第5トラクト完成間近!!
holygirlです
今週の集会は、「日本人はだまされている」「未来へのプレゼント」「神の国は力である」「1つになろうよ!」に続き、5冊目のトラクト(福音冊子)の御披露目会となりました
トラクトの題名は、(仮)「日本人は知識がないために滅ぼされる~東日本大震災はなぜ起きた?神から人類への警告~」です
日本人が、真の神・イエス様を知る知識がなく、偽の神々に仕えていることに対しての警告の冊子です。
偽の神々に仕えてきた結果日本人が招いたものは、東日本大震災をはじめとする自然災害、原発問題、社会問題、経済的格差、残忍な事件、原因不明の病や、隣国との領土問題など、人間の知識、力で解決するには限界がある問題の数々です。神道、仏教を土台にし、他にも様々な新興宗教と八百万の神々がいるといわれているこの日本が、なぜここまでひどい状況になってしまったのか・・・それは、それらの神々の頭(かしら)が、すべてサタン(悪霊の親分)だったからです。聖書には、イエス様こそ真理であり、それ以外のものはすべて神が忌み嫌われる【カルト】=宗教として示され、宗教をしている人間は真の神によって報復を受けることが定められていると書かれてあります。
また、クリスチャンであってもカトリックは真の神・イエス様を知ることよりも、マリアを神格化してしまい、イエス様を信じているというプロテスタントのクリスチャンも、聖霊によって聖書を正しく読んでこなかったがために、サタンに翻弄されることになってしまいました。彼らも皆、滅ぼされると聖書は預言しています。
私たち<ぶどうの木>は、これらの事実=神からのメッセージをストレートに伝える冊子をつくりました。
正直、今までの冊子以上に内容の重いものとなっています。この事実を受け入れられる日本人がどれだけいるのかと思いますし、実際84歳の私の祖父は、聖書の教え(真理)を学んでいった時、大変な衝撃を受け、「これを受け入れるということは、自分にとって大革命だ」と日々口にしているほどです。
しかし、そう言いながらも祖父は、神道や仏教に対して抱いてきた疑問が解決され、戦時中を生き延び、今自分が元気に生かされているのは神に選ばれたからなのだと分かり、福音のための新たな人生を歩き始めています
冊子を一通り読み終わったあと、ぶどうの木の中でも「これは、いろんなところから大反発を受けるのではないか・・・」と声が上がったほどです。
確かに、「何!?なんてひどいことを!」と言われるかもしれません。人間愛・人間の情で見れば、実際はどうであれ、平穏無事に生きたいと思っている人々につるぎを投げ込むようなものだと思います。私たちが情にまかれていれば、このような内容の冊子はつくれません、というよりつくらなかったでしょう。
しかし、私たちは人間愛よりはるかにまさる神の愛に満たされてこの冊子をつくるに至りました。牧師は、いつもこの違いについて次のたとえをします。
例えば、裸の王様がいたとします。皆さんは、裸の王様に「王様、裸ですよ!」と言えますか?“裸と言ったら、王様が傷つくかもしれない・・・誰も何も言わないし、知らないふりをしていよう”と思うのであれば、それはあなたが情にまかれている証拠です。誰かが王様に「裸ですよ!」と言わなければ、王様はずっと自分が裸でいることに気づかないまま、たくさんの人の前で恥をかきます。言われた時は、当然王様も恥ずかしいでしょう。しかし、知っているのに王様に恥をかかせ続けるのが、王様のためを思った本当の愛でしょうか??
裸の王様に「王様、あなたは裸ですよ!」と言うのが本当の愛・神の愛だと思いませんか?
私たちが今回つくったトラクトは、まさに裸の王様に「裸です!」というトラクトです。読まれた人々の様々な思いも察することができますが、私たちは、真の神の守りもなく裸で生きている人々に、イエス・キリストという守りの服を着てほしい
そう願うばかりです。
このトラクトを世に出す私たちが微塵でも情にまかれていたら、到底配ることはできないほど、一人一人に覚悟が必要であることも語られました。そこまでしても、伝えなければならない内容・・・伝えられない人は去ったほうがいいとまで牧師はおっしゃいました。
私は伝えたい
そう思えるクリスチャンかどうか、一人一人の意思が問われました。
そしてたとえ、100人中99人が迫害してきたとしても、たった一人「私はこれが知りたかった
本当に救われた。」と思って下さる人がいるならば、私たちはその一人の魂が救われたことに目を向け、大きな喜びに満たされる・・・それがキリストの思いであることも再確認しました。
ガラテヤ2:19~21
わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。
神の恵みとは、世の中の人が知らないことを知ったという事実・体験です。イエス様こそ、真の神であり、イエス様が十字架にかかって流された血の力を信じる信仰によって義(神に認められる)とされることを、偽の神々に仕えている【宗教】をしている人々は知りません。皆、宗教としての概念でしか神の存在が分からず、供え物をしたり、仕えることなど行いによって義とされるとしか思っていないのです。
