声が聞える―イエス様の声ですか?―
holygirlです
私がクリスチャンになった時、母から「イエス様の声は、頭から聞えるのではなく、おなかのところから聞えるんだよ。」と教えてもらいました。イエス様を受け入れる告白の祈りをしたとき、イエス様は神からいただいた霊のある場所=おなかのところに入られるからです
ヨハネ7:37~39a
「祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、『だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう』。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。」
おなかからの声?どうやって聞えるんだろう??と最初はよく分かりませんでした。救われるまでは物事を頭で考えていましたし、自分の思いがそのまま自分の内側の声となっていたからです。でも確かにみことばには、自分の思いではない、もう一つの思い・声があることが書かれてありました
ガラテヤ2:19~20b
「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」
ガラテヤ5:16~17
「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲することは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。」
そして、わたしは生活の中で、2つの声が聞えることが分かるようになっていきました。よくドラマで、天使と悪魔が出てきてささやくような場面がありますが、本当に両極端の思いが自分の内に存在するのです
イエス様からの思い・声はどこまでも愛です
それは、自分の感情が従いたくないこと、認めたくないことばかりです。そして、自分の霊にみことばが蓄えられていなかったり、サタンの支配下のこの世の出来事にふりまわされていたら、イエス様の声は聞えません。なぜなら、イエス様の声は自分の感情が静まらなければ聞えず、その声は聖書の教え=みことばだからです
実際に、イエス様からの声か、それとも耳元でささやくサタンからの声なのか、混同して分からなくなってしまった時もあったのですが、その時に母から、「みことばノート」という本の中の“声―「主よ、あなたですか?」”という項目を読むよう勧められました
そこには、【主が語られるとき】は、
内なるあかし―ふだん聞き慣れない使ったこともないような語を示されることがある。(第1コリント2:13)
平安―たましいに安息を与えられる。(ヨハネ14:27)
信頼―心をつくしてイエス様を信頼することができる。(箴言3:5~6)
保証―確信が持てるように何らかのかたちで教えてくださる。(イザヤ30:15)
神のことばと一致する―人をかたより見ない神は、人の都合で聖書の言葉を曲げたりなさらない。必ず、みことばに戻って確かめること。(第2ペテロ1:19)
確認―確かに主からであると分かるように、ご自分の言葉の確認をくださる。特に行動の方向指示を求めているときなど。(第2コリント13:1)
イエス様を主とする―この世の神であるサタンも神という言葉を使う(第2コリント4:4)が、イエス・キリストを「主である」とは言わない。(第1コリント12:3)
明快―イエス様はみことばにそったことを簡単明瞭に語られるので、確かにイエス様とわかる。(第2コリント1:20)
と、書かれてありました
そして、【サタンが語るとき】については、
疑い・恐れ・不快感を伴う(第2テモテ1:7、ローマ8:15~16)
矛盾・そわそわと落ち着きがない・平安がない(ヤコブ3:14~18、イザヤ48:22)
主イエス様からだとの確信が持てない(ローマ14:23)
混乱・不明瞭―そう思いこもうとして努力しなければならないようなら、忘れてしまったほうがよい。混乱はサタンからのもので、神からではない。(ヤコブ3:16、第1コリント14:33)
