本当の愛☆無条件の自己犠牲
holygirlです
今週の教えは、以下のみことばから始まりました
箴言1:33~2:22
しかし、わたしに聞き従う者はやすらかに住まい、災いに会う恐れもなく、安全である」。
わが子よ、もしあなたがわたしの言葉を受け、わたしの戒めを、あなたの心におさめ、あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を悟りに向け、しかも、もし知識を呼び求め、悟りを得ようと、あなたの声をあげ、銀を求めるように、これを求め、かくれた宝を尋ねるように、これを尋ねるならば、あなたは、主を恐れることを悟り、神を知ることができるようになる。これは、主が知恵を与え、知識と悟りとは、み口から出るからである。彼は正しい人のために、確かな知恵をたくわえ、誠実に歩む者の盾となって、公正の道を保ち、その聖徒たちの道筋を守られる。そのとき、あなたは、ついに正義と公正、公平とすべての良い道を悟る。これは知恵が、あなたの心にはいり、知識があなたの楽しみとなるからである。
慎みはあなたを守り、悟りはあなたを保って、悪の道からあなたを救い、偽りをいう者から救う。彼らは正しい道を離れて、暗い道に歩み、悪を行うことを楽しみ、悪人の偽りを喜び、その道は曲り、その行いは、よこしまである。慎みと悟りはまたあなたを遊女から救い、言葉巧みな、みだらな女から救う。彼女は若い時の友を捨て、その神に契約したことを忘れている。その家は死に下り、その道は陰府(よみ)におもむく。すべて彼女のもとへ行く者は、帰らない、また命の道にいたらない。
こうして、あなたは善良な人々の道に歩み、正しい人々の道を守ることができる。正しい人は地にながらえ、誠実な人は地にとどまる。しかし悪しき者は地から断ち滅ぼされ、不信実な者は地から抜き捨てられる。
このみことばを通して、イエス様(知識)を求め、みことばに従う者は正しい道を歩くが、そうではなく、神がお植えにならなかったものは、みんな抜き取られるのだと語られました。
神ご自身がそれを判断されるのですから、本当に神を恐れて、正しい道を歩けるように肉をうちたたいて進まなければいけません。
特に気をつけなければいけないのは、偽善者(偽りをいう者=宗教)です。
「偽」という漢字は「人の為」と書きますが、偽善者(宗教)は「あなたの為・・・」と言いながら人間の霊ではなく、情(魂)に働きかけ、真の神の愛を見えなくしています。偽善者(宗教)が言う愛と、神の愛は全く違うのです
偽善者(宗教)と神の愛の違いについては、第1コリント13章から具体的に学びました
第1コリント13:1~3
たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢(にょうはち)と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
この愛は、偽善者が自分の利益のために示す愛ではなく、【無条件の自己犠牲】なのだと語られました。
肉で受けたら、とても大変でおどろおどろしいものに思われがちですが、クリスチャンは肉ではなく、霊からイエス様と似た者に変わることができ、自分の利益を求めず、無条件で人を許し、愛することができるようになります
これは、イエス・キリストを受け入れて聖霊をいただき、霊が生き返った人間にしかできないことであり、他の神々に仕えている人間(宗教)は、霊が生き返っていないので、その力は与えられていません。善を行い、預言をし、全財産を人に施しているかもしれない・・・でも、イエス様を受け入れていなければ、神の目から見た時、いっさいは無益なのです。
ですから、このみことばで言う「愛」とは、「イエス・キリスト=真理」なのだと牧師はおっしゃいました。
そして、改めて「愛」の部分を「イエス・キリスト=真理」に置き換えて読みました
「たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もしイエス・キリスト=真理がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢(にょうはち)と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もしイエス・キリスト=真理がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もしイエス・キリスト=真理がなければ、いっさいは無益である。」
アーメン

キリストの思いに突き動かされての行いでなければ、自分が「愛」だと思って行なっていることも、ただの自己満足で終わってしまいます
いつも、「わたしをキリストの思いで満たしてください」という祈りを忘れないようにしたいです