今週は、聖書へブル8章13節~11章1節までを通して、【宗教】では神に認められることはないこと、イエス様の血の力(これが裸を覆う守りの服となります)、信仰がなければ神に喜ばれることはないことを語られました。そして、私たち人間が宗教から解放されるために、イエス・キリストが十字架にかかって血を流してくださったという神の愛=真理を改めて語られ、ますます神の愛に満たされて、皆が宗教から解放されるように福音していかなければならないと思いました
(注:キリスト教は、イエス様が私たち人間のために十字架にかかってくださったという愛ばかりを伝えていますが、ここにとどまっていては、結局の人間の情(魂)に訴えかける宗教の領域にすぎません。本当の十字架の意味は、十字架上でイエス様が流してくださった血に力があるということ、それが「真理」であることを、私たちはへブルのみことばを通して語られました。クリスチャンは、イエス様の血の力を行使しなければなりません!)
このトラクトを世に出すにあたり、9月2日ぶどうの木6年目がスタートした時点で、イエス様は長老、教師を通してみことばを下さっていました。第5トラクトを御披露目したタイミングで、改めていただいていたみことばを皆で確認しました
<長老より>
箴言4章、第1テモテ4章
<教師より>
ヘブル9:23~10:25、ローマ8:26~39、イザヤ35章
(みことばは、ブログの最後に載せます
)
そして私たち自身、このトラクトを出すにあたり、どのようなことが自分たちの身に起きてくるのか分かりませんが、とにかく「水の上を歩く信仰」だと語られています
マタイ14:22~33
それからすぐ、イエスは群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを船に乗り込ませ、向こう岸へ先におやりになった。そして群衆を解散させてから、祈るためひそかに山へ登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが舟は、もうすでに陸から数丁も離れており、逆風が吹いていたために、波に悩まされていた。イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。イエスは「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。ふたりが舟に乗り込むと、風はやんでしまった。舟の中にいた者たちはイエスは拝して、「ほんとうに、あなたは神の子です」と言った。
イエス様から、足元の波(周りの反応、世間体)を少しでも見て動揺したら、簡単に海底(サタンが支配しているこの世)に引き込まれてしまう
そうならないためにも、目の前の私(イエス様)だけを見て、信仰を全うしなさい
と言われていると確信しました
この日曜日の集会の最後に、第5トラクトが主の御心にかなっているという裏付けのみことばをいただきました
私たちは、このみことばを握りしめて前進するのみです
マタイ11:25~27
そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵ある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。すべての事は父から私に任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。
ダニエル12:10~13
「多くの者は、自分を清め、自分を白くし、かつ練られるでしょう。しかし、悪い者は悪い事をおこない、ひとりも悟ることはないが、賢い者は悟るでしょう。常供(じょうく)の燔祭が取り除かれ、荒す憎むべきものが立てられる時から、千二百九十日が定められている。待っていて千三百三十五日に至る者はさいわいです。しかし、終りまであなたの道を行きなさい。あなたは休みに入り、定められた日の終りに立って、あなたの分を受けるでしょう。」
イザヤ42:8~9
「わたしは主である、これがわたしの名である。わたしはわが栄光をほかの者に与えない。また、わが誉を刻んだ像に与えない。
見よ、さきに預言した事は起った。わたしは新しい事を告げよう。その事がまだ起らない前に、わたしはまず、あなたがたに知らせよう。」
イザヤ43:10~13
主は言われる、「あなたがたはわが証人、わたしが選んだわがしもべである。それゆえ、あなたがたは知って、わたしを信じ、わたしが主であることを悟ることができる。わたしより前に造られた神はなく、わたしより後にもない。ただわたしのみ主である。わたしのほかに救う者はいない。わたしはさきに告げ、かつ救い、かつ聞かせた。あなたがたのうちには、ほかの神はなかった。あなたがたはわが証人である」と主は言われる。「わたしは神である、今より後もわたしは主である。わが手から救い出しうる者はない。わたしがおこなえば、だれが、これをとどめることができよう」。
集会の最後の祈りでは、長老を通して、この第5トラクトは主の軍隊<ぶどうの木>に与えられた、サタンによって作り出された偽の神々を信じる宗教=カルトにまかれている人々を解放するための最大の武器であると語られました
アーメンです
第5トラクト完成間近です
神の愛が、日本中を覆い、日本人が真の神に立ち返れたことを感謝します


