唯一の神との和解の時☆
holygirlです
今「ぼくたちの味方イエス様」の英語版と韓国語版をつくっているのですが、韓国語版を作成する中で、また1つの表現の違いに気が付きました

救いの告白の祈りの中で、私たちは「イエス様が、私の罪のために十字架にかかって下さり、3日目に神が死人の中からイエス様をよみがえらせたこと(復活させたこと)を信じます。」と告白してきたのですが、韓国では、「イエス様が、私の罪のために十字架にかかって下さり、3日目に死人の中から復活したイエス様を信じます」と告白するのだそうです。これは、韓国で一般的に読まれている使徒信条にも書かれており、皆がこのように覚えているのだと翻訳をして下さったEさんが教えてくれました。
何が違うのか・・・そんなに大きな意味の違いはないのではないか?と思う方もいるかもしれません。しかし、ここにとても大きな違いが存在しているのです
「復活したイエス様を信じる」のであれば、それは1つの奇跡を信じるという事にとどまってしまいます。
しかし、「神が死人の中からイエス様をよみがえらせたこと(復活させたこと)」という事実を信じるのであれば、奇跡だけではなく、イエス様を地上に送り、私たちの罪の許しのために愛する一人子に十字架にかかるように命じられた神の大きな愛を知り、そこまでしてくださる神に感謝して信じ救われることになります
翻訳を通して、イエス様の父である天と地を創造された唯一の神の存在を軽視することなく、救いの時点からしっかりと言葉にして敬い、受け入れることが大切であることを再確認しました
さらに今週は、日本人も唯一の神の存在を軽視して生きてきたと語られました。
西洋は、天と地を創造された唯一の神を信じています。キリスト教は、その神の子イエス・キリストを信じていますし、イスラム教の土台も唯一の神と人間の関係を書き表した旧約聖書です。
しかし日本人は、明治時代から戦時中は天皇を神とし、戦後は、草葉の陰から自分を守っているであろう先祖を崇拝してきました。
(今週は、なぜ日本が天皇を神とする国家神道となっていったのか、教師を通して詳しく語られました。その事についてはまたブログで紹介します
)
時代の移り変わりと共に神も変わってきた日本人には、一本筋の通った信仰というものはありません。10円の賽銭を投げたら祈りを聞いてくれると言って、人間に養われている力のない神を信じたり、お守りや数珠、お札に頼ったり、「この道を行けばいい」と前を歩いて道しるべをしてくれるのではなく、草葉の陰から見守っているだけの先祖を神にするなどして、それぞれが自分なりの神をつくりあげ、確信が持てない信仰を続けてきました。その中で人間を神とする新興宗教もたくさん生まれてきました。神を求めている気持ちはあっても、日本人の中にはもともと西洋と同じ“唯一の神”がいないのです。
また、他の人もそうしているから自分もそうする・・・違ったことはしたくないと、周りの目ばかりを気にして新しいもの(真理)を受け入れないのも、島国日本ならではでしょうか・・・。
ワールドカップを見ていても、唯一神を知る国の選手は、十字をきったり、祈ったりしながら神の御手の中で自分が存在しているという考え方を持ち、それによって前向きに喜んでプレーする姿が見られますが、日本の選手は、自分たちの力で何とかしなければならないという気持ちが強く表れていると思いました。敗戦したあとも、選手たちが言葉にならないほど落ち込み、応援してくれた方々に申し訳ない・・・と自分を責め、周りに対してばかり配慮していて、やはり神と自分という関係がないのが日本人であると痛感しました
日本人は、もっと唯一の神と自分の関係を知らなければなりません。唯一の神を知らない故に犯している罪があるという事、神を知っているかどうかで生き方も物の考え方も変わるという事、何より自分は神に愛されている尊い存在であることを実感し、体験しながら生きる人生がどれだけ平安で、幸せであるかを知らなければならないのです
日本人は、長年天の父と呼ばれている唯一の神に背を向け、自分たちの力で何とかしようとがんばってきました。しかしその行く末は、神の義ではなく男義が支配している世の中でした。セクハラやじ問題も男義の極み、集団的自衛権も男義でしかありません!
浮草のようなどこにも望みのない信仰を続けてきたことによって、この国は間違った方向に進む一方です。
今こそ、神との和解の時であり、聖書を土台とした一本筋の通った信仰、教育が必要だと思います。本当に憲法を見直すのであれば、聖書に基いた憲法にしてほしいものです。
このような日本人に対して、私たちクリスチャンは、神がその人をどう思っているかを伝え、神との和解に導く福音をしなければならないと語られました
神に愛されているのは、自分も相手も同じですから、神・イエス様に聞きながら伝える福音は、決して相手を不快な思いにさせたり、警戒させたり、傷つけるようなものではなく、神の愛です
神は罰を与えるような方ではなく、愛そのものである事を、唯一の神と向き合う日本人はまず知らなければならないと思います。
そして、私たちクリスチャンが神の愛を注ぎだす器になるためには、前のブログに書いたように、肉の思いではなく、霊の思いによって言葉を出す事が大切であると語られました。何が神の御旨であり、善であり、神に喜ばれ、全きことであるかをわきまえ知り、どんな時も清いパイプとなって神の言葉をストレートに伝えることのできる器でなければ、長年偽の神々によって日本人を騙してきたサタンに打ち勝つことはできないのだと語られました
第2コリント5:16~21
それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。だれでもキリストのあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。
神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。
日本人の根底にあるものをしっかりと捉え、解放に導く賢い福音がますます求められていると語られた6月最後の集会であったと共に、たとえ長年にわたって偽の神々を信仰してきた日本人であっても、霊の思いに従えるクリスチャンによって変わることができるのだと勝利を確信して迎えることのできる7月である事を感謝します
ヨハネ2:18~22
そこで、ユダヤ人はイエスに言った、「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せてくれますか」。イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた。
アーメン