相反する声―主がすでに語ってくださったことやみことばと真反対のことを言う。神が語ってくださると、すぐにサタンが来て祝福を盗もうとする。(マタイ13:4、18、24~30、創世記3:4)
イエス・キリストが主であることを軽んじたり、否定したりする。(第1ヨハネ4:1~6)
自責の念・罪悪感・落胆―サタンは、すでに告白してゆるされ、神のみ前にもはや覚えられていない古い過去の罪を持ち出しては責め立ててくる。(ローマ8:1、第1ヨハネ3:20、黙示録12:10)
と書かれてありました。また、サタンの声とは別に【救われる前の自分の声(古い自我)】として、予想や先入観からくるためらい、自分の心を欺いたりごまかそうとする思い、同時に二つの相反する願いを求める二心(ふたごごろ)、かつてふけってきた肉の欲望を満たそうとする声があることも知りました
私は、これらのことを教えられてから、イエス様の声と、サタンからの声が明確になっていきました
そして、「イエス様がおっしゃっている」という確信を強く持てるようになりました
今週の集会では、ダニエルという預言者と、エゼキエル書に書かれているイスラエルの偽預言者について語られ、改めてイエス様の声を正しく聞くことがどれだけ重要であるかを教えられました
ダニエル5:11~12
「あなたの国には、聖なる神の霊のやどっているひとりの人がおります。あなたの父の代に、彼は、明知、分別および神のような知恵のあることをあらわしました。あなたの父ネブカデネザル王は、彼を立てて、博士、法術士、カルデヤびと、占い師らの長とされました。彼は、王がベルテシャザルという名を与えたダニエルという者ですが、このダニエルには、すぐれた霊、知識、分別があって、夢を解き、なぞを解き、難問を解くことができます。ゆえにダニエルを召しなさい。彼はその解き明かしを示すでしょう。」
ダニエル6:1~4
「ダリヨスは全国を治めるために、その国に百二十人の総督を立てることをよしとし、また彼らの上に三人の総監を立てた。ダニエルはそのひとりであった。これは総督たちをして、この三人の前に、その職務に関する報告をさせて、王に損失の及ぶことのないようにするためであった。ダニエルは彼のうちにあるすぐれた霊のゆえに、他のすべての総監および総督たちにまさっていたので、王は彼を立てて全国を治めさせようとした。そこで総監および総督らは、国事についてダニエルを訴えるべき口実を得ようとしたが、訴えるべきなんの口実も、なんのとがをも見いだすことができなかった。それは彼が忠信な人であって、その身になんのあやまちも、とがも見いだされなかったからである。」
ししの穴に投げ込まれたダニエルが、無傷で出された後・・・
ダニエル6:25~28
「そこでダリヨス王は全世界に住む諸民、諸族、諸国語の者に詔を書きおくって言った、『どうか、あなたがたに平安が増すように。わたしは命令を出す。わが国のすべての州の人は、皆ダニエルの神をおののき恐れなければならない。
彼は生ける神であって、とこしえに変ることなく、その国は滅びず、その主権は終りまで続く。彼は救を施し、助けをなし、天においても、地においても、しるしと奇跡とをおこない、ダニエルを救って、ししの力をのがれさせたからである』。
こうして、このダニエルはダリヨスの世と、ペルシャ人クロスの世において栄えた。」
ダニエル12:3~13
「賢い者は、大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は、星のようになって永遠にいたるでしょう。ダニエルよ、あなたは終りの時までこの言葉を秘し、この書を封じておきなさい。多くの者は、あちこちと探り調べ、そして知識が増すでしょう。―『ダニエルよ、あなたの道を行きなさい。この言葉は終りの時まで秘し、かつ封じておかれます。多くの者は、自分を清め、自分を白くし、かつ練られるでしょう。しかし、悪い者は悪い事をおこない、ひとりも悟ることはないが、賢い者は悟るでしょう。常供の燔祭が取り除かれ、荒す憎むべきものが立てられる時から、千二百九十日が定められている。待っていて千三百三十五日に至る者はさいわいです。しかし、終りまであなたの道を行きなさい。あなたは休みに入り、定められた日の終りに立って、あなたの分を受けるでしょう。」