今週の集会は、「日本人はだまされている」「未来へのプレゼント」「神の国は力である」「1つになろうよ!」に続き、5冊目のトラクト(福音冊子)の御披露目会となりました

トラクトの題名は、(仮)「日本人は知識がないために滅ぼされる~東日本大震災はなぜ起きた?神から人類への警告~」です

日本人が、真の神・イエス様を知る知識がなく、偽の神々に仕えていることに対しての警告の冊子です。
偽の神々に仕えてきた結果日本人が招いたものは、東日本大震災をはじめとする自然災害、原発問題、社会問題、経済的格差、残忍な事件、原因不明の病や、隣国との領土問題など、人間の知識、力で解決するには限界がある問題の数々です。神道、仏教を土台にし、他にも様々な新興宗教と八百万の神々がいるといわれているこの日本が、なぜここまでひどい状況になってしまったのか・・・それは、それらの神々の頭(かしら)が、すべてサタン(悪霊の親分)だったからです。聖書には、イエス様こそ真理であり、それ以外のものはすべて神が忌み嫌われる【カルト】=宗教として示され、宗教をしている人間は真の神によって報復を受けることが定められていると書かれてあります。
また、クリスチャンであってもカトリックは真の神・イエス様を知ることよりも、マリアを神格化してしまい、イエス様を信じているというプロテスタントのクリスチャンも、聖霊によって聖書を正しく読んでこなかったがために、サタンに翻弄されることになってしまいました。彼らも皆、滅ぼされると聖書は預言しています。
私たち<ぶどうの木>は、これらの事実=神からのメッセージをストレートに伝える冊子をつくりました。
正直、今までの冊子以上に内容の重いものとなっています。この事実を受け入れられる日本人がどれだけいるのかと思いますし、実際84歳の私の祖父は、聖書の教え(真理)を学んでいった時、大変な衝撃を受け、「これを受け入れるということは、自分にとって大革命だ」と日々口にしているほどです。
しかし、そう言いながらも祖父は、神道や仏教に対して抱いてきた疑問が解決され、戦時中を生き延び、今自分が元気に生かされているのは神に選ばれたからなのだと分かり、福音のための新たな人生を歩き始めています

