カルトから解放されて
holygirlです
先日、さゆり教師の『魂は死んではいけない』のブログの中に「魂を殺すことは、カルト宗教のはじまりである!」という話が出てきましたが、実は私の母(ぶどうの木の牧師)も、クリスチャンになった当初、カルト宗教に陥ってしまったことがありました
母は、難病がいやされたあと、自分を救いに導いてくれた教会に行きはじめました。おおもとはロサンゼルスにある教会だったので、母は日本にある同教会の家庭集会に毎週通っていました。
当時、中学生だった私は部活をしていたので、日曜日は練習試合や大会があり、母と一緒に教会に行くことはほとんどありませんでしたが、妹は母と毎週通うようになりました。
その教会は、母以外にも病気がいやされた人がたくさんおり、奇跡やいやしの証を数多く持っていました。そして、聖書のみことばを信じて行い、預言をし、サタンと戦う教会でした。
牧師はロサンゼルスにいるため、母たちのように日本で家庭集会をしている人たちには、毎週ロサンゼルスの教会で語られた牧師のメッセージがテープとなって届けられていました。家庭集会では、そのテープを真ん中において聴いていたそうです。
本来、牧師(羊飼い)は信徒(羊)の状態をよく知り、監督する立場としておかれています。当然信徒がサタンの罠に陥ることがないように、一番近くで見て、道しるべをしてあげなくてはなりません。
ヨハネ10:11~15
「わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは、羊のために命を捨てる。羊飼いではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊を捨てて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。わたしはよい羊飼いであって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。」
しかし、母たちのようにテープだけを聴いている羊は、ロサンゼルスに自分が行かないかぎり牧師に会うことができませんでした。母と私と妹は2・3回ロサンゼルスの教会にも導かれて牧師にお会いしたことがありましたが、中には一度も牧師に会ったことがない人もいました。
そんなテープだけを聴かされる状態が生み出したのは、一人よがりの好き勝手な教えの解釈と振る舞いでした。間違ったことをしている時に戒めてくれる人がいない!個々の状態や家庭環境を知って、正しい道に導いてくれる人がいない!そんな特殊な環境の中で、母はみことばを学び、クリスチャンとして歩き始めたのです。
まだクリスチャンとして幼子だった母は、毎日テープを熱心に聴き始めました。私たち家族は、毎朝家中に響き渡る大音量のテープの声で起き、学校から帰ってきてまず耳に飛び込んでくるのもテープの声でした。テレビを見ていても、テープの声で聞こえませんテレビの音量をあげたら、母がテープの音量を大きくする。その繰り返しで、常にボリュームは最大限でした。純粋に聖書だけを読んでいた私にとっては、このテープの存在が正直とても嫌でした。テープで語られている牧師のメッセージを聴くことよりも、最大限のボリュームで聞こえてくる牧師の声に嫌悪感を覚えてしまいました。
後に母にそのときのことを尋ねると、「牧師の教えを家族のみんなに聞かせようとして、あえて大きなボリュームにしていた。それに、大きくしないと全然牧師の言っていることが入ってこなかった。」と言っていました。
また、教会の姉妹が家に訪ねてきた際には、あまりの良識のなさと無作法な振る舞いに、父も(母方の)祖父母も「これがクリスチャンか?!」と驚き、嫌がっていました。
私たちは、母から聞くイエス様の話は純粋に聞くことができましたが、母が交わっている教会の人たちの話は受け付けることができませんでした。また祖母は、「このテープで語っている牧師さんが、直接あなたに聖書を教えてくれているのなら安心だけど、あの人たちと交わっていることは益にならない!」と母に話していたそうです。
さらに、牧師が化粧品の販売に携わっていたこともあり、教会の人たちは皆、牧師から化粧品を購入していました。そして、イエス様の御用があった時にはすぐに出て行けるようにと、全員ショートカットにしていました。そしてみことばに、「他人に頭を触られてはいけない」と書いてあるからと言って、美容院に行くのではなく、教会の人に髪を切ってもらっていました。ロサンゼルスの教会には、もともと美容師だった人がおり、その方が切っていたのですが、日本はそのやり方だけを真似して、素人の人が髪を切っていました。
アメリカと日本では、化粧の仕方も好む色も違うのですが、とにかくロサンゼルスの教会ではそうしているからと、皆が、真っ赤な口紅と、青いシャドウ、そして真っ赤なマニキュアをつけていました。
