まず神の国と神の義とを求めるとは!?
holygirlです
マタイ6:33
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
このみことばに従って、ほとんどのクリスチャンは日曜日を聖別し、教会に通っていることと思います。
でも、月曜日~土曜日までは、神の国と神の義とを求めているでしょうか
今週私たちは、日曜日だけ神の国と神の義とを求めて教会に行くクリスチャンではなく、月曜日~土曜日の過ごし方も、神の国と神の義とを求めているかどうか、牧師を通して問われました
例えば、聖書を読むこと。
日曜日に教会で聖書を開き、鞄にしまった聖書をそのまま次の日曜日に出して使っていませんか?月曜日から土曜日までは、一度も聖書を開いていないということはありませんか?
例えば、祈ること。
日曜日だけ厳かに一人で祈ったり、皆で一致して悪霊を追い出したりしていても、月曜日~土曜日まではイエス様の存在を忘れ、祈ることも、悪霊と戦うこともしていないということはありませんか?
常に神の国と神の義とを求めているクリスチャンであれば、日曜日だけではなく月曜日~土曜日、24時間365日同じ気持ちでイエス様と向き合っているはずです。
逆に、日曜日は神が“安息日”と定められた日ですから、霊的には1週間の戦いを終えて羽を休める日であり、次の週に向けて新たな武具をつける日です
また、1週間の戦いの中で得た勝利を証する場でもあります
(このような集会でなければ、安息日を聖別する意味がないということにもなるでしょうか・・・)
つまりクリスチャンにとって霊的にみことばを実践する場、本番は、月曜日~土曜日なのです
イエス様はいつも私たちの内におられます。日曜日に教会に行ったら会える神ではありません。月曜日~土曜日に、イエス様が遠く感じる、あるいはいないように思うのは、イエス様が離れているからではなく、自分の心がイエス様から離れているからです。そんな日が一日でもあれば、クリスチャンはすぐにサタンの策略にかかり、ますますイエス様から離されます。
だとすれば、日曜日だけ神の国と神の義とを求めればいいと思っているクリスチャンは、次の日曜日にどれだけ心が離れた状態で教会の席に座ることになるでしょうか。
『日曜クリスチャン』という言葉がありますが、日曜日だけに重きを置いて、絶対に日曜日に聖書を読むと決めている人・・・別に日曜日と決める必要はなく、月曜日~土曜日まで毎日少しの時間でも聖書を読んで、霊にみことばを蓄える事のほうが神の国と神の義を求めていることにならないでしょうか?
たとえ身内に不幸があったとしても、それが日曜日であれば教会を優先すると言う人・・・その思い(考え方)によって他者に迷惑やつまずきを与えていないでしょうか?
あるクリスチャンは、こちらが朝用事があって電話をかけると、「まだ朝のお祈りが終わってないので、それが終わってからでもいいですか?」と言いました。ある姉妹は、「私は聖書に基づいて行動してきて今があるので、日曜日は聖書を読む時間にしたい」と言って、イエス様が出会わせてくださった人からの誘いを断りました。それは神の義なのか・・・自分の義・自己中心的な考え方ではないでしょうか?
ですから今週牧師は、日曜日を聖別することの大切さを私たちが十分理解しているという前提で、「日曜日に集会を休む事が問題なのではない。何が、神のみ旨で全きことであるかわきまえ知らなければならない。必ずしも、日曜日に集会に出席することが神の国と神の義とを求めることではない」とおっしゃいました。
私たちは次のみことばをいただいています
第1コリント9:19~23
わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはいないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には―わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが―律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。弱い人には弱い者になった。弱り人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。
日曜日の集会を肉の欲求を満たすために休むのであれば、それは肉を打ちたたいて、まず神の国と神の義とを求めて集会に出席することが大切です。なぜなら、それがクリスチャンとしての成長、祝福につながるからです。
しかし、いつも心がイエス様を一番にしているのであれば、“日曜日=集会に出席”という律法にとらわれることなく、「福音のためならどんな事でもする」というみことばに従って、イエス様に自分を明け渡して使っていただくという姿勢が大切であると語られました
そして、その姿勢で日々生きているクリスチャンには聖霊が働いてくださり、神にも喜ばれ、人にも受け入れられる道が必ず用意されています
人に受け入れられるとは、聖霊によって相手に理解力が与えられ、相手の気持ちを変えてくださるという事です。
神は生きている者の神ですから、私たちが人の道を外すような生き方を絶対にさせないのです
決して、日曜日を軽んじるのではありません。しかし、今までクリスチャンが日曜日ばかりに執着してきたがために、宗教的に自分を縛り、周りも縛りつけてきたのではないかと思います。
要するに、賢い福音をしてこなかったのです。
今の時代、日曜日を聖別することはこの世の人にとって容易な事ではありません。
「クリスチャンになったら、毎週日曜日に教会に行かないといけないんでしょ?」
「一度出席したら、ずっと行かないといけないんでしょ?」
「毎週通うのは無理・・・」
「日曜日は仕事があるし・・・」
という思いによって、せっかくイエス様の事を知りたいと興味を持った人たちが、一歩踏み出せずにいるという現実を知らなければなりません。
マルコ2:27
安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるものではない。
クリスチャンの中に、月曜日~日曜日まで1週間すべてが尊い日であり、神の国と神の義を求めて生きるという意識があれば、主にある臨機応変さによって、何とかして幾人かを救うための福音ができるはずです
自分の頭ではできませんが、日々内側を清めてイエス様とつながっていれば、相手の状態、気持ちを御存じのイエス様が必ず聖霊によって教えてくださいます
もしかしたら、「月に1回からでもいいですよ」と言うかもしれない。
あるいは、「時間がある曜日に聖書を一緒に学びませんか?」と言うかもしれない。
逆に、自分は分からなくても聖霊が促して「あなたは仕事を辞めてでも、まず日曜日を聖別してください!」と言うかもしれない。
自分の口からその時どんな言葉が出てくるかは、本当に聖霊によってのみ分かる事です
このようなクリスチャンの賢さによって、一人でも多くの人が意志を向けてイエス様とつながる事ができるのであれば、日曜日にこだわるクリスチャンよりどれだけ多くの魂の救いを勝ち取る事ができるでしょうか
改めてまずは自分が、24時間365日「神の国と神の義とを求める」クリスチャン=イエス様のための自分になる事、そして、そんな自分を通して周りの人も、神の守りの中を生きられる人生を選べるように導く事が大切であると語られました。
また、日曜日の集会の時間だけではなく、1週間全てにおけるクリスチャンとしての自分の過ごし方について吟味する時間となり感謝でした