冊子を一通り読み終わったあと、ぶどうの木の中でも「これは、いろんなところから大反発を受けるのではないか・・・」と声が上がったほどです。
確かに、「何!?なんてひどいことを!」と言われるかもしれません。人間愛・人間の情で見れば、実際はどうであれ、平穏無事に生きたいと思っている人々につるぎを投げ込むようなものだと思います。私たちが情にまかれていれば、このような内容の冊子はつくれません、というよりつくらなかったでしょう。
しかし、私たちは人間愛よりはるかにまさる神の愛に満たされてこの冊子をつくるに至りました。牧師は、いつもこの違いについて次のたとえをします。
例えば、裸の王様がいたとします。皆さんは、裸の王様に「王様、裸ですよ!」と言えますか?“裸と言ったら、王様が傷つくかもしれない・・・誰も何も言わないし、知らないふりをしていよう”と思うのであれば、それはあなたが情にまかれている証拠です。誰かが王様に「裸ですよ!」と言わなければ、王様はずっと自分が裸でいることに気づかないまま、たくさんの人の前で恥をかきます。言われた時は、当然王様も恥ずかしいでしょう。しかし、知っているのに王様に恥をかかせ続けるのが、王様のためを思った本当の愛でしょうか??
裸の王様に「王様、あなたは裸ですよ!」と言うのが本当の愛・神の愛だと思いませんか?
私たちが今回つくったトラクトは、まさに裸の王様に「裸です!」というトラクトです。読まれた人々の様々な思いも察することができますが、私たちは、真の神の守りもなく裸で生きている人々に、イエス・キリストという守りの服を着てほしい

このトラクトを世に出す私たちが微塵でも情にまかれていたら、到底配ることはできないほど、一人一人に覚悟が必要であることも語られました。そこまでしても、伝えなければならない内容・・・伝えられない人は去ったほうがいいとまで牧師はおっしゃいました。
私は伝えたい

そしてたとえ、100人中99人が迫害してきたとしても、たった一人「私はこれが知りたかった

ガラテヤ2:19~21

わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。
神の恵みとは、世の中の人が知らないことを知ったという事実・体験です。イエス様こそ、真の神であり、イエス様が十字架にかかって流された血の力を信じる信仰によって義(神に認められる)とされることを、偽の神々に仕えている【宗教】をしている人々は知りません。皆、宗教としての概念でしか神の存在が分からず、供え物をしたり、仕えることなど行いによって義とされるとしか思っていないのです。
今週は、聖書へブル8章13節~11章1節までを通して、【宗教】では神に認められることはないこと、イエス様の血の力(これが裸を覆う守りの服となります)、信仰がなければ神に喜ばれることはないことを語られました。そして、私たち人間が宗教から解放されるために、イエス・キリストが十字架にかかって血を流してくださったという神の愛=真理を改めて語られ、ますます神の愛に満たされて、皆が宗教から解放されるように福音していかなければならないと思いました


(注:キリスト教は、イエス様が私たち人間のために十字架にかかってくださったという愛ばかりを伝えていますが、ここにとどまっていては、結局の人間の情(魂)に訴えかける宗教の領域にすぎません。本当の十字架の意味は、十字架上でイエス様が流してくださった血に力があるということ、それが「真理」であることを、私たちはへブルのみことばを通して語られました。クリスチャンは、イエス様の血の力を行使しなければなりません!)
このトラクトを世に出すにあたり、9月2日ぶどうの木6年目がスタートした時点で、イエス様は長老、教師を通してみことばを下さっていました。第5トラクトを御披露目したタイミングで、改めていただいていたみことばを皆で確認しました

<長老より>
箴言4章、第1テモテ4章
<教師より>
ヘブル9:23~10:25、ローマ8:26~39、イザヤ35章
(みことばは、ブログの最後に載せます

そして私たち自身、このトラクトを出すにあたり、どのようなことが自分たちの身に起きてくるのか分かりませんが、とにかく「水の上を歩く信仰」だと語られています

マタイ14:22~33

それからすぐ、イエスは群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを船に乗り込ませ、向こう岸へ先におやりになった。そして群衆を解散させてから、祈るためひそかに山へ登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが舟は、もうすでに陸から数丁も離れており、逆風が吹いていたために、波に悩まされていた。イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。イエスは「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。ふたりが舟に乗り込むと、風はやんでしまった。舟の中にいた者たちはイエスは拝して、「ほんとうに、あなたは神の子です」と言った。
イエス様から、足元の波(周りの反応、世間体)を少しでも見て動揺したら、簡単に海底(サタンが支配しているこの世)に引き込まれてしまう



