感謝と信仰が生み出す証の力☆
holygirlです
今週の集会では、久しぶりに証をする時間が全員に与えられました
総勢20人が、最近の自分の歩きや、イエス様から語られていることを話しました
特に、最近強く語られている「福音をすること」については、皆が意志を向けながら生活をしていることがよく分かりました
私と妹は、家庭集会のころから、よく証をする時間が与えられていました
自分の身に起きたことを、細かく時間をかけて話すのですが、私たちは母を通して戒めを受けることがしばしばありました
「そんな証を聞いても誰も喜ばない・・・みんなが知りたいのは、イエス様が何をしてくれたのかということ!今のは現状報告です。もう一度やり直し!!」・・・そう言われるたびに、「え!?また??何が違うのか分からない。」と心の中でぶつぶつ文句を言いながら、ふくれていたのをよく覚えています
喜んで話しているつもり、イエス様の名前も出しているし、分かるように詳しく説明したつもり・・・説明
私は、自分が証ではなく、説明をしていたことに気づきました
証とは、イエス様と共に歩くことがいかにすばらしいことであるかを伝えることです
また、証の時間は、どんなみことばを与えてくださって、信仰にたつことができたのか、信仰をもって行ったとき、自分の内側や周りにどんな変化があったのか、どんな聖霊の導きがあったのか、サタンとどうやって戦って勝利したのか、信仰の言葉をもって自分はどのように歩いてきたのか、サタンに対して勝利宣言をする場として神が与えてくださっている時間なのです
だから、つらい、苦しい、悲しい、痛い、できないなどの現状報告、現状説明は、サタンを喜ばせるだけですし、「私が~した」という自分に栄光を帰すような言い方をすることも、違うのです
証の中に、どれだけイエス様のお名前とイエス様への感謝があるのか、それによって、自分の霊だけではなく、聞いている側である皆の霊も喜び益となることを、私は家庭集会の頃から何度も語られてきました
また、集会の中で皆が証をした後、牧師を通して「口から出る言葉に注意しなさい!」と語られました
証をする時はもちろんですが、普段から、口から出る言葉をあいまいにしたり、不信仰な言葉を出していたら、どんどん喜びがなくなってしまいます
これでは、神の栄光をあらわすことができません
自分の気持ちが暗かったり、落ちこんだり、いつまでもサタンに勝利することができないのは、言葉が原因なのだと牧師を通して戒められました
黒だった自分が、イエス様から初めの愛を受けて白になったのに、信仰の言葉がなくなってまた黒に戻っているのではないか??「初めに言があった」と聖書に書かれてある通り、自分の口からどんな言葉を出すかによって、それが自分自身をつくっていくのだと語られ、改めて自分の口を制しなければいけないと思いました
エペソ4:22~29
「すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。
こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。わたしたちは、お互いに肢体なのであるから。怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。また、悪魔に機会を与えてはいけない。盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい。悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。」
イエス様と共に歩いていれば、一瞬一瞬が証となります
しかし、「私には証と言えるものがない」と言う人や、「私の証は他の人に比べたらたいした証ではないのですが・・・」と言って話し始める人がいます。そのことに対しても、牧師から戒めを受けました
証に小さいも大きいもありません。一人一人が達し得たところに従って、受けている恵みは、すべて証となるからです。小さい、大きいと自分で判断すること自体、神に対しての高ぶりです
また、「証がない」のではなく、自分が神からの恵みを悟っていないだけ!鈍感すぎるのだと牧師はおっしゃいました。すべてが当たり前だと思って生きていたら、何が神の恵みか分からなくなってしまいます。救われていなかったら自分は今どうなっていたのか、家族がいること、自分を気にかけて電話をしてきたり、手紙やメールを送ってくれる人がいること、衣食住が与えられていること、日曜日に集会に来ることができること、神からのラブレターである聖書が読めるように与えられていること、太陽が今日も昇っていること、今生きているということ・・・神・イエス様からの恵みが見えなくなった時ほど、今の自分が置かれている環境に目を向けることです。そうすれば、感謝が満ちあふれませんか!?
第2コリント4:15
「すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。」
これら一切のことは、自分が良かったからではなく、すべてが神の恵みです
神は、私たちがその恵みに感謝できるように、あらゆる方法で語ってくださるのだと、聖書に書かれてあります
ヨブ記33:14~18