ダニエルは、神の声を正しく聞ける人だったので、人々を導く聖なる預言ができ、神も彼を喜ばれたのだということが分かりました
そして、今この時代を生きている私たちも、いつも内側を清く保ち、イエス様の声を正しく聞けるクリスチャンであれば、目の前の出来事に勝利していくことができ、決して害を受けないこと・・・それが【木はその実でわかる】(マタイ12:33)というみことばにつながっていくことも教えられました
それとは、似て非なるものが、偽預言者の霊力です
「イエス様がおっしゃっている」と言いながら、自分の感情が入っているのであれば、それは偽預言者=イエス様の声を聞いているのではなく、実はサタンの声を聞いてしまっているのです
エゼキエル13:1~16
「主の言葉がわたしに臨んだ、『人の子よ、イスラエルの預言者たちに向かって預言せよ。すなわち自分の心のままに預言する人に向かって、預言して言え、【あなたがたは主の言葉を聞け】。主なる神はこう言われる、なにも見ないで、自分の霊に従う愚かな預言者たちはわざわいだ。イスラエルよ、あなたの預言者たちは、荒れ跡にいるきつねのようだ。あなたがたは主の日に戦いに立つため、破れ口にのぼらず、またイスラエルの家のために石がきを築こうともしない。彼らは虚偽を言い、偽りを占った。彼らは主が彼らをつかわさないのに【主が言われる】と言い、なおその言葉の成就することを期待する。あなたがたはむなしい幻を見、偽りの占いを語り、わたしが言わないのに【主が言われる】と言ったではないか』。
それゆえ、主なる神はこう言われる、『あなたがたはむなしいことを語り、偽りの物を見るゆえ、わたしはあなたがたを罰すると主なる神は言われる。わたしの手は、むなしい幻を見、偽りの占いを言う預言者に敵対する。彼らはわが民の会に臨まず、イスラエルの家の籍にしるされず、イスラエルの地に、はいることができない。そしてあなたがたはわたしが主なる神であることを知るようになる。彼らはわが民を惑わし、平和がないのに【平和】と言い、また民が塀を築く時、これらの預言者たちは水しっくいをもってこれを塗る。それゆえ、水しっくいを塗る者どもに【これはかならずくずれる】と言え。これに大雨が注ぎ、ひょうが降り、あらしが吹く。
そして塀がくずれる時、人々はあなたがたに向かって、【あなたがたが塗った水しっくいはどこにあるか】と言わないであろうか。それゆえ、主なる神はこう言われる、わたしはわが憤りをもって大風を起し、わが怒りをもって大雨を注がせ、憤りをもってひょうを降らせて、これを滅ぼす。またわたしはあなたがたが水しっくいをもって塗った塀をこわして、これを地に倒し、その基をあらわす。これが倒れる時、あなたがたはその中に滅びる。そしてあなたがたは、わたしが主であることを知るようになる。こうしてわたしが、その塀と、これを水しっくいで塗った者との上に、わたしの憤りを漏らし尽して、あなたがたに言う、塀はなくなり、これを塗った者もなくなる。これがすなわち平和がないのに平和の幻を見、エルサレムについて預言したイスラエルの預言者であると、主なる神は言われる。」
自分は、偽預言者になってしまっていないか、自分に都合よく「イエス様がおっしゃっている」と言っていないか・・・偽預言者の罪は大きく、神に忌み嫌われるものであることを改めて語られました
そして、偽預言者の霊力は、占い師や霊能者を言うのだと思っていましたが、実はもっと身近で、サタンに門を開けば誰でも支配されてしまうのだということも分かりました
「イエス様がおっしゃっている」と言うとき、それが本当なのか、自分を守ったり言い訳するために言ってはいないか、それは自分自身が一番よく知っているでしょう。
そして何より、神はいつも心を見られるのだと私たちは牧師を通して語られています。
神を恐れて、偽預言者の霊力に支配されることのないよう、どんな時でも心に偽りのない人間でいなければならないと思いました

