魂は死んではいけない!
さゆりです
人間は、霊と、魂(知性・意志・感情)、体=肉、でできている生きものですが、神の思いはそのうちの、霊だけが知っています
トラクト、『神の国は力である』の人体図(霊・魂・体)には、サタンの支配下で生き続けてきた人間が、救われ、聖霊をもらい、それに満たされる時・・・
神が人間のなかに入れて下さっていた、本当の自分の思い=霊が生き返り、神の思いを知る。
そしてそれを行う力を得たクリスチャン(聖霊に満たされ続けているクリスチャン・人体図右はし)になっていく、という過程が表されています
さて、この3つ(霊・魂・体)で構成されている私たちですが、神の思いを知り、それに従っていくためには、霊以外の、魂と体、特に魂は必要ないのでしょうか・・・
霊と肉は真反対と聖書に書かれてありますから、魂はいっそ、なくなってしまった方が良いのでしょうか・・・
答えは、NOです
魂も体も、神が私たちに与えて下さったものです
神は、それを不必要だから、”なくせ””殺せ”
とは、言われていません
神は、”魂を うちたたいて 霊の思いの方に従いなさい”
と言われているのです
神はあえて、肉の部分も私たちに与え、それを、”うちたたけ””自制しなさい”
と言われているのです。
霊の部分には、サタンは手出しすることはできませんが、肉に対してはサタンは自由に働きかけることができるので、そのサタンが支配している肉の部分の思いを制して
、神の思いを知る霊の思いだけに忠実に従ってきなさい
と求められています。
魂(知性・意志・感情)は、生きていなければなりません
もし、魂を殺してしまったら、誰が人の悲しみや苦しみを知ってその人に寄り添い、そんなところにいなくてもいいんだと、神の愛を伝えることができるでしょうか
うれしいこと、楽しいことを分かち合って、共に喜ぶことができるでしょうか
聖書には、
ローマ12:15
喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。
と、書かれています。
魂を殺すこと・・・それは、カルト宗教の始まりです
周りや、他者に対して無関心になり、世の中から隔離されていきます。
善悪の判断も分からなくなり、そこに何らかの教え(宗教)が与えられれば、洗脳されていきます。
全く死んだ人間、ロボットのような生きものになってしまいます
そうやって洗脳された人間は、オウム真理教が起こした事件の様に、やっていいこと、悪いことの判断ができないまま平気で殺人やテロを犯してしまいます
カルトは、人間としての全うな思考力を殺し、他人の人生、家族の人生、自分の人生全てをメチャクチャに滅ぼしてしまいます
オウム真理教は有名なカルト宗教でしたが、私たちと同じ、聖書を学んでいながらもカルトの霊力にどっぷりと引き込まれている人たちを見るととても悲しくなります
カルトの霊力に捕らえられている人たちは、みんな、ひとりよがりです
自己満足や、自分さえ良ければいいという自己愛で、他者に対する配慮や関心、そして良識がありません
私たちクリスチャンの使命は、全世界に出て行ってすべてのつくられたものに福音を述べ伝える(マルコ16:15)ことですから、神に喜ばれ、かつ、人にも受けいれられる(ローマ14:18)ように、この世の中の光となって、イエス様の栄光をあらわさなくてはなりません
1コリント9:19~23
わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には―わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが―律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。
コロサイ4:5~6
今の時を生かして用い、そとの人に対して賢く行動しなさい。いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか、わかるであろう。
ヘブル13:3(リビングバイブル)
獄中にある人たちのことを忘れてはいけません。その境遇を思って、同じ気持ちになり、苦しみを共に分け合いなさい。また、しいたげられている人たちの悲しみを思いやりなさい。あなたはその苦しみがどんなものか、経験済みなのですから。
ここにひとつの証を載せたいと思います
魂を殺すのではなく、魂をうちたたいて霊の思い・イエス様のいわれることに忠実に従って導いてくださる牧師について、私が体験した証です
ヨハネ15:12~13
わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