「神は一つの方法によって語られ、また二つの方法によって語られるのだが、人はそれを悟らないのだ。人々が熟睡するとき、または床にまどろむとき、夢あるいは夜の幻のうちで、彼は人々の耳を開き、警告をもって彼らを恐れさせ、こうして人にその悪しきわざを離れさせ、高ぶりを人から除き、その魂を守って、墓に至らせず、その命を守って、つるぎに滅びないようにされる。」
そして、これだけ愛をもって働きかけて下さっている神に対して、果たして私たちは、どれだけ求めて聞き、向き合う時間をもっているのかと問われました
例えば、「忙しくて聖書を読む時間がない・・・」と言う人。それを言い訳にして聖書を読めずにいることを神はよしとされるでしょうか??
その前に、「イエス様、聖書を読める時間を与えてください」「忙しくない場所に置いてください」と祈り求めているのか、イエス様に聞いて最善を尽くしているのか・・・「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。」(ルカ11:9a~10)と聖書に書かれてある通り、求める者に対しては、必ず報いて下さる神だということを、この世の常識や生活に流されて忘れてしまっていないか・・・そうであるならば、もう一度みことばに立つことを語られました
そして、今祝福を受けている人でも、そうでない人でも、まだまだ訓練の中にいる人でも、今、この時点の状態が、自分が歩いてきた人生の最先端であり、クリスチャンとしての実なのです
自分とイエス様という関係の中で、どのように日々歩いてきたのか、「あなたの信仰どおり、あなたがたの身になるように」とイエス様がおっしゃってくださっているように、イエス様を信じる信仰によって、その魂も体も健康になり、神に喜ばれる良い実がなっていく・・・その良い実こそが証なのです
そして、何もしないでよい実がなるのではなく、実を結ぶのは、自分自身だということも語られました
自分がやらなければ、神の恵みも、イエス様が牧師を通して語ってくださる知恵の言葉も、すべてが無駄です
現に、イエス様に示されたことを行った人は、どんどん祝福の道を歩いていますし、行わなければ停滞するどころか、サタンによってのろいの道へと引っ張られるいっぽうです。私たちが救われたのは、一方的な神の恵みでしたが、救われた後は信仰の歩きが始まります。「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。」とガラテヤを通して先週語られたとおり、神の子であるなら、イエス様を信じて行うことからはじめることが大切だと語られました
ヤコブ1:22~25
「御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。」
ヤコブ2:16~17
「あなたがたのうち、だれかが、『安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい』と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。」
そして、その「行い」は、必ずイエス様にあってできる!と聖書には書かれています
エペソ2:1~10
「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし―あなたがたの救われたのは、恵みによるのである―キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」
ここに書かれてある「良い行い」とは、全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えることと、イエス様の思いで満たされた愛の行いであることを教えられました
今私たちが語られている福音も、自分自身に、「イエス様を信じて間違いない!」という証があるからこそ伝えることができます
そして、「イエス・キリストを信じなさい!」と、ただ強制的に聖書の教えを押し付けるのが福音ではなく、自分が体験してきた証を伝えることが福音だと思います
なぜなら、証はサタンに翻弄されてきた人間を解放する力あるものだと聖書に書かれてあるからです
ヨハネの黙示録12:11
「兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼(サタン)にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。」
つまり、証の引き出しが多ければ多いほど、サタンの要塞を破壊する武器も多いということです
今、目の前で苦しんでいる人に、どんな証をしてあげたらいいのか、イエス様に聞きながらその人の益になる証をすることができるからです
クリスチャンは、イエス様と共に歩いてきた時間の分だけ、また、成長に応じて、当然証も増えていく・・・それが「木はその実=証で判断しなさい」ということだと思います。何十年信じていても、毎回誰に対してもワンパターンな証しかできずにとどまっているのであれば、クリスチャンとしての歩きを吟味しなければならないと思います。
サタンに打ち勝ち、相手の死んでいた霊をよみがえらせるような証をするためにも、まずは自分自身が敏感に、悟れる人間になること
そして、他者に対して寛容な心をもって接し、いつも喜びに満たされ、元気で笑顔の自分でいること
そんな自分を見て、この人からなら話を聞いてみたいと思って人は光に来るのだと、改めて語られました
私自身、ここまで数え切れない証をいただいていることに感謝します