この日曜日の集会の最後に、第5トラクトが主の御心にかなっているという裏付けのみことばをいただきました

私たちは、このみことばを握りしめて前進するのみです

マタイ11:25~27

そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵ある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。すべての事は父から私に任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。
ダニエル12:10~13

「多くの者は、自分を清め、自分を白くし、かつ練られるでしょう。しかし、悪い者は悪い事をおこない、ひとりも悟ることはないが、賢い者は悟るでしょう。常供(じょうく)の燔祭が取り除かれ、荒す憎むべきものが立てられる時から、千二百九十日が定められている。待っていて千三百三十五日に至る者はさいわいです。しかし、終りまであなたの道を行きなさい。あなたは休みに入り、定められた日の終りに立って、あなたの分を受けるでしょう。」
イザヤ42:8~9

「わたしは主である、これがわたしの名である。わたしはわが栄光をほかの者に与えない。また、わが誉を刻んだ像に与えない。
見よ、さきに預言した事は起った。わたしは新しい事を告げよう。その事がまだ起らない前に、わたしはまず、あなたがたに知らせよう。」
イザヤ43:10~13

主は言われる、「あなたがたはわが証人、わたしが選んだわがしもべである。それゆえ、あなたがたは知って、わたしを信じ、わたしが主であることを悟ることができる。わたしより前に造られた神はなく、わたしより後にもない。ただわたしのみ主である。わたしのほかに救う者はいない。わたしはさきに告げ、かつ救い、かつ聞かせた。あなたがたのうちには、ほかの神はなかった。あなたがたはわが証人である」と主は言われる。「わたしは神である、今より後もわたしは主である。わが手から救い出しうる者はない。わたしがおこなえば、だれが、これをとどめることができよう」。
集会の最後の祈りでは、長老を通して、この第5トラクトは主の軍隊<ぶどうの木>に与えられた、サタンによって作り出された偽の神々を信じる宗教=カルトにまかれている人々を解放するための最大の武器であると語られました

アーメンです

第5トラクト完成間近です



<長老より>
箴言4章
子供らよ、父の教を聞き、悟りを得るために耳を傾けよ。わたしは、良い教訓を、あなたがたにさずける。わたしの教を捨ててはならない。わたしもわが父には子であり、わが母の目には、ひとりのいとし子であった。父はわたしを教えて言った、
「わたしの言葉を、心に留め、わたしの戒めを守って、命を得よ。それを忘れることなく、またわが口の言葉にそむいてはならない、知恵を得よ、悟りを得よ。知恵を捨てるな、それはあなたを守る。それを愛せよ、それはあなたを保つ。知恵の初めはこれである、知恵を得よ、あなたが何を得るにしても、悟りを得よ。それを尊べ、そうすれば、それはあなたを高くあげる、もしそれをいだくならば、それはあなたを尊くする。それはあなたの頭に麗しい飾りを置き、栄えの冠をあなたに与える」。
箴言4章

