢で強情な器です。サタンには喜ばれますが、神には決して喜ばれません。先週のブログにも書いたように、自分が今生かされている事への感謝があれば、イエス様を知っている事、イエス様に罪が許され救われた事、イエス様と共に生きている事だけが誇りとなり、自分の意見を言いたくなるような傲慢な態度や強情な肉の思いは剥ぎ取られていきます。その時はじめて、「私が弱い時こそ、私は強い!」「主にあって何事でもすることができる!」と言える自分になるのだと語られました。

そして、このように完全に聖別されたクリスチャンのもとに、人は導かれてきます薔薇イエス様の十字架を誇るクリスチャンは、自分の罪が許され、救われた事への感謝をもって、何においてもまず福音のために自分を捧げることができるからですキラキラ肉がついている以上、肉の思いとの戦い、体への攻撃との戦いはありますが、私たちに肉体が与えられている一番の理由は、福音するためであることをもっと自覚しなければならないと語られました。

ピリピ1:21~26
わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。こう確信しているので、わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う。そうなれば、わたしが再びあなたがたのところに行くので、あなたがたはわたしによってキリスト・イエスにある誇を増すことになろう。

パウロは、全世界に福音を宣べ伝えるために神に選ばれた器として、肉体にとどまって生きることによって福音をしていきました。そして、自分と同じようにイエス様を誇りとするクリスチャンを育てていきました。
しかし、私たちは福音以前に、自分自身が聖別されているか問われている始末です。今さら何を誇るのか、いつまでこの世での賞賛を浴びることを求めるのか、また、イエス様以上に握りしめて手放したくないものがまだこの地上にあるのか・・・私たちは【生きることはキリストであり、死ぬことは益である】と言える歩きではなかった事を悔い改めました。

そして、ガラテヤ6:14に至るガラテヤ人への手紙を通して、改めて『聖別』について確認していきましたガラテヤ人は、人間の角度からしか神を見れない人、頭で神を理解しようとする人であり、パウロは宗教的に神を信じていたガラテヤ人に手紙を送ったのです。私たちも皆、霊的に同じ状態であったと語られました。

ガラテヤ1:6~10
あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない。それは福音というべきものではなく、ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているだけのことである。しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである。わたしたちが前に言っておいたように、今わたしは重ねて言う。もしある人が、あなたがたの受けいれた福音に反することを宣べ伝えているなら、その人はのろわるべきである。
今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。

人の歓心を買うために、この世で誇れるものを求めるのではなく、まず神の国と神の義とを求めて神に喜ばれるよう努めた時、あとのものは全て添えて与えられ、健康面においても、社会的にも、経済的にも祝福されることを再確認しました。


ガラテヤ1:11~17
兄弟たちよ。あなたがたに、はっきり言っておく。わたしが宣べ伝えた福音は人間によるものではない。わたしは、それを人間から受けたのでも教えられたのでもなく、ただイエス・キリストの啓示によったのである。ユダヤ教を信じていたころのわたしの行動については、あなたがたはすでによく聞いている。すなわち、わたしは激しく神の教会を迫害し、また荒しまわっていた。そして、同国人の中でわたしと同年輩の多くの者にまさってユダヤ教に精進し、先祖たちの言伝えに対して、だれよりもはるかに熱心であった。ところが、母の胎内にある時からわたしを聖別し、み恵みをもってわたしをお召しになったかたが、異邦人の間に宣べ伝えさせるために、御子をわたしの内に啓示して下さった時、血肉に相談もせず、また先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行った。それから再びダマスコに帰った。

私たちはパウロと同じように、一人一人がイエス様と出会い、聖霊の働きによって“この方こそ真の神である”という体験をして、信仰を持つようになりました。特に、血肉に相談することなく、イエス様に従っていく決心をした事が、選ばれているが故の聖霊の働きだったと思います。世の中には様々な宗教があり、悪霊の追い出し(悪魔ばらい)を行うところもありますが、血の中にある3代~4代に渡る呪い祟りの霊は、イエス・キリストの御名前と血によらなければ断ち切ることはできません。この信仰は、家族単位のものではなく、個人のものであり、神は血筋によらず、一人一人を尊い‘個’として扱っておられるのです。ですから、今の自分の在り方を親のせい、人のせいにすることもできないのです。
今週は、両親、特に母親の影響を多大に受けてきた二人の姉妹が、救われてもなお両親を血肉で見て、神の言葉よりも母親の言葉、神に喜ばれる事よりも、両親の顔色を伺うところにいたことを悔い改め、そこから解放されるに至る牧師からの霊の解き明かしと聖霊の働きを証してくれました。二人は牧師を通して、イエス様に救われ真理を知った者として、父親・母親を一人の人間、神の家族の中の兄弟姉妹として見て、二人が捕えられてきた霊力を見極めて真理を伝え、完全に3代~4代に渡って血の中にあった霊力から解放されなければならないと語られました。