なぜここまでするのか・・・私は不自然なものを感じましたが、母は、「みことばに自分を捨てなさいと書いてあるでしょ!」と言われたので従いました。
母は、今までしていた優しいピンク系の化粧から一変し、目のまわりのシャドウがきつくなり、真っ赤な口紅をつけ、まるで舞台化粧のようになりました。髪形も、素人が切ったので段差がありめちゃくちゃでした。恥ずかしくて外を歩けるものではありませんでした。
外見が変わった母は、中身も変わっていきました
「この世と妥協してはならない。交わりに気をつけなさい!」というみことばによって、母は新聞やテレビを一切見なくなりました。そして、教会外の人との交流もしなくなりました。母は、この世の中から遮断された世界で過ごし始めたのです。「みことばに書いてあるでしょ!」と言われたら逆らうことはできません。なぜなら、イエス様がおっしゃっているみことばだからです。みことばに逆らったら地獄だという教えもうえつけられていきました。
母は、その時の自分を振り返り、「地に足がついていない状態だった」と言っています。
世の中で災害や事件があっても、「それはサタンのしたことだから、知らなくていい!」と教えられていた母は、どんどん社会で起きていることに無関心になっていきました。後々分かったことですが、当時父と祖母は、「また前みたいにまともに話ができる日が来るんだろうか・・・」と話していたようです。
母は、みことばに従うために、魂(知性・意志・感情)を殺して生きていました。この世の中で心から楽しむことも泣くことも、感動することも怒ることも、すべて罪だとみことばによって教えられたのです。妹の卒業式で成長を喜んで泣いてしまったことさえ、「罪」と言われ悔い改めさせられました――
ならばこの世で罪を犯す前に、早く死んで天国に行きたい・・・母はそう思うようになっていったそうです。
また、せっかく病気がいやされたのに、集会に通うようになってからずっと体調が悪く、当時11号の服を着ていた体は5号を着るまでに痩せ衰えてしまいました。ある日自動ドアが開かないぐらいガリガリに痩せた母の体を見て、父は絶句したそうです。
しかし教会の人たちは、「よほどあなたは罪があるのねこんな人初めて!悔い改めなさいよ
」と罵倒するだけで、いたわる言葉一つかけてはくれなかったそうです。
それでも母は、イエス様が決めた教会と兄弟姉妹だからと言って、絶対に集会に行くことをやめませんでした。
そして教会に通い始めて3年後のある日、集会に出かけようとしていた母は、玄関に向かうその足が動かなくなってしまったのです。イエス様は母に「もういいよ」とおっしゃいました。母はイエス様によって超自然に、集会に行くことを止められました。
その日、不安に襲われていた母に対して、まだ中学生だった妹がみことばをもらいました。
ダニエル10:18~19a
「人の形をした者は、再びわたしにさわり、わたしを力づけて、言った、『大いに愛せられる人よ、恐れるに及ばない。安心しなさい。心を強くし、勇気を出しなさい』。」
母はイエス様が妹をつかっておっしゃって下さっていると分かりました。
教会に行かなくなった母に対して、兄弟姉妹から出た言葉は「あなたも、あなたの家族も地獄だよ」という言葉だけだったそうです・・・。
その後イエス様が母に与えたみことばは、詩篇23:3でした
「主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。」
イエス様に従うためには、余計な思いや考え=魂を殺して生きたほうがいいと思っていた母は、魂をいきかえらせるの?!と驚きました。
その後魂が回復したときに、イエス様は「魂を殺せ!」とは言っていない。殺したら、人間として正しい判断も感情もなくなってしまう。いかに自分の肉の判断、感情を“打ちたたいて”イエス様に従うことができるか、その心をイエス様は見ておられるだということが分かりました。
最近当時を振り返る機会が多いのですが、母は「教会を離れ、地獄行きを恐れていた自分を回復させたのは、家族だった」と言っています。
父は「自分がそこに入って正しい判断ができなくなったら、お前たち3人を守れなくなる」と話していたと、あとから知りました
私と妹は、恨みつらみの演歌を歌うようなところには絶対に行ってはいけない!と禁じられていたカラオケに母を誘いました。母は最初、賛美歌以外の歌をうたうことへの罪の意識が強く、私たちが歌う曲を聴いていただけでした。しかし徐々に、「イエス様間違っていたらごめんなさい」と言って、大好きだった歌謡曲を歌うことの楽しさを取り戻していきました。今は、気になる歌謡曲にもイエス様からのメッセージが込められていることを知り、カラオケで歌をうたうことによって励まされることが多々あります
母には、イエス様は次のみことばで解放してくださいました
箴言17:22
