霊を自由に~律法からの解放~ | ぶどうの木 Good News

霊を自由に~律法からの解放~

holygirlですニコ

先週の土曜日に、兄弟姉妹たちが6月生まれの姉妹一人と、私のために誕生日会を開いてくれましたにこLOVEおいしい食事をいただいたあと、みんなでカラオケに行きました音符
先週から語られている律法・・・キリスト教会の中には、「カラオケに行くことは罪だ!」という律法もあるようですが、私たちはこのカラオケを一つのたとえにして、先週から語られている【律法】についてさらに学びましたキラキラ

改めて、律法とイエス様の関係について書かれたみことばを確認しました

マタイ5:17
わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。

ローマ10:4
キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。


イエス・キリストは、あれだめ!これだめ!と、肉で律法を行なっていた人間(聖霊をいただいていない人間・神の愛を知らない人間)が、聖霊によって律法を行なえるようにするため=成就するために来られましたかお
イエス様が来られた=“聖霊が来られた”ということであり、イエス様が来られた=“が来られた”ということです。私たちは、聖霊と神の愛によって律法を行なう人間に生まれ変わったのですキラキラ☆
イエス様を受け入れて霊が生き返り、聖霊をいただいて満たされた時に、私たちは、神が本来人間に求めておられた律法の本当の意味を知ることができ、肉ではなく、霊で行なうことができるようになりますキラキラその時、私たちの肉を縛ってきた律法は、終りとなるのです。

ローマ8:1~4
こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。


イエス様によって私たちには、新しい律法が与えられましたクローバー♪「~してはいけない!」「~しなければならない」・・・もう、そのような律法に従って歩いて、罪を犯した・犯してないという愚かで無知な論議をさせるサタンの策略の中にいる必要はないのです。

例えば、祈り。
「私は、毎週欠かさずに祈り会に出席し、自分のために、人のために、熱心に祈っています」という、クリスチャンが大勢いると思います。開始時刻ちょうどに始め、終了時刻ぴったりに終わる・・・決まった時間内での祈り会。たとえ聖霊がもっと祈るように促したとしても、「時間だから~この後用事あるから~」と言って、参加したということに満足し、自分の都合で終わってしまう。いつからか、祈り会が喜びではなく、義務になっているというクリスチャンの話も耳にします。
祈り会を守る=律法を守り行なう肉の熱心さはあるけれども、それ以外の場所では人の悪口を言ったり、不信仰な言葉をはいている、祈り会に熱心なあまりに家族をかえりみてない・・・そんなクリスチャンがいます。イエス様が来られたあとの新約の時代に救われたクリスチャンが、いまだに旧約の律法に縛られているなら、霊的ユダヤ人・ユダヤ教です。

しかし、私たちが今回カラオケを通して語られたことは、どんな歌をうたっても、たとえそれが恋愛ソングであっても、心がイエス様を思って歌っているなら、それは祈りなのだということですバラ兄弟姉妹を励ますために、選んだ歌を心を一つにして歌うのなら、それも一致の祈りなのですきらきら
姉妹の中には、「クリスチャンになったから肉の楽しみはいけない」「カラオケはダメな事」と思っていた子もいたようですが、それが完全に律法の元にいる発言で、そうではなく、頭がイエス様かどうかが大切なのだと語られました。頭がイエス様のカラオケは、歌詞を通して(たったワンフレーズであっても)イエス様が自分の霊に必要なことを語ってくださり、元気になったり、励まされたりするのですハートそれは、魂、体へと連動していきます。


