水と霊によって生まれ変わる 9 | ぶどうの木 Good News

水と霊によって生まれ変わる 9

9.【『ぶどうの木』誕生】

 ある日、先生のお母さんから、一通のメールが届きました。
 それは、これまで私たちに聖書を教えてくださっている母親のような存在であった先生のお母さんが、イエス様から“牧師”という召しを与えられたとの報告でした。さらに、お母さんが牧師となってくださることによって、私たちの集っていた家庭集会が、イエス様そのものである『ぶどうの木』という名前を与えられて教会になるという、喜ばしい知らせでした。また、私たちを救いに導いてくださった先生が副牧師に任命されました。ここに、<エゼキエル34章><ヨハネ15章>をもって、イエス様そのものである良い栽培所・『ぶどうの木』が誕生しました。
 
 2007.9.2 『ぶどうの木』としての初めての集会が浜松市のシンボル的な建物である、アクトシティで開かれました。
 新約聖書の中に「使徒行伝」という項目があります。その“使徒行伝”のことを、英語では“act”と言うそうです。
 “使徒行伝”というのは、イエス様が十字架にかかって死んで下さり、3日後によみがえり、人々に姿をあらわされてご自身が真に神の子であった事を証明され、再び天に昇られた後の世に生きた人々が、イエス様こそ真の神であり救い主であることを信じ、体験した事により、真の神に立ち返るよう、神に使われイエス・キリストを各地に述べ伝えた歩きのことです。
 『ぶどうの木』の第一回目の集会場所が、この“アクト(使徒行伝)”であることに、とても意味深いものを感じました。アクトシティを英語訳にすると、“使徒行伝の街”という事になります。また、この街(浜松市)は、音楽で世界的に有名な「ヤマハ楽器」という企業が誕生した地でもあります。多くのほかの大企業が本社を東京に移していく中で、ヤマハは、現在もこの浜松市に本社を構えています。歌や楽器のルーツは、もともとは神を褒めたたえる賛美のために作られた事にあると教えてもらいました。
 神は、秩序正しい方であり、私たちを取り巻く環境や人との出逢いに偶然はないのだという事も聞いており、また、私は最初にいただいたみことば(箴言19:21)によって、このような神の計画の緻密さへの理解が、すっと出来る自分になっていました。
 ですから、自分たちがこの浜松市という地のアクトで聖書を学んでいくという神の計画にとてもよろこびを感じていました。

<エゼキエル34:23~31>
わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる。すなわちわがしもべダビデである。彼は彼らを養う。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主なるわたしは彼らの神となり、わがしもべダビデは彼らのうちにあって君となる。主なるわたしはこれを言う。わたしは彼らと平和の契約を結び、国の内から野獣を追い払う。彼らは心を安んじて荒野に住み、森の中に眠る。わたしは彼らおよびわが山の周囲の所々を祝福し、季節にしたがって雨を降らす。これは祝福の雨となる。野の木は実を結び、地は産物を出す。彼らは心を安んじてその国におり、わたしが彼らのくびきの棒を砕き、彼らを奴隷とした者の手から救い出す時、彼らはわたしが主であることを悟る。彼らは重ねて、もろもろの国民にかすめられることなく、地の獣も彼らを食うことはない。彼らは心を安んじて住み、彼らを恐れさせる者はない。わたしは彼らのために、良い栽培所(リビングバイブルでは、りっぱなぶどうの木と記載)を与える。彼らは重ねて、国のききんに滅びることなく重ねて諸国民のはずかしめを受けることはない。彼らはその神、主なるわたしが彼らと共におり、彼らイスラエルの家が、わが民であることを悟ると、主なる神は言われる。あなたがたはわが羊、わが牧場の羊である。わたしはあなたがたの神であると、主なる神は言われる」。

<ヨハネ15:1~17>
わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。
 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。