「心の楽しみは良い薬である、たましいの憂いは骨を枯らす。」
ヨブ記33:14
「神は一つの方法によって語られ、また二つの方法によって語られるのだが、人はそれを悟らないのだ。」
新聞、テレビ、インターネット、本、DVD、カラオケ・・・すべては神がつくられたものであり、神はそこからもたくさんのことを語ってくださいます。
ただ、それをサタンが使ったとき、自分に悪い影響を及ぼすので気をつけなければなりません。
例えば、イエス様からやるべき仕事が与えられているのに、好きなテレビやDVDを見て、その時間を台無しにしてしまったり、自分の性欲を満たすために、アイドルを追いかけたり、性関係のものをインターネットやテレビに求めていったり・・・サタンの誘惑にまんまとのってしまうことのないようにしなければなりません。
母が通っていた教会では、この危険を避けるために、はじめから新聞やテレビを悪いものとみなしました。そして、何か読みたい本があるときには、わざわざロサンゼルスに送り、牧師にチェックをしてもらってから読むようにしていました。牧師が近くにいないぶん、どんどん過保護そして牧師偶像礼拝になっていったのです。
しかし、お母さんが子供のすべてを監視することには限界があります。子供は子供で時には失敗しながら、何が正しくて何が間違っているのかを学ぶことが必要です。
お母さんは子供の人生を付き添って歩くことも、代わりに歩くこともできません。だからこそ、クリスチャンであれば、自分で自分を律し、肉欲をおさえて従うことのできる「自分とイエス様」の関係が第一なのです。
このテレビを見ていいのか、この本を読んでいいのか、自分でイエス様に聞くことができることそして、自分の中に何かイエス様からではない悪いものが入ってきたときにすぐ分かること
それができれば、世の中の人がカルトだと思うような異常な環境は生まれません。
そうやってすぐに察知することができるように、日々聖書のみことばに従って自分の内側を清くし、イエス様の声をいつでも聞ける状態にしておくことが大切なのだと分かりました。
カルト化していく時、内側にいらっしゃるイエス様の声を聞くことができなくなり、なんでも牧師に聞かなければ自信がなく、不安になります。その時、もし牧師自身もカルトの霊にまかれているとすれば、すでに牧師偶像礼拝に陥ってしまっている羊たちは、そしてその教会は、全く判断を誤り、サタンの思うがままに全員間違った方向に導かれて行く・・・それがカルトの世界であり、かつてオウム真理教というカルト集団が行なったサリン事件、救済どころか犯罪につながることでもありました
母が集会に行かなくなり、まだ地獄行きの恐怖に怯えていた時、祖母とこんな会話があったそうです。
「阪神大震災があった時たくさんの人が犠牲になったけど、そういうことが世の中で起きたとき、あなたがいた教会ではどういう風に教えていたの?」
「そういうことはサタンがやったことだから知らなくていいと言われていた。」
祖母は、
「それが神か そんなときこそ、クリスチャンが祈ってあげるんちゃうんか
」
と怒り、母ははっとしたそうです。教会の教えよりも実の母親が言っていることのほうがまっとうだと思いました。
母は、「地獄でもいい!教会の人たちよりも、私の家族のほうが愛がある」と実感し、目が覚めました
確かにこの教会は聖書のみことばを語っていました。しかし、逆に言えば聖書のみことばしか語っていなかったのです そして、日本においてはそのみことばを正しく教える牧師が近くにいませんでした。テープを聴いた一人一人が、自分に都合よくみことばを受け止め解釈していました。
聖書は分厚い書物です。そのすべてが神がイエスキリストを通して語られている私たちへのメッセージ=みことばです 聖書を読めば読むほど、たくさんのみことばに出会います。それは本当にすばらしいことです
しかしその中で聖書の中の矛盾を知ることもあります。1つのことについて真反対のことが書かれていることがあるのです
例えば、「結婚」について第1コリント7:28 には、
「しかし、たとい結婚しても、罪を犯すのではない。また、おとめが結婚しても、罪を犯すのではない。ただそれらの人々はその身に苦難を受けるであろう。わたしは、あなたがたを、それからのがれさせたいのだ。」
と、結婚に対して否定的なことが書かれています。
しかし、マタイ19:4~6 には、
「『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない。」
と、肯定的なことが書かれています。
カルトになると否定的なみことばだけを持ってきて、結婚を禁ずる教えが出来上がってしまうのです 偏ったみことばのとりかたが、結局はサタンの策略にまんまとひっかかっていることになるのです。
