神の御旨をわきまえ知るために・・・
holygirlです
ローマ12:2
「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」
ローマ12章は、ぶどうの木の長老が、神から長老に任命された時にいただいたみことばです
長老がいただいたということは、ぶどうの木の皆がいただいたということでもあり、私たちはこのみことばを行う者にならなければならないと、今まで語られてきました
以前母が在籍していた教会では、「あなたがたは、この世と妥協してはならない。」という言葉を掲げて、【神が忌み嫌われる冠婚葬祭】というプリントを配布していました。内容は、冠婚葬祭に出席することがいかに罪なのか、すべて聖書のみことばで書き表されていました
確かにみことばですが、冠婚葬祭=罪=神が忌み嫌われる・・・という勝手な聖書の解釈のもと、家族をはじめ、周りにいるたくさんの人々にキリスト教・イエス様に対する嫌悪感を与え、自分たち自身が神に忌み嫌われる者になってしまっている
これでは、完全にカルトであり、カルトは家庭を破壊します
本当に、神はそんなことをおっしゃっているのか??今その教会を客観的に見ることで、当時は見えなかった大事なことがイエス様を通して語られています
今回の3連休は、遠州大念仏(お盆)でした。今週はそこに出席した姉妹が証をしてくれました。仏教行事に参加することは、クリスチャンとしてどうなのか??仏壇に手を合わせることもない自分がそんな場所にいって何か言われないか??言われたらどうしよう・・・次々とサタンの声を聞き、葛藤しながらもその声と戦っていった時、「絶対に行かなければ!!」と霊の自分がとても強く立ち上がったと話してくれました。彼女は、肉の自分と霊の自分が聖別されていることが初めて分かったそうです。そして牧師を通しても、御霊の実の最後『自制
』が成ったと語られました
肉の思いを打ちたたいて、霊の思い(キリストの思い)に満たされて法事に出席した彼女は、そこで自分の信仰について皆に分かるように話をし、証をし、180度変えられた姿をあらわしました
すると、今まで彼女を迫害していた人たちの気持ちも態度も変わったそうです
第1ペテロ3:15~16
「ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。しかし、やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい。そうすれば、あなたがたがキリストにあって営んでいる良い生活をそしる人々も、そのようにののしったことを恥じいるであろう。」
第1コリント9:19~23
「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には―わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが―律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。」
どんなことでもするのです
すべては、福音のために
たとえ、そこがどんな場所であっても、神は相手を救いたい!と思って福音のために出掛けるその心を見ておられるのだと、改めて教えられました
今回の姉妹の証を通しても、法事に参加したことが神の目から見て喜ばれることであったから、聖霊が働かれ、その場所を福音の場にしてくださったのだと分かりました
クリスチャンは、逃げ腰では絶対にいけません!正々堂々と誰とでも向き合い、サタンに翻弄されている相手を変えなければならない・・・『美女と野獣』のベルのようにです
(ブログ:「美女と野獣」には、愛のメッセージがいっぱい!!を参照)
「何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知る」
すべてのクリスチャンが、今日わきまえ知って行動できているのでしょうか
みことばの受け方は正しいのでしょうか?ローマ12章のみことばを、声に出して読んでいたらわきまえ知ることができるのでしょうか?聖書を何度も通読したら、何が神の御旨であり、何が善であり神に喜ばれることなのか分かるようになるのでしょうか??・・・たとえ何千回、何万回読んでも、わきまえ知ることはできないでしょう
第2テモテ2:7~9
「彼女たちは、常に学んではいるが、いつになっても真理の知識に達することができない。ちょうど、ヤンネとヤンブレとがモーセに逆らったように、こうした人々も真理に逆らうのである。彼らは知性の腐った、信仰の失格者である。しかし、彼らはそのまま進んでいけるはずがない。彼らの愚かさは、あのふたりの場合と同じように、多くの人に知れて来るであろう。」
今週は牧師を通して、みことばが蒔かれる【土壌】について語られました
霊にみことば(種)を蒔いても、土壌(魂・体)が悪かったら、そのみことばは成長しません。みことばの解釈までが違ってきます。人間の土壌は、3代~4代にわたる血や、家庭環境(どんな言葉をかけられ、何を教えてもらってきたか)によって様々です。まずは、その土壌を耕し、みことば(種)を蒔くことができる良い地にしなければなりません
マタイ13:17~23
「あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったがt、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。そこで、種まきの譬(たとえ)を聞きなさい。
だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである。」
100%神の清さにあずかるためには、自分自身が100%清い土壌にならなければいけません。石ころやいばら(古い自分の感情、価値観、考え方、汚れ)があっては、100%みことばを受けることはできないのです。
ルカ11:41
「ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる。」
だからこそ私たちには、石ころやいばらを取り除き、土壌を耕して下さる牧師が必要であると語られました
そして、一人一人が牧師を通して語られるみことばや知恵の言葉に従い、耕すことに協力しなければなりません
特に、“主の軍隊”と言われたぶどうの木では、土壌(魂・体)を耕すために、牧師を通して学んだことはすぐに実践していきます
時には、みんなの前で土壌を耕されて(戒められて)、教材にもなります。それは、皆がそこから学んで自分を吟味し、良い地となるためです
まずは、自分の内側を良い地にすること、そして良い地を持っているクリスチャンだけが、神の御旨・思いをわきまえ知ることができるのだと語られました
良い地のクリスチャンの例として、みことばをいただきました
いつも、私たちが牧師から言われていることです
ダニエル1:4
「すなわち身に傷がなく、容姿が美しく、すべての知恵にさとく、知識があって、思慮深く、王の宮に足る若者を連れてこさせ、これにカルデヤびとの文学と言語とを学ばせようとした。」
年齢にふさわしいもの(衣食住、人とのかかわり方)を身につけていること、みことばを霊で受け、知性においても理解し行えること、イエス様の御前で今まで犯してきたすべての罪を悔い改め清く・聖くなっていること・・・そのようなクリスチャンになって聖書を学ぶことが大切だと語られました。
果たして神学校で学んだ牧師の土壌は良い地なのでしょうか??神学校に入るために、このような条件が与えられていたら、何人の人が入学できるのでしょうか?
また、第2テモテ2章2節では次のように書かれています
第2テモテ2:2
「そして、あなたが多くの証人の前でわたしから聞いたことを、さらにほかの者たちにも教えることのできるような忠実な人々に、ゆだねなさい。」
良い地のクリスチャンは、教えをしっかりと自分のものにし、自分が受けたことを他者に教えることができます。自分の信仰について、誰に対しても賢く弁明できます。良い地のクリスチャンは、福音によって多くの魂を勝ち取ることができるのです
悪い土壌のまま聖書を読んでいては、永遠に神の御旨をわきまえ知ることができず、いつか必ず滅びます
悪い土壌をもったまま、神に仕えることはできないことを改めて語られました
イエス様よりもお金や地位・名誉、世間体が一番だと思っていたり、神の愛で真理を語ることよりも、情に流されて調子を合わせてしまうなら、神に喜ばれるものにはなれず、蒔かれたみことばも成長しないのです。
ルカ16:13~15
「どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない』。欲の深いパリサイ人たちが、すべてこれらの言葉を聞いて、イエスをあざ笑った。そこで彼らにむかって言われた、『あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のみまえで忌みきらわれる。」
今週の集会を通して、神・イエス様が求めておられるのは、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くしてご自身に従うクリスチャンであること
そのことをしっかりと認識し、神にも人にも喜ばれる歩きである「ローマ12章」を行なっていきたいと思いました
ローマ12:1~21
「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。
愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。
だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである。むしろ、『もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである』。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。」
アーメン