今週の集会では、久しぶりに証をする時間が全員に与えられました


特に、最近強く語られている「福音をすること」については、皆が意志を向けながら生活をしていることがよく分かりました

私と妹は、家庭集会のころから、よく証をする時間が与えられていました



喜んで話しているつもり、イエス様の名前も出しているし、分かるように詳しく説明したつもり・・・説明



証とは、イエス様と共に歩くことがいかにすばらしいことであるかを伝えることです

また、証の時間は、どんなみことばを与えてくださって、信仰にたつことができたのか、信仰をもって行ったとき、自分の内側や周りにどんな変化があったのか、どんな聖霊の導きがあったのか、サタンとどうやって戦って勝利したのか、信仰の言葉をもって自分はどのように歩いてきたのか、サタンに対して勝利宣言をする場として神が与えてくださっている時間なのです

だから、つらい、苦しい、悲しい、痛い、できないなどの現状報告、現状説明は、サタンを喜ばせるだけですし、「私が~した」という自分に栄光を帰すような言い方をすることも、違うのです

証の中に、どれだけイエス様のお名前とイエス様への感謝があるのか、それによって、自分の霊だけではなく、聞いている側である皆の霊も喜び益となることを、私は家庭集会の頃から何度も語られてきました

また、集会の中で皆が証をした後、牧師を通して「口から出る言葉に注意しなさい!」と語られました

証をする時はもちろんですが、普段から、口から出る言葉をあいまいにしたり、不信仰な言葉を出していたら、どんどん喜びがなくなってしまいます




エペソ4:22~29

「すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。
こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。わたしたちは、お互いに肢体なのであるから。怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。また、悪魔に機会を与えてはいけない。盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい。悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。」
イエス様と共に歩いていれば、一瞬一瞬が証となります


証に小さいも大きいもありません。一人一人が達し得たところに従って、受けている恵みは、すべて証となるからです。小さい、大きいと自分で判断すること自体、神に対しての高ぶりです

また、「証がない」のではなく、自分が神からの恵みを悟っていないだけ!鈍感すぎるのだと牧師はおっしゃいました。すべてが当たり前だと思って生きていたら、何が神の恵みか分からなくなってしまいます。救われていなかったら自分は今どうなっていたのか、家族がいること、自分を気にかけて電話をしてきたり、手紙やメールを送ってくれる人がいること、衣食住が与えられていること、日曜日に集会に来ることができること、神からのラブレターである聖書が読めるように与えられていること、太陽が今日も昇っていること、今生きているということ・・・神・イエス様からの恵みが見えなくなった時ほど、今の自分が置かれている環境に目を向けることです。そうすれば、感謝が満ちあふれませんか!?

第2コリント4:15

「すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。」
これら一切のことは、自分が良かったからではなく、すべてが神の恵みです


ヨブ記33:14~18

「神は一つの方法によって語られ、また二つの方法によって語られるのだが、人はそれを悟らないのだ。人々が熟睡するとき、または床にまどろむとき、夢あるいは夜の幻のうちで、彼は人々の耳を開き、警告をもって彼らを恐れさせ、こうして人にその悪しきわざを離れさせ、高ぶりを人から除き、その魂を守って、墓に至らせず、その命を守って、つるぎに滅びないようにされる。」
そして、これだけ愛をもって働きかけて下さっている神に対して、果たして私たちは、どれだけ求めて聞き、向き合う時間をもっているのかと問われました

例えば、「忙しくて聖書を読む時間がない・・・」と言う人。それを言い訳にして聖書を読めずにいることを神はよしとされるでしょうか??
その前に、「イエス様、聖書を読める時間を与えてください」「忙しくない場所に置いてください」と祈り求めているのか、イエス様に聞いて最善を尽くしているのか・・・「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。」(ルカ11:9a~10)と聖書に書かれてある通り、求める者に対しては、必ず報いて下さる神だということを、この世の常識や生活に流されて忘れてしまっていないか・・・そうであるならば、もう一度みことばに立つことを語られました

そして、今祝福を受けている人でも、そうでない人でも、まだまだ訓練の中にいる人でも、今、この時点の状態が、自分が歩いてきた人生の最先端であり、クリスチャンとしての実なのです

自分とイエス様という関係の中で、どのように日々歩いてきたのか、「あなたの信仰どおり、あなたがたの身になるように」とイエス様がおっしゃってくださっているように、イエス様を信じる信仰によって、その魂も体も健康になり、神に喜ばれる良い実がなっていく・・・その良い実こそが証なのです

そして、何もしないでよい実がなるのではなく、実を結ぶのは、自分自身だということも語られました



ヤコブ1:22~25

「御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。」
ヤコブ2:16~17

「あなたがたのうち、だれかが、『安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい』と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。」
そして、その「行い」は、必ずイエス様にあってできる!と聖書には書かれています

エペソ2:1~10

「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし―あなたがたの救われたのは、恵みによるのである―キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」
ここに書かれてある「良い行い」とは、全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えることと、イエス様の思いで満たされた愛の行いであることを教えられました

今私たちが語られている福音も、自分自身に、「イエス様を信じて間違いない!」という証があるからこそ伝えることができます



ヨハネの黙示録12:11

「兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼(サタン)にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。」
つまり、証の引き出しが多ければ多いほど、サタンの要塞を破壊する武器も多いということです


サタンに打ち勝ち、相手の死んでいた霊をよみがえらせるような証をするためにも、まずは自分自身が敏感に、悟れる人間になること



私自身、ここまで数え切れない証をいただいていることに感謝します

