牧師は“足洗い”
holygirlです
今週、皆が能兄弟にしている証を聞いた時、改めて牧師は足洗いなのだと語られました
証の中に出てきた、「牧師から知恵の言葉をいただいて・・・」「牧師から~しなさいと言われて・・・」「牧師を通して気づかされて・・・」という言葉。
私たちはこの言葉通り、牧師が一人一人に、そして各家族に寄り添い続けてくれたからこそ、皆が180度変えられ、祝福と勝利を得、実をならして来ることができました
その間牧師は、私たちの中にあった様々な悪霊によって、肉的にも霊的にもたくさんの攻撃を受けてきました。もし牧師が肉の行い=偽善で“牧師業”を務めているだけだったとすれば、「もうやめた!あなたには付き合ってられない!」と言って見放してしまうでしょう。肉の行い、人間愛、義理と人情には限界がありますから・・・。生身の人間がまともに向き合っていたら、それぞれの問題を解決することはできず、思うようにいかなかったり、罵倒や反逆を受けたら怒りや憎しみばかりが込みあげてきてしまいます
ぶどうの木牧師は、“○○牧師”という個人の肉の行いではなく、神の愛とみことばへの信仰が土台にある霊の行いであったからこそ、聖霊による忍耐力と寛容さが与えられ、私たち羊の問題に寄り添い、共に戦い続けることができたのだと分かりました。
私たちはそんな牧師によって、ずっと足を洗い続けてもらってきたのです
牧師とは、祭壇の上から一方的にみことばを教える人ではありません。
一人一人の羊のために、全身全霊を捧げて仕える“足洗い”でなければならないのです
そして、今週お父さんが導かれた能兄弟の家族には、ぶどうの木ができた7年前から牧師が寄り添い、足洗いを続けてきました。7年間、牧師が主に対して『忠実』に行なってきた事が、こうして実になったことを通しても、私たちは牧師にならって自分の周りの人に対して“足洗い”にならなければならないと語られました
世の中に牧師と呼ばれている人はたくさんいます。でも、羊の足を洗っている牧師はどれだけいるでしょうか?
私たちが牧師=イエス様と表現すると、世の中の牧師たちから、そんな表現は傲慢だと言われてきました。「イエス様と同じだなんてとんでもない」と謙遜する牧師もいました。
なぜでしょうか?
イエス様は足洗いだったのですから、牧師もイエス様にならって足洗いでなければなりません。それが傲慢でしょうか?謙遜が必要でしょうか?
足洗いは無理、とんでもないと思うのであれば、その牧師こそが傲慢の霊にまかれていると思います。
羊は足を洗い続けてくれる牧師の下で、神の愛を知り、奇跡を体験し、霊的に成長して勝利していけます
だから、牧師を通してイエス様を見ることができる!牧師=イエス様なのです
改めて、冊子『神の国は力である』より、牧師の働き・足洗いについて書かれている部分を載せます
ご一読ください
牧師は私たちの益のために、イエス様が与えて下さった神の僕です。“益”とは、救われる前、真理に従う前の時代に私たち一人一人が持っていた罪や、サタンの支配から全く解放され、イエス様に似た者となるよう、“清く・聖くなること”です。そして永遠の命を獲得することです。
へブル人への手紙12章14節b
【きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。】
牧師は、神が定めた上に立つ権威ですが、この世の中で上に立つ権威と、神の目から見たそれとは違います。神が求めておられる上に立つ権威とは、イエス様が手本を示して下さったように、“足洗い”なのです。
マルコによる福音書10章42節~45節
【そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。】
ヨハネによる福音書13章8節
【ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。】
しかし、牧師はキリストの権威を持った器ですので、尊敬し、絶対的に従っていく必要があります。そして、ヨハネ13:8で言われているように、牧師と羊は霊対霊の関係です。頭はイエス様ただお一人です。決して、肉においての関係ではないことを知っておかなければ、クリスチャン生活においての勝利はありません。なぜなら、肉に対しては姦淫や支配、裁き、分派分裂、偶像礼拝の霊力など、サタンからのさまざまな霊力が動くからです。
私たちは、【だれをも肉によって知ることはすまい。】(Ⅱコリント5:16)と聖書に書かれてある以上、牧師を肉で見て、過度に偶像礼拝したり、裁いたりするのではなく、全てイエス様の御手の中、イエス様と自分自身、一対一の関係の中で、イエス様への信仰のゆえに、イエス様が自分に与えて下さった牧師を絶対的に信頼して歩いて行くのです。
ローマ人への手紙13章4節
【彼は、あなたに益を与えるための神の僕なのである。しかし、もしあなたが悪事をすれば、恐れなければならない。彼はいたずらに剣を帯びているのではない。彼は神の僕であって、悪事を行う者に対しては、怒りをもって報いるからである。】
ある事柄について、牧師が聖霊に忠実に、羊に対してみことばと霊の賜物の中にある霊を見分ける力によっての霊的な解き明かし、知識・知恵の言葉によってアドバイスをします。羊は、イエス様から与えられた牧師に聞き従い、信仰の行いをします。真理に従ったその時、聖霊が働いて下さるので、その事柄は勝利し、良い実がなって証となるのです。
ヨハネによる福音書10章27節
【わたしの羊はわたしの声に聞き従う。】
ヨハネによる福音書16章13節~14節
【けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。】
ルカによる福音書6章43節~44節
【悪い実のなる良い木はないし、また良い実のなる悪い木もない。木はそれぞれ、その実で分かる。】
これは、人間の頭で考えるこの世のアドバイスから得た勝利ではなく、聖霊によってなされた勝利であるので、誰一人自分自身を誇り、「自分がやった」「自分が良かった」と高ぶることはできません。全てが聖霊によって成されたことなのです。だからいつも私たちは、「誇るものは主を誇れ」と言って、全ての栄光を主に帰するのです。
この聖霊の流れを止めることは許されません。それは、【聖霊に対して言い逆らう者は、許されることはない。】(マタイ12:31~32)と聖書に書かれているほど、霊的な戦いにおいて大きな勝利をもたらすものだからです。同時に、その働きにあずかっている神の僕・牧師は、油(聖霊)注がれた者であり、【これに触ってはならない。】(詩編105:15)と聖書にある通り、重大な役目を果たしています。
牧師へのますますの油の注ぎを感謝して祈ります