もし、これはイエス様!?これはどうなの!?・・・これはイエス様じゃない!?・・・と、びくびくしながら生活しているのであれば、イエス様=愛が全うされていません

第1ヨハネ4:18
愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。


【わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。】(ガラテヤ2:19)というみことば通り、私たちの歩きは、すべてイエス・キリストです王冠毎日が、イエス様と共に過ごしているスペシャルな時間ですキラキライエス様が内に入られたということは、正しく歩けているかを判断する基準であった律法から解放されたということであり、直接イエス様から、何が神に喜ばれることなのかを教えていただくことができるようになったということなのですびっくり
もちろん、内側が清められていなかったら、何が肉(神に喜ばれないこと)で、何が霊(神に喜ばれること)か分からないので、聖別されたクリスチャンになることを求めていく必要がありますが。

ルカ11:41

ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる。


今、私たちに与えられているみことばは、「福音のためならどんな事でもする」です!!イエス様を頭とした歩きがどういうことなのか、私たちより先に神の律法の深意を知り、解放されたパウロが教えてくれています。

第1コリント9:19~23
わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には―わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが―律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。

律法にとらわれていたら、このような歩きはできませんね


話が少し変わりますが、先日、鈴木氏を通して、「日本では、なぜ福音宣教が実を結ばなかったか」という本をいただきました。その中においても、献金が原因の1つとして載っていました。皆が献金につまずくからと言って、牧師が10分の1献金をすることを正しく教えてこなかった現状があります。神が、10分の1献金を求めておられるのは、10分の1は神のものだからであり、献金をしないということは神のものを盗んでいることになります。だからと言って、神はその人を貧困にして苦しめたいのではなく、唯一御自身を試していいとおっしゃってくれているほど、祝福を与えてくださると約束してくださっているのです。この真理を正しく伝えずに、信徒の顔色をうかがってきた牧師は、信徒の本当の祝福の道を奪っているので、大きな罪を犯していますし、何より牧師自身に必ず祝福されるという信仰がないのだと思います。

また、牧師が信徒からの献金をすべて教会のローン返済や教会活動そのものにあててしまうと、自分の福音宣教に使える分が残らないからと言って、献金の5パーセントは教会に、5パーセントは自分の福音宣教にあてたらどうか・・・という案を、これからの教会の在り方の打開策として耳にしました。これは、完全に自分の頭で考え出した解決方法にすぎません。
律法は、神の愛が土台となるように建てかえるのであって、牧師の利益や自己防衛のためにくずすのは大きな間違いです。その間違いが、例えば献金1つとっても、今の日本のキリスト教会が実を結ばなかった原因であることが分かりました。



【律法】については、本当に次から次へと奥義が語られており、霊で受けることはもちろんですが、しっかりそれを魂、体に連動させなければいけないと思っています。
私たちぶどうの木は、鈴木氏を通して、【へびのように賢く、はとのように素直であれ。】(マタイ10:16)というみことばをいただいています。牧師から受けたことを、私たち羊がいかに賢く、素直に伝えていくかがますます求められていると思いますそのためにも、まずは自分が受けたことをしっかりと証できる器になることも語られています。
また、福音の仕方についても、牧師が分かりやすく教えてくださいました。

「自分の目の前にちらばったボールがあるとします。遠くにあるボールを動かしたいと思った時、自ら動いてそのボールを動かすことができなくても、イエス様の指示に忠実に、置かれたところで前のボールをはじいたら(へびのように賢く、はとのように素直に!)、そのボールが次々とボールをはじき、自分が動かしたかった遠くのボールをはじいてくれる・・・それが信仰であり、聖霊の働きなのです。」と・・・。

福音も1人の人に分かってもらおうと努力して行なうやり方=律法ではなく、もっと霊を自由にして聖霊の導きに従っていった時、自分が思っていた人はもちろんですが、その人につながるすべての人にも福音が伝わっているというのが、全人類を救いたい神のやり方なのだと語られましたハートぃっぱぃ私たちがずっと語られてきた糸のつながりと、それによって織り成される布ですイエス様にあってそれができることに感謝して、ますます入れられている思いに素直になって、賢く福音をしていきたいと思いますニコちゃん

第2コリント3:17
主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。

アーメンhato.四葉