子供らよ、父の教を聞き、悟りを得るために耳を傾けよ。わたしは、良い教訓を、あなたがたにさずける。わたしの教を捨ててはならない。わたしもわが父には子であり、わが母の目には、ひとりのいとし子であった。父はわたしを教えて言った、
「わたしの言葉を、心に留め、わたしの戒めを守って、命を得よ。それを忘れることなく、またわが口の言葉にそむいてはならない、知恵を得よ、悟りを得よ。知恵を捨てるな、それはあなたを守る。それを愛せよ、それはあなたを保つ。知恵の初めはこれである、知恵を得よ、あなたが何を得るにしても、悟りを得よ。それを尊べ、そうすれば、それはあなたを高くあげる、もしそれをいだくならば、それはあなたを尊くする。それはあなたの頭に麗しい飾りを置き、栄えの冠をあなたに与える」。
わが子よ、聞け、わたしの言葉をうけいれよ、そうすれば、あなたの命の年は多くなる。わたしは知恵の道をあなたに教え、正しい道筋にあなたを導いた。あなたが歩くとき、その歩みは妨げられず、走る時にも、つまずくことはない。教訓をかたくとらえて、離してはならない、それを守れ、それはあなたの命である。よこしまな者の道に、はいってはならない、悪しき者の道を歩んではならない。それを避けよ、通ってはならない、それを離れて進め。彼らは悪を行わなければ眠ることができず、人をつまずかせなければ、寝ることができず、不正のパンを食らい、暴虐の酒を飲むからである。正しい者の道は、夜明けの光のようだ、いよいよ輝きを増して真昼となる。悪しき人の道は暗やみのようだ、彼らは何につまずくかを知らない。
わが子よ、わたしの言葉に心をとめ、わたしの語ることに耳を傾けよ。それを、あなたの目から離さず、あなたの心のうちに守れ。それは、これを得る者の命であり、またその全身を健やかにするからである。油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。曲った言葉をあなたから捨てさり、よこしまな談話をあなたから遠ざけよ。あなたの目は、まっすぐに正面を見、あなたのまぶたはあなたの前を、まっすぐに見よ。あなたの足の道に気をつけよ、そうすれば、あなたのすべての道は安全である。右にも左にも迷い出てはならない、あなたの足を悪から離れさせよ。」
第1テモテ4章
第1テモテ4章

しかし、御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去るであろう。それは、良心に焼き印をおされている偽り者の偽善のしわざである。これらの偽り者どもは、結婚を禁じたり、食物を断つことを命じたりする。しかし食物は、信仰があり真理を認める者が、感謝して受けるようにと、神の造られたものである。神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。それらは、神の言と祈とによって、きよめられるからである。
これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたは、信仰の言葉とあなたの従ってきた良い教の言葉とに養われて、キリスト・イエスのよい奉仕者になるであろう。 しかし、俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい。信心のために自分を訓練しなさい。からだの訓練は少しは益するところがあるが、信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、万事に益となる。これは確実で、そのまま受けいれるに足る言葉である。わたしたちは、このために労し苦しんでいる。それは、すべての人の救主、特に信じる者たちの救主なる生ける神に、望みを置いてきたからである。
これらの事を命じ、また教えなさい。あなたは、年が若いために人に軽んじられてはならない。むしろ、言葉にも、行状にも、愛にも、信仰にも、純潔にも、信者の模範になりなさい。わたしがそちらに行く時まで、聖書を朗読することと、勧めをすることと、教えることとに心を用いなさい。 長老の按手を受けた時、預言によってあなたに与えられて内に持っている恵みの賜物を、軽視してはならない。すべての事にあなたの進歩があらわれるため、これらの事を実行し、それを励みなさい。自分のことと教のこととに気をつけ、それらを常に努めなさい。そうすれば、あなたは、自分自身とあなたの教を聞く者たちとを、救うことになる。
<教師より>
ヘブル9:23~10:25
このように、天にあるもののひな型は、これらのものできよめられる必要があるが、天にあるものは、これらより更にすぐれたいけにえで、きよめられねばならない。ところが、キリストは、ほんとうのものの模型にすぎない、手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、今やわたしたちのために神のみまえに出て下さったのである。大祭司は、年ごとに、自分以外のものの血をたずさえて聖所にはいるが、キリストは、そのように、たびたびご自身をささげられるのではなかった。もしそうだとすれば、世の初めから、たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである。そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。
いったい、律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではないから、年ごとに引きつづきささげられる同じようないけにえによっても、みまえに近づいて来る者たちを、全うすることはできないのである。もしできたとすれば、儀式にたずさわる者たちは、一度きよめられた以上、もはや罪の自覚がなくなるのであるから、ささげ物をすることがやんだはずではあるまいか。しかし実際は、年ごとに、いけにえによって罪の思い出がよみがえって来るのである。なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができないからである。それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、
<教師より>
ヘブル9:23~10:25