今週、皆が能兄弟にしている証を聞いた時、改めて牧師は足洗いなのだと語られました

証の中に出てきた、「牧師から知恵の言葉をいただいて・・・」「牧師から~しなさいと言われて・・・」「牧師を通して気づかされて・・・」という言葉。
私たちはこの言葉通り、牧師が一人一人に、そして各家族に寄り添い続けてくれたからこそ、皆が180度変えられ、祝福と勝利を得、実をならして来ることができました

その間牧師は、私たちの中にあった様々な悪霊によって、肉的にも霊的にもたくさんの攻撃を受けてきました。もし牧師が肉の行い=偽善で“牧師業”を務めているだけだったとすれば、「もうやめた!あなたには付き合ってられない!」と言って見放してしまうでしょう。肉の行い、人間愛、義理と人情には限界がありますから・・・。生身の人間がまともに向き合っていたら、それぞれの問題を解決することはできず、思うようにいかなかったり、罵倒や反逆を受けたら怒りや憎しみばかりが込みあげてきてしまいます

ぶどうの木牧師は、“○○牧師”という個人の肉の行いではなく、神の愛とみことばへの信仰が土台にある霊の行いであったからこそ、聖霊による忍耐力と寛容さが与えられ、私たち羊の問題に寄り添い、共に戦い続けることができたのだと分かりました。
私たちはそんな牧師によって、ずっと足を洗い続けてもらってきたのです

牧師とは、祭壇の上から一方的にみことばを教える人ではありません。
一人一人の羊のために、全身全霊を捧げて仕える“足洗い”でなければならないのです

そして、今週お父さんが導かれた能兄弟の家族には、ぶどうの木ができた7年前から牧師が寄り添い、足洗いを続けてきました。7年間、牧師が主に対して『忠実』に行なってきた事が、こうして実になったことを通しても、私たちは牧師にならって自分の周りの人に対して“足洗い”にならなければならないと語られました