ローマ12:2

「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」
ローマ12章は、ぶどうの木の長老が、神から長老に任命された時にいただいたみことばです


以前母が在籍していた教会では、「あなたがたは、この世と妥協してはならない。」という言葉を掲げて、【神が忌み嫌われる冠婚葬祭】というプリントを配布していました。内容は、冠婚葬祭に出席することがいかに罪なのか、すべて聖書のみことばで書き表されていました



本当に、神はそんなことをおっしゃっているのか??今その教会を客観的に見ることで、当時は見えなかった大事なことがイエス様を通して語られています

今回の3連休は、遠州大念仏(お盆)でした。今週はそこに出席した姉妹が証をしてくれました。仏教行事に参加することは、クリスチャンとしてどうなのか??仏壇に手を合わせることもない自分がそんな場所にいって何か言われないか??言われたらどうしよう・・・次々とサタンの声を聞き、葛藤しながらもその声と戦っていった時、「絶対に行かなければ!!」と霊の自分がとても強く立ち上がったと話してくれました。彼女は、肉の自分と霊の自分が聖別されていることが初めて分かったそうです。そして牧師を通しても、御霊の実の最後『自制


肉の思いを打ちたたいて、霊の思い(キリストの思い)に満たされて法事に出席した彼女は、そこで自分の信仰について皆に分かるように話をし、証をし、180度変えられた姿をあらわしました