だからこそ、羊の状態をよく知り、時に応じて与えられるみことばと、その人に必要な【知恵の言葉】をイエス様に聞いて語ることのできる、油注がれた牧師の存在がとても重要です
みことばのとりかたをボーリングで例えるとしたら、かたよったみことばのとりかたをする=ボールはストライクゾーンからはずれ、サイドのぎりぎりを転がりいつもガータの危険にさらされ、いつかガータになります。
それは世の中からカルト教団のレッテルを貼られ、異常な教えだと訴えられることにつながります。
しかし、油注がれた牧師と共にみことばを学び、時には戒められながら自分自身にみことばを吸収し【知恵の言葉】に従っていくことをすれば、ボールはレーンの真ん中=王道を転がり、勝利のストライクを得ることができるのです
(“証Ⅱいやしの証人”のブログにも、実際に【知恵の言葉】によって勝利のストライクを得た話が具体的に書かれているので、ぜひ読んでみてください。)
聖書に書かれているみことばだけを言って、周りの人や社会との交わりを絶ち、自分たちの世界の中だけで生活をしていたら、それはただの気違いです聖書を知らない人に、聖書のみことばだけを並べることも良識がありません
聖書には次のように書かれています。
ローマ14:18
「こうしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、かつ、人にも受け入れられるのである。」
イエス様は愛の神です。聖書のみことばを正しく受け入れ、実践しているクリスチャンは世の中の人に嫌悪感など与えません
そして、真理に従うクリスチャンにだけ、イエス様はご自身の栄光と力を現されます
ヨハネ14:21
「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう。」
その後母は、テープを聴くことをやめ、「自分とイエス様」の関係を改めて築きなおし、回復していきました。
イエス様は、聖書の約束どおり母を通してご自身を現されていき、家庭集会において愛にあって真理を語り、そのしるしと奇跡によって、たくさんの人の魂を救いに導いていったのです
そして2007年9月2日、イエス様は母を牧師とし、「ぶどうの木」をつくられたのでした
そんなイエス様の愛と奇跡を体験してきた人が、このブログの中でも自身の証を紹介しています。
母が通っていた教会は、2009年8月、カルト教団として新聞に取り上げられました。
その時、この教会の牧師に臨んだイエス様からのみことばは、ヨブ記36:17~18だったそうです。
ヨブ記36:17~18
「しかしあなたは悪人のうくべきさばきをおのれに満たし、さばきと公義はあなたを捕えている。あなたは怒りに誘われて、あざけりに陥らぬように心せよ。あがないしろの大いなるがために、おのれを誤るな。」
母は今も、「ぶどうの木」の兄弟姉妹と一緒に、かつていた教会のことを祈り続けています。
はじめは純粋にイエス様の教えを喜び行ない、イエス様がご自身を現していた教会が、カルト教会へと変わってしまったと胸を痛めています。
私は何度か、「もう関係ないからいいじゃん!」と言ってきましたが、母はその度に「私はあの教会を通していやされ、聖書のみことばとサタンとの戦い方を知ったの。その恩は忘れない。」と言います。そして、「カルトを経験した私だからこそ、そこにいる人たちを助け出すことができる。」と言って、今も自分に何ができるのかをイエス様に聞き続けています
母はカルトを実際に体験し、私はカルトに陥った家族をもつ苦悩を経験しました。
今は万事を益にしてくださった神に感謝し、次のみことばに従って、互いに愛し合い、牧師として大切な羊たちを守っています
エペソ4:11~16
「そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人人の悪巧みによって起る様々な教の風(カルト)に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。また、キリストを基として、全身をすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。
10月に入り、ブログ内でもますますたくさんの証が出てくると思います
私たちの証が、一人でも多くの人の力と希望になれたら幸いです
エレミヤ29:10b~14
「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災いを与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる。わたしはあなたがたの繁栄を回復し、あなたがたを万国から、すべてわたしがあなたがたを追いやったところから集め、かつ、わたしがあなたがたを捕われ離れさせたそのもとの所に、あなたがたを導き帰ろうと主は言われる。」
全ての栄光はイエス様に帰して・・・アーメン