世の中に牧師と呼ばれている人はたくさんいます。でも、羊の足を洗っている牧師はどれだけいるでしょうか?
私たちが牧師=イエス様と表現すると、世の中の牧師たちから、そんな表現は傲慢だと言われてきました。「イエス様と同じだなんてとんでもない」と謙遜する牧師もいました。
なぜでしょうか?
イエス様は足洗いだったのですから、牧師もイエス様にならって足洗いでなければなりません。それが傲慢でしょうか?謙遜が必要でしょうか?
足洗いは無理、とんでもないと思うのであれば、その牧師こそが傲慢の霊にまかれていると思います。
羊は足を洗い続けてくれる牧師の下で、神の愛を知り、奇跡を体験し、霊的に成長して勝利していけます

だから、牧師を通してイエス様を見ることができる!牧師=イエス様なのです

改めて、冊子『神の国は力である』より、牧師の働き・足洗いについて書かれている部分を載せます


牧師は私たちの益のために、イエス様が与えて下さった神の僕です。“益”とは、救われる前、真理に従う前の時代に私たち一人一人が持っていた罪や、サタンの支配から全く解放され、イエス様に似た者となるよう、“清く・聖くなること”です。そして永遠の命を獲得することです。
へブル人への手紙12章14節b
【きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。】
牧師は、神が定めた上に立つ権威ですが、この世の中で上に立つ権威と、神の目から見たそれとは違います。神が求めておられる上に立つ権威とは、イエス様が手本を示して下さったように、“足洗い”なのです。
マルコによる福音書10章42節~45節
【そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。】
ヨハネによる福音書13章8節
【ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。】
しかし、牧師はキリストの権威を持った器ですので、尊敬し、絶対的に従っていく必要があります。そして、ヨハネ13:8で言われているように、牧師と羊は霊対霊の関係です。頭はイエス様ただお一人です。決して、肉においての関係ではないことを知っておかなければ、クリスチャン生活においての勝利はありません。なぜなら、肉に対しては姦淫や支配、裁き、分派分裂、偶像礼拝の霊力など、サタンからのさまざまな霊力が動くからです。
私たちは、【だれをも肉によって知ることはすまい。】(Ⅱコリント5:16)と聖書に書かれてある以上、牧師を肉で見て、過度に偶像礼拝したり、裁いたりするのではなく、全てイエス様の御手の中、イエス様と自分自身、一対一の関係の中で、イエス様への信仰のゆえに、イエス様が自分に与えて下さった牧師を絶対的に信頼して歩いて行くのです。
ローマ人への手紙13章4節
【彼は、あなたに益を与えるための神の僕なのである。しかし、もしあなたが悪事をすれば、恐れなければならない。彼はいたずらに剣を帯びているのではない。彼は神の僕であって、悪事を行う者に対しては、怒りをもって報いるからである。】
ある事柄について、牧師が聖霊に忠実に、羊に対してみことばと霊の賜物の中にある霊を見分ける力によっての霊的な解き明かし、知識・知恵の言葉によってアドバイスをします。羊は、イエス様から与えられた牧師に聞き従い、信仰の行いをします。真理に従ったその時、聖霊が働いて下さるので、その事柄は勝利し、良い実がなって証となるのです。
ヨハネによる福音書10章27節
【わたしの羊はわたしの声に聞き従う。】
ヨハネによる福音書16章13節~14節
【けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。】
ルカによる福音書6章43節~44節
【悪い実のなる良い木はないし、また良い実のなる悪い木もない。木はそれぞれ、その実で分かる。】
これは、人間の頭で考えるこの世のアドバイスから得た勝利ではなく、聖霊によってなされた勝利であるので、誰一人自分自身を誇り、「自分がやった」「自分が良かった」と高ぶることはできません。全てが聖霊によって成されたことなのです。だからいつも私たちは、「誇るものは主を誇れ」と言って、全ての栄光を主に帰するのです。
この聖霊の流れを止めることは許されません。それは、【聖霊に対して言い逆らう者は、許されることはない。】(マタイ12:31~32)と聖書に書かれているほど、霊的な戦いにおいて大きな勝利をもたらすものだからです。同時に、その働きにあずかっている神の僕・牧師は、油(聖霊)注がれた者であり、【これに触ってはならない。】(詩編105:15)と聖書にある通り、重大な役目を果たしています。
牧師へのますますの油の注ぎを感謝して祈ります