第1ペテロ3:15~16

「ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。しかし、やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい。そうすれば、あなたがたがキリストにあって営んでいる良い生活をそしる人々も、そのようにののしったことを恥じいるであろう。」
第1コリント9:19~23

「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には―わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが―律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。」
どんなことでもするのです




今回の姉妹の証を通しても、法事に参加したことが神の目から見て喜ばれることであったから、聖霊が働かれ、その場所を福音の場にしてくださったのだと分かりました

クリスチャンは、逃げ腰では絶対にいけません!正々堂々と誰とでも向き合い、サタンに翻弄されている相手を変えなければならない・・・『美女と野獣』のベルのようにです

「何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知る」


みことばの受け方は正しいのでしょうか?ローマ12章のみことばを、声に出して読んでいたらわきまえ知ることができるのでしょうか?聖書を何度も通読したら、何が神の御旨であり、何が善であり神に喜ばれることなのか分かるようになるのでしょうか??・・・たとえ何千回、何万回読んでも、わきまえ知ることはできないでしょう

第2テモテ2:7~9

「彼女たちは、常に学んではいるが、いつになっても真理の知識に達することができない。ちょうど、ヤンネとヤンブレとがモーセに逆らったように、こうした人々も真理に逆らうのである。彼らは知性の腐った、信仰の失格者である。しかし、彼らはそのまま進んでいけるはずがない。彼らの愚かさは、あのふたりの場合と同じように、多くの人に知れて来るであろう。」
今週は牧師を通して、みことばが蒔かれる【土壌】について語られました

霊にみことば(種)を蒔いても、土壌(魂・体)が悪かったら、そのみことばは成長しません。みことばの解釈までが違ってきます。人間の土壌は、3代~4代にわたる血や、家庭環境(どんな言葉をかけられ、何を教えてもらってきたか)によって様々です。まずは、その土壌を耕し、みことば(種)を蒔くことができる良い地にしなければなりません

マタイ13:17~23

「あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったがt、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。そこで、種まきの譬(たとえ)を聞きなさい。
だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである。」
100%神の清さにあずかるためには、自分自身が100%清い土壌にならなければいけません。石ころやいばら(古い自分の感情、価値観、考え方、汚れ)があっては、100%みことばを受けることはできないのです。
ルカ11:41

「ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる。」
だからこそ私たちには、石ころやいばらを取り除き、土壌を耕して下さる牧師が必要であると語られました





まずは、自分の内側を良い地にすること、そして良い地を持っているクリスチャンだけが、神の御旨・思いをわきまえ知ることができるのだと語られました

良い地のクリスチャンの例として、みことばをいただきました


ダニエル1:4

「すなわち身に傷がなく、容姿が美しく、すべての知恵にさとく、知識があって、思慮深く、王の宮に足る若者を連れてこさせ、これにカルデヤびとの文学と言語とを学ばせようとした。」
年齢にふさわしいもの(衣食住、人とのかかわり方)を身につけていること、みことばを霊で受け、知性においても理解し行えること、イエス様の御前で今まで犯してきたすべての罪を悔い改め清く・聖くなっていること・・・そのようなクリスチャンになって聖書を学ぶことが大切だと語られました。
果たして神学校で学んだ牧師の土壌は良い地なのでしょうか??神学校に入るために、このような条件が与えられていたら、何人の人が入学できるのでしょうか?
また、第2テモテ2章2節では次のように書かれています

第2テモテ2:2

「そして、あなたが多くの証人の前でわたしから聞いたことを、さらにほかの者たちにも教えることのできるような忠実な人々に、ゆだねなさい。」
良い地のクリスチャンは、教えをしっかりと自分のものにし、自分が受けたことを他者に教えることができます。自分の信仰について、誰に対しても賢く弁明できます。良い地のクリスチャンは、福音によって多くの魂を勝ち取ることができるのです

悪い土壌のまま聖書を読んでいては、永遠に神の御旨をわきまえ知ることができず、いつか必ず滅びます

悪い土壌をもったまま、神に仕えることはできないことを改めて語られました

ルカ16:13~15

「どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない』。欲の深いパリサイ人たちが、すべてこれらの言葉を聞いて、イエスをあざ笑った。そこで彼らにむかって言われた、『あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のみまえで忌みきらわれる。」
今週の集会を通して、神・イエス様が求めておられるのは、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くしてご自身に従うクリスチャンであること


ローマ12:1~21

「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。
愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。
だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである。むしろ、『もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである』。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。」
アーメン