これは、相手に働きかけるとき、自分がどう思われるか、損か、得か、などの自分の魂の思い(肉の思い・命)をかえりみず、ただ、相手のためだけを思い、益になることを語り、正しい道に導いていく、クリスチャンの使命です
群れの中であれば、牧師が自分の肉の思いを完全にうちたたき、ただ、神の御旨である、霊の思いにだけ忠実に語ります
それはまるでストローの役目です
そのストローの内側が完全に清いストローであれば、その中を流れて私たち羊に与えられてくるイエス様からのメッセージは100%聖いままです。
ですが、そのストローの内側に少しでも自分の肉の思いが付いて汚れていれば、私たち羊が与えられるメッセージは、不純物が入った、全く聖くないものとなってしまいます
牧師にも、肉の思いはあります。肉体と魂を持った一人の人間としてこの地上に生きているのですから
ただ、召しと選び、そして、イエス様を愛するがゆえに羊たちに聖いメッセージを伝えるための忠実な尊い器として、肉の思いをうちたたいて自分自身を空っぽの器=清いストローとして明け渡しているのです
これが、牧師=イエス様です
ガラテヤ2:20
生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。
そして、羊たちに対してある時は愛のむちを、ある時は愛あるなぐさめを、忠実に語りながらイエス様からあずかった大切な羊を正しい道に導きます
人間は、なぐさめの方は喜んで受けますが、むちの方になると、「言われたくない」「ありがためいわく」「ほっといてほしい」「きつい」などといってなかなか受けいれようとしません
しかし、どちらも、その人にとって、愛なのです
なぐさめばかり欲する人は、自己愛が強く、自己中心的です。そこに人間としての成長はありません。
むしろ、むちの方が貴重です
なぜならそれによって、人は人間としての尊厳、誇りを持って豊かに生きていくことができるからです
詩篇23編
主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。
わたしの杯はあふれます。
わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみが伴うでしょう。
わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。
ある時、私は、牧師が私のためにされた方法に対して、
「なんでそんなふうにするのそうじゃなくて、もっと、こうやって教えてくれたらいいのに
」と思って、牧師を裁いたことがありました
けれど、その事があって、私がまだ血肉で牧師を見ていた事や信仰さえも牧師に依存して、牧師を偶像礼拝していた事が分かりました
そして、私は牧師と羊の関係は血肉の関係ではなく、イエス様がかしらの、霊対霊の関係であることを学びました
その後、牧師から、この様に言われたのを覚えています。
「こんなふうに言ったりしたりしたら、あなたが嫌な思いをするかな?とか、傷つくかな?どう思うかな?といろいろ思ったりもするけれど、牧師として、イエス様に忠実に私自身を明け渡して行動したよ。そうすることが、間違いなくあなたの益になるから。なぜなら、イエス様があなたのことを全てご存知だから、解放する方法を知っておられるのはイエス様だけだからね」
牧師は、イエス様が全てを知っておられ、導いてくださっているという信仰によって、この時、肉の思いをうちたたき、人に喜ばれる情ではなく、霊の思いだけに忠実に、キリストの僕として自身を明け渡しておられました
箴言3:5~8
心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。
すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
自分を見て、賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ。
そうすれば、あなたの身を健やかにし、あなたの骨に元気を与える。
ガラテヤ1:10
今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。
私はこのことを体験を通して、牧師は羊に益を与えるため、イエス様が与えてくださった、神の僕(器=きよいストロー)である(ローマ13:4a)ことの意味を学び、トラクト、『神の国は力である』3章”牧師とは”を書かせていただくことができました
肉を殺すのではない人のことを思いやる心は死んではいけない
ただ、肉はサタンに支配される部分でもあるからいつもイエス様につながって吟味しながら・・・みことばをもって霊の思いを確認しながら歩いていくのが、世の光、地の塩となる本当のクリスチャンの歩きです
すべての栄光をイエス様に帰して
今週もみこころのままにと感謝して祈ります