マタイ6:33

まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
このみことばに従って、ほとんどのクリスチャンは日曜日を聖別し、教会に通っていることと思います。
でも、月曜日~土曜日までは、神の国と神の義とを求めているでしょうか

今週私たちは、日曜日だけ神の国と神の義とを求めて教会に行くクリスチャンではなく、月曜日~土曜日の過ごし方も、神の国と神の義とを求めているかどうか、牧師を通して問われました

例えば、聖書を読むこと。
日曜日に教会で聖書を開き、鞄にしまった聖書をそのまま次の日曜日に出して使っていませんか?月曜日から土曜日までは、一度も聖書を開いていないということはありませんか?
例えば、祈ること。
日曜日だけ厳かに一人で祈ったり、皆で一致して悪霊を追い出したりしていても、月曜日~土曜日まではイエス様の存在を忘れ、祈ることも、悪霊と戦うこともしていないということはありませんか?
常に神の国と神の義とを求めているクリスチャンであれば、日曜日だけではなく月曜日~土曜日、24時間365日同じ気持ちでイエス様と向き合っているはずです。
逆に、日曜日は神が“安息日”と定められた日ですから、霊的には1週間の戦いを終えて羽を休める日であり、次の週に向けて新たな武具をつける日です


つまりクリスチャンにとって霊的にみことばを実践する場、本番は、月曜日~土曜日なのです

イエス様はいつも私たちの内におられます。日曜日に教会に行ったら会える神ではありません。月曜日~土曜日に、イエス様が遠く感じる、あるいはいないように思うのは、イエス様が離れているからではなく、自分の心がイエス様から離れているからです。そんな日が一日でもあれば、クリスチャンはすぐにサタンの策略にかかり、ますますイエス様から離されます。
だとすれば、日曜日だけ神の国と神の義とを求めればいいと思っているクリスチャンは、次の日曜日にどれだけ心が離れた状態で教会の席に座ることになるでしょうか。
『日曜クリスチャン』という言葉がありますが、日曜日だけに重きを置いて、絶対に日曜日に聖書を読むと決めている人・・・別に日曜日と決める必要はなく、月曜日~土曜日まで毎日少しの時間でも聖書を読んで、霊にみことばを蓄える事のほうが神の国と神の義を求めていることにならないでしょうか?
たとえ身内に不幸があったとしても、それが日曜日であれば教会を優先すると言う人・・・その思い(考え方)によって他者に迷惑やつまずきを与えていないでしょうか?
あるクリスチャンは、こちらが朝用事があって電話をかけると、「まだ朝のお祈りが終わってないので、それが終わってからでもいいですか?」と言いました。ある姉妹は、「私は聖書に基づいて行動してきて今があるので、日曜日は聖書を読む時間にしたい」と言って、イエス様が出会わせてくださった人からの誘いを断りました。それは神の義なのか・・・自分の義・自己中心的な考え方ではないでしょうか?
ですから今週牧師は、日曜日を聖別することの大切さを私たちが十分理解しているという前提で、「日曜日に集会を休む事が問題なのではない。何が、神のみ旨で全きことであるかわきまえ知らなければならない。必ずしも、日曜日に集会に出席することが神の国と神の義とを求めることではない」とおっしゃいました。
私たちは次のみことばをいただいています

第1コリント9:19~23

わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはいないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には―わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが―律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。弱い人には弱い者になった。弱り人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。
日曜日の集会を肉の欲求を満たすために休むのであれば、それは肉を打ちたたいて、まず神の国と神の義とを求めて集会に出席することが大切です。なぜなら、それがクリスチャンとしての成長、祝福につながるからです。
しかし、いつも心がイエス様を一番にしているのであれば、“日曜日=集会に出席”という律法にとらわれることなく、「福音のためならどんな事でもする」というみことばに従って、イエス様に自分を明け渡して使っていただくという姿勢が大切であると語られました

そして、その姿勢で日々生きているクリスチャンには聖霊が働いてくださり、神にも喜ばれ、人にも受け入れられる道が必ず用意されています

神は生きている者の神ですから、私たちが人の道を外すような生き方を絶対にさせないのです

決して、日曜日を軽んじるのではありません。しかし、今までクリスチャンが日曜日ばかりに執着してきたがために、宗教的に自分を縛り、周りも縛りつけてきたのではないかと思います。
要するに、賢い福音をしてこなかったのです。
今の時代、日曜日を聖別することはこの世の人にとって容易な事ではありません。
「クリスチャンになったら、毎週日曜日に教会に行かないといけないんでしょ?」
「一度出席したら、ずっと行かないといけないんでしょ?」
「毎週通うのは無理・・・」
「日曜日は仕事があるし・・・」
という思いによって、せっかくイエス様の事を知りたいと興味を持った人たちが、一歩踏み出せずにいるという現実を知らなければなりません。
マルコ2:27

安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるものではない。
クリスチャンの中に、月曜日~日曜日まで1週間すべてが尊い日であり、神の国と神の義を求めて生きるという意識があれば、主にある臨機応変さによって、何とかして幾人かを救うための福音ができるはずです

自分の頭ではできませんが、日々内側を清めてイエス様とつながっていれば、相手の状態、気持ちを御存じのイエス様が必ず聖霊によって教えてくださいます

もしかしたら、「月に1回からでもいいですよ」と言うかもしれない。
あるいは、「時間がある曜日に聖書を一緒に学びませんか?」と言うかもしれない。
逆に、自分は分からなくても聖霊が促して「あなたは仕事を辞めてでも、まず日曜日を聖別してください!」と言うかもしれない。
自分の口からその時どんな言葉が出てくるかは、本当に聖霊によってのみ分かる事です

このようなクリスチャンの賢さによって、一人でも多くの人が意志を向けてイエス様とつながる事ができるのであれば、日曜日にこだわるクリスチャンよりどれだけ多くの魂の救いを勝ち取る事ができるでしょうか

改めてまずは自分が、24時間365日「神の国と神の義とを求める」クリスチャン=イエス様のための自分になる事、そして、そんな自分を通して周りの人も、神の守りの中を生きられる人生を選べるように導く事が大切であると語られました。
また、日曜日の集会の時間だけではなく、1週間全てにおけるクリスチャンとしての自分の過ごし方について吟味する時間となり感謝でした