そして、ますますイエス様と似た者になるために、次のみことばが与えられました
第2コリント4:7~11
しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害にあっても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身にあらわれるためである。わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。
自分を明け渡したとき、初めて自分を通してイエス様ご自身があらわれてくださいます
【生きているのは、もはやわたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。】(ガラテヤ2:20ab)というみことば通りです
ですが、過去に、肉を打ちたたけずに、自分の欲求を満たすことを求めて、イエス様から離れていく兄弟姉妹たちがたくさんいました。
牧師は、今週の集会の中で、「あなたの肉はあなたの責任
あなたの肉はあなたが制しなさい
」とおっしゃいました。霊にみことばを与え、肉がどのようにするべきか知恵の言葉を与えるのは牧師の役割ですが、意志を向けて肉を制し、行うのは自分だということ
行う人は豊かに祝福を受け、実(証)がなり、行わない人はずっとそのままなのだと、改めて語られました。
そして、意志を向けて肉を制し、行うクリスチャンは、本当にイエス様が生きておられることを、自身をもってあらわすことができます。
そのあらわれとして、第1コリント13章の「愛」のみことば、特に、7節~8節が自分の内に生まれるのだと語られました
第1コリント13:4~8a
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。7節:そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。8節:愛はいつまでも絶えることがない。
揺るがない忍耐と信仰を得て、この愛のみことばを全うできる自分になれたことを感謝します
自分を明け渡したら、主の霊がこの世のありとあらゆる難問を突破させてくださいます
それを体験しているのが、ぶどうの木に集っている兄弟姉妹です
今日、イエス様が牧師を通して、ぶどうの木は、一般的な教会とは違い、聖書に書かれてあることが真実かどうか実践し、その結果を自らをもってあらわし、それをトラクトや証をもって伝えている集まりなのだと語ってくださいました。とても新鮮な角度で、自分たちの今までの歩きを教えていただき、宗教・カルトとは全く違うものだと証明できる歩きを、すでに自分たちはいただいているのだと分かり、感謝しました

使徒行伝17:11
ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。
でも、自分たちだけで納得していたら自己推薦でしかないので、今年はどんどんブログで証を掲載していきたいと思います
それを読んでいただいて、皆さんが「ん!?宗教ではないぞ
」と納得し、イエス様を受け入れることによって、私たちと同じような体験をしてくださったら何よりの喜びです

ヨハネの黙示録12:10~11
「今や、われらの救と力と国と、神のキリストの権威とは、現れた。われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者は、投げ落された。
兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。
ヨハネ4:42
「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救主であることが、わかったからである。」。
アーメン

今週の教えは、以下のみことばから始まりました

箴言1:33~2:22

しかし、わたしに聞き従う者はやすらかに住まい、災いに会う恐れもなく、安全である」。
わが子よ、もしあなたがわたしの言葉を受け、わたしの戒めを、あなたの心におさめ、あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を悟りに向け、しかも、もし知識を呼び求め、悟りを得ようと、あなたの声をあげ、銀を求めるように、これを求め、かくれた宝を尋ねるように、これを尋ねるならば、あなたは、主を恐れることを悟り、神を知ることができるようになる。これは、主が知恵を与え、知識と悟りとは、み口から出るからである。彼は正しい人のために、確かな知恵をたくわえ、誠実に歩む者の盾となって、公正の道を保ち、その聖徒たちの道筋を守られる。そのとき、あなたは、ついに正義と公正、公平とすべての良い道を悟る。これは知恵が、あなたの心にはいり、知識があなたの楽しみとなるからである。
慎みはあなたを守り、悟りはあなたを保って、悪の道からあなたを救い、偽りをいう者から救う。彼らは正しい道を離れて、暗い道に歩み、悪を行うことを楽しみ、悪人の偽りを喜び、その道は曲り、その行いは、よこしまである。慎みと悟りはまたあなたを遊女から救い、言葉巧みな、みだらな女から救う。彼女は若い時の友を捨て、その神に契約したことを忘れている。その家は死に下り、その道は陰府(よみ)におもむく。すべて彼女のもとへ行く者は、帰らない、また命の道にいたらない。
こうして、あなたは善良な人々の道に歩み、正しい人々の道を守ることができる。正しい人は地にながらえ、誠実な人は地にとどまる。しかし悪しき者は地から断ち滅ぼされ、不信実な者は地から抜き捨てられる。
このみことばを通して、イエス様(知識)を求め、みことばに従う者は正しい道を歩くが、そうではなく、神がお植えにならなかったものは、みんな抜き取られるのだと語られました。
神ご自身がそれを判断されるのですから、本当に神を恐れて、正しい道を歩けるように肉をうちたたいて進まなければいけません。
特に気をつけなければいけないのは、偽善者(偽りをいう者=宗教)です。
「偽」という漢字は「人の為」と書きますが、偽善者(宗教)は「あなたの為・・・」と言いながら人間の霊ではなく、情(魂)に働きかけ、真の神の愛を見えなくしています。偽善者(宗教)が言う愛と、神の愛は全く違うのです