このように、天にあるもののひな型は、これらのものできよめられる必要があるが、天にあるものは、これらより更にすぐれたいけにえで、きよめられねばならない。ところが、キリストは、ほんとうのものの模型にすぎない、手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、今やわたしたちのために神のみまえに出て下さったのである。大祭司は、年ごとに、自分以外のものの血をたずさえて聖所にはいるが、キリストは、そのように、たびたびご自身をささげられるのではなかった。もしそうだとすれば、世の初めから、たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである。そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。
いったい、律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではないから、年ごとに引きつづきささげられる同じようないけにえによっても、みまえに近づいて来る者たちを、全うすることはできないのである。もしできたとすれば、儀式にたずさわる者たちは、一度きよめられた以上、もはや罪の自覚がなくなるのであるから、ささげ物をすることがやんだはずではあるまいか。しかし実際は、年ごとに、いけにえによって罪の思い出がよみがえって来るのである。なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができないからである。それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、
「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、わたしのために、からだを備えて下さった。あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった。その時、わたしは言った、
『神よ、わたしにつき、巻物の書物に書いてあるとおり、見よ、御旨を行うためにまいりました』」。
ここで、初めに、「あなたは、いけにえとささげ物と燔祭と罪祭と(すなわち、律法に従ってささげられるもの)を望まれず、好まれもしなかった」とあり、次に、「見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました」とある。すなわち、彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである。この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。
『神よ、わたしにつき、巻物の書物に書いてあるとおり、見よ、御旨を行うためにまいりました』」。
ここで、初めに、「あなたは、いけにえとささげ物と燔祭と罪祭と(すなわち、律法に従ってささげられるもの)を望まれず、好まれもしなかった」とあり、次に、「見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました」とある。すなわち、彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである。この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。
こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。聖霊もまた、わたしたちにあかしをして、
「わたしが、それらの日の後、彼らに対して立てようとする契約はこれであると、主が言われる。
わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いのうちに書きつけよう」
と言い、さらに、「もはや、彼らの罪と彼らの不法とを、思い出すことはしない」と述べている。これらのことに対するゆるしがある以上、罪のためのささげ物は、もはやあり得ない。
わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いのうちに書きつけよう」
と言い、さらに、「もはや、彼らの罪と彼らの不法とを、思い出すことはしない」と述べている。これらのことに対するゆるしがある以上、罪のためのささげ物は、もはやあり得ない。
兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、愛と善行とを励むように互に努め、ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。
ローマ8:26~39
御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。
それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
ローマ8:26~39

御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。
それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」
と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。
イザヤ35章
荒野と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、さかんに花咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う。これにレバノンの栄えが与えられ、カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。彼らは主の栄光を見、われわれの神の麗しさを見る。
と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。
イザヤ35章

荒野と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、さかんに花咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う。これにレバノンの栄えが与えられ、カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。彼らは主の栄光を見、われわれの神の麗しさを見る。
あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。心おののく者に言え、
「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる」と。
「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる」と。
その時、見えない人の目は開かれ、聞えない人の耳は聞えるようになる。その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、口のきけない人の舌は喜び歌う。それは荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである。焼けた砂は池となり、かわいた地は水の源となり、山犬の伏したすみかは、葦、よしの茂りあう所となる。
そこに大路があり、その道は聖なる道ととなえられる。汚れた者はこれを通り過ぎることはできない、愚かなる者はそこに迷い入ることはない。そこには、ししはおらず、飢えた獣も、その道にのぼることはなく、その所でこれに会うことはない。ただ、あがなわれた者のみ、そこを歩む。主にあがなわれた者は帰ってきて、その頭に、とこしえの喜びをいただき、歌うたいつつ、シオンに来る。彼らは楽しみと喜びとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る。