私がクリスチャンになった時、母から「イエス様の声は、頭から聞えるのではなく、おなかのところから聞えるんだよ。」と教えてもらいました。イエス様を受け入れる告白の祈りをしたとき、イエス様は神からいただいた霊のある場所=おなかのところに入られるからです

ヨハネ7:37~39a

「祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、『だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう』。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。」
おなかからの声?どうやって聞えるんだろう??と最初はよく分かりませんでした。救われるまでは物事を頭で考えていましたし、自分の思いがそのまま自分の内側の声となっていたからです。でも確かにみことばには、自分の思いではない、もう一つの思い・声があることが書かれてありました

ガラテヤ2:19~20b

「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」
ガラテヤ5:16~17

「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲することは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。」
そして、わたしは生活の中で、2つの声が聞えることが分かるようになっていきました。よくドラマで、天使と悪魔が出てきてささやくような場面がありますが、本当に両極端の思いが自分の内に存在するのです



実際に、イエス様からの声か、それとも耳元でささやくサタンからの声なのか、混同して分からなくなってしまった時もあったのですが、その時に母から、「みことばノート」という本の中の“声―「主よ、あなたですか?」”という項目を読むよう勧められました

そこには、【主が語られるとき】は、
内なるあかし―ふだん聞き慣れない使ったこともないような語を示されることがある。(第1コリント2:13)
平安―たましいに安息を与えられる。(ヨハネ14:27)
信頼―心をつくしてイエス様を信頼することができる。(箴言3:5~6)
保証―確信が持てるように何らかのかたちで教えてくださる。(イザヤ30:15)
神のことばと一致する―人をかたより見ない神は、人の都合で聖書の言葉を曲げたりなさらない。必ず、みことばに戻って確かめること。(第2ペテロ1:19)
確認―確かに主からであると分かるように、ご自分の言葉の確認をくださる。特に行動の方向指示を求めているときなど。(第2コリント13:1)
イエス様を主とする―この世の神であるサタンも神という言葉を使う(第2コリント4:4)が、イエス・キリストを「主である」とは言わない。(第1コリント12:3)
明快―イエス様はみことばにそったことを簡単明瞭に語られるので、確かにイエス様とわかる。(第2コリント1:20)
と、書かれてありました

疑い・恐れ・不快感を伴う(第2テモテ1:7、ローマ8:15~16)
矛盾・そわそわと落ち着きがない・平安がない(ヤコブ3:14~18、イザヤ48:22)
主イエス様からだとの確信が持てない(ローマ14:23)
混乱・不明瞭―そう思いこもうとして努力しなければならないようなら、忘れてしまったほうがよい。混乱はサタンからのもので、神からではない。(ヤコブ3:16、第1コリント14:33)
相反する声―主がすでに語ってくださったことやみことばと真反対のことを言う。神が語ってくださると、すぐにサタンが来て祝福を盗もうとする。(マタイ13:4、18、24~30、創世記3:4)
イエス・キリストが主であることを軽んじたり、否定したりする。(第1ヨハネ4:1~6)
自責の念・罪悪感・落胆―サタンは、すでに告白してゆるされ、神のみ前にもはや覚えられていない古い過去の罪を持ち出しては責め立ててくる。(ローマ8:1、第1ヨハネ3:20、黙示録12:10)
と書かれてありました。また、サタンの声とは別に【救われる前の自分の声(古い自我)】として、予想や先入観からくるためらい、自分の心を欺いたりごまかそうとする思い、同時に二つの相反する願いを求める二心(ふたごごろ)、かつてふけってきた肉の欲望を満たそうとする声があることも知りました

私は、これらのことを教えられてから、イエス様の声と、サタンからの声が明確になっていきました


今週の集会では、ダニエルという預言者と、エゼキエル書に書かれているイスラエルの偽預言者について語られ、改めてイエス様の声を正しく聞くことがどれだけ重要であるかを教えられました

ダニエル5:11~12

「あなたの国には、聖なる神の霊のやどっているひとりの人がおります。あなたの父の代に、彼は、明知、分別および神のような知恵のあることをあらわしました。あなたの父ネブカデネザル王は、彼を立てて、博士、法術士、カルデヤびと、占い師らの長とされました。彼は、王がベルテシャザルという名を与えたダニエルという者ですが、このダニエルには、すぐれた霊、知識、分別があって、夢を解き、なぞを解き、難問を解くことができます。ゆえにダニエルを召しなさい。彼はその解き明かしを示すでしょう。」
ダニエル6:1~4

「ダリヨスは全国を治めるために、その国に百二十人の総督を立てることをよしとし、また彼らの上に三人の総監を立てた。ダニエルはそのひとりであった。これは総督たちをして、この三人の前に、その職務に関する報告をさせて、王に損失の及ぶことのないようにするためであった。ダニエルは彼のうちにあるすぐれた霊のゆえに、他のすべての総監および総督たちにまさっていたので、王は彼を立てて全国を治めさせようとした。そこで総監および総督らは、国事についてダニエルを訴えるべき口実を得ようとしたが、訴えるべきなんの口実も、なんのとがをも見いだすことができなかった。それは彼が忠信な人であって、その身になんのあやまちも、とがも見いだされなかったからである。」
ししの穴に投げ込まれたダニエルが、無傷で出された後・・・
ダニエル6:25~28

「そこでダリヨス王は全世界に住む諸民、諸族、諸国語の者に詔を書きおくって言った、『どうか、あなたがたに平安が増すように。わたしは命令を出す。わが国のすべての州の人は、皆ダニエルの神をおののき恐れなければならない。
彼は生ける神であって、とこしえに変ることなく、その国は滅びず、その主権は終りまで続く。彼は救を施し、助けをなし、天においても、地においても、しるしと奇跡とをおこない、ダニエルを救って、ししの力をのがれさせたからである』。
こうして、このダニエルはダリヨスの世と、ペルシャ人クロスの世において栄えた。」
ダニエル12:3~13