偽善者(宗教)と神の愛の違いについては、第1コリント13章から具体的に学びました

第1コリント13:1~3

たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢(にょうはち)と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
この愛は、偽善者が自分の利益のために示す愛ではなく、【無条件の自己犠牲】なのだと語られました。
肉で受けたら、とても大変でおどろおどろしいものに思われがちですが、クリスチャンは肉ではなく、霊からイエス様と似た者に変わることができ、自分の利益を求めず、無条件で人を許し、愛することができるようになります

ですから、このみことばで言う「愛」とは、「イエス・キリスト=真理」なのだと牧師はおっしゃいました。
そして、改めて「愛」の部分を「イエス・キリスト=真理」に置き換えて読みました

「たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もしイエス・キリスト=真理がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢(にょうはち)と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もしイエス・キリスト=真理がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もしイエス・キリスト=真理がなければ、いっさいは無益である。」
アーメン


キリストの思いに突き動かされての行いでなければ、自分が「愛」だと思って行なっていることも、ただの自己満足で終わってしまいます



そして、ますますイエス様と似た者になるために、次のみことばが与えられました

第2コリント4:7~11

しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害にあっても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身にあらわれるためである。わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。
自分を明け渡したとき、初めて自分を通してイエス様ご自身があらわれてくださいます

【生きているのは、もはやわたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。】(ガラテヤ2:20ab)というみことば通りです

ですが、過去に、肉を打ちたたけずに、自分の欲求を満たすことを求めて、イエス様から離れていく兄弟姉妹たちがたくさんいました。
牧師は、今週の集会の中で、「あなたの肉はあなたの責任



そして、意志を向けて肉を制し、行うクリスチャンは、本当にイエス様が生きておられることを、自身をもってあらわすことができます。
そのあらわれとして、第1コリント13章の「愛」のみことば、特に、7節~8節が自分の内に生まれるのだと語られました

第1コリント13:4~8a

愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。7節:そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。8節:愛はいつまでも絶えることがない。
揺るがない忍耐と信仰を得て、この愛のみことばを全うできる自分になれたことを感謝します

自分を明け渡したら、主の霊がこの世のありとあらゆる難問を突破させてくださいます


今日、イエス様が牧師を通して、ぶどうの木は、一般的な教会とは違い、聖書に書かれてあることが真実かどうか実践し、その結果を自らをもってあらわし、それをトラクトや証をもって伝えている集まりなのだと語ってくださいました。とても新鮮な角度で、自分たちの今までの歩きを教えていただき、宗教・カルトとは全く違うものだと証明できる歩きを、すでに自分たちはいただいているのだと分かり、感謝しました


使徒行伝17:11

ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。
でも、自分たちだけで納得していたら自己推薦でしかないので、今年はどんどんブログで証を掲載していきたいと思います

それを読んでいただいて、皆さんが「ん!?宗教ではないぞ



ヨハネの黙示録12:10~11

「今や、われらの救と力と国と、神のキリストの権威とは、現れた。われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者は、投げ落された。
兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。
ヨハネ4:42

「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救主であることが、わかったからである。」。
アーメン