今「ぼくたちの味方イエス様」の英語版と韓国語版をつくっているのですが、韓国語版を作成する中で、また1つの表現の違いに気が付きました


救いの告白の祈りの中で、私たちは「イエス様が、私の罪のために十字架にかかって下さり、3日目に神が死人の中からイエス様をよみがえらせたこと(復活させたこと)を信じます。」と告白してきたのですが、韓国では、「イエス様が、私の罪のために十字架にかかって下さり、3日目に死人の中から復活したイエス様を信じます」と告白するのだそうです。これは、韓国で一般的に読まれている使徒信条にも書かれており、皆がこのように覚えているのだと翻訳をして下さったEさんが教えてくれました。
何が違うのか・・・そんなに大きな意味の違いはないのではないか?と思う方もいるかもしれません。しかし、ここにとても大きな違いが存在しているのです

「復活したイエス様を信じる」のであれば、それは1つの奇跡を信じるという事にとどまってしまいます。
しかし、「神が死人の中からイエス様をよみがえらせたこと(復活させたこと)」という事実を信じるのであれば、奇跡だけではなく、イエス様を地上に送り、私たちの罪の許しのために愛する一人子に十字架にかかるように命じられた神の大きな愛を知り、そこまでしてくださる神に感謝して信じ救われることになります

翻訳を通して、イエス様の父である天と地を創造された唯一の神の存在を軽視することなく、救いの時点からしっかりと言葉にして敬い、受け入れることが大切であることを再確認しました

さらに今週は、日本人も唯一の神の存在を軽視して生きてきたと語られました。
西洋は、天と地を創造された唯一の神を信じています。キリスト教は、その神の子イエス・キリストを信じていますし、イスラム教の土台も唯一の神と人間の関係を書き表した旧約聖書です。
しかし日本人は、明治時代から戦時中は天皇を神とし、戦後は、草葉の陰から自分を守っているであろう先祖を崇拝してきました。
(今週は、なぜ日本が天皇を神とする国家神道となっていったのか、教師を通して詳しく語られました。その事についてはまたブログで紹介します

時代の移り変わりと共に神も変わってきた日本人には、一本筋の通った信仰というものはありません。10円の賽銭を投げたら祈りを聞いてくれると言って、人間に養われている力のない神を信じたり、お守りや数珠、お札に頼ったり、「この道を行けばいい」と前を歩いて道しるべをしてくれるのではなく、草葉の陰から見守っているだけの先祖を神にするなどして、それぞれが自分なりの神をつくりあげ、確信が持てない信仰を続けてきました。その中で人間を神とする新興宗教もたくさん生まれてきました。神を求めている気持ちはあっても、日本人の中にはもともと西洋と同じ“唯一の神”がいないのです。
また、他の人もそうしているから自分もそうする・・・違ったことはしたくないと、周りの目ばかりを気にして新しいもの(真理)を受け入れないのも、島国日本ならではでしょうか・・・。
ワールドカップを見ていても、唯一神を知る国の選手は、十字をきったり、祈ったりしながら神の御手の中で自分が存在しているという考え方を持ち、それによって前向きに喜んでプレーする姿が見られますが、日本の選手は、自分たちの力で何とかしなければならないという気持ちが強く表れていると思いました。敗戦したあとも、選手たちが言葉にならないほど落ち込み、応援してくれた方々に申し訳ない・・・と自分を責め、周りに対してばかり配慮していて、やはり神と自分という関係がないのが日本人であると痛感しました

日本人は、もっと唯一の神と自分の関係を知らなければなりません。唯一の神を知らない故に犯している罪があるという事、神を知っているかどうかで生き方も物の考え方も変わるという事、何より自分は神に愛されている尊い存在であることを実感し、体験しながら生きる人生がどれだけ平安で、幸せであるかを知らなければならないのです

日本人は、長年天の父と呼ばれている唯一の神に背を向け、自分たちの力で何とかしようとがんばってきました。しかしその行く末は、神の義ではなく男義が支配している世の中でした。セクハラやじ問題も男義の極み、集団的自衛権も男義でしかありません!
浮草のようなどこにも望みのない信仰を続けてきたことによって、この国は間違った方向に進む一方です。
今こそ、神との和解の時であり、聖書を土台とした一本筋の通った信仰、教育が必要だと思います。本当に憲法を見直すのであれば、聖書に基いた憲法にしてほしいものです。
このような日本人に対して、私たちクリスチャンは、神がその人をどう思っているかを伝え、神との和解に導く福音をしなければならないと語られました


そして、私たちクリスチャンが神の愛を注ぎだす器になるためには、前のブログに書いたように、肉の思いではなく、霊の思いによって言葉を出す事が大切であると語られました。何が神の御旨であり、善であり、神に喜ばれ、全きことであるかをわきまえ知り、どんな時も清いパイプとなって神の言葉をストレートに伝えることのできる器でなければ、長年偽の神々によって日本人を騙してきたサタンに打ち勝つことはできないのだと語られました

第2コリント5:16~21

それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。だれでもキリストのあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。
神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。
日本人の根底にあるものをしっかりと捉え、解放に導く賢い福音がますます求められていると語られた6月最後の集会であったと共に、たとえ長年にわたって偽の神々を信仰してきた日本人であっても、霊の思いに従えるクリスチャンによって変わることができるのだと勝利を確信して迎えることのできる7月である事を感謝します

ヨハネ2:18~22

そこで、ユダヤ人はイエスに言った、「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せてくれますか」。イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた。
アーメン