ガラテヤ2:18~21
もしわたしが、いったん打ちこわしたものを、再び建てるとすれば、それこそ、自分が違反者であることを表明することになる。わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。

“このぐらい何が悪い”という思いが、サタンに門を開きます。このみことば通り、自分がイエス様に100%明け渡した器となり、神の御子を信じる信仰によって生きている者であることを自覚すれば、サタンにチャンスを与えるような愚かな考え、自分の意見など出ません。
また、サタンがつくったこの世のルールで、物事が解決し、天国に行けるのであれば、イエス様の十字架=キリストの死は無駄であったことになります。イエス様の十字架を誇れる私たちこそ、神の恵みを知り、神の力を知る者です。



ガラテヤ4:8~9
神を知らなかった当時、あなたがたは、本来神ならぬ神々の奴隷になっていた。しかし、今では神を知っているのに、否、むしろ神に知られているのに、どうして、あの無力で貧弱な、もろもろの霊力に逆もどりして、またもや、新たにその奴隷になろうとするのか。

ガラテヤ4:19~20
ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。できることなら、わたしは今あなたがたの所にいて、語調を変えて話してみたい。わたしは、あなたがたのことで、途方にくれている。

ガラテヤ5:1
自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。

ガラテヤ5:13~15
兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう。

韓国語版の絵本完成に至る4ヶ月間、また、それよりも前からイエス様を小さくし、教えを宗教的に捉えて、感謝も喜びもない生活を送ってきた私たちに対する戒めとして受けました。


ガラテヤ5:16~26
わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。

肉と霊が相さからい、自分でしようと思うことを、することができなくなるという意味を理解できるのは、聖霊の働きを知り、体験してきた人だけだと思います。この状態になった時、御霊によって、みことばに従って歩いている事になるのだと語られました。
そして、御霊によって歩く本当の自分、神の子である自分は、○○家の自分という血縁関係からも断ち切られ、両親の教え、この世の常識に囚われることなく、イエス様の声だけを聞く者・真のクリスチャンです。血の中にある3代~4代に渡る呪い祟りの霊を忌み嫌わずにいるのであれば、古いものは過ぎ去らないので、その肉にある働きは明白にあらわれてきます。自分の肉を、情と欲と共に十字架につけて、御霊の実に満たされることが、聖別される事なのだと再確認しました。



ガラテヤ6:11~18
ごらんなさい。わたし自身いま筆をとって、こんなに大きい字で、あなたがたに書いていることを。いったい、肉において見えを飾ろうとする者たちは、キリスト・イエスの十字架のゆえに、迫害を受けたくないばかりに、あなたがたにしいて割礼を受けさせようとする。事実、割礼のあるもの自身が律法を守らず、ただ、あなたがたの肉について誇りたいがために、割礼を受けさせようとしているのである。しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。この法則に従って進む人々の上に、平和とあわれみとがあるように。
だれも今後は、わたしに煩いをかけないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に帯びているのだから。兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アァメン。

ガラテヤ1章からみことばを確認してきましたが、私たちは、肉と霊が聖別された事によって、この世のルール、見るもの、聞くものに何一つ影響されない者=“この世からかわいがられない者”となりました。ですから、【迫害・患難は喜び踊れ】なのです音符♪
そして、主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものはない人間に生まれ変わったのですから、良識も常識も神の愛が土台となっている聖書から学び、実践します。実践できていないのであれば、この世に対して妥協している部分があるので、自分を吟味しなければなりません。
イエス様に従っていないのに、この世で成功していく事ほど恐ろしいことはありません。サタンには愛も情もなく、人間を盗み・殺し・滅ぼすことが目的です。いつ突き落とされるか、殺されるか分かりません。私たちが祝福されるとすれば、それはイエス様に従った時だけですしかし、決して誇ることなどできません。【誇るものは、主を誇れ】で、全ての栄光はイエス様に帰しますキラキラ生きているのはもはや私ではなく、イエス様が私の内に生きておられるのですから。そして、この法則に従って進むクリスチャンに、神は平和とあわれみを注いでくださるのだと語られました王冠

一人一人が完全に聖別されたクリスチャンとなり、10月を迎えられることを感謝しますキラキラ☆
また、私たちの聖別によって福音に力が増し加わり、聖霊の働きによってたくさんの魂の収穫がされる10月であるようにと祈りますぶどうきら