「賢い者は、大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は、星のようになって永遠にいたるでしょう。ダニエルよ、あなたは終りの時までこの言葉を秘し、この書を封じておきなさい。多くの者は、あちこちと探り調べ、そして知識が増すでしょう。―『ダニエルよ、あなたの道を行きなさい。この言葉は終りの時まで秘し、かつ封じておかれます。多くの者は、自分を清め、自分を白くし、かつ練られるでしょう。しかし、悪い者は悪い事をおこない、ひとりも悟ることはないが、賢い者は悟るでしょう。常供の燔祭が取り除かれ、荒す憎むべきものが立てられる時から、千二百九十日が定められている。待っていて千三百三十五日に至る者はさいわいです。しかし、終りまであなたの道を行きなさい。あなたは休みに入り、定められた日の終りに立って、あなたの分を受けるでしょう。」
ダニエルは、神の声を正しく聞ける人だったので、人々を導く聖なる預言ができ、神も彼を喜ばれたのだということが分かりました


それとは、似て非なるものが、偽預言者の霊力です

「イエス様がおっしゃっている」と言いながら、自分の感情が入っているのであれば、それは偽預言者=イエス様の声を聞いているのではなく、実はサタンの声を聞いてしまっているのです

エゼキエル13:1~16

「主の言葉がわたしに臨んだ、『人の子よ、イスラエルの預言者たちに向かって預言せよ。すなわち自分の心のままに預言する人に向かって、預言して言え、【あなたがたは主の言葉を聞け】。主なる神はこう言われる、なにも見ないで、自分の霊に従う愚かな預言者たちはわざわいだ。イスラエルよ、あなたの預言者たちは、荒れ跡にいるきつねのようだ。あなたがたは主の日に戦いに立つため、破れ口にのぼらず、またイスラエルの家のために石がきを築こうともしない。彼らは虚偽を言い、偽りを占った。彼らは主が彼らをつかわさないのに【主が言われる】と言い、なおその言葉の成就することを期待する。あなたがたはむなしい幻を見、偽りの占いを語り、わたしが言わないのに【主が言われる】と言ったではないか』。
それゆえ、主なる神はこう言われる、『あなたがたはむなしいことを語り、偽りの物を見るゆえ、わたしはあなたがたを罰すると主なる神は言われる。わたしの手は、むなしい幻を見、偽りの占いを言う預言者に敵対する。彼らはわが民の会に臨まず、イスラエルの家の籍にしるされず、イスラエルの地に、はいることができない。そしてあなたがたはわたしが主なる神であることを知るようになる。彼らはわが民を惑わし、平和がないのに【平和】と言い、また民が塀を築く時、これらの預言者たちは水しっくいをもってこれを塗る。それゆえ、水しっくいを塗る者どもに【これはかならずくずれる】と言え。これに大雨が注ぎ、ひょうが降り、あらしが吹く。
そして塀がくずれる時、人々はあなたがたに向かって、【あなたがたが塗った水しっくいはどこにあるか】と言わないであろうか。それゆえ、主なる神はこう言われる、わたしはわが憤りをもって大風を起し、わが怒りをもって大雨を注がせ、憤りをもってひょうを降らせて、これを滅ぼす。またわたしはあなたがたが水しっくいをもって塗った塀をこわして、これを地に倒し、その基をあらわす。これが倒れる時、あなたがたはその中に滅びる。そしてあなたがたは、わたしが主であることを知るようになる。こうしてわたしが、その塀と、これを水しっくいで塗った者との上に、わたしの憤りを漏らし尽して、あなたがたに言う、塀はなくなり、これを塗った者もなくなる。これがすなわち平和がないのに平和の幻を見、エルサレムについて預言したイスラエルの預言者であると、主なる神は言われる。」
自分は、偽預言者になってしまっていないか、自分に都合よく「イエス様がおっしゃっている」と言っていないか・・・偽預言者の罪は大きく、神に忌み嫌われるものであることを改めて語られました


「イエス様がおっしゃっている」と言うとき、それが本当なのか、自分を守ったり言い訳するために言ってはいないか、それは自分自身が一番よく知っているでしょう。
そして何より、神はいつも心を見られるのだと私たちは牧師を通して語られています。
神を恐れて、偽預言者の霊力に支配されることのないよう、どんな時でも心に偽りのない人間でいなければならないと思いました
